perla vento
丸めた手を杓の形にしても、何かがどんどん逃げていく。ちょうどそれは、水分子ひとつひとつが粒となって意思を持つかのように飛び出していく様に似ていた。
川面に写った自分の痩せこけた顔を眺めていると、ふと、そんな捉えようの無い不思議な感覚が脳裏を襲った。捉えようがなく、どうすべきかも分からない。この掴み所がない感覚は、私のものではない。
今でも隣に貴女の気配がするときがあるが、振り向いてもそこにいるわけがない。貴女は大昔に私の一部になった。それなのに私は貴女の面影を一目見ようと振り向いてしまう。今も、ほら。いる──。
──いなかった。いない。やはり、私はあのとき貴女を──
顔を川面から離した。水滴の垂れる顔をごわついた手拭いで拭く。貴女の香りがしたそれは、とうの昔に汗と埃にまみれてしまった。私はそれを川に流した。流れていき、やがて見えなくなった。
私はまた歩くことにした。硬い厚底のブーツを履き、重い荷物を背負い、茶色で鍔の広い草臥れた帽子を被る。私の眼前がほんの少し暗くなった。
私が旅を始めた理由はもう記憶に定かではないが、下らないものだった気がする。たしか、思春期特有のあの感覚に心動かされたのだ。すなわち、「ぼくも旅がしたい」──と。
ハイテクに囲まれて何一つ不自由のない生活で私がそんなことを呟いたものだから、両親は慌てふためいてあれやこれやと色々気を遣ってくれた記憶が朧気ながらある。それでも私は「旅がしたい」と意固地になって聞かなかった。
両親に隠れながら数ヵ月間準備をした。いよいよ出発を明日に控えたとき、私の幼なじみだった貴女が「わたしも連れていって」と懇願してきた。貴女の熱意に圧され、結局出発を数日延ばした。今では良い思い出だ。
両親に別れの言葉も告げず旅立った十五の夜。私は貴女とこれから起こるだろう様々なロマンに胸を躍らせていた。
しかし、それから十年、二十年……。数えきれないほどの日数を辿ったとき、ある日貴女は何の前触れもなく倒れた。
小さな皺が所々に目立つ綺麗な貴女は、震える声で「もう、歩けないかも」と、ただ一言、そうとだけ。
女というのは苦労するほど長生きするととある町で小耳に挟んだことがあったが、あんなものは眉唾だったと思い知らされた。貴女は、眠るように死んでしまった。
しかし、長きに渡って連れ添った伴侶のような貴女でさえ、私は涙を流さなかった。
何故だろう。と自問した。
答えは旅の中にあった。
貴女は──貴女も、大地に生きる人ならば、何も悲しむことはない。
私たちは旅の道中様々な景色に出会った。
花々の絨毯が丘の向こうに、地平線まで広がっていた。
照りつける太陽に、乾燥し荒廃した地表がどこまでも続く。
峰の切れ目から溢れる霧が、津波のように押し寄せる。
一面銀に覆われた世界を、貴女は「死後の世界みたい」と表現してくれた。
私たちが涙を流したのは、常に大地の雄大さ、壮大さであった。
貴女が死んだということは、貴女も大地に還るということなのだ。それならば悲しむこともなしとはこのこと。
貴女が大地に真に還るのは、いつ頃になるだろう。
貴女が死んで九年。私はまだ、貴女と共に大地に感じたあの感動ほど、心動かされたことはない。
一体いつになったら、貴女は大地に還るのですか。貴女が私の前に現れるのはいつになるのですか。
どうか、どうか、教えてください。
終




