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ただそこにある『もし』


「行ってきます」

当てつけのようにそう言い放ち、私は玄関を出た。


 もっと軽やかな音が立てばいいのに。


 マンションの廊下を歩く靴音は重く、気持ちは沈むばかり。


 肩がずっしりと重くなり、カバンを持ち変える。私の靴はアスファルトの上でも同じ音を鳴らしていた。思えば、あの頃に比べれば随分とヒールが短くなった。


 快速急行で十分足らずの場所に私の職場はある。そのたった一〇分の間にビル群を抜け、大きな川を渡り、遠くに並ぶ民家の瓦屋根を眺め、さらにビル群に入り込んでいくのだ。そして、私は考える。


 人生の選択について。


 ドラマでよくある、あの「if」の話を。


 例えば、あの時……あの場所で。遡ればもう生まれた時まで。

 この選択で良かったのだろうか。


 もし、あの時……。


 ホームに立つと、すでに出来上がっている人の流れに逆らわず、梅ケ谷(うめがや)出口へと向かう。改札を出て、出口の名前にもなっている梅ケ谷通りを渡ると私の職場『ティアラ』がある。駅に隣接する百貨店の『丸梅』横にある、庶民派のショッピングモールだ。若い子からおばさままでの幅広い客層で、有名アパレル、大衆アパレルなどのお店が立ち並んでいる。隣の丸梅には有名ブランドから有名アパレルまで。丸梅は九階建て。ティアラは四階建て。地下にはスーパーがあり、丸梅の地下には専門食材が並ぶセラーと呼んだ方がいいお店がある。


 ティアラは全てにおいて、庶民から、少しだけ背伸びを出来るものを取り扱っている。そこでの案内係が私の仕事だった。かれこれ一五年余り、私はここで笑顔を振りまいている。

 朝一とはいえ、玄関ホールからは入れない。お客としてなら、隣接するデパートを通り、直結の通路をつかえるのだが、従業員としては許されなかった。重い従業員入口の扉を開くと華やかな店内とは違い、冷たいコンクリートを思わせるビルの廊下が冷たく続いていく。


コツンコツンコツン


 その冷たい廊下で私の足は重い足音を立てながら歩き、すれ違う警備員へ対する挨拶のための会釈をする。警備員も頷くだけで返事はしない。

更衣室に付く。ロッカーの扉についてある小さな鏡に向かい、普段は付けない赤い口紅を引けば、準備完了だった。


 朝一の業務は、挨拶からだ。靴を履きかえた私は背筋を伸ばし、綺麗に立つ。


 一〇時の開店に合わせ、お客様がちらほらと現れ始める。平日の時間なんてこんなものだ。


「おはようございます」


私の声はさっきの二段階くらい上に張りを持ち、高くなり、きれいな角度でお辞儀をする。笑顔はもちろんその顔に貼りついたまま、外さない。そして、開店後は、インフォメーションと書かれた囲いの中で、微笑みながら全てを見回している。あと一時間くらいすれば、新しい相棒の成田さんがやってくるシフトだ。


 つい一か月前に隣にいた三〇歳だった相棒が寿退社をして、二十五歳の若い成田さんが私の隣で笑顔を振りまきはじめるのだ。


 若いということはそれだけで素晴らしい。


 彼女には希望が燦々と降り注いでいるように見えた。あの時分、私にも希望が降り注いでいたのだろう。きっと。太陽が示す道は無数にあり、何でも選べる。


 燦々と、まるで光のカーテンを纏うような、太陽が全てを輝かしくしてくれるような……。例え、目の前が見えない道を選んだとしても、彼女自身が光になるような……。あったのだろう、きっと。


 ここの案内係は三シフト制で、二時間ずつずれて出勤する。そして、三人が揃った時に休憩を取り合い、最後の出勤者が帰る二時間前に最初の出勤者が帰る。今日の私は早出と言われるシフトで、遅出出勤の小笠原さんがくるまでは早出の私と中出の成田さんがずっとここに立っている。小笠原さんは私の中では一番の成功者だった。そこそこに仕事をこなし、子どももいて、穏やか。


 しかし、小笠原さんはよくシフトチェンジを要求してきた。子どものお迎えが難しいから、早出が欲しい日、遅出が欲しい日。最悪は子どもの熱のための中出の早退。忙しい時間に遅出と中出がバタバタとお昼を済ませ、二人揃ったところで早退させる。


 元相棒とよく愚痴りあったのは否めない。飲みに行けば彼女の愚痴を言う。子どもがいるのがそんなに偉いんかいっ。と言うような。しかし、私も元相棒もよく知っているのだ。子どもがいるから無理は出来ないのだということも。だから、独身者の元相棒と子どものいない私がカバーしてあげなければならないことも。


 でも、彼女は最後にいつもこう付け加えて笑い出していた。


「浅木さんだって、いいじゃないですか? 旦那さんがいて、あたしなんて、誰もいないんですからぁ」


10:45を腕時計の針が指し示す。中出の成田さんが笑顔を振りまきながら登場する。彼女の足音がこつこつコツと軽くフロアに響いている。


「おはようございます」


溌剌とした声で成田さんが挨拶をして囲いに入ってきた。そして、本日のイベント確認をこっそりする。確認をしながら、フロア案内をしたり、イベント案内をしたりしていると、ぱったりお客様のいない魔の時刻になってしまった。新人の成田さんは、こんな時よく色々な疑問を投げかけてくる。疑問、よりも愚痴に近いのかもしれない。他愛のないものばかり。


「あのぅ。浅木さん」

「どうしたの?」


少し不安げな表情はきっと男なら護ってやりたいと思わせるものになるのだろう。しかし、私は女だし、その表情に流されることはない。そして、彼女自身きっとその表情の意味はないのだ。ただ癖のような物。


「この間、丸梅に入っているお店のことを訊いてきたお客様がいたんですけど、ちゃんと調べて来てほしいですよね」


彼女はめんどくさそうな顔をしながらにこやかに私に言う。とても器用な子だ。


「そうね」


しかし、私は先輩から、この辺り周辺の情報は頭に入れておくべきだ、と教えられていた。買う買わないに関わらず、この建物の中にいる人はお客様だからだ。成田さんの頃に私も面倒だな、と思ったことがあった。きっと、同じことを思われるのだろう。


「だけどね」


人が近付いてくる気配を感じて、私語を止める。


「ちょっとお尋ねしてもいいかしら?」


目の前には不安そうなおばさまが立っていた。グレーのニット帽には同じ素材の深紅の花と桃色の花が飾られていて、黒い温かそうなダウンを羽織っている。


「はい、どうなされましたか?」


丁寧な笑顔で、答えると目の前のニット帽のおばさまが安心したように微笑んだ。


「この半券を持ってると割引になるお店があるって訊いてきたんだけど、どのお店か分からないのよ」


その半券は商店街活性化企画の一つだ。商店街にも足を運んでもらおうと地域ぐるみで動いた。きっと、色々なお店を覗いて、声を掛けられずに、どこかにそんな形跡はないかを捜し歩いたのだろう。しかし、この建物にも丸梅にもない。


「申し訳ありません。こちらでその半券をお使い頂ける店舗はございません。でも、それでしたら、ここから南へ、梅ケ谷通りを背に東山公園方面ですね。そこに商店街がありますのでそこで使えると思いますよ」


「あぁ。そうなんですね」


おばさまの顔が曇る。あぁ、そうか。


「もし良ければ、こちらで使える割引券もありますので、お渡ししておきます」


表情は疲れていたが、にっこりと笑ったおばさまはその割引券を手にして「ありがとうございます」と言った。


 私が渡したのはたった五十円引きの飲食店割引券だ。今月初めにお店の広告と共に配布されて、今月末が締め切りのもの。


「浅木さん、すごいですね。何でも知ってるんですね」


「そんなことないよ」


自然な笑顔がこぼれているのが自分でも分かった。先輩面なんてしたくない。しかし、言っておいてあげた方がいいのではないだろうか。それがこの子のためになるかもしれない。


「この辺りの情報を頭に入れておけばね、お節介になるかもしれないし、迷惑がられるかもしれないけど、ここに来れば大丈夫って思ってもらえるかもしれないでしょう?」

後は彼女が自分で選択すればいい。彼女は愛想笑いで私の言葉を聞いている。


 この仕事を続けたこと。この選択は正しかった。


 そして、夫の顔が浮かんだ。これは正しい選択だったのだろうか。


 夫との出会いは友達の紹介だった。無口で自分のことを押し殺している感じの人。それが第一印象だった。彼は奥手で、どちらかと言えば私がリードする機会が多かった。告白も促されてやっと。プロポーズは五年待ってやっと。


 元相棒が羨ましがるほどのものではないのだ。

 適齢期を過ぎて、出産だってきわどい年齢だった。きっと焦っていたのだ。

 だから、彼の背を押すようにして、うまく導いて、夫婦になるという言葉を聞き出した。


 しかし、彼の言った言葉は、たったこれだけ。


「うん……」


女の子が照れて目を逸らして、顔を赤くして……。そんなかわいらしいものではなかった。ただ戸惑ったように、困ったように、目を逸らして頷く。


 式場は私が選んだ。招待客は夫に合わせ、小規模なものにした。みんなが微笑ましく笑っていた。みんなが温かい表情をしていた。それなのに、私は全く満たされなかった。


 きっと、私は選択を間違えたのだ。


 不妊治療をしなかったのは、私が仕事を優先したかったわけだからではない。庇わなくていい者をきっと庇ったせいだ。結婚してからの夫の口癖は、「めんどくさい」


 あの時もそうだった。


「授かりものだし、……めんどくさい」


 無口で、奥手で、人にあまりかまわない性格。


 器が大きいと思っていた。物事にこだわりのない人だと思っていた。慎重に事を構える人だと思っていた。


「あぁあ、めんどくさい」


 呟いて、タイムカードを押すと、息を吐き出すとどっと疲れが出て来た。

 私は家に帰ることがめんどくさくなっている。

 更衣室を出ると朝と違う顔の警備員が「おつかれさま」とすれ違った。私も軽くお辞儀をして通り過ぎる。階段を下りる足音が、寂しさに拍車をかける。そして、何でもないところで躓いた。

「わっ」

コツコココッ

何とか壁に手を置き、体勢を整える。


 そう、彼はこんな風に私が躓いた時に一度だけ助けてくれたのだ。それはまだ付き合うということを意識していなかった頃だ。元々顔はタイプではなかった。しかし、あぁ、この人なら、私を助けてくれるのかもしれない、そんな幻想を抱いた。

「大丈夫?」

その顔が本当に私を心配してくれているように見えていた。


 捻った方の足を上げて、足首をぶらぶらさせてみる。痛くない。ほっと胸を撫で下ろす。それと同時に、ヒール部分に捲れを見つけた。お気に入りだったのに、修理までして履いていた者なのに……。でも、怪我がなかっただけでも良しとしなければならない年齢なのだ。

 だいたい、いつまでヒールで頑張ろうと思っているのだろう。しかし、幻想は私の脳内に星を降らせる。いつか、もしかしたら。

 

 「ただいま」の声に反応のない玄関。薄暗い室内。電気をつける。パチっと聞き慣れたスイッチオンが響く。無機質な家。

 ペット可のとこがいいな。

 ペット可になると二万も高くなる。

 そうだね……。不経済だよね。

 この家には私と彼の言葉が染みついている。どこを見ても、何をしてても、壁が、ソファが、キッチンが、食器さえもそれらを語り出す。


 朝、パン食にしようと決めたのは、彼だった。

 私がご飯を押したが、結局「めんどくさい」とパンになった。だから、コーヒーメーカーで私は毎日珈琲を淹れている。めんどくさいことを通すことで、自分を保ちたかった。

 くちゃくちゃと音を鳴らして物を喰う。私はこれを耳障りだと思っていた。それなのに、夫はその癖が治らない。治らないのではない。きっと治す必要なんてないと思っているのだ。

 本当はコーヒーなんてどうでもいい。ただ、彼の「めんどくさい」と言う言葉が大嫌いなのだ。だから、面倒なので、パン食になった。本当は朝はご飯が食べたいのだ。しかし、もし完璧な朝ご飯を出したとしてもきっと何も言わない。

 頑張っても仕方がないのだと諦めた。そして、頑張れない自分にいら立ちが募る。

きっと、朝食なんて必要ないけれど、作ってくれるんなら食べるよ、と心の奥底で思っているに違いない。


 夫が帰ってくるのは、たいてい私が寝る間際。待っていた時期もあったが、毎晩のことだし、シフト制の私には耐えられなくなったのだ。適当に二人分の食事を作り、ラップをしておいておく。私は先にお風呂へ入り、お風呂から出て来ると、くちゃくちゃと言う音が聞こえてくる。「おかえり」なのか「おやすみ」なのか私には測り兼ねるが、どちらにしても彼は「うん」としか言わない。


 炊飯器のスイッチを入れ、彼の背中を見てから今日は「おやすみ」を言う。


「うん」


思った通りの答えが返ってくる。同じ日々の繰り返し。こんな気持ちに気付かなければ、よかった。


 いや、もっと早くに気付いておけばよかった。


 もし、あの時、私がそれに気付いていれば。

 


 朝、和食器に乗せられためざしが、穴の開いた目で私を見つめている。


「おはよう」

「うん」


歯を磨きに行った夫はあくびをしながら視界から消えていく。私は一人で朝ご飯を終え、身支度を始めた。そのころにやっと、彼がお箸を持ち始めた。


 さっさと食べ終わり、化粧も整え、カバンを抱えた私は、「先行くね」と一言、彼に告げる。


夫は私の時間は私の時間、と言う顔で、咀嚼しながら私を見上げる。私はのんびりしている彼を待つのも嫌いだった。彼の食べるスピードも、起きる時間も。


 彼が及ぼす、私に対する全てにうんざりしていたことに気が付いてしまった。


「後片付けよろしくね」


夫は「うん」と気のない返事で食事を続ける。


 くちゃくちゃくちゃ。


それだけが背後から耳に届く。ため息を呑み込む。


 行ってらっしゃいくらい、言えばいいのに。


玄関で履いたヒールの捲れを見るために踵を上げる。お気に入りだったヒール。気になって仕方のない傷。


 簡単なことではないのだろうか。

 もしも、を叶えるなんてことは……。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 物語を通して特に何かが解決するわけではないのが、リアルだなと感じました。 日々の仕事にそれなりにやり甲斐を感じている浅木さん。15年の月日彼女が真摯に仕事と向き合おうとしてきたことは、おば…
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