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「神隠し?」
向かいに座る人から発せられた言葉に、手に取った湯飲み茶碗から目を上げると、細い眉を寄せたその表情は、冗談や戯れで言っているわけではないことを告げていた。
「あのチビが、ですか」
その日、引田勘右衛門は姉の嫁ぎ先である小松家の屋敷を訪れていた。姉弟の気安さで、いつものように客間ではなく居間に通される。庭に面した障子戸を開け放つと気持ちのよい風が通る、春というより初夏に近い気候だった。
その庭に目をやり、じゃれあいながら遊んでいる子ども二人を視線で示す。大きい方は、たしか今年で八つになるはずだ。弟はその二つ下。どちらもかわいい甥っ子――いま向かいでため息をついている姉の、三男と四男である。
近ごろよく神隠しに遭うのだ、と愁い顔で姉が告げたのは、三男の伊三郎だ。
「しかし――神隠しってのは消えていなくなるから神隠しなんであって、“しょっちゅう”遭うもんではないでしょう」
「そんなことはわかっています!」
ひざで寝息を立てている五男――これはまだ二歳にもならなかったか――を気遣い、控えめな声で姉が抗議を寄越す。
「けれどそうとしか言い様がないのです。ふっと姿を消して、どこを探しても見つからない。かどわかしか神隠しかと騒ぐころに、けろりとして元の場所にいるのですから」
「それは、よっぽどの隠れん坊の達人か……」
「そんなことならわざわざあなたに言いますか!」
茶化したわけではなかったが、気の強い姉には逆らわないことだ。首をすくめておく。
「突然いなくなって……胸の潰れるような思いをさせられて。それが何度となく続くのですから、もう気がどうにかなりそうです」
「そんなに頻繁に? 義兄上は、なんとおっしゃっているんです?」
「幸い旦那様にはまだ気づかれていません。あの人が知ったら“寺にでも放り込め”と言われるに決まっています」
「でしょうな」
姉の夫は体面・外聞といったものに敏感な人だ。家名を守らねばならないにしても、家族よりもそれを重んじる姿勢には常より共感できないと思っていた。とはいえ。
「…それで、なぜ私に相談を?」
弟だからといって、ふつうは嫁ぎ先の家の問題をあまり実家にもらすものではない。まあこの姉は昔から何かと自分を頼ってきてはいたが。
「あなたはほら、いろいろ調べていたでしょう? 神隠しのことを」
……こんなとき、自分はまだまだ未熟だな、と思う。不意をつかれて一瞬返答が遅れてしまった。かろうじて表情は変えずに保つことができたものの。周囲の誰もが腫れ物に触るかのように避けてきたそのことを、さらりと口にしてしまうほどに、姉も追い詰められているのだろう。こちらの微かな動揺にも気づかずに、さらに続ける。
「ですからあなたなら何か手がかりをつかめるのではないかと」
「しかし私の場合は、結局見つけられていないのですから」
遮られてさすがに気まずくなったのか、それ以上の問いかけはしてこない。発言が進行形であることに気づいたろうか。“見つからなかった”ではない。まだ、見つけられていないだけなのだ。突然いなくなったあの人に、胸の潰れるような思いを今もさせられている。
失礼いたします、と、沈黙を救うように廊下から声がかかった。
「旦那様がお戻りでございます」
姉の夫――義兄の帰りを報せるものだった。
「噂をすれば、ですな」
これ、とたしなめられながら立ち上がる。今日は元々、義兄に呼び出されてこの屋敷に来たのだった。
「伊三郎、賢四郎、お父様がお戻りですよ」
母に言われ、出迎えに走る子どもたちのあとについて玄関へと向かうと、義兄はちょうど草履を脱ぎ、刀を外したところだった。
「勘右衛門、もう来ておったのか」
いつものように面白くもない顔つきで声をかけてくる義兄に対し、こちらもまたいつものように混ぜっ返した物言いで応える。
「たまには姉上の茶飲み話につきあおうと思いましてね。少し早めに参ったのですよ」
義兄の自室に通され、女中が下がったところで唐突に核心をつかれた。
「神尾様がいらした」
神尾は妻の実家の名だ。義兄が敬意を払って呼んでいることから、それは神尾家の当主である舅のことを指しているとわかった。
「義父上が…? なぜ、義兄上のところに」
フン、と鼻を鳴らされる。用件などわかっているだろうに、とでも言うように。
「娘を離縁するようにお前を説得してくれ、と」
「……」
「あれが行方知れずになってからもう一年だ。もうよいから諦めてくれ、とな」
「まだ! ……たったの一年です」
声が大きくなりかけたのを、ひとつ息を吸って抑える。目の前の義兄は表情を変えずに続けた。
「手をこまねいての一年ではあるまい。お前ほどの腕利きが八方手を尽くしての一年じゃ。それで見つからないのであれば、諦めてもよかろう」
「しかし…!」
「引田の義父上ではなく儂のところへいらしたのは、神尾様の気遣いだ。お前も父親から命じられては逆らえまいから、そうではなく己の意思で離縁を決断してほしいと、な」
「神尾の義父上はなぜそんな、たった一年で諦めようなどとなさるのか」
「それこそ気遣いだろう。お前も早く後添いをもらって引田家の跡取りをもうけねば」
「家のために妻を見捨てろと? 今もどこかで助けを待っているのですよ」
「……」
「離縁なぞしたら戻る場所がなくなるではないですか」
「……まだ早いと言うのであれば、いつならばよい」
「は、」
「何年探して見つからなんだら諦める、と決めておけ。さもなくば、いつか手の引き時を見失うぞ」
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妻は、五つ下の幼なじみだった。父親同士が奉行所の同僚であることから、家族の行き来も多く、幼いころは大切な妹だと思っていたし、こちらもまた兄と慕われていたが、幼なじみとして16年を過ごすうちに、いつしか互いが初恋となった。許婚としてさらに3年を過ごしたが、念願の夫婦となってから過ごした時間は、半年にも満たなかった。
妻が突然姿を消してから一年。義兄の言うとおり、八方手を尽くして探してきた。もっとも、身元不明の遺体などには目もくれていないので、その探索に偏りがあることは自覚しているが。それでも、奉行所に勤めてから数年、同僚たちをはるかに凌ぐ実績を挙げてきた自分だ。ある程度、他人よりも鼻が利くという自負はある。その自分がこれだけ探しても見つからないのだ。ひょっとしたら人智の及ばない力が作用したのでは、と、今まで信じてなぞいなかった「神隠し」というものを調べ始めたのも、自然なことだった。
義兄の前を辞して居間に戻ると、家中がにわかに騒がしい。青い顔の姉に何があったかと問うと、
「また伊三郎がいなくなりました」
「なんですって?」
バタバタと走り回る用人たちに混じって、自分も縁の下あたりをのぞいてみる。このときはまだ、高度な隠れん坊と思っていたのだ。ふと、先ほど自分がいた居間を見ると、伊三郎にくっついていたはずの賢四郎が、大人しく一人遊びをしていた。兄がいなくなったというのに、騒ぎもしていない。ピン、と来た。
「おう、賢四郎」
「おじうえ」
いつもなら駆け寄って抱きついてくるはずの子どもが、目をあわさずに折り紙なぞをいじっている。部屋に入り、後ろ手に障子を閉めた。
「伊三の兄上はどうした?」
「……」
言うか言うまいか迷うように、目をキョロキョロと泳がせている。もうひと押しか。
「母上には黙っておいてやるぞ?」
すると、子どもはぷうっと頬をふくらませた。
「あにうえは、またわたしを連れて行ってくれませんでした。こんどはわたしも行きたいと言ったのに」
「連れて行くって、どこにだよ」
「どこなのかは教えてくれません。だれにもないしょだぞ、と言って、いつもわたしを置いて遊びに行ってしまうんです」
舌ったらずなしゃべり口で懸命に訴えるその声を聞き、ふむ、とあごをさする。
「つまり兄上は、隠れん坊をしているわけではなく、どこかに遊びに出かけて行ったってことか」
うなずく子どもを見ながら、しかし、と首をひねる。玄関先では用人が義兄の履いてきた草履などを片付けており、伊三郎が外へ出ていった様子はなかったと言っているし、勝手口も無人ではなかった。
「賢、兄上はどこから出ていったんだ?」
「そこです」
賢四郎の指差す先には、部屋の壁。
「…どこだって?」
部屋の外、庭のことを指しているつもりだろうか。さらに問い質そうとしたとき、
「おじうえー!」
ぽすん、と腰のあたりにやわらかいものがしがみついてきた。
「伊三……」
背後に人の気配はまったくしなかった。子どもに振り向き、そして自分の後方を確かめる。そこにあるのは床の間だ。子どもが隠れるような場所はない。当然、外への出入口も。
「お前、今どこから出てきた?」
「あっちに行ってきました」
「あっちって、どっちだよ」
子どもは少し考えてから
「あっちは、あっちです」
答えにならない答えを返す。すると、
「ははうえー、あにうえが帰ってきましたー!」
賢四郎が障子戸を開け、廊下をパタパタと走っていく。賢四郎に先ほど聞いたことを、再度伊三郎に確認してみた。
「お前はどこかに隠れていたわけではないんだな?」
「はい! 探検をしてきました」
どこを、と聞きかけて、ふと頭をよぎった想像を慌てて打ち消す。それは都合のよすぎる妄想だった。
「どちらにしても、母上や皆を心配させたのには違いない。母上にきちんと謝りなさい」
「はい…」と、しゅんとなる子どもの頭をぽんぽんとなでてやる。
「そのかわり、今夜はおじうえの家に泊めてやる」
「よいのですか!」
伊三郎にパァっと笑顔が広がった。一瞬よぎった、あり得ない、都合のよすぎる妄想を打ち消すために、この子どもに少し話を聞いてみたいと考えたのだ。伊三郎の名を呼ぶ姉の声が近づいてくる。少し早口で耳打ちをしてやった。
「賢四郎の前でそのように喜んではならんぞ」
伊三郎はきょとんとする。
「なぜですか?」
「あいつ絶対ついて来たがるからな。そのくせ夜中に母上を恋しがって泣くんだから敵わん……いいか、おじうえが上手く言ってやるから、伊三はしかめっ面をしているんだぞ」
演技や嘘など縁の無い子どもが、真面目な顔でうなずく。そのとき、姉が息を切らせて部屋へ入ってきた。
「伊三郎! お前はまたどこへ行っていたのです」
目配せをしてやると、伊三郎は素直に手をついた。
「母上、申し訳ありませんでした」
「まったくお前と来たら…」
肩で大きく息をつく姉に、さりげなく声をかける。
「今日は私が連れて帰りましょう。母上に心配をかけたことを、こってりしぼってやりますよ」
賢四郎がギョッとした顔で、気の毒そうに兄を見る。当の伊三郎は、懸命に「しかめっ面」を作ってみせていた。
「少し、話も聞いてみます。よろしいですか? 姉上」
「……そうですね。それがよいかもしれません。頼みましたよ」
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神隠しについて調べてみると、確かにそうした事象はままあることのようだった。しかしそれらはいずれも、行方知れずのまま戻らぬ人を指していた。
――もし、ここではないどこか異世界があるのだとして。
そこに迷いこんでしまった人を「神隠し」と呼ぶのだとして。
伊三郎の言う“あっち”がその場所であり、そこへ自由に行き来しているのだとしたら。
今度こそ妻を迎えに行ってやれるかもしれない。
あり得ない。あり得ない想像だとはわかっている。しかしひょっとしたら。もしかして。今日の義兄の話に意地になっているのは認める。そのせいで少し判断力が鈍っていることも。けれど少しでも可能性があるのならば確かめたかった。
自分の前から消えていなくなって一年――あれから毎夜、彼女の夢を見る。
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――わたくしは本日よりあなた様を「旦那様」とお呼びします。
『なんだよ、そう改まられちゃあ却って照れるだろうが』
――だって、改まらないときっかけがつかめないんですもの。
『まあ確かに、いつまでも“兄様”呼ばわりでは敵わんからな。晴れて夫婦になれたことだし、そんなら俺は今日から女房殿とでもお呼びしようかね』
――あら、あなたは私を名前で呼んでくださいな。
『代わり映えしねえじゃねえか』
――よいのです。私はあなたの声で呼ばれる自分の名が、いっとう好きなのですから。
『…そうか』
――名を呼んでくださりませ。
『ああ』
――私の名を、呼んでくださりませ。
『うん』
――名を、
「さほ」
暗い天井が目に入る。自分の寝言で目が覚めるなんざ……それも、女房の名を呼ぶ声で、とは。隣の子どもの寝息を確認し、ホッとする。どうやら気づかれていないようだ。手で顔を覆い、もう一度その名をつぶやいてみる。
「佐保……」
隣から小さないびきが聞こえて、口を開けて眠る伊三郎に目をやる。
「……佐保、お前はどう思う…?」
まだ小さすぎるこの子どもに、背負わせてよいものだろうか。自分のこの、行き場のない熱を。
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伊三郎の話は要領を得なかったが、少なくとも“どこか”へ行って帰って来ていることは確かなようだった。
「それがどこなのかは、わからないんだな?」
「まだ探検の途中です」
探検、ねえ…つぶやいて、ふと思いつく。
「伊三、俺もそこへ行ってみたいんだがな。連れて行ってもらうわけにはいかないか?」
「おじうえを、一緒にですか?」
きょとん、としたあとで、唇に指をあてて考え込んでいる。
「秘密の場所だから、無理ってか」
「そうではなくて……おじうえなら構わないのですけど、ただ」
「ただ?」
「誰かと一緒にくぐるというのは、してみたことがないので。できるのかなあ…」
「くぐるってなあ、なんだ?」
すると子どもは手ぶりを交えて説明をし始めた。つまり、くるくると腕を回すと“そこ”への入り口が開き、それをくぐると“あっち”に行けるのだという――こちらへ帰るときも同様にするのだとか。
こりゃあ、ますますあやかしの世界だな。さて信ずるかどうか……ともかくこの目で確かめねば、信じることも諦めることもできまい。
「それは、お前がこうと思ったときにできるものなのか? それとも偶然に?」
意思で扱えるものならば見せてみろ、と言うつもりだったのだが。伊三郎はおもむろに立ち上がり、壁に向かって手をくるくると回し始めた。何をしている、と問おうとして。その手元の異変に気づく。
壁が、ぐにゃりと歪んでみえた。それが少しずつ広がって――子どもが一人通れるくらいの大きさになった。
「おじうえは体が大きいから、通るのはむずかしいかも……」
言葉を失う自分に、的外れな心配を向けてくる。つまり、それが、
「それが、“あっち”への入り口だと……?」
「はい。おじうえ、ほんとうに行ってみますか?」
ごくりと唾を飲み込む。妄想を現実にしてしまったら、もう後戻りはできないような気もする。しかし、なにか突破口が開けるかもしれない。
「ああ、行こう。行ってやろうじゃねえか」
そうして小さな手を握り、少し身をかがめて、その歪んだ輪をくぐってやったのだった。