Kill oneself in despair and desire
私はこの世界のあらゆるものに別れを告げなくてはならない。あらゆるもの、それが自分自身であろうと、だ。
私は釈迦の思想にいたく感銘を受けた信心深い者だが、最近、とある人物に会った。それはこの場、つまりはインターネットという仮想空間で言葉を用いて教えを説く者だった(幸いにも、その人物は釈迦の信奉者ではなかった)。私は運良くその人物とコンタクトを取ることに成功し、その人物から話を伺うことができた。
その人物の考えは素晴らしいものだった。実際、私も感銘を受けるような言葉もたくさんあった。しかし、同時に私は言い知れぬ奇妙な嫌悪感に苛まれた。その人物と別れてから、私はその奇妙な嫌悪感について考えてみた。
そしてたどり着いた答えとしては、「この奇妙な嫌悪感は、あの人物がインターネットで言葉を用いて教えを説いているからではないか」というものだ。
私は釈迦の他にも、ガンディーや、紛争地帯を渡り歩いたとある日本人仏僧のこと、そして、とある無名女性歌手や亡くなった作家などを尊敬し、慕っている。彼らに共通して言えることは「可能なぎりぎりの範囲で、自ら体を張って伝えなければならないことを訴えている」ということだ。まるでそれが己の使命かのように、体を張って訴えている。もしくは、訴えていた。
ところが、私が会ったその人物は椅子に座って暖房の効いた部屋で、己の声ではない軽々しい言葉を用いて教えを説いているではないか! このような人物が説いた教えと、命や体を張って訴えた人物たちが果たして同等に尊敬されるべきなのだろうか。私はそうは思わない。
恐らくあの奇妙な嫌悪感は、それに加えて「そんな人物の空論を馬鹿正直に納得してしまったことへの自己嫌悪」でもあるのだろう。でなければ、ここまでのことはしない。
そして、私はその考えを煮詰めることでとある疑問が湧いた。すなわち、「その考えに至らしめたものが彼らの居た環境なら、私はその背後に広がるすべてに嫌悪を抱くべきなのではないか」と。
釈迦はなぜ、乱世であった当時にあれほどまでの考えに至ったのか。王子という恵まれた身でありながら、権力を捨て、富を捨て、名誉を捨てた。それらが全てだとされていた時代に、だ。
また、とある日本人仏僧は、安保闘争で学生運動を繰り広げる他の運動家を見、「一度は戦争を強固に是とし、敗戦直後は米に媚び、そして今は反戦を宣う。そんな彼らが胡散臭くなった」とし、十九歳で僧を目指し、ソ連との紛争渦巻くコーカサスへと赴いた。そこで彼は現地の母親たちとキルギスからチェチェンの道程を反戦を掲げて歩み、一時的ではあるが争いを止めた。指を二本、失った。
亡くなった作家は不治の病に冒されながらも、「書きたいことは山ほどある」と物語を紡ぐ手を止めなかった。辛い闘病の末、亡くなった。著作は三つだった。
私は私が信じる彼らを決して否定しない。彼らのような因果論的な考え方も否定しない。だが、それを尊重すべきなら、なぜ私があの人物の姿勢に嫌悪を抱かなければならないのだろう。これは矛盾しているのではないか。
だから、私はもう一度考えてみた。あの嫌悪を感じた理由を。
私は、人との繋がりを思った。すなわち、どうであれ私が人と繋がっているのなら、私はその人物の姿勢をも是としなければならないということだ。なぜか。それは因果であり、共通していれば関わることは避けられないからだ。この世に人間として生まれ出で、嫌悪なるものを感じるようになる因果そのものに、私は嫌悪を感じていたのだ。
だから、このどうしようもない嫌悪に我慢ならない私は、つまるところ、この世のあらゆるものに別れを告げなくてはならないのだ。少なくとも、この世ではない場所へ向かわなければならない。そうしなければ、私は嫌悪を感じずとも嫌悪をその身に宿し続けるだろう。それが苦痛以外の何だと言うのだ。
できれば化け物に変貌する程度で勘弁してほしいと思ったが、突き詰めて考えるならそれは不可能だ。私はこの世に別れを告げなくてはならない。
私は拳銃を自らの頭に向けた。
いつか自身の頭に拳銃を突き付けなくてはならないのではないか、と日頃から薄々感じてはいたが、その理由が至極真っ当なもので我ながら安堵している。
私は安全装置を外し、引き金に指をかけた。
さようなら。
もう二度とこの世には来ないよ。
私はそうこの世に告げ、引き金を引──
終




