幸福の条件
それからわたしは、シュロ様とお城での生活を楽しんだ。
ここでの生活は、遊郭にいた頃なんかよりも全然楽しくて。自然と笑う機会も増える。
ここにはわたしのことをいやらしい目で見る人も、わたしに命令する人もいなかった。人とは呼べない見た目をした何かばかりだったけど、人間などよりもよっぽど綺麗だと思う。わたしが接したことがある人間は皆、欲にまみれていたから。
でもそれと同じくらい、心にもやもやしたものがたまっていく。これは多分、後悔や不安といった感情だ。
……わたしがいなくなってから、どれくらい経つのかしら。
わたしが心配だったのは、わたしが消えた後のこと。城主様は、わたしが消えたことをどう思っただろう。楼主様に、お金はちゃんと入ったのかな。遊郭の皆は、ひどい目にあっていないかな。そんなことだった。
わたしとしては、あそこから抜け出せて本当に良かったと思っている。でも今が幸せ過ぎて、逆に不安になっているのも事実だった。
「……わたし、こんなにも幸せになっていいのかしら」
「何を言っているのですか、桔梗。良いに決まってます」
「あ……シュロ、さま……」
ぼんやりと庭を眺めていたら、いつの間にか隣りにシュロ様がいた。シュロ様は穏やかな表情をして、わたしのことを見下ろしている。
とくんと、胸が大きくなるのが分かった。思わず顔を逸らせば、シュロ様がくすくすと笑う声が聞こえてくる。
「そんなに怯えなくとも」
「い、いえこれは、怯えているとか、そういうことじゃなく……!」
「なら良いのですが」
そう言うと、シュロ様はわたしの隣りに腰を下ろした。
少しだけ離れたところに座ったシュロ様を見て、その配慮を嬉しく思うと同時になんだか寂しくなる。もっともっと近づいて、触れて欲しいと。そんなことを思ってしまった。
……いけないいけない。シュロ様に言われていたじゃない。もっとちゃんと、考えないと。
でも、今のわたしにとってはシュロ様がすべてで。
シュロ様だけが、わたしを宝物みたいに優しく扱ってくれた。
そんなシュロ様に惹かれないほうが、おかしいと思う。現にわたしは、こんなにも惹かれていた。
たくさんの男の人に今まであってきたけど……お名前とお顔、お声……そのすべてを覚えて、絶対に忘れたくないと思えたのは、シュロ様だけだった。
だから余計に、今目の前にいるひとが自分の妄想ではないかと。そう思ってしまう。
夢なら一生覚めないで欲しい。この幸せな時間を、少しでも長く味わっていたいから。
色々な気持ちが顔に出ていたのか。シュロ様がポツリと呟いた。
「……ここでの生活は、楽しくないですか?」
「そ、そんな。とんでもないです。むしろ楽し過ぎて……不安になります」
「どうしてですか?」
「……わたしのような者が幸せになれているということが、どうしようもなく不安なのです」
少なくとも、わたしは今まで自分が幸せになれるなんて思ってなかった。城主様のところに行くと決まってからは、絶対に幸せになれないと心の底から思っていた。このまま籠の鳥として一生を終えるんだって、本気で考えていたの。
「シュロ様には、感謝してもし尽くせないくらいの幸福をいただきました。でも同時に、恐ろしくなります。これが夢なのではないか。人間界はどうなっているのだろう。そんなことを考えてしまうのです」
「自分を傷つけた人間たちのことまでも考えているのですか? 桔梗は優しいですね」
「いえ、優しくなんてないのです。ただ、いつ現実に引き戻されるのかと思うと、恐ろしいだけで」
「……安心してください、桔梗。あなたを傷つける者は、ここにはいません。ですから、どうか笑って? 桔梗は、今までの分もっと貪欲に生きて良いのですよ」
「……貪欲、ですか」
貪欲、貪欲、と何度か口にしてみたけれど、あまり実感が湧かない。謙遜や謙虚さこそが美徳だと教わってきたわたしには、貪欲という言葉がどうしても汚らわしく見えてしまうのだ。それを見せて、シュロ様がわたしを嫌いになる可能性だってある。
……何かしら、これ。とても苦しい。
胸がきゅうっと縮んだ気がした。お城に招かれたときにも、わたしを嫌いになるかもしれないと思った気がする。でもそのときは、行くあてもないのに放り投げられるのが怖かったのだ。
でも今回は、それとは違った感覚だった。
シュロ様のことを思うとすごく胸がぽかぽかするのに、嫌われることを想像するだけで怖くなる。胸が張り裂けそうだった。
もしかしたらこれが、恋という感情なのかもしれない。遊郭には恋愛をしていた人たちもいたから、なんとなく聞いたことがある。わたしが禿だった頃、姐さんは確かこんなことを言っていた。
『恋をすると、女は美しくなる。相手を想うだけで幸せになる。でも同時に、胸がキリキリと痛むのよ』
そのときの姐さんは、あるお客と心中した。その亡骸を一番初めに見つけたのはわたしだから、よく覚えてる。
今わたしが感じているこの感情は、姐さんが言っていた言葉とよく似ていた。
つまりわたしは、シュロ様に恋をしている?
そう頭の中で口にして、なんだか恥ずかしくなってきた。
まだ出会ったばかりのひとに恋するなんて、わたし、おかしいのかしら。
ぺちぺちと頬に触れたけれど、異様に熱い。どうやら顔に出ているらしい。隠すことはあんなにも得意だったはずなのに、本当にどうしたのだろうと少しだけ怖くなった。
「……わたしはやっぱり、少しの幸せがあれば十分です」
「……なら、桔梗にとっての幸せとはなんですか?」
「わたしにとっての幸せは……こうしてここで、楽しく過ごせていることです。それさえあれば、他には何もいりません」
「……あなたのことを虐げてきた者たちに、復讐したいなどは思わないのですか?」
「思わないことはないですけど……でもそれより、ここでのことのほうが大切ですから」
そういうと、シュロ様は少し考え込んでしまった。
何か変なことを言ってしまったのかと不安になったけど、シュロ様がこんな風に考えるということは自分の中で何かをまとめたいときだと気づく。
長考の邪魔をしないように、わたしは外を眺めることにした。
そういえばここのお庭には、いろんな花が咲いているわ。
季節を問わず、いろんな花が咲いているのだ。そこには、わたしの知らない花もあった。風鈴のように軽やかな音を立てる、鬼灯のような花、夜になるとうっすらと光る苔。そのどれもがとても幻想的で、美しい。それは、ドロドロしていたわたしの世界にはない素敵なものだった。
そしてどうしてか、わたしに与えられた部屋の前のお庭には、たくさんの桔梗が咲いている。
その桔梗はわたしの知ってる見た目をしていたけれど、雨が降ると甲高い音が鳴るのだ。ぽーん、ぽーんと聞こえてくる音は、なんだか琴に似ている。きっとそれが分かっていたからこそ、シュロ様はわたしの名前の花をわざわざ植えてくれたのじゃないかと、ふと思った。
すると、シュロ様がポツリとつぶやく。
「……桔梗。すみませんが、少しの間城を空けます」
「……え?」
「やらなければならないことができました。ですので、少し待っていてください」
「は、はい……行ってらっしゃいまし」
わたしがここにきてから、シュロ様は初めて外に出る。それがどうしても不安になったけど、わたしは無理をして笑顔を作った。
大丈夫。シュロ様は絶対に帰ってきてくれる。わたしを置いてどこかに行ったりなどしないわ。
だってここは、シュロ様のお城で。
シュロ様はこんなにも、お優しいのだから。
――その日から、シュロ様はお城からいなくなった。