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「幻聴にはすっかり慣れたつもりでいるが。俺はついに幻覚を見るようになったのか? これは、まこと佐保か」
「……まこと、佐保にございます」
19だったものが、25になっているはずだった。ふっくらとしていた頬はずいぶんと痩せたようだし、色のない質素な着物を着てもいるが、それがかえって美しさを立たせている。かわいらしく愛らしかった少女は、艶のある女になっていた。
「――佐保」
目の前にいるこれは現実か。膝を進め、確かめようと手を伸ばす。ずっと探し続け、焦がれ続け、夢に見続けてきたのだ。
しかし抱き寄せようとすると、佐保は避けるように手をつき、額を床につけた。
「申し訳ございませんでした」
行き場をなくした手を戻すことを忘れる。
「なに謝ってんだ、無事だったならそれでいいんだ。どうした、顔を見せてくれ」
「……」
応じようとしない佐保に、心を軽くするつもりでわざとこんなことを言ってみる。
「おかしいじゃねえか、謝ったりなんぞしたらまるで、お前が自分の意志で姿を消したみてえだ」
安心させようと笑顔を作ってみせるが、それでも佐保は頭を上げず、言葉を重ねた。
「……申し訳、ございません」
頑なに頭を下げ続けるその姿を見て、ふと思い出す。そういえば、今ここにいるのは辰造の女房のはずではなかったか。なぜ佐保は謝りなどする?
「なにが、」
声がかすれ、言い直す。
「なにがあった。説明しろ、佐保」
ようやく頭を上げた佐保は、胸を押さえ、二度三度深呼吸をした。それは言い淀んでのことではなく、ただ緊張しているだけで、佐保自身にも「話をせねば」という覚悟はあるようだった。震える手を、自らの手で握りこんでいる。強く握りすぎて白くなっているその指を、温めるのは以前なら自分の役目だったと、そんなことを考えながら、彼女が口を開くのを待つ。
「わたくしは、」
そこでまたひとつ大きく息を吸う。
「わたくしは、見知らぬ男に汚されました」
「な、」
明かしてしまい、肩の力がいくぶん抜けた佐保に対し、こちらは息が止まる。
「なんだと…?」
「旦那さまが長崎に出立されてすぐのことです。道中の無事を祈ろうと神社へ参り…近くの慣れた社へ行けばよかったのですが、海の神様が祀られていると聞いて、足を伸ばしてしまいました。おたつに供をしてもらって……覚えておいでですか? 実家の女中頭です」
もちろん、と頷く。二人がまだ兄妹のような間柄だった頃から面倒を見てくれていて、夫婦になったのを誰よりも喜んでくれた人でもあった。
「そのお社には長い石段がありました。おたつは膝を痛めておりましたので、下の茶店で待たせて、わたくしが一人で参殿へ詣ったのです。人のいない時間帯で、参殿の裏手は木が生い茂ってますます人目につかなくて。お詣りを終えたところで、そこへ引きずり込まれて」
淡々と話しているが、見ると、白い左手を爪が食い込むほど強く右手で握りこんでいる。思わず手を添えると、佐保がハッと息を飲み、深く息をついた。六年ぶりに触れた肌が、それまで忘れていた息継ぎを思い出させたようだった。
「そのあとのことは、覚えていないのです。わたくしは正気を失っていたそうで。母の看病だとか、それらしい理由をつけて実家に連れ戻されたとか――正気があれば、生き恥をさらしたりなどしませんでしたのに」
「馬鹿を言うな!」
大きな声で叱る。佐保に大声を挙げたのは、初めてだったかもしれない。
「……次にわたくしが意識を取り戻したのは、医師に子ができていると告げられたときでした」
「子が」
いま伊三郎が面倒を見ているはずの男児の存在を、そこで初めて思い出す。
「父は、そんな子なぞ流して、何もなかったことにして引田家へ戻れと申しましたが」
「そうだとも。帰って来たらよかったんだ」
「わたくしにはそのようなこと、できませんでした」
「どうして」
問うと、佐保はそれまで伏せていた目をこちらに合わせた。
「あなたのお子かもしれない子を死なせるなど、どうしてできましょう」
「……!」
触れていた手に、思わず力を込める。
「なら、腹の子と一緒に俺の隣に戻ってくればよかったんだ。お前には辛かったことだろうが、それは離縁の理由になんぞならない。俺がさせない」
すっと、佐保がその手を引いた。
「すべてを明かせば、あなたはきっと受け入れてくださるだろうと思った……だからこそ、できなかった」
「なぜ!」
「あなたのお子ではないかもしれない子をあなたに抱かせるなんて。わたくしが許せませんでした。まして引田家の跡取りにするなど」
「な……」
言葉を無くすが、その意志の強い目を見ると、ああそういえばこいつには頑固な一面もあったと、そんなことを思い出してしまう。
「それで、俺の前から姿を消したってのか…?」
「父には一人で産み育てると啖呵を切りました。それで、おたつの遠縁を頼ってこちらに」
「義父上は、お前の居所をご存じだったのか」
佐保はこくりとうなずく。
「子どもを産むつもりであれば一日も早く離縁をして、二度と姿を見せてはならないと。旦那様が、後添いを早くお迎えになれるように」
「後添い? お前は、それでよかったのか。俺の隣にいることを、引田家のために諦めたのか」
しかし佐保は、肯定とも否定ともつかない角度に首をかしげるのみだった。
「世間知らずのなにもできない身でしたから、子どもを産むのにもいろいろな人の世話を頼りました。そうして、すべての事情をわかったうえで、子どもの父親にならせてほしいと言ってくれた人があったのです」
「それが、辰造…?」
佐保は再びうなずくと、続けた。
「家を出てきたときは子どもを守ることしか頭になかったはずなのに、いざお腹が大きくなっていくと、怖くて仕方がなかった…生まれてくる子がもしも旦那様に似ていたら後悔するのではないかと怖かった。もしもあの見知らぬ男に似ていたら――顔など覚えてはおりませんけれど、そうしたら果たしてこの子を愛せるだろうかと怖かった。どちらの子どもであっても怖いと弱音を吐いた私に、なら自分が父親になろう、そうさせてくれと言われて…すがってしまった。弱かったんです、結局」
「しかし、」と言いかけて、口をつぐむ。それだけではないだろう。辰造自身が心を預けられると思えた存在だったからこそ、申し出を受けたはずだ――わざわざこちらから指摘はしないけれど。
「夫婦と言っても、形だけ……」
離縁をしていない佐保は、まだ自分の妻であった。それを言おうとしたのだと佐保は思ったらしい。辰造とは形ばかりの夫婦だと言った。
形だけの夫であるその男が。子どもの父親となったその男が、
「それが今、行方知れずだと……?」
佐保が眉を寄せる。心配そうに。
「もし、」
ぽつりとこぼすと、佐保がハッとした。顔を上げ、言うな、とその目が告げる。視線を交差させ―― 一瞬、時が止まった。
もし、もしも。
「叔父上、よろしいですか」
そのとき部屋の外から伊三郎の声がかかり、我に返った。
俺は今、何を言おうとしていた? もし、辰造が行方知れずのまま戻らなかったら、子どもと二人で戻って来いと? そんな約束をして、探索の手をゆるめないと言い切れるのか。「見つからなかった」ことにしてしまえる立場に、己がいるということをわかっているのか。
「叔父上…?」
「ああ、どうした?」
「井原さんが戻ってこられました」
「わかった。こっちに来るよう言ってくれ」
伊三郎が去る足音が聞こえ、佐保が廊下のほうを見やる。
「ひょっとして先ほどのお若い方は伊三郎様…?ご立派になられて…」
つぶやく佐保から距離を取り、役人と依頼人の位置に座り直す。そこへ井原が駆け込んで来た。
「辰造が見つかりました」
ハッと佐保が腰を浮かす。井原が佐保の存在に気づき、ちょうどよかったと説明を始めた。
「崖から足を滑らしてケガをしていました。頭も打ったようで、一時的に記憶が曖昧になっていたようです。それで連絡ができずにいたと」
「まあ…! それで主人は、」
「ええ、ふもとの家に拾われて、そこで介抱を受けていました。ケガがひどくてまだ起き上がれないんですが、職人仲間の源吉が顔を見せたらすっかり思い出して。女房と息子が心配しているのではないかと、自分の身よりも案じていますよ。おかみさん、今から一緒に来てくれますか」
「もちろんです。すぐに参ります。今息子を起こして参りますから」
立ち上がりかけた佐保を、井原が制した。
「いや、できれば子どもは留守番をさせたほうがいい。日が暮れる前に着きたいんです。それに…ちょいと子どもに見せるには衝撃の強い状態ですし」
佐保が眉をひそめる。
「そんなに、ひどいケガなのですか」
「いやまあ、今は意識もはっきりしているし、命がどうこうということはないんですがね。すり傷やら青あざやらがかなりあるもんで、子どもにはちょいと辛いかもしれません…旦那、どうです? 今夜ひと晩坊やをこちらに置いても構いませんか」
二人の会話中、無意識にずっと佐保を見ていた。喜んだり、案じたり、表情の忙しく変わるさまを。それはもう、勘右衛門のためのものではなかった。井原の言葉を受け、佐保がこちらを向く。子どもを預けることに、不安を抱いている目だった。取り上げられるとでも思っているのか。
「――明日の朝に送ってやろう。案ずるな」
「では参りましょう。急がないと、明るいうちに着けません」
井原に促され、佐保が立ち上がる。邸を出る前に子どもに声をかけていたようだが、夢見心地の子どもが理解していたかはわからない。
慌ただしく出かけていった二人を見送り、今のは夢だったかと、頬を叩いてみたりする。まだ、今起きたことを脳が咀嚼しきれていなかった。
「叔父上、坊やのところへ布団を運びましょうか」
伊三郎が問う。そういえば、子どもは座布団で寝ているはずだった。
「ああ…いや、坊主を寝間に運ぶほうが早い。お前の分も敷いて、今日は一緒に寝てやれ。目が覚めたときに、知らない大人がいるよりお前ぐらいのほうが怖くないだろう。俺は今日はこっちにいるから」
「では布団を敷いたら呼びますから、坊やを運んでもらえますか。私ではちょっと、怖くて」
伊三郎が寝間へ向かい、自分は子どもが寝ている客間へ行く。子どもは、敷き詰められた座布団の上で横向きに丸まって寝ていた。抱き上げようと、恐る恐る背中と膝裏に手を差し込む。ごろりと体がこちらを向いた。
「――うっ」
子どもから手を外し、咄嗟に口を押さえる。目元に熱がたまる。佐保の前では戸惑いばかりだったが、子どもの寝顔を見て一気に感情を揺さぶられた。泣くのをこらえるのなぞ、一体何年ぶりであろうか。
子どもの顔は、あまりにも自分によく似ていた。
==========
井原は佐保とともにひと晩辰造のもとに留めおいた。吉田、坂本は明日からの別の仕事に備え、自宅に帰らせている。その夜、引田の別宅には、数名の用人のほかは佐保の息子と伊三郎、そして勘右衛門の三人きりだった。
子ども二人はすでに寝入っている。先ほどから酒をあおっているが、一向に酔いが回らない。
……神尾の義父が佐保を隠していたのであれば、いくら探しても見つけられないはずだ。諦めろというのはすべてを知っていたからの言葉だったのだ。離縁しろと言ってきたのは、あれは身ごもったのがわかったときと、子が産まれ、辰造と一緒になろうとしたときだったということか。
ああ、そうか。
「俺は、離縁をしてやらねばならなかったのだな……」
つぶやき、腕で顔を覆う。
けれど今ならまだ、連れ帰ることができるんだ。お前と、息子を。俺にはまだその権利がある。
――けどあなた、それ夢の中だからおっしゃれるんでしょう?
佐保の問う声がする。
『ああそうさ。言えるもんか。辛い思いをしたお前がやっと手にした穏やかな暮らしを、どうして俺が壊せるってんだ』
――あなたは、その優しさで自分自身を傷つけるんだわ。
『仕方ねえじゃねえか。佐保がいちばん辛い思いをしていたときに、そばにいてやれた者といてやれなかった者との差だ』
これは俺に与えられた罰か。大勢を巻き込んで、人助けのふりをして。その実おのれの女を探すためだった。それも、神隠しなんぞではなく、逃げた女房をだ。この数年、どれだけの人間を振り回した? 私欲のために。
「バチが当たったか…」
「おじうえにバチなんて当たりません!」
伊三郎の声がし、意識が戻る。いつの間にかまどろんでいたようだ。目を開けると、二つ折りにした座布団を枕に横になっていた。夏とはいえ、このあたりの夜は涼しい。何もかけずに寝ていては冷えるはずだ。ぶるりと肩を震わせると、伊三郎が上掛けをかけてくれた。
「……俺は、何か寝言を言っていたかな」
「叔父上は、バチの当たるような悪いことをなさる方ではありません。もしバチなんて当たったら、わたしが閻魔様のところへ抗議しに行きます!」
薄暗いなかでも、真っ赤な顔で頬を膨らませているであろうことがわかる伊三郎の口ぶりであった。苦笑し、伊三郎の腕をぽん、と叩く。
「正義の代表みてえなお前がそう言うなら、閻魔様も許してくださるだろうな」
「そうですとも!」
自信たっぷりに言うと、伊三郎は冷たい手拭いをこちらの顔に乗せて寄越した。
「わっぷ…なんだよ」
「叔父上は熱がおありのようですから、冷やしてください」
「熱?」
言われてみれば、頭痛がするような気がする。しかし、冷やすのであれば額に乗せてくれればよいものを。なぜか目元を覆われている。それでもひやりと気持ちがよかったため、そのままにしておいた。
「本当はきちんとお布団で寝てほしいんですけど。私では叔父上の大きな体は運べません」
「ああ、あとでな」
ため息をついた伊三郎だが、その場を立ち去る様子はない。
「伊三、お前ももう寝ろ。俺は大丈夫だから」
「……叔父上、人間は泣くものですよ?」
「なんだってぇ?」
突然訳のわからぬことを言われ、起き上がろうとすると、手拭いごと押さえつけられた。
「叔父上は化け物ではないのですから、泣いてよいのです」
「……」
それは、いつか一人で膝を抱えていた小さな伊三郎に、自分が言った台詞だった。
「俺が、なんで泣くんだよ」
「うふふ、伊三郎には叔父上の胸が泣いているのがようっく見えますよ」
「なっ……」
絶句し、脱力する。敵わない、この子どもには。
今日何があったのかは知らないはずだ。佐保のことにも気づいていない。しかし、叔父に何かがあったことはわかったようだ。悟られるような俺が未熟なのか――いや、伊三の成長だと認めてやろう。こいつには他人の気持ちを読み取れる力がある。人相手のこの仕事においてはそれは大きな武器だ。
「……熱があるなら、仕方がないか」
「そうですとも。けど、あとでちゃんと布団に入ってくださいよ?」
続く小言にひらひらと手のひらで返事をすると、伊三郎は今度こそため息とともに寝間に戻っていった。
静まり返る部屋に、自分の息遣いだけが聞こえる。冷たく絞られた手拭いが時折熱くなった。けれどそれは熱のせいだ――けっして涙などではなく。