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記憶喪失の大量殺戮者(ジェノサイダー)  作者: 黒雨みつき
第5話『大量殺戮者(ジェノサイダー)の休息』
28/32

その2『突っ込み不在の大量殺戮者(ジェノサイダー)』


 集団に属する者にはたいてい役割が割り振られる。

 戦闘集団であれば剣や槍を持った近接戦闘型、弓矢などを持った遠距離戦闘型、もっと大きな集団になれば参謀役だったり斥候役だったり、あるいは手当てなどを行う医療班、輸送部隊なども必要となってくるだろう。

 となれば、だ。

 俺たちも小規模ながら一応集団であるので、きっとそれぞれには役割が割り当てられているのだろうと思う。


 まずは俺、ヴェスタが“父親兼リーダー”。

 ルクレツィアが“長女兼参謀”。

 ミュウが“末娘兼マスコット”。

 エルダが“たまに顔を出す従姉兼変態”。


 そして最後にルーンは“長男兼――”


 ……なんだろうか。

  

 いまいちパッと思い当たるものがなかったのだが――




~突っ込み不在の大量殺戮者ジェノサイダー




 町中に降り注ぐ春の陽気。

 俺はなんともウキウキした気分でのどかな空気を肺いっぱいに吸い込んだ。昨日までかかっていた靄も今日はすっきりと晴れ渡り、数日ぶりの快晴である。

 一昨日のような朧月夜もたまにはいいものだが、やはりこういう爽やかな天気が一番だ。

 そんな気持ちよさに、背伸びとともについつい大きなあくびをすると、すぐ後ろでクスクスと鈴を鳴らしたような含み笑いが聞こえた。

「ずいぶん大きなあくびですこと」

「む」

 ルクレツィアが笑っていた。

 俺は少し反省して、

「ああ、すまぬ。レディの前では少し品がなさすぎたな」

「私は気に致しませんけれども。かえって可愛らしいと思いますわ」

「むぅ……」

 それはそれで恥ずかしいので、次からは気をつけることにしよう。

「ところで」

 ピッタリとくっつくように一番近いところにいるミュウ。

 その後ろ、三歩ほど離れて付いてくるルクレツィア。

 そしてさらに後ろ、五メートルほどの距離を保ったまま偶然同じ方向を目指しているエルダ。

 俺の後ろを付いてきているのはその三人だけである。

 俺はルクレツィアに尋ねた。

「ルーンのヤツは今日も一日中なのか?」

「今日も昨日と同じでほぼ一日中のようですね。昨日は衣装合わせだけで終わったそうで、色々細かくてうるさいのだとしきりにぼやいてらっしゃいましたわ」

 一昨日の夜に引き受けた絵のモデルとやらは、どうも俺やルーンが想像していた以上に大変なものらしい。

 俺はルクレツィアの言葉に腕を組みながら小さく頷いて、

「しかし不思議なものだな。本人も言っていたように、あいつはあまり絵になりそうなタイプではないと思うのだが」

 率直な感想を口にする。

 ルーンは性格はともかく見た目は華奢でいかにもなよなよしているし、凛々しい男らしさとはかけ離れた外見だ。貴婦人の方々に好まれる壮健な男性の絵になるとは到底思えない。

「というか、男を描きたいのならばむしろこの俺をモデルにすべきではないだろうか? そうは思わんか、ルクレツィアよ」

「それが言いたかっただけではありませんの?」

 ルクレツィアは苦笑して、

「私は良い素材だと思いますけれど。ルーンさんにはきっとルーンさんにしか出せない魅力がありますわ」

「というのは?」

「アンバランスさ……いえ、ギャップといったほうがいいでしょうか」

 そんなルクレツィアの言葉に俺は少し納得して、

「ふむ。確かにあいつは中性的な雰囲気があるな」

「中性的どころか――」

「む? なんだ?」

「御主人様」

 聞き返そうとしたところでミュウが俺の袖をクイクイと引っ張って、

「見えてきました」

 と、前方を指差す。

 そこには白い壁の質素な建物があって、複数の子供たちのはしゃぐ声が聞こえてきていた。

 そして、

「あっ、黒いおじちゃん来た!」

「来たー!」

 建物の脇にある広場に入っていくと、そこにいた十名ほどの子供たちが悲鳴のような声をあげ、うち四名が俺のほうに走ってきた。

 俺はそんな子どもたちに両手を広げてみせて、

「おお、みんな良い子にして待っていたか? 今日も――」

「死ねぇッ!」

「ぐぇッ!」

 走ってきた子供のうちの一人がそのままの勢いで俺の下腹部に頭突きをしてきた。

 激痛に、俺は思わず体を“くの字”に曲げて屈みこむ。

 すると、

「お、効いてるぞ! みんな、今のうちだ!」

 体当たりしてきた腕白そうな少年の声に残りの三人がワーッと雄たけびをあげ、手にしていた枝のようなもので俺の頭を叩き始める。

「いてっ! いたたたた! おいこら! やめぬか!」

 一人の子供が背中に乗っかり、髪の毛を引っ張った。

 さすがの俺もこれには腹を立て、

「くぉら、貴様ら! いい加減にしないと屋根の高さまで“高い高い”するぞ、このやろう!!」

 そう言うと子供たちからワッと歓声が上がり、みんなが我先にと“高い高い”をねだってくるのだった。




「――奇妙な光景だな」

 ルクレツィアが敷地の隅のベンチに座り、少年たちにいじり倒されるヴェスタと、少女たちに懐かれているミュウの姿を眺めていると、いつの間にかエルダがすぐ近くまでやってきていた。

 まったく気配がなかった辺りさすがはデビルバスター――と、ルクレツィアは少々感心しながらも、そんな彼女に対して言葉を返す。

「やはり、そう思われますか?」

「昨日、迷子の世話をすると言い出したときも思ったがな」

 そう言ってエルダはルクレツィアの隣に腰を下ろした。

 眼前にある白い壁の建物は孤児院である。昨日、彼らが町中を歩いているときに偶然迷子の少年を見つけたことが、この孤児院との縁の始まりだった。

「今回はずいぶん高く上がったな」

 ヴェスタの“高い高い”は徐々にエスカレートして、今では屋根の高さどころか建物二つ分ぐらいの高さになっている。

 もはや高い高いというより打ち上げ花火だ。

「あれで子供たちに怪我がないというのは、なんというかこう、色々なものを無視しているように思えるのだが」

「私たちにはわからない何らかの力が働いているのでしょう」

 気にしたら負けですわ、と、ルクレツィアは微笑んだ。

 まあそうか、と、エルダもあっさり納得して、

「なんにしても、あれがあの悪名高き“黒ずくめの悪魔”だとはとてもじゃないが思えんな」

「貴女が私たちに付きまとうのは、やはりそれが理由なのですか?」

 ルクレツィアは視線を正面に向けたままそう言った。

 その言葉はいつもどおりおっとりとした口調だったが、言葉の端々にはほんの微かに詰問するような気配を漂わせている。

 が、

「ビルアの末姫は頭脳明晰と聞いていたがそれほどでもないようだな。見当外れもいいところだ」

 エルダはふふっと笑った。

 ルクレツィアは視線だけをそんな彼女に向けて、

「というと?」

「聞かなくともわかるだろう」

 と、エルダはゆっくり右腕をあげ、広場で遊ぶ彼ら――ヴェスタではなくミュウを指差すと、

「私はただ、あの子の秘密を暴くためにストーキングをしているだけだ」

「……おっしゃりたいことの意味は何となくわかりますが、それでは幼女を付け狙う犯罪者の発言ですわね」

 エルダは胸を張って、

「そっちの意味もあるからまったく問題ない」

 言い切った。

 ルクレツィアは小さくため息を吐いて、

「まあミュウちゃんの可愛いらしさは否定致しませんけれど。あの背伸びした感じのダボッとした法衣なんかはまさに至高ですわね」

 そう言うとエルダは鼻で笑い、

「わかってないな、お前は。彼女の良さはあの穢れを知らぬ幼い瞳だ。あれが大人の階段を一歩一歩上がっていく過程を私は余すことなく眺め続けたい」

「貴女は少し男性的な思考が強すぎるのではありませんの? あの子はあのままが良いのです。貴女のおっしゃるような淫らな意味で無理に大人になる必要はないですわ」

 ルクレツィアがそう断じると、エルダは即座に反論する。

「お前こそ自分の趣味を押し付けているだけではないか。少年も少女もいずれは大人になっていくものだ。私は何故かショタコンでロリコンだと周囲に誤解されがちだが、それは違うぞ。セオフィラス様とて幼さとは縁遠い性格だが、幼げな外見とその性格とのギャップだけで私は充分に身悶えることができる。子供だろうと大人だろうと、その者にあった相応の可愛らしさがあればそれでいいのだ。つまりなにが言いたいのかというと――」

 言葉を切って、エルダはきっぱりと言った。

「あの子は可愛いということだ」

「まあ否定しませんけれど」

 二人の視線の先では、ミュウが自分で作った花輪をぎこちない手つきで一人の少女の頭に乗せようとしていて、

「……よーし、雲の向こうを見たい命知らずは手を上げろ! 俺がお前たちに新世界を見せてやろうではないか!」

 ワー! という歓声があがる。

 相変わらず少年たちに囲まれたヴェスタは、煽てられてすっかりその気になってしまっているようだった。


 ――と。


「ん?」

 エルダが何事かに気付き、視線を大きく横に動かした。

「ルクレツィア。あの子は――」

「え?」

 ルクレツィアが同じように視線を移動させると、エルダの指差した先では一人の少女が芝生の上に座り込んでいた。

 見たところ、この孤児院の子供らしい。ただ、ヴェスタやミュウたちのいる輪には入ろうとせず、一人でボーっと斜め上を見つめている。

 歳は八、九歳ぐらいだろうか。

「可愛い娘だな」

「貴女は本当にそればかりですわね」

「いや」

 ルクレツィアの皮肉もまったく気にした気配はなく、エルダは少し眉間に皺を寄せて、

「周りとずいぶんと空気が違うと思わないか」

「集団の中には必ず一人ぐらいああいう子がいるものだと思いますけれど――」

 そう前置きしてからルクレツィアはその少女をじっと観察して、

「確かに少し気になりますわね。心ここにあらずというか」

「……」

「エルダさん?」

 無言で立ち上がったエルダにルクレツィアは疑問の声を向けたが、彼女は足を止めることなく、そのまま真っ直ぐに一人で佇む少女のほうへと歩いていったのだった。




「つ、疲れた……さすがに疲れたぞ……」

 結局正午まで俺流の“高い高い”で遊び続けた後、孤児院で昼食をごちそうになり、午後も子供たちと目いっぱい遊んで、俺たちが温泉宿に戻ってきたのは日の光が赤味を帯び始めた頃だった。

 鼻をつく独特の硫黄の香り。

 ルクレツィアが言った。

「最初はこんな匂いのする湯に浸かるなんて……と思いましたが、慣れるものですね。今では早く入りたくてウズウズするようになってしまいましたわ。……ミュウちゃんも疲れたんじゃない?」

「いえ、私は平気です」

 そう答えたミュウの全身はあらゆる種類の花で派手に飾られていた。一緒に遊んでいた少女たちが悪ふざけをしたらしいのだが、ミュウは別に嫌がることもなかったようだ。

 そんなミュウに俺は言った。

「その格好では宿の中が花びらだらけになってしまいそうだな。ミュウよ。その花輪以外はここで外していくとしようか」

「はい」

 少しだけ残念そうに、それでも素直に頷いて、ミュウは体中の花を丁寧に取り外し、それを器用にまとめて小さな花束のようにすると、宿の入り口付近にそっと飾りつけた。

 そうして俺たちは四人揃って宿の中へと入っていく。

 途中でエルダと別れ、部屋に戻るとすぐに、

「ヴェスタ様。私たちはこのまま温泉へ入ってまいります。ミュウちゃんをお借りしますわ」

 と、ルクレツィアが言った。

「おお、頼む。ミュウよ。ルクレツィアの言うことをよく聞くのだぞ」

「はい、御主人様」

 頭に乗せていた花輪を大事そうにテーブルの上に置いて、ミュウはそそくさと入浴の準備を始めた。

 俺はそんな彼女たちを尻目に、部屋の中央に置かれた大きな仕切りの向こう側へ足を向けて、

「おぅい、ルーン。まだ戻ってないのか?」

 その奥を覗き込んでみる。が、誰もいない。どうやらまだ戻ってきていないようだ。

「……なんだ。本当に一日中なのだな」

 そういえば昨日今日とまともにルーンと口を利いていない。一緒に旅をするようになってから、丸二日もあいつと口を利かないのはもしかすると初めてのことかもしれなかった。

「ルクレツィア。おい、ルクレツィア」

 呼びかけると、仕切りの向こうからルクレツィアの可憐な声が返ってくる。

「聞こえてますわ、ヴェスタ様。どうなさったのですか?」

「ルーンがモデルをやっているという画家の部屋を貴女は聞いていないか?」

 すると一瞬間があって、

「もしかして寂しくなられたのですか?」

「ば、馬鹿を言うな。そういうことではなくて……つまりよくよく考えれば俺はルーンの保護者として一度挨拶ぐらいはしておかなければならないなと、そういうことだ」

「あら。それだけですの?」

 ルクレツィアはどこか含みのある笑みを微かにこぼしながら、

「部屋の番号はウォードさんから聞いてますわ。もうそろそろ終わる頃でしょうし、迎えに行けばルーンさんもお喜びになられるかもしれませんわね」

「そうか。では――」

 ルクレツィアから部屋の番号を聞き、俺たちは三人揃って部屋を出た。部屋の前ではエルダが同じく入浴の準備をして待っており、どうやら一緒に温泉に入る約束になっていたようだ。……ルクレツィアとエルダは性格的な相性がどんなものかと一時期不安に思っていたのだが、なんだかんだで仲良くやっているようだ。

「では、ヴェスタ様」

「うむ」

 画家の部屋と温泉の方向はまったくの逆だったので、俺一人が部屋の入り口で別れることとなった。

 廊下を進み、突き当たりの階段を一階上へ。

 画家の部屋は三階建ての宿の最上階、一番端にあるらしい。

「む……?」

 三階に上ると違和感があった。

 一階と二階は宿泊客で賑わっていたのだが、三階は妙にひっそりとしている。部屋数が少ないということもあるのだろうが、一部屋一部屋が大きい造りになっていて、どうやら一般の客はあまり泊まっていないようだ。

 おそらく金持ちか常連専用の階なのだろう。その画家とやらも常連という話だった。

 さて――

 一番端というのは、階段から一番遠い部屋、つまり一番奥の部屋だ。

 人気のない廊下を歩いていくと、やがて声が聞こえた。

「――お疲れ様。隣の部屋で着替えてきていいよ」

 男性の声だった。聞き覚えはない。

 続けて、

「まだ終わんないのか? これ、どれぐらいかかるんだ?」

 疲れた声。こっちは非常に聞き覚えがある。

 どうやらルクレツィアの言ったとおり、今日のモデルの仕事がちょうど終わったところのようだ。

「そうだなぁ。君には悪いんだけど、まだちょっとイメージが固まりきってなくてさ。ああ、勘違いしないで、別に君が悪いわけじゃないんだ。ただ、ちょっとしっくりきてないところがあってね。もちろん日数が延びたらその分の報酬はきちんと払うから心配ないよ」

 再び聞こえた男の声。

 どうやらこれが画家の男らしい。

「ま、引き受けちまったからには最後まで付き合うけどよ……」

 不満げなルーンの声。

「ごめんよ。明日もよろしく」

 一番突き当たりの部屋から白い服を着た人影が現れる。

 俺はその方向へと足を進めながら、

「おぉ、ルーンよ。ちょうど良かった――」


 その瞬間。

 喉の奥に巨大な岩石でも詰まったかのように言葉が出なくなった。


「ん?」

 奥の部屋から出てきたルーンが足を止め、こちらに視線を向けて――

「え……ちょっ、おま――」

 向こうもまるで時間が停止したように一瞬動きを止める。


 ルーンが身にまとっていた白い服――のように見えたそれは、結婚衣裳だった。

 それも新郎の衣装ではない。

 花嫁衣裳だ。

 唇には鮮やかなルージュの赤。

 いつもと違うのはただそれだけ。


 それだけ、なのだが――


「ル、ルーン、お前、その格好は一体……」

「!」

 ルーンの薄褐色の肌が瞬時に赤味を帯びた。

「お……お前! 絶対見に来んなって言っただろぉッ!」

 歩きづらそうに長いスカートを持ち上げながら、ルーンが怒りの形相でこちらにやってくる。

 俺は慌てて、

「い、いや、違うぞ! 俺は別に見に来たわけではなく、ただ迎えに――」

「同じだ、この馬鹿! アンポンタン!!」

「アンポ――い、いや」

 俺は混乱していた。

 何故ルーンが花嫁衣裳を着てモデルをやっているのか――ということよりも。

 それよりも。

 ルーンが眼前まで迫ってくる。

 思わず。

 俺は一歩、二歩と後ろに下がった。

「おいッ! 逃げるなッ!」

 ルーンが怒りの形相でさらに追いかけてくる。

「そ、そう言われても、だな――」

 まずい。

 これはまずい。

 俺はさらに混乱した。

 女装? 画家がそういう趣味の人間なのか?

 ――普通の状況であればおそらくそう考えていただろう。当然だ。男であるルーンに花嫁衣裳を着せるなんて、普通じゃない。

 が、しかし。

 しかしだ。

 今日ばかりは、俺の思考はそっちへ向かわなかった。

 何故なら――

「おい、ヴェスタ――!」

「ルーン……お、お前もしかして――」

 目の前にいる花嫁衣装姿のルーンはあまりにも美しく、


 勘違いなど、しようがなかったのである――


「お、お前、もしかして女の子――」

「ッ!」

 ルーンが驚いたように目を見開いて。

 そして。

「今さら……なんだよ……」

 拳をわなわなと震わせると、叫んだ。

「なんなんだよ、この馬鹿やろぉぉぉぉぉ――ッ!!」

「うおぉッ! 落ちつけ! ルーン! 落ち着くのだッ!!」

「忘れろ! 全部忘れろッ! 後頭部打ち付けてもっかい記憶喪失になれぇぇッ!」

「無茶苦茶なこと言うなぁぁぁッ!!」

「――ど、どうしたんだ、一体!?」

 奥の部屋から画家の男が飛び出してきて、階下もざわつきはじめる。

 それでもルーンの怒りは収まることがなく。


 結局、しばらくして駆けつけたウォードによってその場は収められたのだが――


「……御主人様? なにかあったのですか?」

 夜空に浮かぶ少し欠けた月を眺めていると、温泉上がりのミュウが不思議そうに覗き込んできた。

「いや、ちょっと、な……」

 曖昧な返事をすると、それと重なるようにして仕切りの向こうからルクレツィアの声が聞こえてくる。

「ルーンさん、どうなさったのです? ずいぶんと不機嫌そうですけれど――」

「ほっといてくれ……」

 ルーンの声がくぐもっているのは、うつ伏せでベッドに顔を押し付けているためだろう。

 部屋に戻ってから、彼――いや、彼女はずっとあの調子だ。

 ……無理もない、のかもしれない。

 正直、俺もあの月に向かって叫びだしたい気分だ。

 ――まさかルーンが男ではなく女だったとは。

 いや、思い返してみるとどうして気付かなかったのかと我ながら不思議に思うことばかりだったが、まあ今となってはその理由などはどうでも良いことだ。

 問題は――

「……あー」

 思わず言葉が漏れる。

「御主人様?」

「すまん。少し放っておいてくれんか……」

「はい。わかりました」

 心配そうにしながらも、ミュウは素直に下がっていく。

 ……目を閉じると、瞼の裏に先ほどのルーンの花嫁姿が焼きついていた。

 そう、問題は。


 そんな彼女の姿を思い返すたび、俺の鼓動が否応なしに高鳴ってしまうということなのである――


「……うぉぉぉぉぉぉ――ッ!!」

 髪を掻きむしり、壁に頭を打ち付ける。

「いてぇっ!!」

「ご、御主人様……?」

「……あらら」

 仕切りのこっち側にやってきたルクレツィアが、そんな俺の姿を見てポツリと零す。

「途中までは想定どおりでしたけど、そこから斜め上の方向に飛んでいってしまったみたいですわね……」

「ルクレツィアさん? 御主人様はいったい……」

「しばらく放っておきましょう。ミュウちゃんが心配する必要ないわ」

「はあ」

 よくわかってなさそうなミュウが惚けたような返事をして。


 ――そして温泉宿の夜は今日も更けていったのである。


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