その5『おとぎ話の大量殺戮者(ジェノサイダー)』
天まで届きそうな火柱。
阿鼻叫喚の声。
ここは夢の世界で、現実ではないとわかっているにも関わらず。
そこは地獄だと思った。
そして、暴力的なオレンジの業火を背にたたずむその男。
顔は塗りつぶされたように黒くその表情を窺い知ることはできなかったが、何故か笑っていることだけはわかった。
“黒ずくめの悪魔”
それはルーンの村を滅ぼした悪名高き大量殺戮者であり。
そしておそらくは今も彼女の心に巣食って離れない、俺の分身でもあった。
~おとぎ話の大量殺戮者~
目の前の悪魔は俺とまったく同じシルエットをしていたが、その姿はまるで影絵のように真っ黒に塗りつぶされていた。最初は炎の明かりを背に立っているからだと思っていたが、どうやらそうではない。
最初から全身真っ黒な、まさに影の存在なのである。
それを見て俺は少し安堵した。
ここはルーンの夢の世界である。ミュウいわく、そこに存在するものは彼女の“認識”の影響を受けるらしい。
つまりあの“黒ずくめの悪魔”が俺の顔をしていないのは、おそらくルーンの中で俺とあの悪魔が完全にイコールにはなっていないということの証明なのだ。
「ミュウよ」
俺はその悪魔を見据えたまま背後のミュウに向かって言った。
「あやつを倒すぞ」
「……御主人様?」
俺の強い言葉に気圧されたのか、ミュウは僅かに戸惑いの声を出した。
「いや、倒さねばなるまい。あれがルーンの心を悩ませている存在だというのならばなおのこと。この俺の手でな」
聞いた話によると、ルーンは村が襲われた光景を直接見てはいない。にもかかわらず、この人々の絶望と嘆きの声は真に迫るリアリティに満ちていた。
ルーンの心には、見てもいないその地獄の光景が焼きついてしまっているのだ。
だったら。
夢の中でも一向に構わない。
いや、せめて夢の中だけでも、その邪悪な影を消し去ってやろう。
それが俺にできるせめてもの償いだ。
「ミュウ。武器をくれ」
「はい」
いつもと同じように、ミュウが白い法衣の中から自分の身長よりも長い剣を取り出して差し出してくる。
俺は右手でそれを受け取り、マントを翻して一歩前へ進んだ。
悪魔も同じように一歩近付いてくる。その手にはいつの間にか俺が持っているのとまったく同じ形の長剣が握られていた。
あれは記憶を失う前の俺だ。まともに打ち合って勝てるかどうかはわからない。
だが、そんなことはどうでも良かった。
勝てるかどうかではなく。
勝たなければならないのだから――
地面を蹴ると、相手も同時に動いた。
百メートルほどの距離が一瞬にして詰まる。
そして、
その一合は、地面が抉れるほどの衝撃を伴った。
燃え盛る村。見たこともないのに、瞼の裏に焼き付いてしまったその光景。
ああ、またこの夢かと、ルーンはどこか諦めにも似た気持ちでそれを眺めていた。
足元には俯いたもう一人の自分がいて、燃え盛る村を遠くに眺めながらしきりに謝罪の言葉を呟いている。
こうして運良く生き延びたにも関わらず、復讐すら果たせずにいる自分を嘆いている。
聞こえてくるのは村人たちの、責める声。
なぜ仇を取ってくれないのかと苛む。
遠くには黒い悪魔の背中。
手には馴染んだナイフの感触があって。駆け寄れば黒い影の背中にそれを突き立てることもできるのに。
俯いたまま、動かない。
ルーンはそんな自分を見下ろしていた。
苛む声はさらに声高に、やがて頭痛と吐き気を伴うほどに大きくなる。
何のために生き延びたのか、と。
追い立てられるように力強く握り締めたナイフの柄。
顔を上げ、黒い影を睨みつける。
――そして重なる、あの男の間抜け面。
力が抜けて、再び俯く。
そして冷静な自分が囁いた。
……今日も、明日も、明後日も。
その先もずっと。
きっと復讐は果たされないだろう、と。
何故ならば。
そう、何故ならばその男は――
急に映像が乱れた。
いつもの夢に紛れ込んだノイズ。
いつもの夢に現れた二つの闖入者。
それは不思議と懐かしく。
響き渡ったのは、芝居がかった間抜けな口上。
彼女を苛む声はいつしか消え失せて。
そしてルーンは、ゆっくりと目を閉じた。
「我が娘を悩ます許しがたき悪魔めッ! ここは貴様のようなヤツがいるべき世界ではなぁいッ!!」
気合を入れて剣を振り下ろすと、相手はまるで鏡に映したかのようにまったく同じ動きをした。
剣と剣が重なり、その衝撃で互いに数メートル後方まで弾き飛ばされる。
「ぉぉぉ――ッ!!」
足で大地を踏みしめ、切れ間なく打ち込んでいく。
全身に闇色の闘気をまとい。足を踏み出すたびに大地がしなり、剣を振るうたびに大気が震えた。
それは相手も同じ。
やはりというべきか、この悪魔は俺と同じ能力の持ち主であるようだった。
しかし、
「御主人様!」
そうであれば負けるはずがなかった。
光が迸る。俺の攻撃に気を取られていた悪魔の背中に、ミュウの放った一撃がまともに命中した。
絶好のチャンス。
よろめき、無防備となった悪魔に対し、俺は渾身の力を込めて長剣を斜めに振り下ろした。
肩口から真っ二つに。
手ごたえは思ったよりも小さく、斜めに切り裂かれた悪魔は断末魔の叫びを上げることもなく、まるで黒い霧のようになって空中に四散した。
「……ふう」
額の汗を拭う。
意外とあっけないと思ったが、夢の中ならこんなものだろうか。
「御無事ですか、御主人様」
ミュウが歩み寄ってくる。
「うむ。お前のおかげでな」
手強い相手であった、というと、それも自画自賛になってしまうのだろうか。
戦いを終えた達成感に包まれながら、俺は言った。
「とにかくこれでルーンも目を覚ますだろう。我々も行くとしようか」
「え?」
するとミュウはきょとんとした顔をして、
「どうしてですか? あ、一刻も早くこの場所を離れたほうがいいのは確かですけど」
「ん? いや、だからな。ルーンを縛り付けていた悪魔を退治したのだし、これで一件落着だろうと……」
するとミュウは首を傾けながら少し考えて、
「今の影はルーンさんが生み出した心象風景です。先ほどの小汚い格好のルーンさんと同じ類のものですから……」
と、先ほど悪魔が四散したあたりを指差した。
「基本、無限湧きです」
「へ?」
見ると、その場所には先ほど四散した黒い霧のようなものが再び集まり始めていて、徐々に人間の形を取ろうとしていた。
ミュウが俺の顔を見上げる。
「どうします? イーエックスピーもゴールドもゼロですけど、また戦いますか?」
「……」
俺は唖然としつつ、状況をどうにか理解するとすぐに言った。
「じょ、冗談ではない! 逃げるぞ、ミュウ!」
イーエックスピーとかゴールドとか何のことやらさっぱりだったが、無駄とわかっていてあんな疲れる戦いを続けるほどマゾヒストではない。
「というか! 無限湧きどころか増殖しとらんか、あれッ!?」
黒い影は二つに増えていた。どうやら倒すたびに数が増えていく鬼畜仕様のようだ。
それを見たミュウがポツリと一言、
「……御主人様、何かルーンさんに嫌われるようなことをしましたか?」
「心当たりがないこともないが今は考えたくないッ!」
俺たちは全力で逃げ出した。
そうして、しばらくは全力疾走――
いつ背後から撃たれるかとヒヤヒヤしながらの逃亡だったが、敵は案外あっさりと俺たちを見逃してくれたらしく、ふと後ろを振り返ってみると黒い影はどこにも見えなくなっていた。
「……ど、どうやらそれほど嫌われてはいなかったようだな」
息を切らせ、強がりを口にしながら辺りを見回すと、あれだけ燃え盛っていた火柱も黒い影と同様にいつの間にか消えていて、荒野は草原に変わっていた。
穏やかな風が吹いている。
急に風景が変わったことをどう判断すべきか考えていると、
「どうやら層を一つ越えたようです」
と、ミュウが言った。
「層を越えた? どういうことだ?」
「先ほどまでいたのは精神の表層部分です。感情や記憶などの影響を大きく受ける場所で、激しい動きがあったり風景がコロコロ変わったりするのが特徴ですね。そこを越えると今度は願望や人としての本質が眠る層になります。ここは外部からの影響を受けにくく変化が小さいためこのような穏やかな風景になることが多いです」
「ふむ」
難しいことはわからないので、とりあえず頷いておいた。つまりはルーンの心のさらに深いところに進んだということなのだろう。
「さらに層を越えると今度は本能など生物としての根幹を成す部分になり、理性のある種族にはなかなか理解しがたい領域となりますが、そこは幻魔でもなかなか入り込めない世界ですので行く必要はないと思います」
「つまり、今回の目的地はこの辺りということでよいのか?」
「はい。幻魔の力が及んでいるのはおそらくこの層です」
それを聞いて、俺はとりあえずミュウとともに歩き出した。
さぁっと穏やかな春風が吹き抜ける。
一面に広がる草原。
遠くには白い建物。教会だろうか。祝福の鐘が鳴っていた。
(……これがルーンの心の中、か)
意外と言ったらまた怒られるだろうか。思わずバスケットを持ってピクニックでもしたくなるような穏やかな風景だった。
そうして、五分ほど歩いた頃だろうか。
「御主人様。あれを」
ミュウがそう言って指差した先には一本の大木があって、その根元に一人の少女が横たわっていた。
近付いていく。
健康的な褐色の肌。
飾り気のない白いワンピース。
そして……その体を拘束する半透明の鎖。
まるで呪いにかかった眠り姫のようなルーンがそこで眠っていた。
「これが、本物のルーンなのか?」
先ほどのこともあったので念のためミュウに確認すると、
「はい。薄っすらと見えるその鎖がルーンさんの精神を縛っている幻魔の力です」
「ふむ」
試しにルーンの脇に屈みこんでその鎖に手を伸ばしてみた。
が、手は空を切る。
どうやら実体のない鎖のようだ。
俺はミュウを振り返って、
「どうすればよいのだ?」
「御主人様の魔力で断ち切ってしまうのが良いと思います」
「そうはいっても……」
ルーンの体にかけられた鎖は細い。破壊するのは簡単かもしれないが、俺はまだそんなに細かい力のコントロールができないし、まともにやるとルーンの体を傷つけてしまいそうな気がする。
それでも大丈夫なのかとミュウに問うと、
「先ほどとは違ってこちらは本体ですから、精神体とはいえあまり良くないと思います」
当然の回答が返ってきた。
……さて、そうなるとどうしたものか。
悩んでいると、
「御主人様の魔力をルーンさんに与えてみるのはいかがですか? この鎖程度でしたらすぐに断ち切れるかと思います」
「魔力を与える? そんなことができるのか?」
「はい。現実世界では人間であるルーンさんの肉体が耐え切れなくなってしまいますが、ここは精神世界ですので。精神に関しては人と魔はそれほど大きく変わりませんから」
「ならばそうしようか」
言われるがままに俺は頷いて、
「で、その魔力を与えるというのは具体的にはどうすれば良いのだ? お前のそのサークレットのようなものをかぶせるのか?」
「触れるだけで可能です」
「触れるだけ? そんな簡単に?」
「精神世界ですので」
ミュウは当然のようにそう言った。
どうやら精神世界というのは基本アバウトなものらしい。
(……とりあえずやってみるか)
半信半疑ながら、ルーンの手を軽く握り、魔力を送り込むようなイメージを描いてみる。
すると、
「お……」
俺の手のひらからは黒い靄のようなものが生まれ、それがルーンの手にも伝わった。
思った以上に簡単だな――と、一瞬そう思ったが、
「む? うまく行かんな」
黒い靄はルーンの手首を包んだ辺りで止まってしまい、そこから先へは進んでいかなかった。
再びミュウを振り返ると、
「手のひらだと接触が足りないのかもしれませんね」
「どうすれば良いのだ? 接触面積を増やせばよいのか?」
俺が困った顔をすると、ミュウは少し考えてから答えた。
「口移しのほうがいいかもしれません」
「へ?」
その言葉が頭の中に浸透するのに少し時間を要して、
「くっ……口移しだとぉっ!」
「はい」
ミュウは平然と頷いて、
「精神世界ですから肌が邪魔をしているということはないのですが、一般的なイメージでは肌同士よりも粘膜同士のほうが接触感は強いです。精神世界ではイメージが大事ですから」
説得力があるのかないのかよくわからないが、どうやらそういうものらしい。
しかし、それはさすがの俺も躊躇して、
「ほ、他の方法はないのか? 口移しというのはいくらなんでも」
そう言うと、ミュウは腑に落ちない顔をしながらも、
「そうですか? まあ粘膜同士であれば口でなくとも構いませんので。たとえば――」
「わああああ! わかった! わかった!」
何を言い出すかはわからなかったが、エロかグロの予感しかしなかったので俺は途中で彼女の言葉を遮った。
「ま、まあ、その、なんだ。考えてみれば人工呼吸のようなものではないか。空気の代わりに魔力を注ぎ込むだけだ。溺れた娘に人工呼吸を施すのは父親としてはむしろ当然のことだしな。そうであろう?」
「はあ」
俺が何故言い訳しているのかがわからなかったらしく、ミュウはますます不思議そうな顔になった。
コホン、と咳払いして。
「……ところで、これはお前に任せるというわけにはいかんのか?」
念のために聞いておく。
絵的にはそのほうが犯罪臭が薄れると思ったのだが、
「私の体は魔力を与えることには適していませんので……」
「そ、そうか。……うむ。ならば仕方ない。仕方ないな」
二度頷いて、横たわったルーンに向き直りその顔を覗きこむ。
こうして穏やかな寝顔を近くで見てみると、彼女は実に可愛らしい顔立ちをしていた。
(……うぅむ。なにやら罪悪感が)
改めて少年と勘違いしていたことを申し訳なく思いつつ。
(まあ、意識がないのであればノーカンだ。問題あるまい!)
自分に言い訳しつつもようやく開き直った俺は、一、二の三で彼女に唇を重ねた。
周囲の空気が一瞬だけ震えて――。
ルーンの体に闇の魔力が駆け巡った。
“接触”していた時間は十秒程度だっただろうか。
俺はゆっくりと身を起こし、
「……やったか?」
ミュウを振り返る。
すると、
「……ミュウ?」
後ろにいたミュウはなんだか惚けたような顔で俺を見ていた。
が、すぐに、
「あ……はい。大丈夫だと思います」
いつもの調子に戻ってルーンの脇に屈みこむ。
「見てください。ルーンさんの体を縛っていた鎖が」
「おお」
ルーンの体を覆った俺の魔力が半透明の鎖を浸食し始めていた。そこからボロボロと崩れ、やがて宙に溶けるようにして鎖が消えていく。
見た目にもわかる。どうやら成功したようだ。
ホッと息を吐く。
「これで、ルーンは目を覚ますのだな?」
「はい」
ミュウは頷きながらゆっくりと立ち上がって、
「では私たちも戻りましょう。ルーンさんが目を覚ましてしまう前に」
「うむ。そうだな」
もちろんその提案に異論はなく。
来たときと同じようにミュウに身を預けると、光に包まれた後に浮遊感があって、俺の意識は急速に暗闇の中に落ちていった。
「……ヴェスタ様?」
「む……」
気付くと俺はルーンのベッドの上に突っ伏していた。
ぼんやりとした頭でゆっくりと身を起こす。まさに寝起きのような感覚で、今さっきまでの出来事は本当に夢だったのではないかと一瞬考えたが、
「お疲れ様でした」
すぐ脇に立っていたミュウの言葉で、それが現実(?)だったのだと確信する。
俺はそんなミュウとルクレツィアの顔を交互に見て、
「ルーンはどうなった?」
「まだ眠ったままですわ」
ルクレツィアの返答に、俺はベッドの上に視線を移す。彼女の言うとおり、ルーンはまだそこで寝息を立てていた。
俺は少し不安になって、
「ミュウよ。大丈夫なのか?」
「大丈夫です。まもなく目を覚ますでしょう」
「そ、そうか」
ミュウがそう言うのであれば間違いないだろう。
改めて見ると、確かにルーンの寝顔には生気のようなものが戻っているように見えた。
まずは一安心である。
「しかし……少々残念だったな」
「なにがですか?」
呟きに即座に反応するミュウ。
俺は笑いながらそんな彼女を振り返って、
「いや。夢の中での我々の勇姿をルーンにも見せてやりたかったと思ってな。そうすれば少しは俺のことを父として尊敬するようになるであろうに」
「はあ」
ミュウはちょっと不思議そうな顔をしたが、すぐに、
「でも、それでしたら大丈夫です」
嬉しそうにそう言った。
「見てましたから」
「なにを?」
「御主人様の勇姿です」
「だれが?」
「ルーンさんです」
「……へ?」
その言葉に、俺は青くなった。
「ルーンが見てただと? あの世界の俺たちを? な、何故だ? ルーンはあのとおり眠っていたではないか」
そんな俺の慌てっぷりにミュウは少々不思議そうな顔をしながら、
「眠っていたのはルーンさんの意識とは別のものです。ルーンさんの意識自体はおそらくあの光景を上から眺めているような感じだったのではないでしょうか。……あ、でも覚えているかどうかはわかりません。夢の中の出来事というのは起きたとたんに忘れてしまうことも多いですから――」
と、そのとき。
ピタリ、と、ルーンの寝息が止んで、俺は飛び上がるほどに驚いた。
おそるおそる振り返ると、
「……」
ベッドの上で上半身を起こしたルーンが、寝起きの不機嫌そうな顔でこちらを見ていた。
「お……おはよう、ルーン」
俺は背中に冷や汗を浮かべながら、
「げ、元気そうでなによりだな、うむ」
「……」
間。
(これは殴られる!)
そんな予感を覚えて俺は身構える。
が、
「……そんなに雁首揃えて。何の真似だ?」
予想に反し、ルーンは不審そうな顔をしただけだった。
拳も蹴りもナイフも飛んでくる気配はない。
「……お?」
「なんだよ?」
じっと見つめていると、ルーンが嫌そうに眉をひそめた。
これもいつもどおり――嫌な顔をされるのがいつもどおりというのも悲しいが、それはそれとして。
(もしかすると、覚えていないのか?)
どうやらミュウが口にした可能性のとおり、ルーンは夢の中のことをいっさい忘れてしまっているようだった。
これは僥倖と言わざるを得ない。
俺はホッと胸を撫で下ろし、しらばっくれるつもりで、
「皆お前のことを心配していたのだぞ。部屋に戻ってくるなり倒れるみたいに眠ってしまったのだからな」
「ああ」
ルーンは倒れる直前のことを思い出したのか、
「そういやそうだったか。今日は妙に疲れちまってさ」
「ああ、いや、まあそんな日もあるだろう」
俺は適当に相づちを打ちながら、ミュウとルクレツィアに対し話を合わせるよう目配せをした。
通じたかどうかは不明だったが、彼女たちが余計な口を挟んでくることはなく。
背伸びをしたルーンが布団を押しのけてベッドから下りる。
「悪かったよ。どのぐらい眠ってたんだ? 時間の感覚がぜんぜんなくてさ」
「まあ、一時間ぐらいではないかな? いずれにしても疲れているならきちんと休んだほうが良い。時間ももう遅いし、皆で休もうでは――」
ないか、と、言いかけたそのときだった。
「ヴェスタ様?」
背中でルクレツィアの――小悪魔の囁きが聞こえたかと思うと。
ドン、と。
予想外の強い力で背中を押された。
「うぉ……とっ……」
油断していた俺は無抵抗のまま前によろける。
よろけた先には当然のごとくルーンが立っていて。
「ッ!?」
接触するほどに彼女に近付いた、その瞬間だった。
「ちっ、近寄るなぁぁぁぁぁッ!!」
「へっ?」
ルーンの両手が俺の胸にカウンター気味に突き出されて、
「……ぐへぇっ!!」
息が詰まる。
そのまま床の上に尻餅をついて、尾てい骨から激痛のダブルパンチだ。
「いたた……げほげほっ! こ、こら、ルーン! ではなくて、ルクレツィア! いったいなんのつもりだ!」
尻餅をついたまま元凶の顔を見上げると、
「まあ」
ルクレツィアはチラッと俺を一瞥した後、両手を突き出したままのルーンを面白そうに見つめて、
「相変わらず嘘が下手ですわね。なにがあったのかは後で伺おうと思ってましたけれど……どうやら聞く必要はなくなったようですわ」
「む……?」
不審に思いつつ、そんな彼女の視線の先を見ると、
「なっ、なに言ってんだ、お前! あんな、急にこっち来られたら誰だってビックリするに決まってんだろ!」
ルーンはまるでゆでだこのように顔を真っ赤にしていた。どうやらルクレツィアの悪ふざけがずいぶんと頭にきたようだ。
ルクレツィアはますます可笑しそうにしながら、
「まあ。ルーンさんはビックリするとそんなにも可愛らしい反応ができるのですね。私、初めて知りましたわ」
「なんだよ、そりゃ! 意味わかんねーよ!」
「まあ待て二人とも」
俺はゆっくりと立ち上がってそんな二人の間に入りつつ、
「今回はルーンの言うとおりだぞ、ルクレツィア。怪我でもしたら大変ではないか」
「そっ、そうだ! 危ないだろ!」
と、ルーンが続ける。
しかし、そんな俺たちの連係プレイにもルクレツィアは相変わらずの涼しい顔で、
「あら。ずいぶんと息がぴったりではありませんか?」
「ッ!」
ルーンがビクッと震えて俺から離れる。
俺は驚いて、
「ど、どうした、ルーン? また気分が悪いのか?」
思わず手を差し伸べると、ルーンは逃げるようにしてさらに俺から離れた。
「お、おい……」
心配になって近付こうとすると、ルーンは顔を真っ赤にしたまま涙目でこちらを睨みつけ、
「あああ、もう! なんだよちくしょう! お前もう二度とこっち来んな! バカ! 痴漢野郎!」
「なにゆえっ!?」
もうわけがわからん。
ルーンの怒りの矛先はなぜか完全にこっちを向いているし。
ルクレツィアは何が楽しいのかニヤニヤしながら眺めているし。
ミュウにいたってはそそくさとマスクをつけ始めた。
「今度はルーンさんが御主人様アレルギーになってしまったようですので。感染予防です」
御主人様もいかがですか――と、そう言ってマスクを差し出したミュウに、俺はなんだかとてつもなく脱力してしまった。
と、まあ。
その夜の事件は、こうしてひとまず収束したのである。