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向こう空が目に染みる

 僕はあの偉大な小説家、M・K氏のように、当てもなく町をふらついていた。

 胸の奥につまる絶望にも似た赤黒いどろどろしたモノが全身に染み渡り、僕の体を支配している感覚。ただ歩いているだけなのに息が続かない。過呼吸に似ているな、とも思ったがそこまで酷くはない。

 今は何時なのか、ましてや午前なのか午後なのかさえ分からない。ただ起きて「散歩がしたい」と思ったまでだ。気まぐれに外に出たら、そんなどっち付かずの時間帯だったことに気付いた。

 町をふらつくと言ったが、僕の住んでいる町はそこまで大きくはない。町内にある全ての店を見て回るのに四十分かからない程度だ。始めて来たときはミニチュアみたいなかわいらしい所だなと思ったものだ。それは変わらないと思っていた。

 ただ、ここ最近は違った。先の陰鬱とした塞ぎ込んだ気持ちだからか逆に窮屈だな、小さいなと感じるようになってしまった。この町は好きだが、「狭い」こととは別だ。

 人はあまり多くない町だ。良く言えば落ち着いていて悪く言えばつまらない。

 ぼう、と世界を見る。死んだ魚のような目──そんな表現がぴったりな今の僕には薄く靄がかかったこの世はまるで生き地獄だ。

 車はまばら。飛び出してしまえば即死か。ドライバーは急いている。時間帯は──分からない。しかし急いているというなら夕方なのか。分からない。

 M・K氏は果物屋に行ってそのあと西洋雑貨屋に向かった。この町にはそういったハイカラな店はない。だからこれから果物屋に行って檸檬を買うことも、西洋雑貨屋に行ってそれを積み上げた本のてっぺんに置き去りにすることもない。妄想もしない。

 僕は彼とは根本的に違う。頭もそれほど良くないし、異国の文化に思いを馳せることもない。出来ることならこのまま孤独死してしまいたい──そう思うような内向的性格だ。そのくせ同じ境遇になったら彼と同じ心境に陥る。僕は救いようのない人間だ。

 意味もなく当てもない徘徊を続けている。下らないが、僕は今体を支配されている。全ては「赤黒いどろどろしたモノ」の意思なのだ。僕はただ、操られているだけだ。特に徘徊に関してマイナスの感情を抱くことはない。むしろ何も考えなくて済み、気が楽だ。

 やがて僕はバス──始発か終バスか──に乗った。

 何もする気は起きないが、赤黒いモノが勝手に動いてくれる。こいつはどこへ行こうとしているんだ。見当もつかない。詩的な考え方をするなら東か西か。

 バスはところどころひび割れたアスファルトの上をぐわんぐわんと音を立てながら進む。

 この町は過疎化が進んでいる。お年寄りしかいなくて、大学に近いからという理由で住んでいる学生がこの町の大半の若者を占めている。いつか大学が少子化で破綻したら町中がアスファルトみたくなってしまうのだろうか。分からない。遠い未来のことだ。僕には分からない。

 やがてバスはある場所で停まった。設備だけは充実している県立病院だった。

 よく考えたら停留所は四つしか過ぎていない。もっと遠くに行けるだけの金を持ち合わせていた。だのに、なぜ病院?

 ──こいつはどこへ向かってるんだ。

 歩は意思に反して軽やかだ。怖いくらい。

 こいつは病院でひと暴れでもするんじゃないかと怖くなった。

 俺は殺されたりしない! 殺される前に、殺す!

 こんなものは僕の中の赤黒いモノが叫んでいる眩惑であって僕自身の声じゃない。僕は生まれてこの方悪に堕ちたことはない。全ては赤黒いモノの意思。心配は無用だ。

 ガーと自動ドアが開く。電気は点いているが人は疎らだ。一、二……四、五人程度。

 待合室にいる患者もそうだが、心なしか受付の事務員の顔にも暗い影が落ちているように見える。そこだけ見ると幽霊病院か何かだと勘違いしてしまいそうなほどだ。とにかく雰囲気が重苦しい。

 僕は無機質な白が映えるリノリウムの床を先ほどとはうって変わって重い足取りで進んでいた。やはりこいつも病院は苦手なのか。

 階段を二つ上って、廊下をまた真っ直ぐ進む。やがて僕は突き当たりの一室へと辿り着いた。

 病院は何度か訪れたが三階まで上がったことはないし、まず入院したことがなかった健康体なのでここまで来たことはない。

 よくよくその扉付近を見てみると、どうやら女性がいるらしい。読めないが、花の名前をそのまま用いた名だということは分かった。

 一頻り思案したあと、僕は特にノックすることもなくやや乱暴にスライドドアを開けた。

 中は薄暗かった。ピ、ピ、と電子音が聞こえる。僕はカーテンをジャッと開けた。

 ──お姫様。

 そんな表現がぴったりな、さっぱりとした端整な美しさをもつ女性がそこに横たわっていた。

 白いベッドに沈む姿はさながら白雪姫。ただ、その口元には薄緑の呼吸器。繋がれたコードの先には「100」という数字と心電図を示した画面。何もかもが異質のように感じたが、彼女のその顔立ちとも相まって妙な調和がとれている。

 不意にその顔に触れてみたいと思った。別に変態染みた嗜好などではなく、その陶器──一級品の絹のような、その繊細な顔に触れてみたかった、ただそれだけだった。

 彼女の顔におずおずと手を寄せる。触れた。そのまま包むような手つきで頬を撫でた。滑らかな肌。綺麗だ。もっと触りたい。そう思ってもう片方の手も伸ばしてみた。その時だった。

「……貴方は……?」

 びくりと体が震えた。思わず手を引っ込めた。じとりと冷や汗が出た。驚いたせいもあったが、本質的なところは彼女の声だ。

 消え入りそうな声。蚊ほどの鳴き声もない。「蚊」では彼女に失礼か。例えるなら、彼女の声は針の穴に糸を通すときのあの感覚に似ている。声を感覚に例えるのは難しいが、これが一番ふさわしい表現のように思える。

「王子様……?」

 あ、と声をあげそうになった。

「王子様、なの……?」

 違う。僕は王子様なんかじゃない。と反論したくなった。でも何故か出来ない。パクパクと魚のような口の動きを繰り返すばかりだ。情けなくなった。

 彼女は言った。

「もし貴方が王子様なら、私をここから救い出して……」

 はっとして周りを見渡した。

 ここは白く狭い鳥籠。生まれた時から自由に飛び回ることも出来ず、空という世界を知らず、そのうち羽が抜けていって、朽ちる。そんな場所に彼女は縛り付けられ、人口の嘴で呼吸も食事も、する。

 それに比べ僕は恵まれている。自由に出入りすることが出来るし、僕自身の口で呼吸も食事も出来る。勇気を出して、嘘を吐いてみた。

「そうだよ、僕は王子様だよ。君を助けに来たんだ。君はこの狭い鳥籠から出たいんだろう? 僕が救い出してあげるよ」

 僕はピーターパンか。心の中で自嘲するが、彼女は寝ぼけているのか本気なのかその呼吸器を外してみせた。テープが音をたてて剥がれる。

「ねえ、これで私を繋ぎ止める鎖は無い。どこへでも連れていって」

 そんなことをしたしたらナースセンターに連絡が行ってしまうじゃないか。心配はしたものの、結局誰も駆けつけなかった。職務怠慢も甚だしい。だが、僕たちにとっては好都合だ。

 彼女の手をとりそのままお姫様抱っこをして担ぎ上げ、人目につかなそうな通路を選びながら急いで病院を後にした。

 病院を出ると、丁度バスが停まっていた。行き先も分からないまま飛び乗った。

「……王子様、ありがとう」

 お姫様抱っこされた彼女がにこりと微笑みかける。あんな鳥籠にいた存在とは思えないほどだ。僕は上気したせいかだんだん体が温まっていく感覚にとらわれた。

「……どこに行きたい?」

 僕も返しながら微笑んだ。

「私。海が見たい」

 海。久しく僕も見ていない。多分中学生の頃、親に連れられて行ったのが最後だったはずだ。確か、海は青かったはずだ。

「海か。いいよ。行こう」

 バスに揺られて一時間ほどか。勢いで飛び乗ったバスは運良く沿岸を走っていた。

「もうすぐで着くよ」

「うん」

 その会話をしてすぐに海の近くのバス停に停まった。二人分のお金を支払って降りる。海はすぐ目の前に広がっていた。

「綺麗……始めて見た」

「僕も久しぶりに見た」

 そういえば、今は何時だろう。家を出てからしばらく経ったような気もするが、定かでない。

 彼女の方を見るとまたにこりと微笑んでくれた。つられて僕も返す。

「私。生きてるうちにここに来れて良かった」

 僕もだよ。だから君が勝手に外出してはいけないことくらい承知していた。直感でそうと分かった。

「ありがとう」

 彼女はそういって僕にもたれ掛かった。死んだように動かないが、死んではいないはずだ。


 海は青かった。

 今は何時だろう。

 こんなものは。

 気のせいだ。

 遠い遠い水平線から。




 眩しい光が差し込んだ。僕はやっと目が覚めた。ただ、これから起こることに胸を弾ませずにはいられなかった。

 ああ、向こう空が目に染みる。




 終

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