四話 さようならお姫様
騒ぎは、あっという間に城中に知れ渡る。
魔女など、爵位の前では何の役にも立たないのだと、ファリは改めて知った。
「とんでもないことをしてくれましたね、ファリ」
ミレアナはため息交じりに、腕を組んで遠い目をする。ラスは魔法で眠らせて、二人はバルコニーにいた。今頃、国王夫妻は例の貴族や両親と、あれやこれや話しているのだろう。
「言っとくけど――ラスは何もされてない。未遂だよ」
「えぇ。それはそうでしょう。だけど、噂はどうにもならないわ」
「……あぁ、火の無いところにってヤツか。二人は恋仲だっただとか、パーティのたびに秘密の逢瀬をしていたとか? で、勘違いしたおばかな魔女が、二人の逢瀬をぶち壊した?」
ばっかじゃないの、とファリは吐き捨てる。
おぞましいにもほどがあった。
これまで、何十人にも貴族と出会ってきたが、ここまでの下衆は見たことが無い。許されるならば今すぐに、今すぐにでも一家揃ってこの世から消し飛ばしたいほど、殺意が滾る。
「あんたはこのままでいいのかよ。あんな下衆に、ラスをくれてやるつもり?」
「仕方が無いわ。国内で一番……一番、格のある貴族だもの」
「……」
結局は、そこなのか。
どんな下衆でも、やんごとなき身分なら許される。しかも、一番おいしいところを、我が物顔で食い荒らすことが出来る。さも、それが自分に許された特権であるかのように。
「ファリ、もうあなたはここにはいられないわ」
「ふぅん? お楽しみを邪魔したから?」
「……彼は、ラスの婚約者候補。この一件で、ほぼ確定するでしょう」
いたいけな少女を強引に組み伏せ、無理やり手篭めにしようとした分際が。当然の顔をして彼女を娶る。世も末だ。あぁ、やっぱりあの時に殺しておけば、とファリは後悔する。
「……ファリ」
そこに、眠ったはずのラスがやってくる。ふらつく足で、ミレアナを手で制し、ファリに向かって歩く。今にも倒れそうな姿に、ファリは自分からも彼女に近づいた。
腕の中に倒れこんだラスは、いつもより小さく感じられる。
「ラス、ボクはもう行かなきゃ」
「……やだ、やだ!」
「ボクは呪われた魔女の名前を持っている。異端の存在。お姫様には似合わないよ」
「で、でも!」
「っていうかさ、ボクは『魔女』だよ。仮に今回を凌いで一緒にいられても、結婚できるわけじゃないからいつかは離れ離れさ。だったら、これをいい機会に、お別れしたほうがいい」
頬を撫でて、抱き寄せて耳元に囁く。
ラスは、駄々をこねるように、首を左右に振り続けた。
その様子に困ると同時に、少しだけうれしいとファリは思う。こんなにも、自分という存在を求めてくれる他人など、今まで、誰か一人でもいてくれただろうか。
しばらく抱きしめていると、ミレアナが周囲を気にし始める。
どうやら――時間切れのようだ。
もうじき、ここに何者かがやってくるのだろう。彼女の位置からそれが見えたのかもしれないし、物音が聞こえたのかもしれない。どっちにせよ、ファリはラスから離れなければ。
最後に何を言うべきか迷い、ファリは耳元にそっと囁く。
「……フィール」
「え?」
「ボクの名前。本当の」
もう名乗ることなどないと思っていた、本当の。
師に引き取られてすぐに才能をさらに目覚めさせたファリは、自分の名前を名乗ることをやめた。どうせ自分は里を出るのだろうし、その時に名乗るのは彼らの神たる魔女の名だから。
自分でも長らく呼ばなかった名前を、どうしても彼女に知ってほしい。
どうしてそう思ったのか、ファリにはわからなかった。
「フィール……?」
目の前の姫君の唇が、綺麗な声で文字を綴る。冷静でいられたのはその瞬間までだった。名前を呼ばれた瞬間に、心の底から苦しいほどの欲求が湧き、ファリは腕を前に伸ばす。
ん、とかすかに息が漏れた。
一瞬抗った彼女の身体は、しかしすぐにファリに身を委ねる。腕の中に姫を抱き、ファリはその唇をふさいでいた。やわらかい感触と、ジンジンと響きながら染み込んでいく温もり。
「……じゃあ、ね」
半ば突き飛ばすようにその身体を離し、ファリは魔法式を展開する。
バルコニーから飛び降り、魔法式で落下速度を殺しながら。
「ラス」
小さく、彼女の名前を呼ぶ。もう二度と会うことも無い、その愛しい姫の名を。地面に着地すると同時にファリは、己の姿を彼らの目から消した。そして外に向かって、走る。
さようなら、かわいいお姫様。
もう二度と――異端の魔女に捕まらないようにね。