その4「サバ読み大量殺戮者(ジェノサイダー)」
逃げ出すなら今だ。
そもそも、俺はこんなところで死ぬわけにはいかない。まだ一人分の償いすら済んでいないのだから。
そりゃあ、人々の役に立つための旅をしているわけで、確かにこの場面、その使命を果たすためには絶好の機会であろう。だが、しかしだ。死んでしまっては元も子もない。旅だって続けられないし、そして、正直な話、自信がない。
だって、相手は“人魔”だぞ? 人魔というからにはそれなりに強いわけで、村人が大人しく従っているということは、それなりの力を見せたからだろう。
そんな人魔に、どうやら剣の扱いが上手いらしいとはいえ、俺みたいな普通の人間が勝てるわけがないではないか。
やめやめ。
村人たちは俺のことを完全に信頼しきっているし、こっそり逃げれば気付かれないだろう。そのうち……俺がもっと自分のことを思い出して、もっと強くなったなら――そのとき、改めて役に立つとしよう。
うむ。それが良い。
どうやら今現在のところ、村人に危険はないようだし……いや、若い娘が何人か連れていかれて、帰ってきてないようだが――いやいや、向こうで幸せに暮らしているかもしれんし――
……んなわけないか。
だが、とにかくダメ駄目。俺は帰る。帰るったら帰るのだ。
帰――
「えっ!? おじちゃん、あの怖い人を追っ払ってくれるの!?」
「ホント? じゃあ、もう隠れてたりしなくていいんだねっ!?」
「すごーいっ!! ヴェスタのおじちゃん、頑張ってね!!」
「おじちゃん、カッコいい~!!」
「う……うむ。任せておくが良い……」
……逃げられるわけがないではないか。
~サバ読み大量殺戮者~
「違うぞ」
「なにがですか?」
タイトルコール直後のミュウのセリフって、毎回同じだな。
あ、俺が悪いのか。
「いや、だから、だな」
と、あの日以来、子守りから解放され、リタの家の自室(元リタの部屋のことだ)でくつろいでいた俺は、一応、ミュウからもらった剣の手入れなぞしていた。ミュウは相変わらず、この剣を服の下に収納しているらしいが、未だにその原理は謎である。とはいえ、まさか、服を脱がして確かめるわけにもいくまい。
まあ、考えたら負けだ。
(というか、重量も結構あるというのに、重くはないのだろうか……)
四次元ポ○ットなのだとすれば、それすらも解決してしまうが。
「どう見ても、俺は“おじちゃん”ではないと思わんか?」
ちなみに今日は、例の人魔がやってくる当日の朝である。こんな会話をしているほど余裕はないのだが……まあ、いわゆる現実逃避というやつである。
ミュウは頷いて、
「はい。御主人様は“おじちゃん”ではなくて御主人様です」
「いや、お前にとっての話ではなくて、だな」
と、半分予測していたベタな回答に、俺は首を横に振る。だが確かに。彼女にまでおじちゃんなどと呼ばれたら、俺は二度と立ち直れないであろう。
「というよりは……そう」
ふと、俺はもっと根本的な問題に気が付いて、
「俺は一体いくつなのだ?」
「年齢の話ですか?」
「そうだ」
と、俺は頷く。
そう。それが一番の問題だ。もしかしたら本当に“おじちゃん”なのかもしれない。
おそらく“おじちゃん”というのは、自分の父親に近い年齢の者に対する言葉であろうから、子供たちの平均年齢を五、六歳とすると、だいたい――
(……ヘタすると、二十代半ばですでにおじちゃんか?)
実は結構きつかった。墓穴。
これでもし、五十歳とか言われたらどうしよう。おじいちゃんではないか。
あ、いや“年齢の割に若いですね”とか言われるからいいかもしれん。
……いいのか?
(ちっとも良くないぞ)
最悪でも二十代であって欲しい。
「御主人様の年齢は――」
……ゴクリ。
思わず、唾を呑み込む。
……最初の言葉が“二”でありますように。
そして……彼女の口が開く。
「わかりません」
「……」
あまりにもお約束な回答であった。
が、
「……なるほど」
(まあ……確かにそうかもしれん)
良く考えてみれば当たり前であろう。彼女の話を聞く限り、以前の俺が、ミュウに自分の歳のことをわざわざ話したとは思えないし。
(……ん?)
と、そこへ……俺の頭に突然、神の啓示とも言うべき閃きが走った。
(誰も知らないってことは……イコール、何歳だと主張しても何ら問題が生じないということではないかァァァッ!)
「ミュウ!」
俺は決意を込めた拳をグッと握りしめ、その場に立ち上がった。
「はい」
一方のミュウはいつもの調子で俺を見上げてくる。そんな彼女に、俺はビシッ! と、指を突きつけて、
「良いか、ミュウ! 俺はこれから十八歳で通すことに決めたっ!!」
「十八歳ですか」
ミュウが少し首をかしげる。
と、彼女のその反応に、
「ふふん。何故、十八歳なのかと言いたげだな」
「いいえ。御主人様の決めたことですから」
「そうかそうか。ならば、その理由を教えてやろう」
「はい」
なんか会話が噛み合ってない気がするが、おそらく気のせいであろう。
「十八歳といえば花の高校生だからだ!」
「? 高校生ってなんですか?」
「む?」
言われて気が付いた。
(そういえば……なんであろう?)
“高校生”などという言葉は聞いたこともない。どうしてそんな言葉が突然口をついたのであろう?
全くもって不思議である。
……まあいいか。考えたら負けだ。
「とにかく……そういうことで、俺はこれからずっと十八歳だ」
「ずっと、ですか?」
「うむ。ずっとだ」
「ちょっとちょっと……」
と、自信満々の俺に突っ込んできたのは残念ながらミュウではなかった。
「ヴェスタさんが私と同い年なはずないでしょ」
「む?」
その声に振り向くと、部屋の入り口に、朝食の片づけを終えたらしいリタが立っていた。心なしか、呆れたような顔に見えるが、おそらくは気のせいであろう。
「おお、そうか。リタは十八歳であったか」
と、俺はポンッと手を打つ。実は初めて知った。
「そうよ……って、ヴェスタさん、そんな話をしてる場合?」
と、リタは部屋の中に入ってきて、俺のすぐそばに腰を下ろすと、
「今日よ。あいつがやってくる日」
「うむ。わかっているつもりだ」
いくら俺でもそこまでボケてはいない。
「……余裕なのね」
「いや、全然余裕ではない」
俺は真面目な顔でそう答える。
第一、余裕ならば、逃げ出すか逃げ出すまいか悩んだりはしないだろう。
「ただ、考えても仕方ないので何も考えないようにしているのだ」
と、俺は正直に答えた。
もはや逃げられない以上、自分が予想以上に強いことを信じるしかないのである。考えたらとにかく負けなのだ。
「もしかして……自信ないの?」
と、今度は一転、リタが心配そうな顔になった。やはりこの娘は、なんだかんだで優しい娘なのである。
「ないと言えばないし、あると言ってもないものはない」
「……」
リタが心配そうなのと呆れたようなのが入り交じった、複雑そうな表情になる。
……何か間違ったことを言ったのだろうか?
(むう、真理ではないか)
だが、どうやら彼女の心情は再び“心配”の方に傾いたらしい。
「もし、無理をしてるなら……やめてもいいのよ」
「いや、多分、どうにかなるであろう」
俺は即答した。
なにしろ、俺のモットーは“考えたら負け”であって、超楽観的な人間であることは、記憶を失った直後に確認済みなのだ。
確かに自信など全然ないが、だからといって、緊張や不安でドキドキしている、なんてことも全くなかった。
(いや……)
別の可能性を考えてみる。
……もしかしたら、俺は生に対する執着が普通の人間よりも薄いのかもしれない。
考えてみれば、俺は記憶喪失なわけで、つまりは想い出といったものがほとんどない。親しい人間というのも、つい最近会ったばかりのリタ、そして、この一ヶ月近くを一緒に旅してきたミュウぐらいのものであって。
だからこそ、この世に対する未練というものが少ない、とも言えるだろう。
……いや、もちろん死にたくはないのだが。
(そもそも、俺の命は俺だけのものではないのだからな……)
と言っても、別に妊娠(以下略)。
とにかく、そういうことなのだ、きっと。
「御主人様」
俺とリタの会話が途切れたのを見計らって、ミュウが話しかけてきた。彼女の方にも全く緊張感が見られないが、これはいつもの通りである。
「来たみたいです」
ミュウがそう言うと同時に、外が少しだけ騒がしくなり始めた。
「……随分と早起きだな」
ちょっと意外。来るのはどうせ昼過ぎだろうとタカをくくっていたのだ。
家々のドアが次々に閉まる音が響いてくる。おそらく、村長を含めた幾人かの村人だけが残って、子供や他の村人たちは全員家に隠れるのだろう。
「ヴェスタさん……」
リタからも、いつもの笑顔はとっくに消え失せて、心配そうな瞳を俺の方に向けていた。
「うむ」
もうここまで来たら、後に引くわけにもいくまい。
「心配ない」
俺はそんな彼女にそう答える。
「……多分」
「……」
さらに不安になったであろうことは想像に難くない。
「さて、と」
俺はさっきまで手入れしていた長剣を片手に、漆黒のマントを翻して立ち上がる。リタに“変な格好”だと突っ込まれたこの服であるが、俺が気に入っているのだからいいのだ。
……結構、カッコいいと思うのだがなぁ、これ。
「御主人様」
「ん? ミュウ。お前は付いてくる必要ないぞ」
「いいえ」
が、ミュウは俺を真っ直ぐに見上げながら、
「万が一、御主人様にお怪我があっては大変ですので」
「……万が一、で済むのか」
怪我をする確率が本当に一万分の一程度ならばどんなにいいことか。だが、この様子を見る限り、ミュウはどうやっても俺に付いてくるつもりのようだ。
……まあ、もしも俺が負けて死ぬようなことがあれば、ミュウも同様の運命を辿るわけだし……付いてきてもさして問題はないだろうか。
それに、彼女の力も何らかの役に立つかもしれない。
「心配ありません」
と、そんなことを考えていた俺にミュウは言った。
「人間族を相手に脅して金品を奪っているような人魔は、魔界でも底辺の下位族である可能性が高いです」
冷静な顔でそう分析すると、そのままの表情でさらに一言。
「要するに雑魚ですね」
「……なかなか毒舌だな」
だが、その“底辺にいる下位族”が、村人たちを脅しているのは確かなわけで……ある程度の力がなければ、村人たちだって大人しく従ってはいないであろう。いくら小さい村とはいえ、大人の男だって何人もいるのだから。
つまり、普通の人間にとっては、充分、驚異的な力だってことになる。
「それに、例の狂犬とやらも、おそらくそいつの手下なのだろう?」
と、俺はこの村にやってきた日のことを思い出してそう聞いてみる。
あのときはあまり深く考えなかったが、こういう状況になってみれば納得だ。何故なら、獣魔というのは、基本的に単独で人間の世界に来ることは少なく、大抵は人魔に従ってくるか、あるいは群でやってくるか、のどっちかなのだ。
「そうよ」
答えたのはリタだった。
「いつも、あいつがこの村に来るときには二、三匹、引き連れてくるわ」
「二、三匹、か……」
一匹相手なら楽に追い払えることは実証済みであったが、人魔+複数匹となると大分話が違う。
……いやいや、考えたら負けだ。
まさに。想像すれば想像するほど、勝ち目が薄くなってくるような気がして、気が滅入ってくる。
(なんかこう、もっとドラマチックな展開にならぬものか……)
例えば……実は記憶を失う前はとんでもなく強くて、ミュウが言うところの“底辺にいる下位族”なぞ歯牙にもかけないほどで、体が戦い方を覚えていたりして、考えるヒマもなく一瞬で勝負がついたりして、村人たちに感謝されまくったりなんかして、惜しまれつつも『俺には困っている人々を助ける使命があるのだ……』とか言って、クールにカッコよく村を立ち去ったり。
あるいは……(中略)……(後略)……×三。
とか。
……ん? 今、何か別の意志が介入したような――気のせいか。
まあ、それはともかくとして。
記憶喪失だなんてハンデをいきなり背負わされたのだ。それぐらいの奇跡が起こってもよいではないか。別にクールでもカッコ良くなくてもいいから、せめて、今日のこの戦いに勝てるぐらいの――
数分後。
どがぁぁぁぁぁっ!!
「ぐはっ!!!」
ズザザザザッ!
「……お?」
一体……何が起きたのだろうか?
俺は目の前の光景に、かなりの時間、呆然と立ち尽くしていた。
「ぐっ……ばっ、馬鹿な……」
数メートル先の地面には、拳連打の後、蹴りで吹っ飛ばされ、唇から血を流し、苦しそうにこちらを睨み付けている男がいる。
周りには三匹の狂犬……地の七十六族が意識を失って倒れていた。
そして、俺の後ろでは、
……カチッ。
「七秒ジャストです。ボスキャラとしては新記録かもしれませんね」
ストップウォッチを片手に、ミュウがそんなことを呟いていた。
――ストップウォッチ? ボスキャラ? ……新記録?
一体なんのことであろう。
まあいいか。
とにかく、今、はっきりとしているのは……俺の目の前には例の人魔がかなりのダメージを負った状態で倒れていて、どうやらそれを演出したのは俺らしい、ということである。
「地の下位族ですね。この程度では所詮、御主人様の敵ではありません」
おいおい。誰だ、ミュウにこんな毒舌を教え込んだのは。
それはともかく。
(俺ってこんなに強かったのか……)
相手が下位族とはいえ、よっぽど特殊な人たちを除き、普通の人間が人魔に勝つというのはそれほど容易なことではない。つまり、俺はこういう戦いに関して言えば、その“特殊な人たち”に分類されるのであろう。
「御主人様、どうなさいますか?」
勝負が決したことを察して、ミュウがそう聞いてきた。
まだ相手の人魔は充分に動ける状態であったのだが……おそらく、これ以上やっても、結果は同じだろう。
自分の力について半信半疑の俺ですら、そのことが良くわかる。
「くっ……」
それは人魔にしても同じだったのだろう。フラフラとなんとか立ち上がったものの、もう戦意は見当たらない。
俺はまだ剣すら抜いていないのだ。
「どうする? ふーむ……どうするべきであろうか」
というわけで、あとはこの人魔の処分について、である。
(ここはやはり――)
“戦い→説得→改心→俺を弟子にしてください!”
の方程式が最も良いのではないだろうか。
こういうバトル物の敵ってのは、後で仲間になる確率が結構高いのだ。良くわからないが、某所でそういう統計が出されているのである。
(弟子ってのはなかなか良い考えだな……)
「御主人様」
(やはり俺ぐらいの人間になると、弟子ぐらいいても良いのではないだろうか)
「御主人様」
(ミュウは弟子ってのとは違うしなあ……いやいや、ミュウだけでは物足りないというわけではないのだ。ただ……)
「……御主人様」
(やはりもう一人ぐらいいても……って)
俺は少し眉をひそめながらミュウを振り返って、
「……ミュウ。俺は今忙しいのだ」
「申し訳ありません」
と、ミュウがすまなそうに頭を下げる。
「いや、謝る必要はないが……用件はなんなのだ?」
「いえ、大したことではないのですが」
ミュウはそう前置きしてから、怪訝そうな俺から、その先の方に視線を移して、
「逃げました」
「なに?」
その言葉にクルッと振り返り、人魔の方を――
「……いっ、いないぃぃぃぃぃっ!!?」
そう。さっきまでそこにいたはずの人魔の姿が忽然と消えてしまったのである。
「どっ、どこへ行ったのだっ!!」
「逃げましたけど」
慌てて辺りを見回す俺とは対照的に、ミュウはあくまで冷静な顔で正面を指さす。
「……お?」
と、その指の先に、かろうじて先ほどの人魔の後ろ姿を捕らえることができた。
やはり先ほどのダメージが大きかったのか、大分モタつきながら逃げていたが、それでも結構遠くまで逃げていた。
俺の思考時間が思ったより長かったのだろう。そりゃ逃げるに決まっている。
「追いかけるぞ!」
「はい」
俺たちは逃げていく人魔を追った。
あれだけの力の差を見せたのだ。逃がしたからといって、再び、この村に現れる可能性はそんなに高くないかもしれないが、せっかくなら捕らえておきたい。
(捕らえて――)
そこでふと思った。
……捕らえてどうするのだろう?
これがただの犯罪者だというならともかく、相手は人魔だ。俺の知識が正しければ、大抵の場合は殺されてしまうはずである。
(ふーむ……)
そう考えると、少しだけ可哀想になってきた。
普通の人間ならば、人魔相手に同情するようなことはないのだろうが……俺の場合は近くにミュウがいるからだろうか。異世界の住人とはいえ、同じ人型の生き物である人魔に対して、少しだけ同情の気持ちが浮かんできてしまう。
ならばどうするか。
(やはり正義の味方としては……説得して改心させなければ!)
そう。
人魔とはいっても、頭の中身はそれほど人間と変わらないものなのだ。言葉が通じないわけでもないし、誠心をこめて説得すれば、きっとわかってくれるに違いない。
そしてその上で、村人たちに捕まらないように逃がしてやる。これが一番であろう。
(さて、そうと決まれば……)
ダメージを負っている人魔と俺たちでは、どう見ても俺たちの方が速かった。それに、村の中のことは俺たちの方が良くわかっている。村を出る前にある程度追いついておけば、逃げられることはまずないだろう。
……と思うのだが。
(それにしても……)
俺はふと思った。
(ここはどの辺りだろう……?)
忘れてた。俺は方向音痴だったのだ。
まだ村からは出ていないので、迷子になる心配はないだろうが、森の中に入ってしまうと戻って来れない可能性がある。
やはり村を出る前に“絶対に”捕らえねばならない。
(ふむ……景色は見覚えあるぞ)
それでも一応、周りの景色を確認しておく。
ここは……そう。俺とミュウが、子供たちと遊んでいた場所に近い……と思う。
俺の記憶と方向感覚が確かならば(その両方が確かである可能性は極端に低いが)、もう少し先に行けば、少し小さな花畑があるはずだった。
(花畑といえば……)
俺はふと、今朝のミュウとの会話を思い出す。
(ミュウが子供たちと、また花の冠を作る約束をしたとか言ってたな)
前回の冠はかなりボロボロで、お世辞にも上手く出来ているとは言い難かった。ので、『作り直してもいいですか?』とか聞いてきたのだ。
もちろん却下する理由はなかった。……というか、そんなことまで俺に断る必要はないのだが。
……と、そんなことを思い出していると。
「御主人様……」
俺の後ろを走るミュウが声を掛けてきた。
「ん?」
心なしか不安げなその声を怪訝に思って、軽く首を後ろに向ける。すると、ミュウはいつもと変わらない……いや、注意していなければ気付かないほどではあるが、少しだけ表情を曇らせて、
「あの……」
と、少し歯切れが悪い。
……彼女がこういう言い方をするときは、大抵、何かお願い事があるときだ。
「なんだ?」
こんなときに“お願い”もないものだが……それでも、俺は一応、聞き返してやる。
すると、ミュウは視線を先に向けて、
「このままではお花畑が踏み荒らされてしまいます」
「……お?」
その言葉に、俺は視線を再び前方の人魔に向ける。
そして、驚いた。
(なんと……本当に花畑だったか)
どうやら珍しく俺の方向感覚は正しかったようである。そして……人魔の足は躊躇いもなく、花畑の方角へと向かっていた。
(うぅむ……)
もちろん、人魔はそのまま花畑へと進入するだろう。例えば、あの人魔が自然をこよなく愛する人物で、毎朝、花や木に親しげに話しかけているとか、そういう人物だったりすると、わざわざ迂回してくれたりもするかもしれないが、どう考えてもそうは思えない。
(まずい……それは良くないぞ!)
あの花畑は、ミュウが初めて俺に笑顔を見せてくれた場所であって、言うなれば、俺にとって想い出の場所である。その比重はこの大陸一個分にも相当するのだ。
絶対に荒らされるわけにはいかない……のだが。
「ど……どう考えても間に合わんではないか!」
人魔は今にも花畑へと進入するところだった。必死になっている彼には、目の前の花畑を気にする余裕もないのだろう。いや、余裕があったからといって、気にするかどうかはわからないのだが。
「まっ、待てっ! 待つのだっ!!」
と、俺は少し必死になって、前方の人魔に呼びかけてみた。
が、それで人魔の歩みが止まるはずもなく。“待てと言われて待つ奴がいるかよ!”と、人魔が心の中で叫んだがどうかは定かではないが、その足はあと数歩で花畑へと入ろうとしている。
「御主人様……」
ミュウが再び、躊躇いがちに口を開くと、
「……守っても、いいですか?」
そう言った。
もちろん、“守る”というのは花畑のことであろう。
俺は少し狼狽しながらも、
「な、なにか方法があるのか?」
「御主人様の許可がいただけるのであれば――」
どうやら人魔の足を止める方法があるらしい。
……それならば、それを却下する理由などなかった。
「任せる!」
俺はあまり考えることもせず、急いでそれを許可する。
……これがマズかった。
「はい」
ミュウは頷いて、
「?」
怪訝そうな俺の後ろで片手を前方に出す。
そこで俺は初めて嫌な予感を感じた。
「お……おい、ミュウ……」
きぃぃぃぃぃ……ん。
……どこかで聞いたような音が聞こえてくる。
ミュウが納豆の器を消し飛ばしたときの音だ。
……彼女の長い髪がふわっと舞い上がる。
(ま、まさか……な)
確かに、ミュウは契約者――つまりは魔で、そういう力を持っていることはすでに目の当たりにしていたが、彼女曰く、その力は微々たるものであり、人魔相手に通じるほどのものではないはずだ。
そりゃあ、無防備な相手の背中からだから、ダメージは与えられるのかもしれないが、果たして、あの人魔の足を止めることができるかどうか。……いや、それ以上に、ここは村の中である。はっきりとはしないが、家の中から俺たちのこの状況を見守っている村人もいるはずだ。
そんな中で、彼女が力を使ったりしたら――
「ま、待つのだ、ミュ――」
俺はそこでようやく制止の声をあげたが、どうやら一瞬、遅かったようだ。
きぃぃぃぃぃぃ……ん……
あの、納豆の器を消したときのような小さな光が彼女の手の平から……と思った、その瞬間!
……カッ!!!!!!
(なっ……)
辺りが眩いばかりの光に包まれる。
「っ!?」
人魔が異変に気付いてこちらを振り返った。
と、同時に、
「うっ……うわああああああっ!!!!」
ドォォォォォォォンッ!!!
メキメキメキッ……!
ガサガサガサッ!
ドドドォォォンッ!!
ヒュウウウウウウ…………キラーン。
(…………はい?)
一瞬の出来事に、俺はまさに“開いた口が塞がらない”という状態で、呆然としたままその光景を見守っていた。
それもそのはず。
ミュウの手の平から発射された幾筋もの巨大な光の束は、螺旋のような筋を描いて人魔に命中すると、その先にあった花畑の上……ギリギリ当たらないところを走って、さらにその先の森に直撃。何本もの木々をなぎ倒し……一体、どこまで飛んだのであろうか? ここからでは確認できない。が、とりあえず、森の形が大きく変わったことだけは間違いないであろう。
ちなみに、最後の“キラーン”は、あの人魔がお星様になった音のようだ。
(……手品?)
いや、これが手品なら、手品師十人ぐらいで国を一つ滅ぼせてしまう。俺の記憶が正しければ、こういうのは手品とは言わないはずである。
……というかむしろ、今はそんなことを冷静に分析している場合ではなかった。
「御主人様」
と、未だ、放心状態の俺の背後で、ミュウが口を開く。
「お花畑は無事です」
「……そう……みたいだな」
だが、お花畑は無事でも、俺たちは無事に済まないのだろうな……と。
いつの間にやら、遠巻きに俺たちを見つめている村人たちの姿を視界の端に捕らえつつ、俺はそう確信していたのであった……。