プロローグ
祝福の鐘が鳴る―――
ざぁっと柔らかな空気が地面から吹き上がり、ルーンはその春風を追うように視線を空へと向けた。
レースのような薄い雲。
その向こうに広がる透き通る青い空。
耳をくすぐる歓声。
ふと足を止め視線を横へ向けると、通りの向こうにあるクライン教の教会から人々の祝福を受けた男女がちょうど姿を現したところだった。
思わず、見つめる。
歩いておよそ三十秒の距離。
そんなにも近いのに、それはまるで遠い異世界の出来事のようだ。
――そんなガラじゃない。
それに憧れる同じ年頃の少女たちとは明らかに違う。
性格も環境も。
周りからそう見られているのはわかっているし、彼女自身もそう思っている。
優しい旦那と、それに寄り添う自分――その光景を想像しただけで変な笑いがこみ上げた。
手にしたナイフを料理包丁に持ち替えたところで、愛する人間を喜ばせる料理が作れるようになるわけでない。
そう。
わかりきったことなのだ――
ルーンは振り切るようにしてその光景に背を向ける。
産まれたときからそんな幸せとは無縁の人生だった。安らげる場所がなかったわけではないが、今はそれもすべて奪われてしまった。
今の彼女は復讐者。
自分の幸せどころか、他人の幸せを祈ることすらきっと許されない。
しかし――
「……復讐、か」
その言葉さえ、今となっては滑稽だった。
「それもこれも全部あの馬鹿のせいだ」
復讐すべき相手。
その最右翼である男はあろうことかすべての記憶を失っていた。それだけならまだしも、その男は、復讐だの敵討ちだのと言っているのが馬鹿らしく思えてしまうような間抜けな人物だったのである。
それはまるで喜劇。
「あの馬鹿のせいで……」
ただ――
復讐の物語が喜劇となってしまったのは何もその男だけの責任ではない。
「あの馬鹿の――」
ふと上げた顔。
その視線の先には、むき出しになった土の道がある。
道の先には滞在する宿が。
そしてその宿には――
「……」
それは紛うことなき彼女の“帰路”。復讐を成さぬ彼女に行くべき場所など――帰るべき場所などあろうはずもないというのに。
「なに、やってんだ、私……」
何をどうしたいかなんて、とうの昔にわからなくなってしまっていて――
「……ルーン? お前、ルーンじゃないか?」
「え――」
そんな彼女に訪れた突然の再会は、まるで季節の終わりを告げる春の雷のようだった。