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写真を、撮っていた時期があった。
否、植木由人にとってはまだ写真を撮って生きていた時期が一番長い。
初めてカメラを持ったのが5歳で持たなくなったのは19歳になる年だった。
14年、いくつも賞を取り、いくつかは出版社が買い取り、仕事の依頼も何度か受けた。
父以上の写真家になることも夢だった少年時代。
自分の技術に自信もあった。
将来は海外での活動も考え、英語、スペイン語の勉強もした。
だが今はその夢は由人にない。
適わないものを、知ったから。
簡単に言えば挫折して、それでも迷って、捨てられなくて、がむしゃらになった時期を越え、結局は違う道を選んだ。
恋愛小説家。
本人を知る者には爆笑される職業だ。
著者近影では顔しか載らないから違和感がないかもしれないが、190センチ近い大男が20代OLに絶大な人気を誇る泣ける切ないラブロマンスなどと評される文章を書いているのだ。
しかもカメラを持っていた時代につけた筋肉は衰えを知らず、体格もいい。
撮影焼けがしみ込んだ肌は白くはならず、部屋に籠って本ばかり読む生活で勤め人にはありえない髭を蓄えることもできる。
むしろ近所のスーパーへ行くくらいなら髭も剃らない由人は特にのばしているわけでもないのに、床屋でその立派な髭を誉められるようないい年をした男だ。
同居人には熊熊と称され、大学の同窓会メンバーにもそれが伝染し熊とあだ名される。
だが来年始まる月曜日のドラマは実は由人の6冊目の小説に決まっているし、デビュー作と4冊目は映画化もされ今でも印税が入る程の人気っぷりだ。
出版社は外に出たくはないと言う由人の主張を今のところ聞き入れてくれているが、それもそろそろ限界に近い。
ドラマ化の話が決まったあたりから、少しずつ埋まっていくスケジュールはこの家のカレンダーには少ないが、担当をしている雪村の手帳は真っ黒のはずだ。
今回書く小説も、プロットを上げる前から直木賞狙いでいけなどと勝手なコンセプトをたてられている。
「で?先生は今日一日そのプロットすら立てず何をしていたのかしらー?」
自分よりも2つ年上、実は人を挟んだ古い知り合いで由人のデビュー作をその新人社員とは思えない押しの強さと度胸で無理矢理会議に通した上映画化まで持っていって以来ずっと付き合っている担当の雪村鈴枝を前にして、真っ白のコピー用紙を袋のままダイニングの低いテーブルに積んだ由人はその広い背中を丸めた。
その頭の上で35歳の働き盛りを迎えた女は自社の看板人気作家の一人を前に、美しい美脚を細身のスリットが入ったスカートで組み直す。
年齢以上に若く、年齢以上の貫禄を持た雪村は奇麗にまとめられた艶のある黒髪の下で由人にしか見えない鬼の形相を作り、まるで女優のように微笑む。
「な、に、を、していたのかしらー?」
「…………雪ね」
「雪村サン」
つい古い癖で雪村を姉さん扱いすることはこの家では固く禁じられ、由人はますますその背を縮める。
「ゆっ、雪村さん…だから…ドメスティックバイオレンスを受ける女が…えーと、それを知った元恋人がそれを助けてー、でも旦那がそれを殺して」
「…アンタ、いつからミステリー作家になったのよ。もっと美しく切なく殺しなさいよ!」
「んな無茶な!!」
さすがに由人も叫んで、夕方のリビングは収集がつかなくなる。
そんな光景をランドセルを背負ったままの喜一はドアの外から眺め頭を押さえた。
玄関から右に順番にダイニングリビングへのドア、その次がキッチンへのドア、左には和室の襖の次に階段、奥がトイレと風呂で、喜一が自分の部屋に入るにはこのダイニングでおこっている事態を見ないで過ぎることはできなかったのだ。
そんな喜一を馴染みの雪村は手を挙げて迎える。
「あらま。お帰り、喜一君」
「ただいま、雪村さん、パパ」
喜一の記憶ではまったく年をとらない雪村の顔に複雑な心境で挨拶を返して、月に数度みる父親の仕事現場に喜一は足を踏み入れた。
「えっと…お茶いる?」
いつからそのソファーで向かい合っているのかは知らないが、そう短い時間ではないだろうと白い紙しかないテーブルに目をとめ、喜一はローキャストで仕切られただけのリビングにある食卓椅子にランドセルを置いた。
そして冷蔵庫からウーロン茶の2リットルペットボトルを出す。
ポットは一年中キッチンの棚に置いてあるが、常時スイッチを入れるのはもう少し寒くなってからのことだ。
「なんだか…こうしてみると喜一君も大きくなったわね。来年中学校だっけ」
6年使い続けた凹んだランドセルが真新しかった時期とガラスのコップを取り出す喜一の背を見て、雪村は自分の足の上に肘をつき顔をのせた。
その前では同じように喜一を眺める由人が表情を緩めた。
「でも背は伸びないなぁ…まぁうちの家計では俺がイレギュラーにデカイらしいけど」
「そうね、小夜も小柄でちっちゃくて、もういつも周りに花でもとばしてそうな外見だったものねぇ」
「俺男だよ?パパもお父さんも低くないし!これから伸びるよ!」
それでもクラスでは前から何番を抜け出したことはない喜一は少しムキになって主張した。
言われるまでもなく由人は大男で、鳥も日曜参観日にあつまる父兄の中では低い位置にはいない。
どちらが父親なのか知らない喜一だが、誰もが小さかったと言う母に似ない限りは大丈夫だと淡い期待を捨てられないのだ。
「そうね、いつの間にかボクからオレになってるし」
「もうガキじゃないからオレなの!」
写真の母には絶対ない派手さを爪の先まで滲ませる雪村は、だが男家庭の中ではないその細い指でコップを運んできた喜一の髪を撫でた。
「ありがとう。」
「どういたしまして。まだ仕事するの?」
「まだ仕事の最初の文字にも達してないの」
ねえ?、と同意を求めたのは仕事相手の由人へで、その雪村の顔に表情とは違う恐ろしさを見て、由人も喜一も一歩下がる。
由人にいたっては、二人がけのソファーを数センチ動かした。
「えーと、オレ宿題してくる。」
「えっ、偉いなぁ喜一、解らないとこはパパに聞きにおいで?」
「あら、でも先生はお忙しいから私が代わりに教えるわ。ね?喜一君?」
「……お父さんに聞くよ」
どちらに同意しても角が立つ状況に喜一は逃げるようにランドセルを抱えた。
こんな時ばかりは早く帰ると言った鳥にすがるしかない。
キッチン側にドアから部屋を出ていった喜一を見送った大人二人は、また振り出しに戻ったと白い紙を挟んで向き合った。
「…で、本気でドメステックバイオレンスでいくの?なら資料集めて持ってきてあげるけど」
「直木賞ってこんなだっけ…」
「芥川はこの間のがノミネートされたでしょ?…まぁ落ちるだろうけど」
「そんな…あんなに悩んだのに…」
「だって、浅田先生の作品アンタも読んだでしょ?審査員の先生の超好みストライクじゃないの。」
担当は違うとはいえ、出版社は同じ作家なのでムキにはならず、しらっと雪村はその手を振って答えた。
「第一、アンタのあれ、主人公が甘ちゃん過ぎたわ。女もちょっとインパクト薄いし」
「…春香は雪村さんが正したんじゃないか…」
春香というのがそのインパクトの薄い女の名前で、その小言を雪村はハッと一笑する。
「ほっとくとアンタの書く女はみーんな同じ女になるんだから仕方ないでしょ?」
由人が生み出す人物をいつも最初に見る雪村にそう評価されるのはお馴染みで、それが誰なのかを悟っていてももう何年も改善できずにいる駄目作家は反論すらできなかった。
その由人を見て、雪村は禁煙で手持ち無沙汰の指を机にぶつける。
「そのまま出したらその内誰かが気付くわ。アンタが報われない片思いをしてるんだって。」
実はすでにインターネットなどでは、人気作家植木由人があの顔でそんな乙女チックな片思いをしているのではないかとほぼ断定されたチャットや評価はいくつもあるのだが、知らないならそれでもいい雪村はそれを告げない。
「まぁ?ドラマは上手く行きそうだけどね。あの朝ドラ出のヒロイン、最初はなんて情緒のかけらもない演技するんだろうって思ってたけど最近良いわよ。この間茶菓子持っていったらアンタの作品全部読んでファンになったって言ってたわ。新作はサイン入れて送ってやりなさいよ」
その新作がプロットすら白紙状態なのだが、気付きながらも由人は見えないフリをした。
わざわざその話を自分から進めるほどサドではない。
「最後は、死んでしまうんだけどね」
「仕方がないさ。オレにハッピーエンドは書けない。」
では何なのか、と言われると、由人が出した7冊の恋愛小説は最後がすべて複雑で、だが不幸ではない。
そこが社会進出を果たす女性に受けている。
ただ、重鎮の中にははっきりしないと言われたり、最近の若い人だね、と皮肉られたりもしていた。
だが、由人はそれに反論する気はない。
書けないのだ。
どんなものでもいいなら書くが、それは作家として出すにはあまりにも稚拙すぎて
そんな幸福な話を誰も信じないだろう。
「ほんとに、似合わないわね」
「もう慣れたよ」
似合わないと、午後のニュースで文化人に言われるほどには素直に受け入れる。
元々抵抗したことも由人はない。
他人事のように
それを垣間見る度に、雪村は昔なじみの男にやりたい言葉を音に出せず、もう見なれたこの部屋の壁を見た。
ダークブラウンの木目が床と同じ高さからある窓からの光と蛍光灯の明かりの境目で二色に別れている。
所々四角く日焼け跡が残っているのは元の持ち主がこのリビングに自分の写真を飾っていた所為だろう。
だが、今この家に飾られた写真は、壁側にある棚に入ったテレビの横で小さなフレームの中笑う小夜一枚。
それを撮ったのは由人だ。
写真を止める少し前、由人のために小夜はよく被写体になってやっていた。
もったいないと、誰もが彼が写真を続けることを望み、小夜もそれを望み、そのおかげで喜一は母親の顔を毎日見ることができるのだと、雪村は写真に写る、生きていれば同い年の女性に目を閉じた。
「小夜も笑ってるでしょうよ。なんて女々しいんだって」
「…小夜さんは…オレよりも鳥を見てるよ。こんな家に閉じ込められてかわいそうに、って」
その真意は誰も知らず、由人も雪村も、鳥も喜一も、もう死んでしまった小夜の言葉を悟ることしかできない。
13年前、誰が誰を、どれだけ愛していたのか、どんな思いを持っていたのか、一人が欠けただけの場所で、それは永遠に解らなくなってしまっていて
助けて、とどれだけ叫んでも抜け出せずに、誰もがそこで迷うように
それを続ける由人を女々しいと表現する雪村さえも、知らずとそこに嵌まっている。
「こんな家でも、鳥くんは離れることを迷ってる。」
空を、飛ぶものの名前の男がそれをすることを理不尽に正しくないように思い、雪村は一人で声に出した。
聞かせるものでないその声を聞いた由人は問い返さない。
ただ、自分ではないものを見る雪村の女の肩を見て、それを持たないから仕方がないのだともう何度も言い聞かせた終わりを、ふと見つけた。
逃げていくそれは一瞬で、由人はすぐに手を伸ばす。
「愛した人は恋人で、だけどその恋人は他の世界に行った方が幸せなんだ。でも彼女に俺が渡すものも幸せでしかないと俺は思っていて…でも幸せはそれだけじゃない。彼女の幸せが一つでないことが、俺には不安でたまらない。彼女は…彼女にも選べないはずだ。でも、彼女は選んでしまう。俺を。それは幸せで、でも不安で、たまらない。家族があっても、家があっても、彼女を待っていた他の道をただ、恐れることを忘れられない。だから、男は姿を消して、彼女の真意を探すんだ。」
白い紙に、由人が書きなぐっていく物語。
最初は主人公と書かれた人物はいつの間にか俺と書かれ、それは進むにつれ男に変わる。
どこかからが由人で、どこかからかが男で、それが由人のいつもの物語。
一人でペンを進め、ぶつぶつと声を出して確かめる由人の紙が途切れないように、慣れた雪村はコピー用紙を由人の手もとに足していく。
当たり前の愛情を、由人の文章が追うことで誰かが泣く小説が生まれる。
それは由人の才能なのかもしれない。だが、雪村はそれを言ってはやらなかった。
才能だと言うにはあまりにも脆い。
由人の中にある彼女を、雪村は知っている。
それを追いかけない由人のことも。
追いかけられないと、普通は思うことも。
でも、長く、雪村は由人ならそれを追うかもしれないと思っていた。
追うなら、それを止めるべきなのか、ただ見ていてやるべきなのかを悩んでいた。
だが、喜一のためにも、
この家で育っていく子供のために、
彼にはここに居てほしいと、雪村は空想の中でそれを追い続け、捕まえられずに終わっていくその話をずっと見ている。
そこで留まることが彼にとって幸せなのかはわからない。
それでも。
「まぁ…私が言える台詞じゃないわね。これ。」
「……そりゃ雪村さんのキャラじゃないけど…この女ならいけるだろ?」
ペンを持っていた手を止め、雪村の一人語を取り違えた由人が上を向く。
気付かないふりをして、雪村は由人が書きなぐった数枚の紙を手に取り、順を正して目で追う。
「そう、ねぇ……まぁ、最初のよりはマシかしらね。」
これぐらいで十分だとばかりに雪村が指先でプロットを弾く。
「最後はまたくっらいけど。」
「しょうがないだろ…あ、鳥だ」
長く住む家、玄関がカチャっと鳴った音だけでそれが鳥だと気付き、由人は仕事も終わりタイミングも良いと立ち上がって伸びをした。
「晩飯焼き肉なんだ。食べて行くだろ?」
「食べてって…もしかして、聞いてないの?」
いつもなら加工食材以外はほとんど入っていない冷蔵庫には由人が逃避行の順路にしているスーパーのおかげでいらない食材が山とあり、その中から痛みやすい食材をあげて焼き肉になった夕食に誘う由人に雪村は眉をよせる。
そこに玄関を開けた鳥がスーツ姿でネクタイを緩めながら姿を見せた。
「お帰り、鳥」
「ただいま。雪村さんも、仕事終わり?」
「鳥くん…」
朝よりは多少疲れた顔を見せるものの、まだ6時台の時間に帰った鳥はいつもより機嫌の良い声を出す。
それを見て由人も頷き、さっさと飯にしようとキッチンに向かった。
「ちょっと、もしかして由人にも話してないの?」
「ん?」
鳥の左腕を掴んで、だがその雪村の声に名前を呼ばれた由人は朝放り出したままのエプロンを手にとったばかりだった。
その目に雪村と鳥のツーショットが、違和感をもって映る。
由人にとって雪村は古い付き合いでもう10年以上担当をしてもらっている編集者だが、鳥と雪村はたまにこの家で顔をあわせるほどだ。
接点も由人の仕事が押した時に雪村がこの家に原稿を取りにくるほどで、こうした打ち合わせ程度では雪村の帰る時間に普段の鳥はいない。
今日は鳥から相談があるから早く帰ると言ってきたためこんな状況になっているのだと思い至り、由人は雪村を夕食に誘ったのは悪かったかと思い直し、だが声に出す前に問題は発生した。
「私たち、結婚するって…」
いつもは見せない控えめな声。
だが、その雪村の発言がどれほどの被害をもたらすものか、それを思い言えずにいた鳥と瞬時に察してしまった由人はただただその場でお互いを見つめるしかなかった。




