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翌朝、所用を済ませて邸に戻ると、伊三郎と佐保の息子がすっかり出立の準備をして待っていた。
「叔父上、どこに行っていたんですか? 朝起きたらいないから、どうしたのかと思いました」
「ああ、悪かったな。ちょいと済ませる用事があったんだ――坊主、朝飯はちゃんと食ったか?」
頭を撫でてやると、こくりと頷く。伊三郎が横から補足した。
「えらかったんですよ、かんたちゃんは。昨夜から泣かずにしっかりご飯も食べて」
「……何ちゃん、だって?」
「そういえば名前を聞いていなかったと思って、今朝聞いたんです。“かんた”というそうですよ。字はどう書くかわかりませんけど」
頷く子どもに、苦笑する。勝手に人の一字を取りやがったな。かんたはおそらく「勘太」だろう。勘太はすっかり伊三郎になついたようだった。
「“おかあ”は、“おとう”のところへ行ったの?」
「そうだよ。ゆうべ、勘太ちゃんが寝ている間にね」
「おとうは、帰ってくるかなあ」
「これから迎えに行くんだよ」
「でもね、おとうがね、怒ったの。それで、おとうのばかーって言ったら、おとうが帰って来なかったの」
「うん? それは、辰造さんがいなくなる前のことかなあ。どうして怒られたの? いたずらでもした?」
「ううん。妹がほしいって言ったの。そしたらおとうが、おかあにそんなこと言ったらだめだ!って怒ったの」
「ふうん」
勘太を送りに出かける支度をしながら、子どもたちの会話を聞くとはなしに聞いていた。辰造は、佐保と子をなすまいと考えているのかもしれない。きっと誠実な男に違いなかった。
「おう、勘太」
しゃがみこみ、目線を合わせてやる。
「これから“おとう”と“おかあ”のところへ行くぞ。ちょいと遠いが、歩けるか?」
「うん」
「途中で疲れたら、歩けなくなる前に言えよ? おぶってやるから」
「ううん、だいじょうぶ」
「つれねえなあ。いっぺんぐらいおぶらせろよ」
頬をちょん、とつついてやると、ごしごしと拭われる。まったく物怖じしない子どもだった。
伊三郎と手をつながせ、歩かせると、大したもので本当に最後まで歩き通したが、さすがに体力を使い果たしたらしい。辰造の顔を見ると途端に目をこすり、うとうととし始めた。
辰造の世話をしていた家の者が気をきかせて勘太を寝かせ、伊三郎には握り飯を出してくれる。ありがたく子どもたちを預け、勘右衛門は辰造の枕元に座った。傍らには佐保がついている。井原は家の者と話をしており、こちらの会話には加わっていなかった。
辰造は、勘右衛門の素性を佐保から聞いたようだ。頭を下げるためになんとか身体を起こそうとするが、それを止めると、あきらめて大人しくなり、顔だけをこちらに向けた。
「……いつかは、お返しせねばと思っておりました」
「……」
目の端で、佐保が眉根を寄せるのが見える。しかし勘右衛門は表情を変えなかった。こんなことでは、動揺などしない。いつの間に自分の胆はこうまで頑丈になっていたのだろうか。
「今朝は、」
頭の後ろに手をやりながら、世間話のついでのように、辰造へ語りかける。
「坊主を送り届けるのが遅くなってすまなかったな。ちょいと朝一番で片づけたい用事があったもんで」
何を言い出すのかと、辰造の目が戸惑っている。
「舅から頼まれていたものを届けに行ったんだが、ずいぶん時間がかかっちまった」
傍らの佐保が息を飲んだ。
「たった三行と少しを書くだけに、六年もかけてしまった」
辰造が、いけないとでも言うように首を横にふる。それを無視して、勘右衛門は佐保に向けて言った。
「待たせてすまなかった」
離縁を告げる書状は、三行半。佐保の目が赤くなりかけるのを見て、そちらからも目をそらせた。佐保の泣くのは見たくない。さて、どこに目をやればよいものやら。仕方がないので勘太が眠っているはずの隣の間を見やってみる。
「妹が欲しいらしいぞ」
「旦那様…」
辰造が何かを言いかけたそのとき、井原と家主がともに会話に加わってきた。
「こちらはケガがもう少しよくなるまでここにいて構わないとおっしゃっておいでだが、どうするかい? 家に帰るならば人手が必要だろう。お前さんを担いで運ぶことになるからな」
辰造と佐保が顔を見合わせ、うなずきあうと、辰造が答えた。大した会話も交わさずに意志が通じている様子を見せられ、どこが「形だけの夫婦」かと言ってやりたくなる。
「どちらにしてもお手を煩わせることになるのであれば、家に連れて帰っていただきとうございます。こちらにご厄介になっているうちは、女房が看病に通うために余計に他人様にご面倒をかけることになりますから」
「ならお前さんの仕事仲間の連中が今日様子を見に来ると言っていたから、運んでもらうといい」
井原が諸事をてきぱきと片づけ、家主を厚くねぎらってこの案件を終わらせようとするが、勘右衛門は気になって辰造に尋ねた。
「そのケガは、お前の仕事にどれほど支障を来す? 箸職人というのは手さえ動けばできるものなのか」
「座り仕事でございますから、まずは起き上がり、長時間座れるようになりませんと……一応、作りためていた箸があるにはありますので、それを売ってしばらくは、なんとか」
「買い手はもう、アテがあるんだろうか」
「知り合いの行商人に預けようかと…」
アゴをさすりながら、何気なく告げる。
「うちは人の出入りが激しくてな。つねに二十膳ばかり置いているんだが…そろそろ新調しようとしていたところだったんだ」
辰造が表情を変える。
「そんなことまで、いけません」
「なに、手配の手間が省けて助かるわ。他に引き取り手が決まっているというのであれば遠慮するつもりだが、誰もいないならうちに譲ってくれまいか」
寝たままなので頭を下げられないかわりに、辰造は手を合わせて拝むように何度も礼を言う。
「よせや、成仏したつもりはねえっての」
最後は軽口を叩いてみせ、大事にするよう言い置いて、この場を発つことにした。佐保が見送りに出るが、側に井原と伊三郎がいるため何も言うことができず、何か言いたげな顔を見せるのみだ。
「箸は、落ち着いた頃にでも取りに行かせる」
「本当に、何と申し上げたらよいか」
「いや、いい……達者で暮らせよ」
「……あなた様も。どうぞ、お達者で」
「……」
目と目を合わせられるのは、これが最後なのだろうか。いま目を離して背を向けてしまえば、もう二度と、この顔を見つめることは叶わないのだろうか。
しからば、と、井原と伊三郎が踵を返す足音が聞こえた。
「佐保」
彼らの耳に入らないと判断し、小さな声で呼ぶ。いつか言っていた。この声で呼ばれる自分の名が、いっとう好きだと。
「佐保」
どんな言葉をかければよいのかわからなかった。言うべきことはわかっていたが、それを言うことはできなかった。さらば、と、たった三文字なのに。言うことができないから、ただ名前を呼ぶしかなかった。
「佐保」
「旦那さま……」
とうとう佐保がこらえきれず、口元を押さえてしゃがみこんだ。困ったな、俺にはもうその肩を支えることはできないってのに。
そのとき、小さな声がした。
「おかあ…どうしたの?」
「なんでもないの、だいじょうぶよ」
目を覚ました勘太が佐保に寄り添い、母親は子どもをそっと抱きしめた。
「すまないな、おかあを泣かせちまった。お前がなぐさめてやってくれ」
言うと、子どもはこちらをじっと見上げてきた。
「小父さんは?」
「うん?」
「小父さんは、だれになぐさめてもらうの?」
「――」
おじさんは泣いたりなんかしないぞ。
と、言うこともできたのだが。小さな子どもに嘘をつくのも気が引けるしな。
「あれ、かんたちゃん起きたんだね。よかった、お別れをしていなかったから」
引き返してきた伊三郎の声がする。そうさ、おじさんにはこいつがいるから大丈夫さ。
くしゃりと頭をなでてやり、伊三郎に場を譲って歩き出す。追いつくのを待ち、並んで歩き出した井原が小声で聞いてきた。
「おかみさん、どうしたんです?」
「なに、安心して気がゆるんだんだろう」
「ああ、当面の食い扶持のことかな……旦那、粋なことしましたね」
先ほど箸を買い取ったことを指してそんなふうに言われ、ため息をつく。
「ふん、なにが粋なもんか。野暮の極みだわ」
「はっ?」
ぽかん、とする井原を置き、さっさと歩を進める。普通に歩けば「早歩き」だと言われる脚だ。後ろから伊三郎が小走りで追ってくるのが聞こえた。
「待ってくださいよーう」
「伊三、お前は次の探索から井原につけ。“あちら”に行く必要があるのであれば、それもだ」
「は、え…?」
「軌道に乗るまでに独り立ちできるよう、経験を積んでおけ」
「…はい!」
思わず立ち止まった伊三郎には構わずに、足を進める。ああ、いやだいやだ。箸ひとつでつながりを保とうなんざ、野暮にも程がある。そう思うとますます足は早まるばかりだ。
「叔父上ったら、歩くのが早いですぅ」
「伊三、あきらめな。旦那の足に着いて行くにゃあまだ修行が足りん」
追いつくのをあきらめた二人の声が、どんどん遠ざかっていった。
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こちらが粋だろうが野暮だろうが、そんなことには構わずに時間は過ぎていく。舞い込む仕事を片付けていくうちに、異世界をまたいでの人探しはいつしか黙認され、すっかりアテにされるようになっていた。
佐保を探す、という目的を失ってはどうなるかと思ったが、世間は勘右衛門に、感傷に浸るひまを与えるつもりはないらしい。神隠しに遭う人は思ったより多くいたし、異世界に逃げ込む罪人も、これまた考えていたより少なくなかった。
忙しいのは幸いだった。
が。
それでは佐保をすっかり忘れたかというとそうではなく――
――あなたはほんとうに仕事がお好きなのですねえ。
『ふん、単なる生活の糧さ』
眠りにつけば、必ず佐保は現れた。
――いつまで逃げた女房の夢を見ているんです?
『てやんでえ! お前が勝手に出てくるんじゃねえか。俺はもう金輪際、お前の夢は見ねえと言ったはずだ』
――ええ、おっしゃいましたとも。昨日も、おとついも
『くそっ……そうだ、俺はもう諦めたんだ』
―― ……
『お前を忘れることを、諦めた』
――ええ!?
『考えてもみろ、毎日毎日、何年も想い続けてきたものを昨日今日で忘れろったって、どだい無理な話だろう』
――まあ…
『けど勘違いするなよ? すがりつこうってわけじゃねえ。ただ…悪あがきはやめようと思ったのさ。お前が自然と消えていくのを待つよ』
――しょうのない人……あんまりのんびりしていると、あっという間におじいさんですよ
『なに、少なくとも向こう十年は引く手あまたさ』
――あきれた
『俺に新しい女房が来たら、お前はどう思う?』
――さあ……
『ちっとは妬けよ』
――佐保よりも佳いお方はたくさんいらっしゃいますから……けれど、引田勘右衛門の妻が務まる人はそう多くはないでしょうね
『ちぇ、言ってくれるじゃねえか。……なあ、佐保』
――はい
『俺はちゃんと、お前に伝えていたかな』
――何をです?
『お前に心底惚れてたってことをさ』
――そんなこと、言われなくてもちゃあんとわかっておりましたよ
『そうか、ならいいんだ――しばらくかかると思う。お前を忘れるまで』
――それも、ちゃんとわかっております
『なんでもお見通しってわけか。敵わねえな。なに、時間はかかるかもしれないが、じきに忘れて新しい女房をもらうさ。どうだ? やっぱり妬くだろ』
――……佐保は、
『うん?』
――あのままあなたのそばにいられたら、どんなにか幸せだったろうと思うことはありましたけれど。それでもあのときの選択を悔いてはおりません
『……仕方がねえな。そういう女に惚れちまった俺の負けだ』
――ふふ。そうですとも。だからお諦めなさいませ
「ハッ」
思わず吹き出し、目を覚ます。
「敵わねえ」
夢の中ですら、惚れ直させられる。だから思い出にすがりつくつもりはないってのに。ああ、けれど――
「もし一生忘れなかったら、そんときゃァもう一度口説きに行くから覚えとけ」
寝言のふりをしてつぶやけば、佐保のあきれた笑い声が聞こえた気がした。