その3『勘違いの大量殺戮者(ジェノサイダー)』
誰にでも勘違いはあるものだ。
子供の頃に聞いた言葉の意味を間違って覚えていたり、親が口にした戯れの冗談を真実だと信じ込んでいたりというのはほとんどの人間に覚えがあることだろう。
一度信じ込んでしまうと、多少アレっと思ってもなかなかそれが間違いだとは気付かないものなのである。
つまり、なんだ。
俺がルーンのことを約十ヶ月近くも男の子であると思い込んでいたのは、そういった類の、いわばお茶目な勘違いなのである。
だからそれはいい。
それはいい、のだが――
一つだけ。
そう。一つだけ、とてつもなく大きな問題があったのだ。
~勘違いの大量殺戮者~
バタン、とドアが閉まる音を布団の中で確認し、俺はゆっくりと身を起こした。
小さな窓からは朝の太陽が顔を覗かせている。
「……うむ、いい天気だ」
軽く伸びをすると、俺はベッドから下りて身支度を整え始めた。
――あの夜から数えて翌々日の朝。
俺たちは特に何の変化もなく、平穏な日々を淡々と過ごしている。
「何もないという意味でいえば、平穏といえなくもないですわね」
「うぉっ!」
突然背中に聞こえた声に俺は飛び跳ねるほどに驚いて、
「ル、ルクレツィア! まだ着替え中ではないか!」
そう抗議すると、
「あら、それは失礼致しました。こんな時間ですもの。もうとっくに着替え終えてらっしゃるものと思ってましたわ」
ルクレツィアはいつも通りにおっとりと、そして平然とそう言った。
年頃の少女らしい恥じらいの欠片もない態度である。
「まったく……そこは頬を染めながら、きゃっ、とか言って逃げ出すのが普通の少女の反応ではないのか……」
逃げ出すどころかルクレツィアはそこから動こうとする気配もなく、仕方なく俺は彼女に背中を向け、落ち着かぬ気持ちでブツブツ言いながらそそくさと身支度を整えた。
「うむ。完璧だ」
姿見には今日も、一分の隙もないクールガイが映っている。そして、そんなクールガイの後ろにいる天使のような小悪魔の少女がゆっくりと口を開いた。
「ところでヴェスタ様――」
「さて、それでは今日も孤児院へ出かけるとするか。おーいミュウ。ミュウはいるか?」
そう呼びかけると姿見の後ろで何か動いて、
「はい、御主人様」
「うぉぉっ!? び、ビックリするではないか!」
姿見の陰から何事もなかったかのように顔を出したミュウに、俺は思わず大声を張り上げてしまった。
ミュウのほうは別に驚かすつもりだったわけでもないらしく、
「御主人様? どうなさったのですか?」
きょとん、としている。
「ヴェスタ様――」
「ま、まあ良い。お前も準備は整っているようだな。では行くとしようか。いざ、我々の戦場へ――」
そう言いながら振り返ると、
「ヴェスタ様?」
「うっ……」
すぐ目の前にルクレツィアの顔があって、驚きに、まるでメドゥーサに睨まれてしまったのかのように全身が一瞬石化する。
そんな俺の反応に、ルクレツィアはその可憐な外見に似合わぬ妖艶な笑みを浮かべて言った。
「そんな稚拙な誤魔化しで私の追及を逃れられるとお思いですの?」
「……なんの話かわからん」
俺がしらばっくれると、ルクレツィアは少し眉を動かして、
「昨日今日と、ルーンさんが部屋を出て行くのを見計らってご起床なさったように見受けられましたわ」
「偶然以外のナニモノデモナイ」
見つめられ、思わずそっぽを向いてしまう。
ルクレツィアはさらに言った。
「昨晩もかなり不自然にルーンさんを避けてらっしゃったようですけれど」
「いや、あれは……なんだ。ルーンのヤツが一昨日のことをまだ怒っているようだったのでな。ここは一つ怒りが収まるまでそっとしておこうという大人の判断であって――」
「……ヴェスタ様」
そんな俺の言葉を遮るように、ルクレツィアは大きなため息を吐く。
「敵対する相手との交渉ごとならともかく、身内同士でのまどろっこしいやり取りは好きではありませんわ。どうせ嘘をつけるような性格ではないのですから、いい加減観念してはどうです?」
「むぅ……」
さすがにルクレツィアは甘くなかった。
「私は純粋に疑問なだけなのです。一昨日の出来事がヴェスタ様にとってショックだったことはわかりますが、二日も引きずるほどのこととも思えませんわ」
俺は憮然として、
「そんなことはないぞ。一年近くも一緒にいた者の性別を勘違いしていたのだからな」
「性別など」
ルクレツィアはクスッと笑って、
「仮に私が女装好きの男性だったとしても、ヴェスタ様にとっては何の問題もないことでしょうに」
「……いや、それはさすがに女性不信に陥るんじゃなかろうか」
俺もそうだが、かつて彼女に憧れたビルア領の全男性が女性不信にでもなれば、下手をすると国が滅ぶことにもなりかねない。
ただ、ルクレツィアはそれについては大したことではないという顔をして、
「単に勘違いをしていたという以外に、何かルーンさんを避ける理由がおありなのではないですか?」
「……うむむ」
追求が厳しい。
「御主人様……?」
いつの間にかミュウも怪訝そうな顔で俺を見ていた。ルクレツィアのように追求してくるわけではないが、彼女も俺の様子がおかしいことは感じている模様だ。
どうやらこのまましらばっくれるわけにはいかないらしい。
大げさにため息を吐く。
すると、俺が観念したことを悟ったのか、ルクレツィアは満面の微笑みを浮かべて、
「さぁ、ヴェスタ様。観念して洗いざらいゲロってくださいませ」
「……ルクレツィアよ。公女としてその発言は不適切すぎるのではないか?」
「些細なことですわ」
一瞬、本当に中身は男なのではないかと思ってしまった。
いや、それはひとまず置いといて。
「仕方あるまい。まあ、なんだ。貴女のその表情からするとすでにある程度は察しておられるようだが――」
コホン、と、咳払いして俺は言った。
「どうやら俺はアレルギーになってしまったらしいのだ」
「……アレルギー?」
ルクレツィアが変な顔をする。
「御主人様? どういうことですか?」
「うむ」
俺はそんなルクレツィアとミュウに頷いてみせて、
「俺も原因はよくわからんのだがな。ルーンのそばに寄ったり顔を見たりすると動悸や息切れがあるのだ。最初は気のせいかと思ったのだが、これはもう“ルーンアレルギー”としか言い様のない症状であって――」
セリフの途中でルクレツィアが口を挟む。
「ヴェスタ様? その症状はどう考えてもアレルギーではなく恋の病――」
「ば、ばばばばば馬鹿を言うでない! 父が娘に恋するなど、そんなことあるはずないではないかッ!」
俺が大声で反論すると、ルクレツィアは呆れ顔をして、
「一応、息子から娘にクラスチェンジはしたのですね」
「だ、だいたいだな! そんな、今まで少年だと勘違いしていた相手に、いきなりそんなことになったりするはずが――」
ミュウが服の裾を引っ張る。
「御主人様はルーンさんに恋をしてしまったのですか?」
「ミ、ミュウ、お前までなんということを! これはただのアレルギー症状だ! それ意外のなにものでもない!」
はぁ、というため息が聞こえた。
「まあ、だいたい理解致しました」
ルクレツィアは軽く手を広げてそっとベッドの上から降りる。……目線が同じ高さにあったのでおかしいとは思っていたのだが、どうやらベッドの上で立ち膝になっていたようだ。
「ヴェスタ様のその症状が恋かアレルギーかは置いておくとして、これからどうなさるおつもりですの? ずっとルーンさんを避けて通るわけにはいかないでしょうに」
「む……それは確かに問題だが、まあそのうちなんとかなるに違いない」
こういうことはジタバタしても仕方ない。なるようにしかならんだろう。
「なんとか、ですか」
呆れられるかと思ったが、ルクレツィアは意外と納得したような顔をして、
「そういうものかもしれませんわね。ルーンさんもそのうち変だと気付かれるでしょうし。……ミュウちゃん?」
「む?」
ルクレツィアが少し不思議そうな顔をしたので、そんな彼女の視線の先にいるミュウを見ると、
「……」
ミュウが俺の服の裾を掴んで何か言いたげにじっと見上げていた。
「どうしたのだ?」
「……いえ。なんでもありません」
「む?」
ミュウにしては珍しい物言いだ。ちょっと拗ねているようにも見えたし、そのこと自体は、こんな顔もするようになったのだなと、嬉しくもあったのだが――
俺はピンときて、
「ああ、そうか。早く孤児院に行きたくてウズウズしていたのだな? すまんすまん。ついルクレツィアにそそのかされて長く話し込んでしまった」
ポンポンとミュウの頭を撫でる。
そんな俺の言葉に、ルクレツィアは心外という顔をして、
「あら。元はといえばヴェスタ様がおかしな言い訳をなさるから長くなってしまったのではありませんか」
「言い訳などではない。貴女が単なるアレルギー症状をおかしな方向に曲解しようとするからこうなったのだ」
「その論理にはこれっぽっちも納得できませんが、まあよろしいですわ。そのおとぼけ具合もヴェスタ様の個性だと思いますし……」
そのほうが見てて楽しいですもの――と、ルクレツィアはやはり小悪魔のような微笑みを浮かべて背を向けた。
なんというか、まあ。本当に厄介な姫君である。
「では行くとしようか、ミュウ。……ミュウ?」
気付くと、ミュウは先ほどと変わらぬ表情で俺を見上げていた。
が、
「はい。御主人様」
すぐにいつもの態度に戻って俺の服を離すと、そそくさとルクレツィアの後についていく。
「……どうしたのだ?」
そんなミュウの態度に首をひねりつつ、俺はチラとルーンのベッド(もちろん一昨日の夜から仕切りのあっち側に移動となった)を一瞥してから、そんな彼女たちを追いかけたのだった。
「……という状況ですわ」
まるで一昨日の再現であるかのように、ルクレツィアはエルダと並んでその広場のベンチに腰掛けていた。視線の先ではやはり一昨日と同じようにヴェスタ、ミュウと子供たちがはしゃいでいる。
ルクレツィアはその輪の中に入る気はまったくなかった。子供が嫌いなわけではないが、それに幸せを感じられるほど老成してはいなかったし、自分が楽しいと思えないことに労力を割くのはあまり得意ではなかったからだ。
一方のエルダは初日にいきなり少女連れ去りの容疑をかけられ、すぐさまヴェスタから子供たちへの接近禁止令が出された。
結果、まったく理由は別ながら、彼女たちはこうしてヴェスタやミュウと子供たちが遊んでいるのを遠巻きに眺めているわけなのである。
「興味ないな」
暇を持て余したルクレツィアが今朝のヴェスタとのやり取りをエルダに話したところ、彼女の反応はほぼ想像どおりのものだった。
エルダは基本的にヴェスタのパーソナルな部分にはまったく興味を持っていないようで、その点もルクレツィアとはまったくの正反対だといえるだろう。
「そうですか。ヴェスタ様もなりはああですけども、なかなか可愛らしいところをお持ちだと思うのですが」
ルクレツィアがそう言うと、エルダはきっぱりと答える。
「私が可愛いと感じる最低条件はまず私より体が小さいことだからな。デカい男が可愛い真似をしてもキモいだけだ」
「ブレませんわね、貴女」
「自慢ではないがよくそう言われる」
「ええ、自慢にはなり得ませんわね。むしろ人としてほぼ終わってますわ」
そう言ってルクレツィアは再び正面に視線を戻す。相変わらず少女たちはミュウと遊び、少年たちはヴェスタで遊んでいた。
そしてふと、ルクレツィアは昨日と同じく、広場の片隅に一人で佇んでいる少女の存在に気付き、
「そういえばエルダさん。昨日、あの子と何事か話しておられたようですが――」
「ん? ああ。話したというより私が一方的に喋っていただけだ。孤児院の者に聞いたが、最近はずっとあんな様子らしい」
「そうですか」
人にはそれぞれ向き不向きがある。無理して遊びの輪の中に入る必要はない――と、ルクレツィアはそう思い、特に気にはしなかったのだが、
「エルダさん?」
ゆっくりと立ち上がったエルダが、一昨日と同じようにその少女の元へ歩いていく。
どうやら何か気になっているようだ。
(まあ、連れ去ったりはしないでしょうけど……)
そんなエルダの後ろ姿を見送りながら、
(気になるといえば……ルーンさんも、ですわねぇ)
ルクレツィアは風で乱れたウェーブの髪を手ですくようにしながら、鱗雲の空を見上げた。
ヴェスタには言っていなかったが、実はルーンの様子も昨日からどことなくおかしかったのである。
(一昨日のことを怒っているわけではなさそうですけれど――)
ルーンが何故性別のことをヴェスタに隠していたのかルクレツィアは知らない。が、どうせ成り行き程度の理由だろうと思っているし、永遠に騙し通せるなんて本気で考えてはいなかっただろうとも思う。
だから、ルーンがそんなことをいつまでも怒っているとは思えなかったのだ。
(とすると、まさかルーンさんも……?)
女だとばれたことでヴェスタのことを意識してしまっているのだろうか――一瞬そんなことを考えて、ルクレツィアは思わず笑ってしまう。ルーンの性格から考えてそんなことはまずないだろうと思うが、仮にそうだとすれば微笑ましいし、彼女としてもからかい甲斐があるというものだ。
(ミュウちゃんもいい反応をしていたし……)
出かけ際、ミュウが見せた拗ねたような表情をルクレツィアはもちろん見逃していなかった。本人が気付いているかはわからないが、ルーンのことで思い悩むヴェスタの姿を見て嫉妬しているのだろう。
――ただのコメディで終わるのか、あるいはラブコメディに発展するのか。
いずれにしろ、観客であるルクレツィアにはこの先の展開が非常に楽しみであった。
このままではいけない。
俺は決心した。
なにを、というと、もちろん突然俺を襲った不足の事態“ルーンアレルギー”のことである。
改めて言うまでもないことだが、ルーンは旅の仲間であり、大事な家族である。一家の大黒柱である俺が、そんな彼女に接触できないというのは由々しき事態だ。
アレルギーというのは体質的な問題だから、本来俺自身にはどうすることもできないことなのであるが――しかし。
克服せねばなるまい。
夕刻。
間もなくルーンが戻ってくる時間だった。
「心頭を滅却すれば火もまた涼し。無念無想の境地に至れば何事も苦難ではない」
ドアの前に立って暗示をかける。
「ルーンは男、ルーンは男、ルーンは男――」
「ヴェスタ様。それではなんの解決にもなりませんわ」
呆れたルクレツィアの声が背中に聞こえた。
「む、そ、そうか……」
彼女を振り返ると、途端に萎む決意。
どうやら無念無想の境地にはまだまだ遠いようだ。
「なんにしろ向き合う決心が出来たのは良いことです。あとはなるようになるでしょう」
「むぅ……」
ルクレツィアはベッドの上で本を読みながら、こちらを見もしない。完全に他人事である。
「ルクレツィアよ。お前も一家の長子として、この家庭の危機を少しは真剣にだな……」
俺が文句を言おうとすると、ルクレツィアはようやくこちらを見て満面に可憐な笑顔を浮かべると、
「ご心配なく。真剣に楽しんでますわよ」
なんという意地の悪い長女か。
育て方を完全に誤ったようだ。
「それに、娘に手を出す父親の構図は一部で人気があるそうですわ」
「じょ、冗談ではない! そんなこと――む?」
気付くと、またミュウが俺の服の裾を掴んでいた。
「どうしたミュウ? 俺のアレルギー克服を応援してくれるのか?」
「……」
珍しく俺の問いかけに答えない。
まあいいか、と、俺は再び正面に向き直った。
――ドアの向こうから足音が聞こえてくる。
歩幅、リズム、おそらくはルーンのものだろう。
少し心臓の鼓動が速さを増した。
早くもアレルギー症状が出てきたようだ。
「しかし退かぬ! さぁ、どこからでもかかってくるがいい!」
再び決意を固め、両手を大きく広げてルーンの到着を待つ。
一歩、一歩と近付く足音。
やがてその距離がゼロとなる。
そしてドアが――
「あ、ヴェスタ様。そのドア、こちら側に開きますわよ?」
「へ――」
気付いたときにはもう、木製のドアが俺の鼻面まで迫っていて――
ガツン!!
「ぐへぁッ!」
「ご、御主人様!」
倒れこむ俺。
駆け寄るミュウ。
「な、なんという罠。まさか敵と対峙する前にこのようなことになってしまうとは……」
ダラダラと鼻血が流れて口の中が血の味でいっぱいになった。
「お、俺はもうダメだ……ミュウよ、あとは頼む――」
「ご、御主人様ぁぁぁぁぁっ!」
なんだかミュウがノリノリだ。
そして、ここでルーンの突っ込みが入れば完璧である。
それでいつもどおり。
そう。実はドアに顔面を打ち付けるところまで俺の計算どおりだったのだ!
――ということにしておいて。
(さぁ来い、ルーンよ!)
突っ込みを待つ。
待つ。
待つ――
「……ルーンさん?」
聞こえたのは強烈な突っ込みでも、呆れた侮蔑の声でもなく。
怪訝そうなルクレツィアの呟きだった。
「む……?」
その奇妙な気配に俺が顔を上げると――
「ルーン?」
「……」
部屋のドアを開けっ放しにしたルーンは床の上に倒れた俺やミュウには一瞥もくれずに、真っ直ぐ自分のベッドに向かっていく。
「ルーン、さん?」
どうやらミュウもその“異常”に気付いたようだ。
――まるで魂が抜けたかのような、虚ろな目。
ルーンはそのままフラフラと自分のベッドまで歩いていくと、まるで糸が切れた操り人形のように――
「ルーンさん!」
「ルーン!」
そのままベッドに倒れこんだ彼女に、俺たちはそれぞれに大きな声を張り上げて駆け寄ったのだった――