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僕らの30days

 あの日、あの夏の日、僕は大切なものを守ることができたのだろうか。あの時僕はまだ子供で、自分に何ができるかなんてこれっぽっちもわかっちゃいなかった。同時に、彼女もまた自分の人生の可能性なんてものを考えたこともなかったに違いない。とにかく、あの時の僕らは何かになろうとしていた。

 

    ○




   8年前

   7月23日


 家に帰ると、机の上に何やら一枚の紙が置いてあった。見ると、近所にある学習塾の、夏期講習のお知らせだった。ぼくは学校の鞄とユニフォームを詰め込んだナップザックをベッドに投げすてて居間に向かった。

居間では母と兄がテレビを見ていた。父はまだ帰って来てないようだ。ただいまとつぶやくと、テレビを見ていた母が慌てて立ち上がった。

「おかえり。すぐ支度するからね」

 そう言うと、母はパタパタとあわただしく台所へ入った。家に一つしかないソファはいつもどおり兄が占領していた。兄は寝そべったまま、顔だけこちらに向けて、おかえりと言った。ぼくは何となく返事をするのが嫌で、うなるように返事をした。台所の母が食器をガチャガチャさせながらのんびりと言った。

「俊、置いておいたチラシ見た?」

「見たよ、何あれ」

「夏期講習よ。俊ももう二年生なんだし、そろそろ行ってもいいかと思って」

「まだ中学生だよ。みんな行ってないし、ぼくはいいよ」

「でも今から準備しておくとほかの子と差がつけられるんじゃない? 俊もいずれは受験しなきゃいけないんだし。それに、うちはお兄ちゃんが私立の大学に入っちゃったせいで国立以外は通わせてあげられませんからね」

 兄が下品にゲップした。肘をついて、頭を支えるようにした右腕の皮膚が引きつれたようになっているのを見て、胸がずきりと痛んだ。母の話はまだ続いている。

「鈴木さんとこも今年から通わせるんですってよ? 早ければ早いほどいいっていうし、それに夏休み中はサッカーの練習出なくていいって言われたんでしょ? いい機会じゃない」

 僕はその言葉に、ちょっとだけ反感を覚えた。夏休みに入る前の最後の練習で、ぼくはレギュラー落ちを告げられたばかりだった。

「まだ可能性がなくなったわけじゃないよ。先生だって気を落とさずがんばれって言ってたし。頑張ればいつかレギュラーになれるよ」

 僕がそう言うと、母はちょっと困ったような顔をした。

「そうは言うけど、これから続けても高校や大学にスカウトされる可能性は低いんでしょ? 勉強だってちゃんとやっておかなくちゃ。サッカーだけで食べていけるならまだしもね、そういうわけじゃないんだから。ね? 行ってみない?」

ぼくは何も言えなくて、わかったよ、と低く言った。食欲はもうなくなっていた。



8月1日


日差しの強い日だった。丘の上の新興住宅地を目指してえっちらおっちら坂を上っていくと、「入会キャンペーン実施中!」だとか「新学期入塾受付中!」だとか書かれた幟を周囲にめぐらしたビルがあった。どうやら塾はその建物に間借りしているようだった。

ぼくは中に入って受付をすますと、案内された教室に入り、空いていた椅子に腰かけた。教室には30脚ほどの机と椅子が並べられており、前方の黒板は乱雑に消された跡がある。ざわめきの中、しばらく待っていると小太りの講師が入ってきて授業が始まった。こんなものか、と僕は思った。塾というものに未知の恐怖を抱いていたぼくは、正直ほっとした。講師が挨拶をしたり冗談を言っている間、他の生徒の観察をすることにした。ぼくは入室したのが後の方で、最後列に座ったものだから誰にも気づかれずに周りを見渡すことができた。

生徒は男女半々で空いている椅子はなかった。中二から夏期講習に参加するだけあって不良っぽいやつや不真面目そうなやつはあまり多くない。窓際の列に同じサッカー部の溝口がいるのを見つけた。溝口も補欠組か。溝口は講師の冗談にがはがはと笑っていた。溝口を含めてほとんどの生徒が夏期講習以前から通っているらしく、笑いの輪に入れない何人かの新入りがぎこちない笑みを浮かべていた。もう一度ぐるりと見渡して、ふと違和感を覚えた。違和感の主はすぐに分かった。髪を肩で揃えた女の子が微塵も笑顔を浮かべることなく、講師を凝視していた。講師の方もそれに気づいているらしく、やりにくそうにしていた。みんなが何とか和気あいあいとした雰囲気を作ろうとしている中で笑顔を拒否する女の子は、ひどく浮いていた。ぼくはそれだけで彼女に興味を持ってしまった。顔がみたいな、と思った。すると、心を読んだかのように丁度その子が振り向いた。その子は目に力のある怜悧な顔つきで、ぼくと目が合うとキッと睨みつけてきた。思わず目をそらすとつまらないやつ、とでも言いたげな顔で前へ向き直った。

そのうち、その子はノートを広げて落書きを始めた。その横顔は何やら楽しげで、そのうち鼻歌でも歌いかねないほどだった。はじめのうちは無視していた先生も、さすがにたまりかねたようで持っていた出席表でバシッと教卓を叩いた。

「おい、山本!」

 落書きの女の子がひょいと顔を上げた。何故自分が怒られるのかとでも言いたげなあどけない表情だった。

「山本、お前ふざけてんのか! そんな態度でいい高校行けると思うなよ!」

 講師は顎を震わせ顔を真っ赤にして怒鳴った。山本さんは何事かと顔を見合わせる他の生徒たちを尻目に、どこまでも冷徹に講師の怒りを受け止めていた。

チャイムが鳴って授業が終わった。さっきの子は授業が終わるとすぐに教室から出て行った。ぼくは顔なじみの溝口に挨拶しようか少しの間迷ったあとで、山本さんを追いかけることにした。なぜかそうした方がいいと思ったのだ。

彼女は階段の踊り場にいた。俯いていたので、泣いているように見えた。

山本さん、と言って近づくとびくっと肩を震わせて、そして僕の姿を認めるとキッと睨み据えた。

「なんか用」

 少し掠れた、硬さの残る声が耳に心地よく響いた。ぼくは小動物に近づくときのような、へっぴり腰で彼女の隣に座った。山本さんは僕が来たことなんか気にしてないぞと言わんばかりの顔つきで、ずっと前を見ていた。

「さっきのことだけど」僕の声は緊張でかすれていた。「なんであんなことしたの?」

「あれってなに」

 山本さんの声はどこまでも冷たかった。

その響きだけでぼくはたじたじとなってしまい、「落書きのこと」と小さく答えるのがやっとだった。そんなぼくをつまらない奴、とでも言いたげな目で見ると、フンっと鼻を鳴らした。

「つまんないでしょ、あんなところ」

 そういうと、山本さんはまた黙ってしまった。

「つまらないってのは授業のこと? みんな楽しんでたように思えるけど」

「全部よぜんぶ! 全部!」

 そう言うと、山本さんは立ちあがって歩き去ってしまった。

 次の時間も、山本さんはずっと落書きしていた。その科目の先生は気付いたようだけど何も言わなかった。

 結局、山本さんはその日の授業をずっとサボタージュしていた。


 

8月8日

 

 あの日、山本さんに出会ってから、ぼくは気が進まなかった塾通いを楽しみにするようになっていた。山本さんは毎日どの授業でも落書きを続け、怒られても貶されてもやめなかった。山本さんはクラスでも困った奴だというような扱いを受けるようになっていて、休み時間にも誰とも話さず踊り場で紙パックのコーヒーを飲んで過ごしていた。ぼくはそんな山本さんが、修験者が祈りを重ねるように、なにか神秘的な行為を重ねているように思うようになっていた。山本さんがテキストの1ページに落書きするごとに、なにかこの世界を構成する要素の内でくだらないものに大きくバッテンを付けているように思うようになった。

この日、ぼくはある計画を心に抱いて塾に向かった。教室に近づくごとに、どくどくと心臓が強く脈打った。その日の最初の授業は、ぼくと山本さんが出会った日の講師だった。講師は小太りの体を揺すって教卓にテキストの束を置くと、山本さんの方をじろりと睨んだ。山本さんはどこ吹く風と窓の外を見ていた。

授業が始まった。ぼくはテキストを取り出すと、ノートは仕舞ったまま、テキストに直接シャーペンを押し付けた。テキストに載せられた人物像にそっと髭を生やした。髪の毛を増やしてみる。肩から羽を伸ばす。シャーペンを擦りつけるたびに、ぼくの心は少しずつ軽くなっていった。そのうち、講師が僕の方を見た。

「おい河野!」

 講師が叫んだ。耳がキーンとなり、頬が燃えるように熱くなった。教室が緊張に包まれるのが分かった。ぼくがゆっくり顔を上げると、額に青筋を立てた講師が見えた。講師はテキストを教卓にたたきつけると、ぼくの方へつかつかと近づいてきた。ぼくは、講師から怒鳴られている間に、気付かれないようにそっと講師の背後を伺った。あの子は、あの子はどんな顔をしているだろう。山本さんと目があった。山本さんは驚いたような、ちょっと怒ったような表情を浮かべていた。

 その授業が終わった後、山本さんが僕の机にやってきた。それだけで、ぼくは嬉しくなってしまった。山本さんはちょっと拗ねた様な顔をしていた。

「なんでそんなことしたの」

「別に。つまらなかったんだ。全部が」

 山本さんはニヤッと笑った。

その日から、僕らは人知れず戦い始めた。その戦いに意味があったのかよくわからない。でも、ぼくらは何か大きなものと戦っているような気がしていたし、テキストに落書きしたり、黒板を粉まみれにしたりすることで何か意味のあるようなことをした気になっていた。



  8月12日


ぼくが塾へ行くと休憩室で溝口が本を読んでいた。溝口は、ぼくが山本さんと騒動を起こして以来、話しかけてこなくなっていた。

久しぶりに声をかけてみると、溝口は思ったよりも気さくに応じてくれた。「あいつやばいぜ」などと話をしていると部活の話になった。溝口は思った通り補欠組で、監督に練習は出なくてもいいと言い渡されたせいで生まれた暇を持て余して、塾に通っていると言った。彼はもうサッカーに対してなんら関心がないようだった。

「でも、まだレギュラーに上がれるチャンスはあるじゃん」

「考えてみろよ」溝口は呆れたような表情を浮かべた。「俺たちもう二年だぜ。来年はもう引退するわけさ。一年生でレギュラー入りした奴いるのに俺達がどうやってレギュラーになるんだよ」

「そうだけどさ。でも頑張っていればいつかはレギュラーになれるかもしれないじゃん。高校とかでもさ」

 溝口は、今度こそ馬鹿にしたような表情を浮かべた。

「いつかいつか、って河野はそればっかだな」

 その時、チャイムが鳴り始めてそれ以上の話にはならなかった。


   8月15日

  

 その日、ぼくと山本さんはところどころ電気が切れて薄暗い廊下を、声を殺し、足音を忍ばせて進んでいた。教室では、講師たちが黒板にチョークを打ちつけて何やら解説していた。山本さんは腰をかがめ、教室のドアをそっと開けると僕の方へちょいちょいと手招きした。ぼくは買ってきた蛇花火を手渡した。山本さんは振り返ってニッと笑った。

 山本さんが蛇花火に火をつけて教室に投げ込むと、途端に室内に煙が充満して、うわっと叫び声がした。ぼくらはダッシュで逃げた。山本さんは夏の盛りの向日葵のような笑顔を浮かべていた。




   8月16日

 

 天気のいい日だった。絵具をぶちまけたような青い空を背景に綿あめのような雲がふわふわと漂っていた。時折雲が覆い隠してしまうほかは日光を遮るものは何もない。暑い日だった。

 ぼくらは塾の屋上にいた。鉄のフェンスで覆われているほかは周りを遮るものは何もなかった。山本さんは屋上の壁に体をもたれかけて、紙パックのコーヒーをじゅるじゅる吸っていた。ぼくは腕時計を見た。

「そろそろチャイムが鳴るよ」

 山本さんは視線を動かさなかった。「大丈夫よ。バレたりしないから」見透かしたような声だった。ぼくは黙ったまま頷いた。

 山本さんは空になった紙パックをぽかっと蹴った。紙パックはわずかに残った液体をまき散らしながらフェンスまで転がった。

 チャイムが鳴った。

 ぼくも山本さんも動かなかった。電子的なメロディーが、ぬるい風に乗ってビルの屋上から遠ざかって行った。

「これからどうするの?」

 僕が尋ねると山本さんはつまらなそうな顔をしてちらっと見た。

「どうしよっか。話でもする?」

「うん、うん、そうだね。そうしようか」

 ぼくは舞い上がってしまった。慌てて山本さんの横に腰かけた。

「何の話をしよう?」

 山本さんは僕の嬉しそうな様子にちょっと困った顔をした。「別に、話って言ってもたいしたことじゃないわよ」

 僕がそれでもいいよと言うと、照れたような笑顔を見せた。その笑顔を見ると、なんだか心がじんわりと温かくなるのだった。

「山本さんは普段家で何するの?」

「んー何にもしてないよ」

「うそ。なにかしてるよ」

「してないよー」

 山本さんは小さく笑った。

「河野君はどうなの」

「んー、ぼくかー。ぼくはジョギングしたりトレーニングしたりかな。サッカーやってるから」

「サッカーやってるんだ!」

 山本さんは目を丸くした。

「すごい?」

「ぜんぜん! サッカーやってるようには見えないね!」

「そんなあ。でもその通りなんだ。ぼく2年生なんだけどレギュラーに選ばれなくてさ。夏休みは練習こなくていいって言われちゃったんだ。だからここに居れるんだけどね」

 山本さんはあーと言って目を反らした。

「それは、残念だったね……」

冗談めかして言ったつもりが、思った以上に気まずい雰囲気になってしまった。山本さんは明後日の方を向いてしまっている。話題を変えようと、慌てて話の接ぎ穂を探した。

「山本さんはさあ、……なんでこんなことやってるの?」

 山本さんは黙ったままだった。ぬるい風が、二人の髪を撫でた。

「わたしさあ、親が偉い人たちなのね」

 ややあって、小さな声で訥々と語り始めた。

「親がお医者さんでさあ。あたしにもなれって言うの。うち兄妹いないから。それで幼稚園から受験させられたし小学校だって私立でさ、なんか期待とか凄いんだ。もうお母さんなんて目がこんなでさ」目を吊り上げる真似をする。「こんな塾だって、行きたくもないのにさ。バッカみたい」

そういうと、学校指定の靴で地面をパッと蹴った。「ぜんぶ、親のいいなりだよ!」アスファルトのかけらがコツンと転がっていった。

「親には言わないの? 自分の気持ち」

「言わない。わかってくれないもん」

 山本さんは拗ねたように口をとがらせた。

「私の親は自分のやりたかったことを私にやらせてばっかり。だから言うこと聞いてやらないんだ。塾には行くけどそのかわり勉強してやんない。私は私の人生を生きたい! そう思うでしょ!?」

 ぼくは山本さんの勢いにたじたじとなった。

「じゃあ、山本さんは何をするの」

「わたしは、絵が描きたい。ホントはいつも絵を描いてるんだ。暇なとき」

 ぼくは山本さんの絵を見てみたいなと思った。小さく微笑んだ山本さんは、とても魅力的だった。

 僕が黙ったままでいると、山本さんは咳払いして、鞄をごそごそやり始めた。

「ほんとはさ、今日こんなものもってきたんだ」

 見ると、コンビニで売っているような花火のパッケージだった。山本さんはバリバリと包装をはがすと、中の花火を一纏めに毟ってぐいと突き出した。山本さんは笑っていた。ぼくはその笑顔が大好きだった。

 僕たちはそれから日が暮れるまで花火をして遊んだ。太陽の下の花火は煙たいだけで緑色や紫色の火花が出ても全く美しいと思えなかった。花火が尽きるころ、山本さんが小さな箱を取り出した。説明書きを読むと、高さ数メートルの火柱が上がる置き花火らしい。

山本さんがマッチを擦った。屋上の中央に置いた花火に点火する。シュッと音がして、橙色の火柱が上がった。日が傾いて茜色に染まった空に、煙と一緒に吸い込まれていく。ぼくたちは声を上げて笑った。

 その時、階段につながるドアが音を立てて開いた。

「お前ら、何やってるんだ!」

 数人の講師たちが音を聞いて駆け付けたらしい。気付けば、もう授業が終わる頃合いだった。山本さんが、「ごめんね」と言って微笑んだ。屋上に散乱した燃えカスが酷く惨めに見えた。



   8月17日


 ぼくは一日家から出なかった。塾では、ぼくたちに関する会議が開かれているそうだ。母は知らせを聞くと「そう、困ったわね」と言ってため息をついた。自分がひどく愚かしく思えた。山本さんはどうしているだろう。最後の微笑みが忘れられなかった。ベッドに寝転がって天井の木目を数えていると、無性に山本さんの顔が思い出された。




   8月21日

 

 退塾が決まった。親と一緒に呼び出され、応接室に通されたとき、はじめて塾長の顔を見た。塾長は苦み走った顔で、こんな子は初めてですよと毒づいた。あちらの親御さんにも申しわけないことで、と両親はひたすら謝っていた。ひとしきり怒られて、応接室から出たとき、山本さんがお父さんに連れられてやってきた。山本さんは泣きはらした目をして、ぼくと目が合うと慌ててぐしゃぐしゃと目を擦った。山本さんのお父さんは会釈する僕の母には目もくれず、ずんずんと進んで応接室に入った。山本さんもあとに続いた。彼女の唇が微かに「またね」と動いたように見えた。



   8月25日


 あの日以来、ぼくは一日中ベッドに横になっていることが多くなった。ベッドに寝転んでいると、どうしようもなく山本さんの顔が思い出される。あの「またね」と言った時の唇の微かな動きが柔らかく瞼をくすぐった。そういう時、ぼくは無性に山本さんを守りたいと思う。あの小さな細い指を損ないたくないと思った。でも、ぼくに何ができるっていうんだ? ぼくはまだ中学生で、自分ひとりでできることなんてたかが知れている。いつか僕も大人になるだろう。その時に何か行動できるような大人になろう。今のことはその時の糧になればいい。そう思った。

 不意に、溝口の言葉が甦った。

「いつかいつか、って河野はそればっかだな」

 だって、しょうがないじゃないか。今できることなんて何もないよ。

 山本さんの唇が「またね」と動く。

 どうしろっていうんだ。ぼくは普通の子供なのに! 

 兄の引き攣れた腕が脳裏によみがえった。降り注ぐ熱湯から僕を守った時の傷。今でも兄の体に残る火傷の痕を見るたびにぼくはいつか大切な人を守れる人間になりたいと人知れず思っていた。でもそうじゃなかった。「いつかきっと」という思いは永遠に叶うことはない。大事なのは今どうするかだ。みっともなく失敗するかもしれない。迷惑をかけてしまうかもしれない。だが、いま行動しなければぼくは行動することは永久にないだろう。

 ベッドから跳ね起きた。ジャンパーをつかむ。時刻は午後6時30分。ぼくは誰にも気づかれないように外に出た。



 ぼくは丘の上の塾校舎を目指して歩いていた。隣には山本さんがいる。すでに日は暮れて、街灯のぽつぽつとした灯り以外は闇に包まれている。あの後、山本さんを呼びだすのが一苦労だった。電話をかけたところまではよかったものの、山本さんは夜になって親がでかけないと外に出られないというし、ぼくも今さら出直すというわけにはいかない。それで、街中で時間を潰した後山本さんを迎えに行った。山本さんの家は高級住宅地の一角で、ベランダから這い出してきたのを受け止めた。家にはお手伝いさんが頑張っていてどこにも行くことができないのだと聞いた。山本さんはどこかはしゃいだような、浮ついたような様子で、どこに行くのか知りたがった。塾に行くとわかると、少しためらった後、いいと思うと言った。

 塾にはまだ電気がついていた。今は夏期講習の追い込みで夜遅くまで授業をやっているのだ。ぼくらは受付の横をすり抜けて、階段を上った。エレベーターは使わなかった。エレベーターのすぐ脇が講師控室なのだ。四階まで上がって、暗い踊り場で息をついた。ここまで上がって来る人はいないだろう。この先のドアを開けると屋上だ。ノブを回すと金属音を響かせてドアが開いた。鍵をかけられているかという心配は杞憂だった。

 屋上に出た。屋上の風は生ぬるく通り過ぎ、粘るような汗を冷やした。フェンスを乗り越えて、わずかに出っ張った足場に並んで腰掛ける。山本さんが紙パックのコーヒーを開けてちゅーちゅー吸った。遠くのバイパスを通る車の音が時折響くだけで、後は何の音もなかった。すべての音を闇が吸い取ってしまうようだった。

 山本さんに目を向けた。山本さんも僕を見た。しばらく言葉が出なかった。山本さんはどこか楽しむような表情を浮かべている。ぼくは意を決した。

「山本さん!」声が掠れていた。「今度、絵を見せてよ」

「私の絵?」

「うん。山本さんが描いた絵。山本さんが描いたものを見たい。山本さんの心の内から湧き上がってきたもの、心から描きたいと思ったもの、全部がみたい」

 そう言うと、山本さんは顔を赤くした。

「ちょっと、何言ってるの河野くん」

「ほんとなんだ。だから」

 ぼくは続けた。

「だから君には自分の人生を生きてほしい。障害があったら乗り越えて、壁にぶち当たったら懲りずにやり直して、どんなことがあってもめげずに前を向いて、自分の道を進んでほしい」

 山本さんは目をぱちくりしていた。

「勇気を出して、山本さん。君はもう行きたくもない塾に通ったりしなくていいんだ。君の人生を生きるのはお父さんじゃない。自分自身で選ばなくちゃいけないんだ」

 勢い込んでそういうと、山本さんはコックリ頷いた。

「河野くん、わたしね。河野くんと会えてよかった。絶対、私はもう大丈夫。ぜったい!」

 山本さんの眼には涙が光っていた。

 ふと、顔をあげた。そこにはどこまでも続くような青い空と、今にも落ちてきそうな重そうな入道雲が浮かんでいた。僕らは顔を見合わせた。風が通り抜けてゆく。山本さんがカバンからウォークマンを取り出した。二人でイヤホンを分けると、トランペットの軽やかな音色が流れ出た。いつかどこかで聴いたジャズのスタンダードナンバー。意外と渋い音楽を聴くんだな、と思った。




   ○


 あれから、ぼくが山本さんに会うことは二度となかった。元から通う学校が違ったし、塾を追い払われたぼくたちには会う機会もなかった。ぼくは結局サッカーもあきらめ、勉学も中途半端なままそこそこの高校を出て、そこそこの大学に入った。もう思い出すことも少なくなっていたが、こうしてベランダで風に吹かれているとどうしようもなく彼女の横顔が思い出された。風のうわさで、彼女は美大に進学したと聞いた。彼女の幸せを願ってやまない。


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― 新着の感想 ―
[一言] 山本さんの閉ざされた心が、主人公によって溶かされていくのがよく分かって、素敵な小説だと感じました。 青春だなぁーと思いましたね。 山本さんは、もっと自分の気持ちを親じゃなくて先生に相談すべ…
2015/02/17 15:49 退会済み
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