プロローグ
「風の三十三族、か――」
男の足もとには鳥の死骸が横たわっていた。
鳥の死骸――そこに横たわっているものをそう表現することには少々の違和感を伴うかもしれない。何しろその鳥の死骸はあまりにも巨大すぎた。体長は10メートル以上、真っ暗な森の中にうずくまるその様はまるで小さな丘のようにも見える。
“風の三十三族”と呼ばれるその獣魔は、とある冬の日の夜、ビルア領の方角から飛来し、ヒンゲンドルフ領南東部の森林地帯に降り立ったところをごく一部の人間に目撃された。
そして半月後。
男はその森にやってきた。
男は決して大柄というわけではないし、荒くれ者というイメージの外見でもない。身長は160センチを僅かに上回る程度で、その顔には若干の幼ささえ垣間見えるが、その手に携えた大きな剣が獣魔のものと思われる血で真っ赤に染まっていることから、この巨大な鳥型の獣魔を屠ったのがこの男であることには疑いの余地もなかった。
男は獣魔の生命活動が完全に停止していることを確認すると、手にしていた剣を背負い、その獣魔の体を調べ始める。
辺りは静まり返っていた。
普段、この夜の森を賑わせている多数の獣たちも、この巨大な獣魔と男の争いに巻き込まれまいと、辺りから軒並み姿を消してしまったようだ。
やがて、
「! ……これは」
獣魔の背中辺りを探っていた男が“それ”を発見する。
羽毛に引っかかるようにして埋まっていたのは、白い布切れのようなもの――毟るようにして手に取るとそれはハンカチだった。綺麗な刺繍が施されており、今は見る影もないほどに汚れているが、元はかなり上質なものだろう。
「犠牲者の所有物か――いや」
それにしては引っかかっている位置が不自然だった。
遺留品、というよりは、まるで――
「この獣魔に跨っていた者の忘れ物、か」
それをポケットへと入れる。
それで男の目的は果たされた。
「……セオ隊長!」
ガサガサと音がして、新たに数人の男たちが――中には1名だけ女性が混じっていたが――姿を現す。
皆、ヒンゲンドルフ領の紋章を右肩に付けていた。
“隊長”と呼ばれた男が振り返ると、その場に全員が整列する。
「今回の任務、どうやらこれで終わりではないようだ」
示された薄汚れたハンカチを見て、隊員たちの表情が一瞬にして険しくなる。
誰もがその意味に気付いていた。
風の三十三族――それは獣魔の中でも大いに危険な存在であることを示すナンバー。
その獣魔を使役する“何者”か。
それがこの場にいる人間たちにとって、これまでにない危険な相手であることを想像するのは容易なことだった。
「敵はもう、この領内に入り込んでいる。……示さねばならない。このヒンゲンドルフ領に侵入することの恐ろしさを。我らグリゴーラスが守護するこの地に足を踏み入れることの愚かさを!」
隊員たちの勇ましい復唱の声が、静まり返った森の中に木霊する。
隊長――セオフィラスはその声を聞いて大きく頷いた。
魔の者によると思われるビルア公女拉致の噂は、かの地とまともな交流のないこのヒンゲンドルフ領にも伝わっていた。
そしてその数日後に巨大な獣魔の背に乗って侵入してきた何者か。
その目撃情報と、かの噂話の関連性について、疑いを持つにはそう時間はかからなかった。
そして、獣魔の背に残された上質なハンカチ。
疑いは確信へと変わる。
ならば、彼らの取るべき道は1つしかない。
その魔の者を探し出し、排除する。
それがこのヒンゲンドルフ領の北方に横たわる山脈の名を冠した彼ら――デビルバスター部隊“グリゴーラス”の使命だった。