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結論を言うと、確かに“そこ”はあった。つまりここではない、どこか異世界。それがどこなのかは今はわからなくてよい。ただそこに世界があり、人がいたということが重要だった。
興奮を抑え、冷静な検討を試みる。ここではないどこかがある、ということはわかった。問題は、神隠しとの関連性だ。本当にこちらから人が迷いこんでいる可能性があるのかどうか、確かめねばなるまい。
自分の意思で行き来ができないことはもどかしかった。今は伊三郎に頼らねばそこに行くことができないが、しかし子どもに何度も送迎をさせるわけにはいかない。安全だって確証を得ていないのだ。自分と同じくらいの行動力があって、伊三郎と同じ力を持つ者がいればよいのだが。
――そうか。この力を持つ者が、伊三郎以外にもいないとは限らないではないか。
「よし」
まずはそこからだ。
そうしてしばらくの間探ってみると、そうと疑える話はひとつふたつではなく舞い込んできた。しかし内容が内容なだけに、互いに手の内を明かすには慎重にならざるを得ず。なかなか確信に近づけぬまま、やっと当事者の話を聞けたのはひと月ほど経った頃だった。
「何を聞きたいか知らねえが、あの奇妙な穴からはもう何十年も前に足を洗ったっきりだ」
こちらを警戒しながら、胡散臭げに話すその男は、自分よりも一回りほど年上に見えた。
「それは、行けなくなったということか? それとも行かないことにした?」
人の耳を気にしているのか、低く抑えた声で男が応える。
「後者だな。ガキの頃は秘密の遊び場が増えたってぇくらいの気持ちで、何も考えずに行ったり来たりしていたがね。あるとき気づいちまったのよ。俺ぁとんでもなく恐ろしいことをしてるんじゃないかってね。それからは一切、試してすらいねえ」
「そうか……それなら記憶の範囲で構わない。あんたが行っていた場所と、俺が行った場所が同じなのか確かめたい」
「さっきの話を聞く分にはほぼ同じだと思うが……悪いことは言わねえ。あんたも金輪際関わらないことだ」
「どうして」
「考えてもみろ。普通じゃねえんだ。行ったはいいが、帰って来れない可能性は常について回る」
「それは…否定できんな」
「それにな……類が呼ぶのかねえ。俺は自分から明かしたことはないのに、なぜだか同類と接する機会が少なくないんだよ」
あんたもその一人だ、と指を差され、苦笑を返す。
「そういう奴らの話を聞いてるとな、よくない輩に脅されたり利用されたりってぇのが珍しくねえんだ」
「なんだって?」
それは想像もしていなかったことだった。自然に眉根を寄せると、男がうなずきを返す。
「どっから聞き付けたのか、異界を開く力を悪用させろと……たとえば罪人を逃がす、とかね」
「そんなことが起きていたのか」
「いつだって悪知恵のほうが一歩早いもんだよ」
「今回、あんたのような人を探すのにずいぶん苦心したんだ。それらしい噂は聞くのに誰もそうとは認めない。つまりそれは…」
「用心してるのさ。自分の身は自分で守らなけりゃならねえ。お上に訴えたところで信じちゃくれんだろう?」
確かに…自分だって、この目で見ていなければにわかには信じられなかっただろう。そうして知らぬうちに新たな犯罪が生まれていたとは。
「そうなると、そういう輩を取り締まるには同じ力を持つ人材がこっちにも必要になるな」
……自分の発言に自分で驚いた。伊三郎や目の前の男のような、どことも知れない場所と行き来する“力”を持つ者を、奉行所で抱え持つ? まさか、そんな非現実的なことが。それは男にとってもまた予想外の発想だったようだ。
「そいつぁ…そうなりゃ同類たちも心強くはあるだろうが。絵空事だ」
「ああ……そうだな」
「まずはとにかく、その甥っ子とやらに今すぐやめさせることだ。面倒な奴らに目をつけられる前にな」
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男に言われた言葉と、先ほど脳裏を掠めた思いつきと。少し、頭を整理したかった。
眉根を寄せ、考え込みながら屋敷に戻ると、パタパタと駆け寄る足音が出迎えた。
「おじうえお帰りなさいませ!」
「なんだ、伊三。来てたのか。お前一人か?」
きちんと頭を下げてから、ぽすん、と抱き着いてくる、小さな体を抱き止める。あとから追い付いた引田家の用人・和平が事情を説明して聞かせた。
「小松様にお届けものにあがりました際に、伊三郎様にねだられまして。奥方様のお許しをいただいてお連れ申しました」
姉の嫁ぎ先である小松家には、季節の届け物などを折に触れてしている。顔なじみの和平を見つけた伊三郎が、叔父の家に行きたいとねだったのだというのだ。こいつがわがままを言うのは珍しい。腰をおろして目線を合わせてやり、ぽんぽんと頭をなでた。ふと、何かが引っかかる。
「――おじうえはちょいと仕事が残ってるんだ。あとで手習いでも見てやるから、しばらく一人で遊んでいてくれるか?」
はい、と素直にうなずいて部屋に戻っていく背中。わがままを言ってうちに来た割には、あっさりと聞き分けがよい。何かが、引っかかる。自身も部屋へ入り、着替えをしながら、和平にたずねた。
「伊三あいつ…線香臭かったな。寺参りでも行ったって?」
すると和平は眉をひそめ、声を落とした。
「小松の奥方様……お姉君は、近ごろ伊三郎様を祈祷にお連れだそうです。今日も、それで」
「祈祷だぁ?」
「はい。なんでも憑き物がついているとかなんとか…」
「……」
「ご自分がなぜ寺に連れて行かれているのか、わかってはいらっしゃらないようですが、なにかご不安は感じているようで」
孫ほどの年齢の伊三郎を、目に入れても痛くないほどかわいがっている和平が、じつに痛ましげな顔で告げる。20年ほど前には自分もこの男にずいぶん甘えたものだ。
「だから、うちに来たがったってのか」
「はい、おそらく」
珍しいわがままも、その割に自分にまとわりついてこないのも、それでうなずける。つまり、家にいたくなかっただけなのだ。母親が自分に向ける視線を感じ取っているのだろう。
「憑き物ってのは…」
「さ、それは聞き出せませんでしたが」
和平を下がらせ、書机に向かう。姉が憑き物などと言い出したのは、伊三郎の“神隠し”癖を指してのことに違いない。であれば解決策はわかっている。伊三郎に、二度と“あっち”へ行くな、その力を封印して今後一切他言するな、と言ってやればよいだけだ。しかし。
同時に、先ほどの男の言葉を思い出す。「面倒な奴らに目をつけられる前に、今すぐやめさせろ」。その通りだ。伊三郎にとって良いことは何一つない。自分のすべきことはわかりきっている。しかし――。
かすかにつながりかけた細い糸を、ここで断ち切る勇気がない。それは佐保につながる糸だ。せめて伊三郎以外に、あちらと行き来のできる者を味方につけてから――それまであいつを危険にさらすのか?
はぁーっ、と、息を吐き出し、手で顔を覆う。なんて奴だ、俺は…。
「おじうえー助けてください」
部屋の外から声がかかり、戸を開ける。
「どうした?――なんだその子どもは」
見ると、伊三郎が見知らぬ小さな子どもの手を引いて立っていた。やっと歩き始めたばかりかという、赤子と呼んでもいいような男児だ。
「迷子の子です。泣いていたので連れて帰ってきました」
「どこから?」
「“あっち”です。おじうえ、この子のおうちを探してあげてください」
「……」
とにかく部屋へ入らせ、戸を閉める。廊下に人の目の無いことを確認することを忘れない。――“あっち”から、連れて帰っただと?
「お前、またあっちへ行ってたのか」
「はい。みんな忙しそうで遊んでくれる人がいなかったので…」
「で、あっちでこの子が泣いていたと…なぜ、この子の家が“こっち”にあると思った? あっちにだって人は住んでるだろう」
そう。伊三郎が開いた異世界にも人が暮らしていた。身なりはまったく違っていたが、見た目は我々とそっくりだった。
「あっちの人たちとは、なんだか違うように見えたんです。それに」
とあっさり言って伊三郎は、子どもの着物の襟のあたりをめくって見せた。
「ここに迷子札が…」
そこには町名と、ちょっとした有名な菓子店の名前、それに「たろきち」と書いてあった。
「このお菓子屋さんの名前は見たことがあります。でも行き方がわからないので、おじうえ、連れて行ってくれませんか」
「そいつぁ構わねえが…もう一度聞く。お前はこの子を、本当にあっちで見つけたんだな?」
はい、とうなずく伊三郎から目を移し、迷子の子どもを見やる。泣きつかれたのだろう、大人しくはしているが、頬には涙の跡がこびりついていた。話を聞くのは無理そうだな。自分の名前さえ、言えるのかどうかあやしいもんだ。まさかこんな赤ん坊に毛が生えたようなのが、自ら穴を作ったとは思えないが…。
和平を呼び、伊三郎が「その辺で」迷子を見つけたから、と事情を説明する。
「これはこれは……すぐに使いをやりましょう」
「いや、両親はさぞ心配しておるだろう。このまま連れていくから、店の場所を案内してくれ。と、その前に…」
子どもを抱き上げ、目をのぞく。
「腹は減っておらんか? ん? それよりおしめか」
すると子どもは目をこすり、こてん、と胸に頭を預けてきた。和平がほほっと笑う。
「どうやらおねむのようですな」
「…まあ、泣かれるよりゃマシか」
伊三郎を家で待たせ、和平と二人で菓子屋に向かう。若いのにひとっ走り先に知らせに行かせていたので、店の前では若夫婦が待ち構えていた。母親のほうはもう涙を浮かべている。子どもを渡すと、是非にと請われ、客間に通された。
「まさかお侍様のお屋敷に迷いこんでいたとは」
とんだご厄介を、と平身低頭の父親を制し、事の顛末を聞くと、子どもが行方知れずになったのは昨日の昼のことだと言う。
「それじゃあ一昼夜迷子になってたってわけか。やっぱり何か食わせてやればよかったな」
「先ほどたっぷりと乳を飲んで眠りましたから…」
とんでもないことで、と手をふったあとで、それより、と父親が問う。
「お侍様のお屋敷は、八丁堀だとか」
「そうだが」
答えると、くるりと振り向いて
「川を越えてはいけないといつも言っているだろう」
その視線を追うと、子守りなのだろう幼い少女が小さくなって部屋の隅に座っていたが、主人からの叱責に声をあげた。
「川向こうには行っていません!」
「嘘をつけ。お前が連れていったのでなければ、太郎吉が一人であんなに長い距離を歩けるわけがないだろう」
「本当です、あたし…」
「もうよい。まったく神隠しなぞと適当なことを言ってごまかそうなんて、とんでもない子だ」
「……ちょいと待ってくれ」
主人の小言を遮り、悔しそうな顔でうつむく少女を見やる。神隠し、と言ったというのか。
「…この子を叱らないでやってくんな。うちのも相当なやんちゃでね、遠くまで遊びに行ってはいけないと言い聞かせているんだが、この辺りまで足を伸ばしたのかもしれん。坊やと遊んでいるうちに楽しくなって連れ帰ったのだとすれば、うちの子どもがかどわかしの下手人ってえことになる」
「下手人などと……」
「この通りだ。坊やの無事に免じて、許しちゃもらえまいか」
「な、何を…頭をお上げください!」
慌てる父親を言いくるめ、この件について少女の責任は不問とさせる。そうしてそれらしい理由をつけて、少女と二人きりで話を聞く場を得た。
「坊やがいなくなったときのことを聞かせてくれないか。なに、叱りゃあしねえよ」
「でも……」
主人に叱られたせいか、言い淀んでいる。腰をかがめて目線を合わせ、付け加えてやった。
「じつはな、神隠しのことを調べているんだ」
はっとして顔を上げた少女に、安心させるように笑いかけると、堰を切ったように話し出した。
――いわく。いつも散歩に行く、近所の神社の境内だった。歩けるようになったばかりの坊やがおんぶの背中から降りたがり、しゃがんでおぶい紐をほどいた。足元にきれいな石があって、ほんの少しそれに気をとられて。後ろで坊やがたどたどしく歩き回っている気配から、転んだような音がして。慌てて振り向いたら、坊やが消えていたという。
「すぐそこにいたような気配がしてたのに。それに、太郎吉坊っちゃんはまだそんなにたくさん歩けるわけでもないんです。それでも、もしかしたらと思ってそこいら中を探し回ったんですけど、いなくて。あたし怖くって」
少女の頭をなでてやる。
「それは……確かに神隠しとしか言いようがないな」
そして、坊やは“あっち”に迷いこみ、伊三郎が連れ帰った――つながった。あの世界と、神隠しが。
「しかし、神隠しなんぞと言ったところでなかなか信じちゃもらえないだろう。今回のことはうちの子どものせいってことにして、忘れっちまいな」
ありがとうございます、と、頭を下げて帰っていく少女の背中に、こちらこそありがとう、と胸のうちでつぶやく。やはり、あちらに迷いこむ人は存在した。となれば、妻もそこにいるかもしれない。
屋敷に戻ると、伊三郎がちょうど迎えの者と家へ帰るところだった。
「おじうえ、坊やはどうなりましたか?」
「無事に両親の元に戻ったよ。お手柄だったな」
頭をなでてやると、人助けをしたことに嬉しそうにはにかむ。その顔に、二度とあちらへは行くなとは言えなかった。自分が興奮していたこともまた、原因だったかもしれない。次の機会へ先送りをしてしまった。せめて、自分がいるときだけにするよう言い聞かせてやればよかったのだ。
ともかくその日は、つながった糸に気持ちが昂っていた。あちらに迷子の者がいる。逃げ込んだ罪人もいる。ならば、あちらに行く力を持つ者を集め、正式に奉行所で抱えるべきだ。迷子も罪人も、見過ごすことはできない。そのなかには佐保もいるかもしれないのだ。やるべきことは決まった。時間はかかるだろうが、手探りで闇雲に進んできたこれまでと比べれば、大きな前進だ。あとは進めばよいだけだ。
もう少しだ。待っていてくれ、佐保。
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――長崎、ですか?
『ああ、見聞を広めてこいと…何も妻をめとったばかりの人間に行かせることもなかろうに』
――どれくらいいらっしゃるんですか?
『三月だ』
――みつき……
『三月も俺に会わずにいて耐えられるか?』
――私はあなたの道中のほうが心配だわ。お船で行かれるんでしょう?
『まあ、そうなるな』
――ご無事で行ってらしてくださいませね
『心配すんな。飛んで帰ってくるさ』
――あちらで他のおなごと……浮気などなさってはだめですよ?
『へえ?』
――ご、ご商売のおなごでもいけません
『佐保がそんなに焼きもちやきだったとはねえ』
――おモテになる旦那様を持つと、気苦労が絶えませんの
『そいつぁ苦労をかけるな。……どれ、お前の肌を忘れないように、出立の日まで毎日こうしてるとするか』
――まあ、たった三月で忘れるような、薄情な方だったとは知りませんでしたわ!
『馬鹿……おい、こっち向けよ…』
――忘れておしまいになる?
『まさか。忘れやしないよ 』
――もう、お忘れですか?
『忘れるものか、たった三月で』
――私を、忘れておしまいになった?
『どうして忘れるなぞできる? 一年経った今でさえ、ほらここに』
手が空をつかみ、目が覚めた。
深く、息をつく。
もう少しだ。佐保。もう少し。