言葉にならない悲鳴
しゃらん、と。鈴のような音が聞こえた。
それは彼が歩いてくるたびに、大きく高くなっていく。
長く伸びた髪は、光の加減によって黒や青、群青色に見える。まるで水面のようだった。
瞳は若葉のような緑色で、すらりとしている。
一見すれば冷ややかに見えてしまう見た目なのに、彼はなんだか柔らかく見えた。
着ている着物も立派で、一目で偉い方なのだと分かる。袖の端に付いた鈴が、凛と音を立てた。先ほどから聞こえる音は、この鈴の音なのだと思う。
その場に呆然と佇んでいると、彼はいつの間にか直ぐ目の前に立ち、わたしのことを優しく見つめてくれた。
「な、ぜ……」
なぜ、ここにいるのですか……?
なんとかそう問いかければ、彼はわたしの手を取りながら言う。
「何故、ですか。確かにそう聞きたくなりますよね。簡単に説明するなら、あなたはわたしの妻になったのです」
「え……ですがわたしは、国主様のもとに嫁いだ、はず……」
「ええ。ですから、攫わせてもらいました」
そんなことをさらりと言ってしまう彼が何者か分からなくて、わたしは思わず一歩下がってしまう。だけどそれより先に手を掴まれ、引き寄せられた。
「桔梗、落ち着いてください。あなたにはすべてを話します。だから、まずは城の中に入ってくれますか?」
「…………わかり、ました」
彼にそう言われ、わたしはこくりと頷いた。いや、頷くほかなかったのだ。
背後を見ても、帰る場所はない。そもそも国主様のもとに向かったわたしに、帰る場所も逃げられる場所もなかった。
むしろここが、わたしに用意された唯一の逃げ道なのかもしれない。
だってそうでしょう?
ここは、わたしが知っている世界じゃない。どこか別の世界だと言われたほうが納得できるような、そんな場所だ。
空を飛び回る魚や、伝承でしか聞いたことのない人魚のような生き物。それは、わたしがいた場所にはなかったものだ。もしかしたら、妖と呼ばれる生き物なのかもしれない。
妖は、美しいものを好むと聞いた。それと同時に、食べることもあると。
わたしはこれから、食べられてしまうのかもしれない。
だけど、一瞬でも良いから逃げられたら、なんて。そう思ってしまうわたしは、悪い子かしら?
それに、どうせ壊れるのならもうどうにでもなってしまえと言う気持ちがあった。ここで無惨に食い殺されるのと、国主様のもとに嫁いで壊れるの。どちらが良いかと聞かれたら、わたしは迷わず前者だと言う。
これ以上苦しまずに済むなら、死んだほうがマシだから。
そんなことを思いながら、わたしは美しい方に連れられて純白の城へと足を踏み入れた。
中に入った瞬間、目の前に広がっていたのは平伏する人魚たちの姿だった。彼らは皆着物を着ているけれど、尾っぽが見えている。
それは、とても不思議な光景だった。少しだけ楽しくなる。これから死んでしまうかもしれないから、どこかおかしくなってしまっているのかもしれない。
でも今のわたしにとってそれは、とても愉快なものに見えた。
そんなわたしを見て、彼は微笑む。
「初めて笑いましたね」
「……え?」
「以前わたしと会ったときも、あなたはそんなふうに笑ってはくれませんでした」
ですから、初めて笑ってくれたなと。嬉しくなったのです。
彼にそう言われて、ハッとした。思わず顔に手を当てる。
わたし、今笑ってたの……?
愛想笑いでも、好かれるための笑いでもなく。
ただただおかしくて、笑っていたのだ。
自分らしくない行動に、思わず混乱する。
彼はそんなわたしの心に寄り添ってくれるかのように、歩幅を合わせてくれた。
お城の一室に通されたわたしは、用意された座布団に腰をおろす。
それを確認した彼は、そっと口を開いた。
「まずはじめに、自己紹介から。わたしの名前はシュロと言います」
「シュロ、様……」
「ええ。以前お会いした際には、別の名を使っていたので。ここではそう読んでくれると嬉しいです」
わたしは、胸の内側で何度も彼の名前を呼んだ。
シュロ。シュロ、様。
不思議な響きの名前だったけれど、覚えるのに苦はなかった。他の人の名前も顔も、できる限り覚えようとしなかったわたしにしては、珍しいなと自分で思ってしまう。
そんなわたしを見つめたまま、シュロ様は再度口を開いた。
「なんとなく分かっているかもしれませんが。わたしは人ではありません。水神と呼ばれる類いの人外です」
「……シュロ様は、神様なのですか?」
「ええ。なので、あなたを娶ろうとした人間よりも偉いですよ」
シュロ様はなぜか、偉いと言う部分を強調した。
偉い、と言うことは、さすがのわたしでも分かる。というより、国主様と神様を同列に扱うこと自体、おかしなことなんじゃないかと思うのだ。
そしてシュロ様が神様だと聞いたとき、わたしの心はびっくりするくらい落ち着いていた。
むしろ、シュロ様が神様だと聞き、納得したくらいだ。それくらい、シュロ様は神様らしい神様だった。
シュロ様は優しい目をわたしに向けながら言う。
「では、本題に。わたしは以前桔梗に会った際、あなたに一目惚れしてしまったのです。同時に、あなたの音に惚れました。それだけではありません。あなたの所作は、何から何までとても美しかった。同時に、どれほどまでの努力をしてきたのだろうと。そう感じたのです。あなたは、血の滲むような努力の果てにその美しさを身につけたのですね」
「……それ、は、」
思わず、声が震えてしまった。
だってそれは、わたしが一番聞きたかった言葉だったから。
ただ「綺麗だよ」なんて言葉が欲しかったわけじゃない。その先にある、努力を見て欲しかった。でも誰も、それに気づいてくれる人はいなかったのだ。
そう。気づいてくれたのは、シュロ様だけ。
それが、渇いた心に水のように注がれる。
心が嬉しそうに音を立てているのが、よく分かった。
唇をきゅっと噛み締めていると、シュロ様がそっとわたしの手を握った。いつの間にそんなに近くにいたのだろう、なんて思うことすらなかった。
むしろそれが嬉しいと感じたからだ。
「何度も会いたいと。そう思いましたが、わたしが人間界に足を運ぶと言うことは、それだけ均衡が乱れると言うことなのです。なので代わりに、あなたに声が届けばいいと雨を降らせました」
「それ、で、あんなにも雨が、降ったのですね……」
なんとかそう絞り出す。同時に、ぞわぞわとした何かが心の内側から滲み始めた。
シュロ様の言葉に、こんなにも嬉しくなってしまう自分がいることが、どうしても信じられなかったのだ。だってわたしは、何から何まで綺麗な彼に愛されるほど、美しい存在じゃないから。
それでも、嬉しいと思う気持ちは溢れてくる。わたしの心を救ってくれた雨は、あなた様が降らせてくれたものなのですね、と。そう叫ぶ声が頭に響いた。
「わたしの叫びは、あなたに届いていたでしょうか?」
シュロ様はそう問いかけてくる。
思わず頷きお礼を言おうと思った瞬間、わたしは目を見開いた。
もうひとりの自分が、頭の中で大きな声を上げてきたからだ。
助けてもらったのだから、お礼をしなくては。
わたしらしいお礼をしなくてはいけないんじゃない?
わたしらしいお礼とは、つまり、そういうことだろう。
遊女として。体を使って、シュロ様を喜ばせなくてはいけないのだろう。
そう思ったわたしは、ほぼ反射的にシュロ様を押し倒していた。
無防備だったのか。彼はすぐ後ろに倒れてくれる。
綿帽子を取りながら、わたしはシュロ様の上に覆いかぶさった。そして甘えた声で言う。
「確かに、聞こえておりました。シュロ様の雨が、わたしの心を救ってくれた。――そんなわたしに返せるものは、ひとつしかありません。どうぞ好きなように、使ってくださいませ」
そう言ってから自分の着物に手をかけ脱ごうとすると、止められてしまった。
驚いてからシュロ様を見下ろせば、彼の顔が近づいてくる。
でも、シュロ様の唇が触れたのは、わたしの額で。
彼はそれっきり特に何もするわけじゃなく、そっとわたしを抱き締めてくれた。
そしてよしよしと、頭を撫でてくれる。
「わたしは、桔梗とそう言う関係になることを望んでいないわけではないのです。ですが、無理してまでそんなことをして欲しいとは思っていません」
「ですが……わたしに返せるものは、それくらいしか……っ」
渡せるものがないなら、何を差し出せばいいのだろうか。体を受け取ってもらえないなら、命を差し出せばいいの?
わたしの命にそんな価値があるとは思えなかったけど、シュロ様が望むならあげたいと思う。
だって、そうでもしないと。
シュロ様はわたしから、離れていってしまうでしょう?
初めて認めてくれた方が失望するのを見たくなかった。
初めて触れた優しさが離れていくのが、恐ろしかった。
そんな思いから、わたしは自分の体を差し出そうとした。
でもそれすらも断られてしまったのなら、わたしはどうやってシュロ様を射止めればいいのだろうか。
分からない。分からないから、恐ろしい。
頭の中がぐちゃぐちゃで。どうするべきなのか、まったく分からなくて。
ぽろりと、涙があふれる。
涙はとめどなく溢れ、シュロ様の着物に吸い込まれていった。
化粧もしている上で泣くなんて、遊郭じゃあり得ないどころの話じゃなかった。
シュロ様から離れようとしたけど、彼はそのままわたしを抱き締めてくれて。
頭を撫でたり、背中をぽんぽんと叩いてくれる。
まるで、赤子をなだめるときみたいに。シュロ様はわたしを優しくなだめてくれた。
それが余計に、わたしの涙腺を刺激する。
「良いのですよ。桔梗。思い切り泣いて」
とどめと言わんばかりにそんなことを言われてしまったら、涙を止める気にもならなくなってしまった。
「ぅ……ぁ……っ」
喉の奥から、今まで溜め込んでいたものがすべて溢れ出す。
「ぁぁぁああ――――――っっっ!!!」
自分のものとは思えないくらい、甲高い声が漏れた。
泣き声なんだか悲鳴なんだか分からない声は、一度溢れてしまったせいか止まらない。
なんで。どうして。
そんなとりとめのないことばかりが、浮かんでは消える。
それからわたしは言葉にならない言葉を吐き出しながら、四刻半ほど泣き続けていた。