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花嫁道中の向かう先

 どんなに苦しくても、辛くても。朝は必ずやってくる。


 今日は曇り空だった。

 わたしの気持ちを代弁してくれているみたいで、見るだけで辛くなってくる。


 今日は外を見ないようにしよう。


 そう決意しても、現実は否が応でもわたしに迫っていた。

 楼主様がわたしを呼び、花嫁道中の日程を打ち明けたから。


 花街から身請けされ外に出る遊女には、花嫁道中という最後の仕事がある。それは太夫の位をもらう者のほうが派手に執り行われるものなのだ。

 わたしは花街一の人気者。だから楼主様は、それはそれは盛大に執り行う気でいるらしい。


 盛大に執り行うということは、それだけ逃げ道がなくなるということだ。だって相手は、あの国主様なのだから。


 身請け相手が国主様ということ自体、もうどうしようもないことなのだけれど。


 はじめから、逃げ道など用意されていなかったのだ。わたしが生まれたその日から、ずっと。わたしは、終わりのない絶望の中を歩いてきたのだから。


『お前は良い子だ、うちの自慢だ』


 そう、楼主様は言ってくれた。

 でも結局楼主様にとっての良い子は『それだけお金を稼げる遊女』というだけの存在で。

 わたしが求めていた良い子じゃあ、決してなかった。


 笑みを貼り付けたまま楼主様との会話を終えたわたしは、そのまま部屋に戻った。

 戻ってからわたしは、押入れに向かった。そして久しく触れていなかった琴を取り出す。


 最近は全然触れなくなった琴。でも昔は「琴の名手」なんて呼ばれるくらい、腕には自信があった。


 国主様がきてからは、めっきりなくなってしまったけど。


 国主様が贔屓にしている遊女となれば、周りもさすがに遠慮する。だから、他のお客を相手にする機会はなくなった。必然的に、琴も遊び程度にしか弾かなくなる。


 最近はそれすら無駄だと思い、稽古もしていなかったのだけれど。


「久々に、弾きたい」


 そんな思いから、琴に触れようと思った。


 弦の張り具合を調節してから、爪をはめて指を添わせた。


 拗ねてなければ、良いのだけど。


 楽器は、触れないとすぐに拗ねる。特にわたしが使っているものは和琴わごんと言って、もとから扱える人が少ないのだ。

 その中でもこの子は、気性が激しく引き手を選ぶと有名だった。


 一度試しに爪弾く。


 ピンっと張った音が鳴った。湿った空気が吹き飛ぶほどの清涼感に、自然と指が動いていく。


 爪弾き始めた頃は稽古をさぼっていたこともあり不安だった。でもやり始めてしまうと体が勝手に動き、流れていく。


 まるで、水のように。

 水面に、ひとつ波紋を落とすように。

 それはまるで、雨のような音だった。


 音は次第に大きく波打ち、岩を砕くほどの強く強くなる。

 されど後半にいくに連れて、小川のように穏やかな音を奏でた。


 繊細に、時には大胆に。

 音は部屋に響き、染み込んでいく。


 最後の音の弾き余韻に浸っていると、ふ、と昔のことを思い出した。昔相手をした、お客のことを。


 今までこんなこと、一度もなかったのに。琴を弾いたからかもしれない。

 わたしはそっと、瞼を閉じた。



 そのお客が来たのは、大粒の雨が地面を叩きつけるような、そんな大雨の日だった。だから、来る人も少なかった。


 彼は、わたしを抱くでもなく。ただ琴の音色に耳をすませ盃を傾けるような、そんな静かな人だった。


 男の人の顔は基本的に覚えないようにしているのに、なぜか彼の顔だけはくっきりと思い出せる。今思えばとても、美しい人だった。思い出だから、こんな風に思ってしまったのかもしれないけれど。


 でも彼は、わたしに何かを強要するわけでもなく。ただそこにいて、わたしのことを認めてくれる。そんな人だった。


 なぜ今更、そんなことを思い出したのか。

 思い出すと同時に、むしょうに会いたくなってしまった。


 国主様が来るようになってからは、一度も見かけたことがない。それはそうだ。国主様以上の権力者なんて、この国にはいないのだから。


 そっと琴を指で撫で、つぶやく。


「思い出さなければ、良かったのにね」


 口でそんなことを言ったのは、自分に言い聞かせるためだ。そういう自分であれと。今の自分はそうあるべきなのだと、言い聞かせるため。

 でないと、心が真っ二つに割れてしまいそうだった。


 思い出して良かったと。

 あの美しい人の存在を思い出せて良かったなどとは。口が裂けても言えない。言ってはいけない。


 だから、忘れてしまおう。忘れてしまったら、楽になる。すべて水に流して、忘れてしまったら。わたしは国主様の女になれるはずだから。


 でも。


「忘れたく、ない」


 この気持ちを。

 この、本当の気持ちを。

 捨ててしまいたくはなかった。なかったことにしたくはなかった。


 相反する心はまるで、水面のように揺れている。

 自分が水にでもなってしまったかのような。そんな気分だった。


 琴からそっと手を離し、唇を噛む。そして禿(かむろを呼んだ。琴を部屋から出すように言いつける。


 誰か、別の人が使ってくれれば良い。


 そのときふと、思った。


「……全部、ここに置いていこう」


 ここにあるのは、わたしが生まれてから今までの思い出だ。それが良いものであれ悪いものであれ、全部置いていかなくては、わたしはきっと国主様のもとに行けないだろう。


 店の人たちが祝いの準備に勤しむ中、わたしはひとり身の回りの整理をする。使えそうなものは新造や禿に渡した。今までも何度も渡してきたけど、今回は着ていた着物も渡す。だからとても喜んでくれた。

 国主様のもとに向かうのは、この身ひとつで良い。


 心もここに置いていけば、わたしはきっと、ただのお人形になれるはずだから。


「……さようなら」


 かすれたその声は。

 自分の声じゃあ、なかった。



 ***



 花嫁道中の当日。

 わたしは花街全体から祝福を受け、その身を白無垢で包んでいた。


 いらないと思ったものはすべて、この街に置いていく。

 そしてわたしは、国主様の持ち物として彼の色に染まるのだ。


 白無垢姿で、わたしは遊女としての最後の仕事をする。


 花魁道中のときと同様に、道にはたくさんの人がいた。

 その誰も彼もがのっぺらぼうのように顔がないように見えて、わたしは内心怯える。

 口元は裂けそうなほど笑みを浮かべているのに、目も眉もないのだ。けたたましい笑い声だけが耳にこびりつき、体が重たくなる。


 それを振り切るように、わたしは一歩ずつ前に進んだ。


 その先には、花街と外を繋ぐ門がある。一度も出たことがない世界だった。門の前にはすでに駕籠かごが用意されていて、城へ向かうことを暗に告げている。


 あそこに乗って。そして、次開いたときには。

 わたしは、国主様の女になっていなければならないんだ。


 心が震えたが、なんだかすべてがどうでも良くなってきてしまった。


 いっそのこと心を壊してしまえば、人形になれる。

 自分を守らなければ、楽にはなれる。


 それが本当の意味での楽ではないことは、ちゃんと知っていた。だけど、どうしようもないのだ。わたしに残された時間は、ほとんどないのだから。


 やっとの思いで門の前に立ち、ひとつ息を飲む。


 ここから先。

 この先を出たら、そこはもう、花街じゃあない。外だ。


 それがなんだかとても新鮮で。苦しい。


 そんなことを他人事のように思いながら、わたしはその一歩を踏み出した。

 そこに自由さはない。あるのは一時的な開放だ。足枷を付けられた状態で外に出されているのと同じ。


 駕籠の中に入ってしまえば、不思議と落ち着いた。


 目をつむり、思う。


 捨てられないようにしないと。

 国主様が求めるわたしでいないと、いけない。


 生粋の籠の鳥は、外に放り出されれば死んでしまう脆い生き物だった。だから飼い主に捨てられれば、数日とおかず息絶えるだろう。


 生きたいなら、捨てられないような努力をしないといけない。

 美しく着飾り、ていの良い女でい続けなければならない。


 わたし、生きたいのかな。これって、生きているってことになるのかな。


 そんなことをぐるぐると考え続け。感覚が麻痺し始める。


 苦しいとか、辛いとか、痛いとか、泣きたいだとか。


 籠の中でなら辛うじて感じていられたものも、こぼれ落ちて行った。


 そして駕籠がおろされ、御簾があげられる。

 差し出された下駄を履き外に出れば、そこには見たこともない世界が広がっていた。


「……え?」


 思わず、声が漏れてしまう。


 そこにあるのは確かに、お城だ。純白の城。

 だけど、その周りで泳いでいる(・・・・・)ものがおかしい。


 魚のような見た目をした何か。

 上半身は人の姿をしているのに、下半身は魚のような尾を持つ何か。


 とにかく、普通じゃない。わたしが知っている普通じゃなかった。だって空に何かが泳ぐことなんて、絶対にないのだから。


 思わず後ろに下がってしまう。


「……ここは、どこ?」


 途方に暮れた声が漏れた。

 しかし目の前に現れた人影を見て、思わず息を飲む。


 城門の先から現れたのは。

 門をくぐりやってきたのは。


 わたしの琴を聞きながらお酒を飲んでいた、あの美しいひとだったのだから。

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