その1「記憶喪失の大量殺戮者(ジェノサイダー)」
俺は夢を見ていた。
過去形だ。だから、今はもう見ていないってことになる。先ほどまで鮮明に映っていた映像も、リアルに響いていた音も、全て消えてしまった。
目の前にあるのは、闇、闇、闇。
視覚も、嗅覚も、聴覚も、全てが遮断されてしまっている。
その代わり、俺の体が唯一感じていたもの――
(あー、腹減った)
空腹である。どうやら意識の半分はすでに覚醒しかけており、この怠惰な肉体も起きることを要求しているらしい。
(ふむ、今日の朝飯はなんであろうか……)
思わずそんなことを想像してしまう俺。これは別に食い意地が張っているわけではなく、動物の本能による極めて自然な反応である。
(昨日はあまり好きな物じゃなかったしな、今日こそは――)
そうそう。
昨日の朝食は確か――
(……ん?)
思い出せなかった。
(なんだったか……)
とにかく、嫌いなものばかりで、ほとんど手をつけなかったような記憶はあるのだが。やはり思い出せない。
(なんだ? おかしいぞ?)
だいたい、俺はそれほど好き嫌いはないはずで。嫌いなものといえばせいぜい限られていて――
(なんだったか……)
それもやはり思い出せない。どうやら、頭がまだ完全に覚醒していないらしかった。
(やれやれ、この歳で健忘症か)
そんなことを思って、感覚だけで苦笑する。そうしながら、現実でも寝ながら笑っていたら不気味だろうな、などと考えてみるが、まあそんな心配はない。何故なら、俺には寝顔を見られる心配をしなければならないような、そんな関係の人間は――
(……いない、はずだな)
多分、いない……だろう。
(うん? 何か変だな……さっきから)
いくら頭が半分寝ているといっても、思い出せないことがあまりに多すぎる。
それも、生活に深く密着した部分まで思い出せないという……なんか、あまりにも不自然な気がした。
そして、
(そもそも――)
そして、俺はそこで重大な問題を発見してしまったのだ。
(……俺って……誰だっけ……?)
~記憶喪失の大量殺戮者~
(うーむ。俺は一体誰なんだ?)
これは大問題だった。理由はよくわからないが、俺は自分が誰なのか思い出せないらしい。
(名前すら思い出せないってのは、もしかして相当ヤバいのではないか?)
いくら頭が半分寝ているとはいえ、さすがにありえない話だ。
そもそも、俺はどこでどうやって寝ているのだろうか。
昨日はなにをしていたのだろう?
寝る直前は――
(……思い出せないな)
はっきりとわかるのは二つだけ。
どうやら、俺はこの世に存在していて。そして、どこかで寝ているらしいということ。
(そういや、さっきから少し眩しいな)
瞼の裏に微かな光を感じた。ということは、少なくとも朝なのだろう。どうやら、体の感覚も少しずつ覚醒してきているようだ。
(それでも思い出せん)
本格的にヤバい。
そして、達した結論。
(もしかして……俺、記憶喪失というやつではないのか?)
それは非現実的な発想でありつつも、今のこの状況にはマッチしている気がする。
とはいえ、それにしては頭の中が嫌にすっきりとしているが……こんなものなのだろうか? 俺にとっては未体験ゾーンなので、はっきりとしたことは何も言えないのだが。
(さて、どうする)
考える。
考える頭が残っているということは、それほどひどい状態ではないと考えられる。脳に異常があって余命幾ばくとか、実はどこかの療養所で寝たきりとか、そういうことではないはずだ。
(とりあえず自分の名前もわからんのでは困るな。思い出してみよう)
考える。
一秒。
二秒。
三秒――。
(……ま、いいか。起きればなんかわかるであろう)
すぐにそんな結論が採択されてしまった。この結果から推察するに、俺は相当楽観的な性格なのだろう。
(ネガティブよりはよっぽど良いではないかッ!!)
意味もなく力説しているうちに、体が目覚めることを脳に要求し始めた。
いや、脳が体に要求してるのかも。
(まあ、どっちでもいいか)
そんなこんなで、俺の体はついに目覚め始めたのである――
ポカポカとした陽気が心地よい。俺が寝ているところには、太陽の光が直接射し込んでいるらしく、少しの眩しさと心地の良い温もりを注いでくれている。
「ぅ……む……」
体の感覚は完全に戻っていた。それとともに、後頭部に若干の痛みが蘇ってくる。
(ああ。記憶がはっきりしないのって、これが原因ではないのか?)
だとしたら相当ヤバいんじゃ、とか思ったが、それは言わない約束である。
考えたら負けなのだ。
(さて、あとは目を開けるだけなのだが……目を開ける前にやっておかねばならないことがある)
そう。それはとても重要だ。
――なにが、って?
考えても見るがいい。人間はだいたい一日に一回は睡眠をとるわけで、眠りから目覚める機会なんてのは月に三十回ほどもあるのだ。
――え? なにを言っているのかわからないって?
つまりだ。俺が言いたいのは、普通に眠りから覚めるだけなら、別に記憶喪失じゃなくても出来るってこと。これなのだ。俺はそんな当たり前の人生など、これっぽっちも望んでいない。せっかく、記憶喪失などという、誰でも体験できるわけじゃない出来事に遭遇したのだ。楽しまなければ、記憶をなくした分だけ損であろう。
(ということで……目を開けた瞬間、どんな光景が待っているのか想像してみようではないか!)
なにしろ、こっちはなにも覚えていないのである。
もしかしたら、大金持ちの一人息子かもしれないし、どこかの国の王子様、なんてことも考えられる。それを、この、現時点で感じられる少ない手がかりから想像してみるのだ。
名付けて“記憶喪失でびっくり! 俺って○○だったの? ゲェーム!!”である。
(こんなゲームをやったのは、世界広しと言えども俺ぐらいのものだろう……)
それって結構すごいことだと思うのだが、どうだ?
さて、そんなこんなで。
まず最初に、出来うる限りの情報を集めてみよう。
第一に、俺が寝ているところ。
これは紛れもなくベッドの中だ。そして、近くには窓があり、そこからは太陽の光が射し込んできている。
第二に、雀の声が結構近くに聞こえている。ということは、大きな屋敷の奥深くとか、どこかの地下室とか、そういう場所でないことは確かだ。
(おそらく、少し小さめの一軒家らしきところ……)
近くに人の気配は、ない。多分。少なくとも、大勢の人間が動いているような気配はない。
この時点で、大金持ちであるという望みは薄れてしまったようだ。
(なんか、いきなり楽しみが薄れてしまったな……)
こうなったら、もっと一般的な楽しみに期待するしかない。
(そうだな……目が覚めたら、とてつもなく可愛くて優しい女の子が看病してくれている、というのはどうだ?)
確かに、人の動いている気配はしない。が、例えば、ベッドの脇で看病に疲れて寝てしまっているとか、今はここを離れて朝食を作ってくれているとか。
有り得ない話ではない。というか、記憶喪失になっちゃったのだから、それぐらいの役得があってもいいではないか。
(次。職業でも予想してみるか)
これは難しい。職種など大量にあるし、手がかりがあまりにも少なすぎる。
とりあえずは体の感覚から、自分の外見予想でもしてみよう。
(……結構背が高いように思えるな)
俺の予想では百九十センチといったところか。結構細身で足も長いような気がする。
(実は、結構いい感じか?)
これに関してはちょっと期待してもいいようだ。
そして、ここから職種予想であるが――
(細身にしては筋肉が結構ついている)
ということは、ある程度体を使う仕事なのかもしれない。
(大工! ……ってのは)
そう思ったが、あまり格好良くない。どうせなにもわからないのだから、もっと夢を見てもいいだろう。
考えを巡らせる。
体を使い、希少価値があり、格好の良い職業――
(デビルバスター! ってのはどうだ)
結局、俺が行き着いたのはそこだった。
デビルバスターというのは、いわゆる、この世に害の成す“魔”を退治する、まあ、俺たち一般人にしてみれば、憧れの対象なのである。
ただ、これも“魔”を退治していれば勝手に名乗れるというようなものではなく、年に一度、帝都ヴォルテストで半月にも及ぶ選定試験が行われ、合格率一パーセント未満という狭き門をくぐって、ようやくデビルバスターを名乗れるわけだ。
これには人魔を退治する技だけではなく、人魔たちに関する幅広い知識の他、一般的な教養もかなり深く拾得していなければならないのだが――。
(……あんまり知識持ってないな)
しかしこれは、記憶喪失の影響ということも考えられる。
(よし。決定ということにしよう)
俺の職種はデビルバスターだ。
(おぉ、なんだか明るい未来が見えてきたではないか)
特別裕福なわけでもないが、しっかり看病してくれる女の子がいて(恋人かどうかはまだ決めてなかったが、少なくとも悪い関係ではないだろう)長身、細身でルックスが良く(?)、そしてみんなの憧れの的、デビルバスターである。もちろん強いのだ。
これ以上を望んではバチが当たってしまうに違いない。
目を開けるのが楽しみになってきた。
(……もっとも、どう考えても期待ハズレなんだろうが)
考えてはいけないことを考えてしまった。
……が、せめて一つぐらいは現実になることを祈ろう。
(開けるぞー、目を開けるぞー……)
誰に言うでもなく、心の中でそう呟くと、俺はゆっくりと目を開くことにした。
「……ん……眩しいな」
薄く目を開けると、まず真っ先に太陽の光が飛び込んできた。視界が真っ白になって何も見えなくなる。
だが、眩しかったのもその一瞬だけ。
すぐになにかが太陽の光を遮るようにして、俺の視界の中に現れた。
(ん……人、か?)
その人物はまるで覗き込むようにしてこちらを見ている。ただ、逆光になっているため、その顔は全く見えなかった。
「お目覚めになりましたか?」
「!?」
その声は――俺の錯覚でなければ若い女の子のように聞こえた。
(そ、そんな馬鹿な!?)
先ほどの妄想が現実になったのかと、俺は内心ドキドキしていた。
(……だが、待て)
冷静になるよう努力する。
(声はちょっと可愛い風にも聞こえるが、だからといって顔が可愛いとは限らないし、優しいとも限らないではないか)
だが、そう考える頭とは裏腹に、俺の期待感は全く止まらなかった。
(落ち着け……わかっているのだ。どうせ喜ばせておいて、いきなりどん底に突き落とすに決まっている。それが奴の手口なのだ。騙されるな……)
誰の手口だがさっぱりわからないが、ぬか喜びなどゴメンである。期待すればするほど後で馬鹿を見る。もしも、俺の期待通りだったとしても……期待していなかった方が嬉しいではないか。
(そう、不細工で性格の最悪な女に違いない……絶対そうだ)
そんな俺の心の葛藤など全く無視して、目は徐々に太陽の光に慣れてくる。眩しくてまともに見ることの出来なかった女の子の顔が、俺の視界のなかではっきりと形を取り始めた。
そして、俺の目に映った女の子は――
「……のわああああああああああっ!!!!!!」
ずざざざざざざっ! ←ベッドの端に後ずさる音
ずるっ……ゴンッ! ←ベッドから転げ落ちる音
ドダダダダダダッ!!! ←木の床を四つ足で移動し、ベッドから離れる音
「はぁっ! はぁっ!!」
「……?」
そうして部屋の壁に背中を張り付かせた俺を、女の子は少し不思議そうに見ていた。
が、今の俺にはそんなことを気にしている余裕などない。
(や、ヤバい!)
俺は冷や汗が背中を伝うのを感じていた。
(ま、待て! 落ち着くのだ!!)
誤解のないように言っておくが、俺が逃げたのは、視界に現れた女の子がとてつもなくブサ――いや、つまり、その、オブラートに包み込んだ言い方をすると、いわゆる“地球外生命体”だったから……ではない。
その“逆”である。
(やたらと可愛いではないか!!)
そう。可愛いのだ。俺の頭の中にいた“可愛くて優しい女の子(想像図)”が一瞬で吹き飛んでしまうほどに。
とてもベリーでキュートなぐらいに可愛いのである。
汚れのない澄んだ水のように綺麗で大きな瞳。
これ以上ない、というぐらいに整った顔立ち。
首をかしげて、不思議そうに俺を見つめるその表情。
どこにも、俺にとってマイナスになる要素は持ち合わせていなかった。
(た、ただ――)
そんな中、なんとか冷静さを少し取り戻した俺は、もう一度、女の子の出で立ちを観察して……そして、結論を導き出した。
(少し……年齢的に、な)
目の前にいる女の子はせいぜい十歳を少し越えた程度だった。“可愛い”と感じたのは確かだが、それはどちらかというと、男が女に、ではなく、大人が子供に対して感じるそれに近い。
俺の歳がいくつなのかはっきりしないが、おそらく歳の差は十歳以上あるだろう。
(う、うーむ……ま……まあ良い。まだなにもわかってないのだし、もしかしたら、兄妹とかそういう関係かもしれないではないか)
ひとまず自分の心を落ち着かせた。というより、看病してくれていたのだから、そういう可能性の方が却って高いわけで。娘ってことはさすがにないと思うが、それすら定かではない。
(とにかく、ここはこの娘に話を聞こう。このままではなにもわからん……)
そう決心し、まずは何から聞こうかと、ようやく冷静になった頭を働かせ始める。
(まずは名前か……うむ。そうだろうな)
が、ここで再び、静まり始めた俺の心の小池(謎)に大きな巨石が投じられることとなった。
それは、女の子が首を傾けながら放った一言。
「御主人様? どうなさったのですか?」
「……な、なななななな……なにぃぃぃっ!!???」
再び後ずさりそうになって、後ろが壁だったことに気付き、そのままずり上がるようにして立ち上がる。
「ご、ごごごごご、ごしゅじんさまって、だ、だだだだだ、誰のことなのだっ!!?」
(も……もしかして俺は、こんな女の子を隷属させて喜んでいる、超絶変態野郎なのかぁっ!!!?)
話がいきなり飛躍しすぎであった。
「御主人様?」
「み……見るなっ! そんな目で俺を見るでないっ!!」
壁に背をつけたままでブンブンと首を振る。
「わかりました」
「……へ?」
「これでよろしいですか?」
女の子は俺に背中を向け、全く冷静な声でそう言った。
「は、はぁ、まあ……」
そんな女の子の行動に、俺は少し落ち着きを取り戻す。――というか、半分はネタだったので、冷たく流されたようでちょっと淋しい。
「……今のはちょっとした冗談だ」
ちょっと気抜けしたままトコトコとベッドに戻る。
これ以上、ネタに走るのは気が引けたので、本格的に事情を聞くことにした。
「なんというかだな……その、驚かないで欲しいのだが」
「はい。わかりました」
「……いや、その前にこっちを向いてくれんか?」
「? もう、いいのですか?」
背中を向けたまま、不思議そうに聞き返してくる。どうも、相当に律儀な子らしい。……それとも、単なる嫌味か?
現時点ではどっちか判断するのが難しいが、とりあえず、ここは振り向いてもらわなければ困る。
「うむ。振り向いても構わんぞ」
「はい。ありがとうございます」
こちらを振り返って、ゆっくりと律儀な感じに頭を下げた。
(……なんか反応がちょっと変だな、この娘)
俺は初めてそう思った。
だがとにかく、彼女の口調や反応からして、俺がどうやら彼女の“御主人様”であることは間違いないらしい。どういう経緯でどういう目的かはわからないが、俺はこの女の子を雇っているのだろう。
周りを見る。
どこかの一軒家かと思っていた場所は、少しだけ立派な小屋だった。日用品は一応揃っているが、長く住むのに適したような場所ではない。
これらから察するに、やはり俺は少々金持ちの家の人間で、ちょっとした小旅行に召使いの少女を連れてきた……という感じなのか?
(……待て待て。結論を出すのはまだ早い)
そう。まずはこの少女に事情を話し、そして俺が何者であるのか、正しい情報を手に入れるべきではないか。
「ということで、どうやら……俺は記憶喪失らしいのだ」
「記憶喪失ですね」
「ぜんっ……ぜん、驚いておらんな」
「御主人様が驚くなと言いました」
「……なるほど。正論ではある」
とはいえ、普通は少しぐらい驚くものだと思うのだが、どうだろうか?
「では、どうなさいますか?」
やはり動揺の色さえも見せない女の子。やはり奇妙な娘だと思ったが、今はとりあえずそんなことを気にしている場合ではなかった。
「俺に聞かれても困るのだが……まずは、俺の名前と君の名前、それに、俺と君との関係を教えてもらいたい」
「わかりました」
女の子はゆっくりと頷いた。それと一緒に、彼女が頭につけているサークレットの宝石が、太陽の光を反射してキラリと光る。
黒い宝石。
なんという宝石だろうか。見たことがない。
(そういえば……格好も妙だ)
彼女の出で立ちをもう一度観察する。
高価そうな黒い宝石のはまった銀色のサークレットに、法衣のような白い装束。どう見ても一般人の服装ではなく、かといって、どこかの貴族に使える召使いの出で立ちでもない。
敢えて近いものを挙げるとするならば――女神官と言ったところだろうか。
まあ、彼女の主人が変わった趣味の持ち主で、召使い全員にこういう格好をさせているというのならわからんが。
(変わった、というか、そこまでいくと変人ではないか……)
どんな主人か見てみたいものである。
(……俺だ)
心の中でやっても誰もウケてくれない。
ちょっと空しい。
「御主人様のお名前はヴェスタ=ランバート様とおっしゃいます」
そうこうしているうちに、女の子の説明が始まった。
「ヴェスタ、ランバート?」
聞き覚えのない名前だ。
(……って、それはヤバイではないか!)
心の中で突っ込みを入れる俺。
やっぱり空しい。
「私の名前はミュウと申します」
「ミュウ、か。ふむ」
女の子によく似合った……可愛らしい名前だと思った。
そして、ミュウは言葉を続ける。
「御主人様は私の御主人様です」
「それは当たり前だ」
思わず素で突っ込んでしまったが、ミュウは笑わなかった。
「そして、私は御主人様の奴隷です」
「なるほど」
まあ、簡単な説明ではあったが、それ以外に説明のしようがなかったのだろう。
とりあえず、俺の名前はヴェスタで、彼女の名前はミュウ。そして俺がミュウの御主人様であり、ミュウは俺の奴隷である、と……
「奴隷?」
「はい」
何か引っかかった。
「……奴隷?」
「はい」
ミュウはただ頷くことを繰り返すだけだ。
「……って、待たんかぁッ!!!!」
俺は両手を大きく振り上げて、ぼふっ……と、それを布団に叩きつけると、ミュウの方に向かって身を乗り出す。
「奴隷!? 奴隷ってあの、シモベとかゲボクとかドボクとかいうのと同義で、ドレイともヌレイとも読んだりする、あの奴隷のことかッ!!!?」
「いいえ。下僕や奴僕というのは、通常、男性に適用するものですから、私の場合には当てはまらないかもです。でも、シモベというのはだいたい近い意味合いでしょうか」
「冷静に分析するでないっ!!」
思わず強烈に突っ込んでしまった。
ちなみに、一般的に“奴隷”といえば、いわゆる金銭で売買された人々のことをいい、俺たちの住むこの大陸の大半では、現在、認められていない制度だ。
(って、そんなことは覚えてるのか、俺……)
ま、まあ、それはいいとして。
「いかん! それはいかん! 俺は絶対に認めんぞっ!!」
強い口調で言って、勢いに任せてミュウの肩をがっしりと掴む。
「いいか! 人というのは元来自由なものなのだ! 人が人を買ったりすることなど、言語道断! 犬畜生にも劣る行為なのだッ!!!」
「ですが、それが私と御主人様との契約ですから」
「だああああっ! ダメだと言っているだろうがっ!!」
「それでは、私との契約を破棄なさいますか?」
ミュウが真っ直ぐに俺の瞳を見つめてくる。
なんとなく、その言い方に少し引っかかるものを感じたが、それでも、考えるまでもなく、答えは決まっていた。
「当たり前だっ!」
「わかりました」
ミュウが目を閉じる。
そして、ゆっくりと立ち上がると、額のサークレットに手を移動させた。
「……ん? 何をしているのだ?」
その行動を不可解に感じて、そう聞いてみる。
「御主人様との契約を破棄します」
「……それと、そのサークレットを外そうとしていることとは、一体、どのような関係が?」
俺には全く理解できなかった。
もしかして、そのサークレットと引き換えに、俺は彼女を従えていたのだろうか? まあ、確かに高価そうなサークレットではあるし、金額的にはそこそこなものになるだろう。
一応、納得できなくはないのだが――。
「いいえ、サークレットではないです。御主人様から頂いた力をお返しするのです」
「俺から……力?」
ちんぷんかんぷんである……が、なんとなく、嫌な予感がした。なにが、というわけではないのだが、それを許してしまうと、とんでもないことになってしまうような気がする。
「その力ってのは、なんの力なのだ?」
「闇の力です。そして、私にとっては生命の源でもあります」
「……やみのちから? せいめいのみなもと?」
ますますわけがわからないが、非常に気になる単語なのは確かである。“せいめいのみなもと”というのが万が一“生命の源”という漢字を書くのであれば、それってかなりヤバイのでは。
「参考までに……それを外したら、ミュウ、君はどうなるのだ?」
「外したことはありませんけど、私の知識が正確なら、一週間も経たないうちに死ぬと思います」
「な、なるほど……」
彼女があまりにもさらりと言ってのけたため、俺の頭はその言葉を理解するのにかなりの時間を要し――そして、言葉を理解した後でも、いまいち、どういう反応をすればいいのかわからなかった。
「と、とりあえず……待て。契約とやらを破棄するのは、もう少し話を聞いてからにしよう。うむ」
彼女の言葉はにわかに信じがたいものではあったが、絶対に有り得ないと否定するだけの材料もない。
そしてそれ以上に、彼女が嘘をついているとはどうしても思えなかった。
しかし、だ。
その言葉が真実であるとするならば……この先の話は、どうも人間の世界だけでは収まりきらない話になりそうである。
「さて、ミュウよ」
ミュウが再び椅子に腰を下ろす。俺は大きく深呼吸をして、まずは気分を落ち着かせた。
「次はその“契約”のことについて聞きたいのだが」
「はい」
「つまりだな。君は……何故、俺の、その……奴隷になっているのだ?」
「そういう契約だからですが?」
「いや、そうではなくて、だな」
決して理解力に乏しいという印象は受けない。だが、何故か目の前のミュウという少女には、正確な意志が伝わりにくかった。なんというか、言葉の表面しか理解できていない感じがする。
「つまり、何故、君は俺と契約しなければならなかったのか、ということだ」
これでもまだ満足な答えが返ってくるとは思えなかったが、とりあえずは手探り。
ただ、結果的にこの質問が糸口としては最適だったらしい。
「それが、私たちの種族の掟だからです」
「……掟? 種族?」
なんか怪しい雰囲気の単語が出てきてしまった。
これはやはり――
「はい。感応幻蝶と呼ばれる、私たちルーミス族の掟です」
「……」
出た。これはもう確定の青ランプだ。
「つまりだな……ぶっちゃけた話、君は、いわゆる、普通の人間ではない、と?」
「それは、人間界の主位種族である人間族としての意味ですか?」
「あ……ああ、まあ、そういうことだ」
人間族だなんて単語が出ること自体、異世界の人間であることを示しているのだが、一応、そう言って頷いて見せる。
もちろん、結果はすでに見えていて。
「それなら違います。私は魔界に住む、俗に“契約者”と呼ばれる分類の生物です」
「……なるほど」
(しかも“契約者”か……)
俺だって、専門家ほどの知識はないにせよ、人魔や獣魔といった、いわゆる魔界に住む者たちのことを少しは知っている。
魔界の主位種族……いわゆる、人間界における人間に位置するものを“人魔”といい、それ以外の獣の姿をしたものを“獣魔”といい、そして、そのどちらでもない、人魔たちですらその全てを把握していない、人(人魔)と同等、あるいはそれ以上の高い知能を持ち、獣と人の特性を併せ持つ者たちを“契約者”というのである。
そして、契約者たちはそのほとんどの場合、数多くの規律や掟に縛られ、表に出てくる場合、基本的には人魔や人間と主従関係を結び、その命令によってのみ活動するという。
もちろん、ミュウの言うルーミス……感応幻蝶族のことなど知りはしないのだが、それはおそらく人間界の専門家とて知らないだろう。契約者とはそれほど秘密のベールに包まれた生き物なのだ。
それはつまり、彼女がよっぽど度胸の据わったホラ吹きでない限り、その言葉が真実であることの証明でもある。
(参ったな、これは……)
どうやら俺は想像していたよりもとんでもない人間であるらしい。契約者を従えている人間なんて、いわゆる、一般的に言う大金持ちより数が少ないだろう。
「わかった。君のことはもういい」
というか、これ以上聞いたところで、俺には理解できない。
「契約を破棄する云々の話もなしだ。とりあえずは今のままでよしとしよう」
「はい。ありがとうございます、御主人様」
ミュウがペコッと頭を下げる。
「が……御主人様と呼ぶのはまあいいとして。君は奴隷ではない。それだけは覚えておくように」
「でも、契約です」
「だからだな。……そう。君は俺の従者ってことで。奴隷じゃなくて従者だ」
「従者、ですか?」
「うむ。これから誰かに質問されたら、必ずそう答えるように」
「……御主人様がそうおっしゃるのでしたら」
「というか、そうしてもらわなければ困る」
先ほども言ったように、この大陸の大半の場所に奴隷制度はない。そんな中で、ミュウが誰かに俺の奴隷だなんて口走ったりしたら……ヘタをすれば俺は牢獄行きだ。
「さて、と……では最後に、俺のことを教えてくれんか」
本当は一番最初に聞かなければならないことだ。が、色々と驚きの事実がありすぎて、結局後回しになってしまった。
はっきり言って“記憶喪失でどっきり!”どころの話ではない。
(あ、“記憶喪失でびっくり!”だったか)
まあ、どっちでもいい。
「はい。……と言っても、何からお話すればいいでしょうか?」
「ふむ? そうか、それは確かに困るな」
俺のこと、と言っても、あまりにも漠然としすぎだろう。
「うむ。では、俺がここに来る直前、何をしていたか話してくれ」
「はい。それでしたら」
ミュウは改めて姿勢を正した。
やはり澄んだ真っ直ぐな瞳で俺を見つめる。
……まるで精霊のようだな、と思った。
そして、ミュウはそのまま口を開く。
「ここに来る直前、御主人様はここから徒歩で二時間ほどの距離にある、小規模の村を訪れていました」
「ふむふむ」
やはり、俺はここに定住しているわけではなく、彼女の口調から察するに、何らかの事情で旅をしている人間のようだ。
(謎多き旅の若者ってとこか)
なんかちょっとカッコいいことを想像しながら、説明に耳を傾ける。
そして、ミュウは言葉を続けた。
「御主人様はそこで、推定七十八名の人間を殺害し、家々を全て焼き払った後、その村を離れ、こちらへとやってきました」
「ほうほう。推定七十八名の――」
ピタ。
「……七十八名の……なに?」
「人間です。あ、人間族のことです」
そんなことはわかっている。俺が聞き返したのはそこではないのだ。
「それを? どうしたって?」
「殺害しました。ついでに家々を全て焼き払いました」
「……」
(は?)
「あ、いえ。七十八名中の九名は、御主人様の命により、私が殺害しましたけど」
「……あ、あの……俺には君が何を言っているのかよくわからないんですけど……?」
俺はかなり狼狽していた。
そりゃそうだ。いきなりそんなことを言われても、どう反応すればいいのか全くわからない。
というか、冗談だろ、これは絶対。
が、ミュウはそんな俺の心の中など全く気にした様子もなく、
「“殺害”の意味がわかりませんか? では、“殺しちゃった”ということで」
「それぐらいわかるわッ!!」
言っておくが、記憶がないこと以外、頭の中身は正常である。
「申し訳ありません」
ミュウが若干、申し訳なさそうな顔をする。それを見て、ちょっと胸キュン……じゃなくて、胸がチクリと痛んだ。
っていうか、それどころじゃない。
「あー……一応、聞いておくが……ギャグだろ?」
「ギャグではないです」
「じゃあネタ?」
「ネタでもありません」
「じゃあ……」
「マジです」
ミュウが妙に真剣な顔でいう。
――こいつ、遊んでるんじゃないだろうな?
(けど、ミュウが妙……っての、ダジャレみたいだな。わはははは……)
……現実逃避。
わかってるのだ、そんなことは。
「……死のう」
結論。
七十八人? そりゃどんなずさんな裁判だって死刑になるぞ。
捕まって、民衆の注目の中、罵声を浴びせかけられながら処刑されるよりは、ここで自ら命を絶った方が良いだろう。全く記憶にないことではあるが、いくら楽観人間の俺とはいえ、そんな事実を突きつけられては、のうのうと生きていくことなんて出来ない。
「?」
だが、そんな俺の言葉に、ミュウはものすごく不思議そうな顔をした。
「どうして死ぬのですか?」
「どうして、って……」
そんな彼女の態度に、俺は怪訝な顔を向ける。
(……聞きたいのは俺の方だぞ)
どうして彼女は平然そうな顔をしているのだろうか?
そう言えば、彼女も九人殺したと言っていた。
俺の命令で――俺の命令で?
(……なるほど)
先ほどの話から、頭ではわかっていたものの、感覚として理解してはいなかった。
俺から生命力を受け取っていること。生き死にを俺の判断に左右されるということ。
そこから導き出される結論は一つ。
(絶対隷従……)
彼女にとっての“契約”とは、つまりそういう意味なのだ。俺の命令が正義であり、俺の言うことが真理であり、俺の全てが彼女にとっての全て。
それは、ある意味、純真。……そしてある意味、冷酷だとも言える。
何も知らない子供が親の言うことを聞いて、それを達成したときに笑顔を見せる。それと同じなのだ。
たとえその内容が、誰かを殺すことであったとしても。
(俺が死ねば……彼女も死ぬのか?)
きっとそうだろう。彼女の言い分からすると、そうに違いない。
少し、可哀想な気がした。
「……」
俺は黙ってミュウを見る。
真っ直ぐな……そう。最初に感じたように、純真な瞳で俺を見ている。
実際に俺が死んだとしても、彼女は俺に対して恨み言一つ言わないのだろう。そして、今のように俺を見つめたまま、黙って死んでいくのだろう。
なにも……本当のことはなにもわからないまま。
(……考え方を変えよう)
思考の方向転換を試みた。
俺は七十八人の人間を殺した。ミュウが俺をからかっていない限り、それはおそらく事実であり、そして今までの話を総合するに、彼女が嘘をついている可能性は限りなくゼロに近い。
だから、やはり事実なのだろう。
だが……それは俺であって俺ではない。
以前の俺はどうだか知らないが、今の俺は、どんな事情があろうとも、七十八人もの人間を殺したりはしないだろう。
つまり、全くの別人だ。
他人が犯した罪を、俺がかぶる必要など、どこにあるだろう。
――都合の良い解釈だということはわかっている。だが、俺の命は俺だけの命ではない。二人分の命なのだ。
(……別に妊娠してるわけではないぞ)
どんなときでもジョークを言えるのが、俺の特技らしい。
……と、それは置いといて。
(早い話が、俺は死にたくない、ということだ)
ミュウも死なせたくない。……だから死なない。
勝手な話だが、つまりはそういうことだ。もちろん、タダで生きていくつもりはない。俺が以前、どのようなことをしていたのか知らないが、それを償うつもりで生きていく。
それが最善の選択であるような気がした。
(ついでに……)
俺はチラッとミュウの方を見た。
……相変わらずの瞳で俺を見つめている。
(この少女に、大事なことを教えてやらねばなるまい……)
契約者だから。魔だから。
そんなことは関係ない。
この人間界で生きている以上、人間として、この世界の一員として、生きていくことを彼女に教えてやりたい。俺の命令だからなんでもする。人をも無表情に殺す。……それではいけない。それでは、カラクリ人形と同じだ。
「ミュウ」
俺は真剣な表情で彼女を見た。
「はい」
ミュウは相変わらずの瞳で俺を見返す。
(うお、可愛い――って、そんなこと言ってる場合ではない!)
一人漫才もいい加減クセになりそうだ。
「いいか。これから俺の言うことを良く聞くのだ」
というか、これでも本当に真剣なのだ。
「はい」
「まず、これからは俺のことを“お父さん”と呼びたまえ」
「……?」
(ちがぁぁぁぁぁぁう!!!)
いかん。俺の頭の中は完全に腐っているらしい。
「……というのは冗談だ」
「はい」
「まず……そうだな」
どう切り出すべきか迷う。いや、迷っていたからこそ、さっき、余計なセリフが口をついてしまったのだ。
ということにしておこう。
「うむ。ひとまず……これからは、人を殺めることを禁ずる」
「はい。そうご命令ならば」
「いや、そうではなくて。誰の命令でも、だ。人を殺すのは絶対にいかん。……いいか?」
「はい。御主人様のご命令ですから」
「違う違う。俺の命令でもダメってことだ」
「……?」
ミュウが不思議そうな顔をする。
混乱してしまったらしい。
(むう……)
どうやら、わからせるには相当時間がかかりそうだ。が、見たところ、自分で考える、ということは充分にできているらしい。
「あー、まあよい。とにかく、人を殺めるのはいかんということだ」
「はい……わかりました」
ミュウは完全に納得できていないようだったが、それでも頷いてみせた。
とりあえず今はそれでいいだろう。何度もしつこく言い聞かせてやれば、そのうち理解できてくるに違いない。
「それと、だ」
もう一つ、言っておかなければならない。
「俺はこれから、人々への償いに人生を捧げるつもりだ」
「償い、ですか?」
「そうだ。……記憶にはないのだが、俺は七十八人もの人間を殺してしまったのだろう?」
「はい」
「その償い、だ。まあ、一人一年として……最低、七十八年は人々のために尽くすことになるであろうな」
それはつまり“一生”という意味だ。もちろん、俺の一年が一人の命と釣り合うとは思っていないが、それは俺の決意の現れであり、俺流の冗談でもある。
「だから、ミュウ。君もそのつもりで……俺についてきてくれ」
俺は今度こそ真剣度マックスでそう言った。
「はい。もちろんです」
ミュウはすぐにそう答える。
彼女がそうやって答えることぐらい充分承知の上だった。が、それでもこうして言葉で答えてもらえると、なんとなく嬉しい。
(ふう……やれやれ)
なんだか奇妙なことになってしまったが、目的があるというのはとりあえずいいことだ。
人々への償い然り、ミュウのこと然り。
(新しい人生の第一歩ってやつか……)
こう思ってはいけないのだろうが、何故か少し、清々しい気持ちだったりもする。
逆にいえば、記憶を失うまでの俺が濁っていたということだろうか?
……と。
「ですが、御主人様」
そんな俺の清々しい想いをブチ壊すかのように。
ミュウが衝撃の事実を口にした。
「一人一年だとすると、最低五百年は尽くさなければならない計算です。御主人様はその前にも村を三つ滅ぼしていますので」
「……は?」
完全に思考停止する俺。
淡々と、ミュウは続けた。
「御主人様はここ最近で、村を三つと人間を五百人ほど殺害しております。それ以前の話となりますと、私も細かいところまで覚えてはいませんが、おそらくは――」
「……」
「その前には道行く旅人を――」
「……」
ミュウの口から俺の様々な罪状が紡ぎ出されてくる。
が、俺はすでに聞いていなかった。
(……っていうか、俺って……大量殺戮者……?)
七十八人でもすでに想像の範疇を超えているというのに。
……五百人? ごひゃく……
(は……ははははは……)
「御主人様?」
「……ミュウ」
「はい」
「……やっぱ死んでいいか?」
俺の決意は早くも崩れ去るのであった。
こうして……全く先の見えない俺たちの奇妙な旅は、始まりを告げたのである。