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それは死とは違うなにか

 灰の空を猫背に背負い、白い結晶を肩に乗せ、彼は雪深い田舎道を歩いていた。

 ちらちらと舞い落ちるそれは輝きがない。そして、それは彼の落ち窪んだ顔も同様だった。

 ただ、その歩を進める足の動きだけは妙に軽やかで、相貌と見比べると不気味である。今まさに死に行く人が「早く暖かい家に帰ろう」と急いているようだ。

 彼は別段死に場所に思いを馳せているわけではない。彼は「早く暖かい家に帰ろう」のごとく「自然」を求めて歩いているのだ。それはすなわち、全ての人工の目につかない場所、ということだ。

 ここで彼の生い立ちを振り返ってみることにしよう。

 彼は二〇〇四年に岡山で生まれた四十二歳である。至って普通の家庭に生まれた彼は幼い頃から機械いじりが好きだった。

 最初は創作キットなどでラジオや簡単な基盤を作成していたが、高校生で自分のパソコンを買い与えられると、ネットワーク上で様々な便利なアプリケーションソフトを開発・発表し、大学生になってからは自作のパソコンを組み立てるに至る。その後、世界的に有名なネットワーク管理会社に入社し、あるセキュリティシステムを開発した。

 そのセキュリティシステムはGPSを応用した〈Global Authentication Support System〉、すなわちGASSだった。

 GASSはその名が示す通り、全地球上の認証システムを支援するために作られた。

 理由としてはテロ行為の防止、犯人の早期発見とGPSの上位進化としての意義を孕んでいる。

 アメリカや欧州諸国などの先進国家は実用と同時に導入し、テロ行為自体は以前より減少し、GASSを用いた犯罪捜査も功を成し、諸犯罪の早期検挙にも一役買ったという。

 犯罪を防ぐ画期的なシステムを開発した彼は一気に会社のシステム統括部門代表に出世し、地位も格段に上がった。

 それと同時に会社が雇った護衛や他の企業との談合も増え、次第に彼は心が収縮していくような、そんな感覚に苛まれるようになっていった。

 家族にも会えず、結婚もしていない彼はある日近くにいた護衛に訊ねた。「君は私のことをどう思っている」少し面食らったその護衛は言った。「護るべき人です」とだけ。彼は「そうか」と言ってそれ以上訊ねるのをやめた。

 彼はその後も部下や上司や友人に同じような質問をぶつけたが、答えは決まって「私の上司です」だとか「有能な社員だ」とか「あのシステムを開発した偉人」といったものばかりだった。

 そうか。と彼は気づいてしまった。

 彼らにとって私はもう、私ではないのだな。と。自分で開発したシステムなどは当然論外だ。

 それに気づいてしまうと、彼は突然独りになってしまったかのような錯覚を受けた。怖くなって、会社に何も言わず身分を証明するものを何も持たず、個人経営のタクシーを乗り継ぎながら逃げた。

 そして、この山深く雪深いハイテクというものがない田舎へと辿り着いたのだ。

 腕の時計を見ると、時間はまだ四時だが辺りはもう真っ暗だ。どこか泊まる場所を探さなければならないが、こんな田舎にホテルなどない。あったとしても彼は使わないだろう。

 途方に暮れながらとぼとぼと雪を踏みしめていると、不意にどこかからか細い声が聞こえてきた。

 あまりにか細いので一瞬幽霊かなんかかとびくつきながら辺りを見渡すが、よく見ると向こうの一軒家の前に小さな人が立っている。老婆だった。

「おめえこんたよおおそぐさなあにしてらっだあ?」

「あの、すみませんが何をおっしゃっているのか……」

 初めて聞いた東北の訛りに戸惑う。すると家の中から男の人の声が聞こえた。

「こんな夜遅くに何をしているのですか?」

 はっとして顔を上げた。無精髭を携えていた。

「あ、あの、もし良ければ今晩泊めていただいてもよろしいでしょうか。家がなくて」

「家がない」という言葉に若干眉をひそめた男だが、「まあいいだろう。泊まってけ」

「ありがとうございます」

 彼は小さく安堵した。

 靴を脱ぎ、居間に上がってコートを脱ぐと、先に座った男が彼に訊ねた。

「お前さん、どこの人だ? そのコート、有名ブランドの仕立てだろう。そのスーツも」

 突然問いかけられ、「う」と言葉に詰まる。やはりきたか。

 コートとスーツを丁寧に畳むと、正座をして男に向き直った。

「実は私は全地球認識支援システム、つまりGASSを作った者なのですが……どうかここにいることは内密にお願いします!」

 土下座して懇願した。

 ぽかんとしているのは男である。

 小さな老婆はお茶をせっせと淹れていた。

「なんだ、その……ガス? ってのは」

「え?」

 ばっと顔を上げた。「もしかして知らないんですか?」

「知らねえも何も……。ウチはテレビも新聞もラジカセもねえしなあ。外のことはわかんねえよ」

 彼の視界がちょっとだけ開けた。

「でも、お前さんがどっかの企業の重役だってのはわかる。身なりもそうだけど、やっぱりここに来る奴はそういう奴が多いんだな」

「え、『そういう奴』っていうのは」

「世間のしがらみが嫌になった奴ってことだよ。あるいは人間関係に悩んでる奴とかな。この村は基本そういった奴ばっかいる。だから俺とこの婆さんも血は繋がってない。十年くらい前に俺が拾われたんだ」

「んだんだ。はい、どーぞ」

 目の前に美味しそうなお茶が湯気を立てている。美味しそうなお茶だな、と彼は思った。

「じゃあ私もここに暮らしてもいいんですか?」

「まあ……そういうことになるな。ただ、暮らすために色々手伝ってもらうこともある。いいか?」

「は、はいっ! 喜んで!」

「ふふ、まだえうるしぇぐなるじゃあ」

「え?」

「また家がうるさくなるなあ」

「ああ、なるほど」

 ただ、泊めてくれるにしてもひとつ気がかりなことがあった。

「あの、私をどういうふうにお考えですか」

「あ、なんだいきなり。んなこと言う前に、まず名乗れ」

「あ、そうですね。私は……と申します」

「ふーん。じゃ、それでいいじゃねえか」

「え、それはどういうこと」

「だから。お前は……だってことだ。ここじゃお前がお前だってこと以外の肩書きに意味はねえよ」

「……」

 彼は熱いお茶を一口飲んだ。市販されてる安価なものに違いないのに、今まで飲んだお茶の中で一番美味しいと感じる、いいお茶だった。

 心が一気に膨張した。




 終

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