その5「亡命の大量殺戮者(ジェノサイダー)」
人生とはままならぬ。
金も人も、人生に関わるありとあらゆるものが思い通りにはならぬものだ。
だからこそ面白い。
わかりきった未来になどなんの面白みもない。
そう。
だからこそ――
『正義の味方を目指していたら、手違いで婚姻間近の姫を誘拐し、国中から指名手配されるような極悪人になってしまった』
――なんて。
そんな出来事もいわば日常のスパイスであり、人生という大きな尺度の前では取るに足らぬ些細な誤算に過ぎないのである。
~亡命の大量殺戮者~
「なあ、ミュウよ」
見事な満月の夜。風が強いのはここが山の頂上付近であるということと、周りに遮蔽物がないせいだろう。
ビルア領の北西、ヒンゲンドルフ領との国境付近の山。俺たちは、人目に付かない夜になるのを待ってその山へと登ることになった。
地元の人間は不気味がってあまり近寄らない山だという。8合目辺りまでは樹木がうっそうと生い茂っていたが、それ以降は徐々に禿げ上がっていき、頂上近辺は赤茶けた土の地面が辺り一面に広がっているだけだった。
「本当に、やらねばならぬか?」
「はあ」
ミュウは小さく小首をかしげた。
「御主人様がそう、お望みになられましたので」
「いや、俺は確かに――そう。ビルアの兵士に見つからないように国境を越える手段はないものだろうか、と、そう言ったのは間違いないが」
強い風を遮るように、鼓膜をつんざく咆哮が月夜の荒野に響き渡った。
「……あれは、その、なんだ」
俺が指差した先では、夜闇の中に溶け込むような蒼褐色の巨大な鳥が大きく翼を広げ、こちらを威嚇するように真っ赤な目をランランと光らせていた。
「聞いていた話より、ずいぶんとデカいではないか……」
風の三十三族。人類によってその番号を与えられた風の獣魔は、翼のある獣魔の中でもっとも大きな体を持つ。体長は翼を畳んだ状態で7、8メートルにも及び、大人を数人乗せて長時間飛行することも可能だ。ただし非常に気性が荒いため、人はもちろんのこと、力のある人魔ですら手なずけるのは非常に困難である。
……というのが、つい先ほどミュウが事務的な口調で語ってくれた目の前の生物に対する要略であった。
「7、8メートルどころか10メートル以上ありそうに見えるのだが……」
ミュウはその方向をチラッと見やって、ほんの一瞬だけ考えると、
「どちらかといえば大きめの個体ですね」
「いやいや。個体がどうこうという問題ではなく」
俺たちとその巨大な獣魔との間はまだ100メートル以上は離れている。が、その距離が実際の何分の一にも思えてしまうほど、相手は巨大だった。
その、向き合っているだけで本能的な恐怖を覚えてしまう相手を、こともあろうに制圧しろというのだ。
善良な一般人であるところの俺がしり込みするのも当然の話であろう。
「……無理だ」
あえて説明はしないが、俺たちは色々な誤解によって周りから追われる身である。だから、どうしても“人目に付かずに国境を越える手段”が必要だった。
そこで耳にしたのが、この国境付近の山に巨大な翼を持つ獣魔、風の三十三族が住み着いたらしいという噂だった、というわけである。
「いや、まあ、仮にだ。仮に俺たちがあの巨大な鳥の化け物を叩きのめすことができたとして」
俺はその巨大な鳥の化け物を指差す。
「アレが、俺たちを素直に背中に乗せてくれるとは思えんのだが……」
「問題ありません」
「……」
どうやらミュウには何らかの秘策があるようだ。
まあ、それはいいとしても。
「……やるしかないのか」
ちなみに俺たちには他に2人の同行者がいるのだが、危険なので8合目近辺で待機している。夜の山だからその辺りも決して安心というわけではないが、まあルーンがついているから大丈夫だろう。
再びの咆哮。
巨大な鳥がついにその両方の翼を広げた。赤褐色の山肌を撫でるように強い風圧が産まれ、蒼褐色の巨大な身体が宙に浮かぶ。夜空をすべて覆いつくしてしまうのではないかと思えてしまうほどの、圧倒的な存在感。
「御主人様」
「――」
返事をしたつもりだったが、さらに大きい咆哮にかき消された。夜色の巨大な風が、その赤い目に敵意を漲らせて飛翔する。
「弱点は首の周りです。首の周りだけ体毛と皮膚が薄く、ダメージが通りやすくなります」
「首の周りって――」
宙に浮かんだ獣魔が急に羽ばたきを止めた。
次の瞬間。
「!」
その巨大な身体が俺とミュウに向かって効果を始める。
(――速い!)
「ミュウ!」
隣にいたミュウを脇に抱えて横に飛ぶ。
間一髪。
「く――ッ!」
ミュウの体よりも大きいのではないかと思われる爪が俺たちの立っていた場所――山肌を削り、岩石を破壊する。その巨大な質量に押しつぶされた空気が逃げ場を求めて辺りに風を巻き起こした。
「ちぃっ……」
俺は風圧に飛ばされないように足を踏ん張り、ミュウを下ろして両手で剣を構えたが、獣魔は俺が攻撃態勢に入るまえに再び夜空へと飛翔する。
「……あれの首を狙えというのか!?」
夜空に浮かぶその身体は完全に夜に溶け込み、赤い瞳でどうにか顔の位置を特定できるというレベル。加えてあの速さだ。
自分めがけて突進してくる闘牛の首に麻酔注射を打てというようなものである。
「はい。ですから」
ミュウは相変わらず起伏の少ない口調で俺を見上げ、言った。
「間違っても首を狙ってはいけません。死んでしまっては私にもどうすることもできませんから」
「……ミュウよ」
いまいち話が噛み合わない。
「殺す殺さないよりも、まず、俺たちが生き延びることを考えねば――」
「……」
ミュウはチラッと獣魔を見やる。
それから俺の顔を見上げる。
少し考えて、
「てきとーに叩けば大丈夫です」
「……は?」
獣魔の羽ばたきが止まった。
自らの寝床に入ってきた愚かな侵入者をその鋭い爪で破壊すべく。
「てきとーに」
緊張感の欠片も無い。
「くっ……」
こうなったらヤケだ。
あの爪を避け、どこでもいいから一撃を叩き込む。その程度ならば、不可能ではないかもしれない。
再び剣を両手で握り締めた。
じんわりと汗が滲む。
鼓膜を突き破りそうなほどの咆哮。
迫り来る巨大な爪。
(……来る!)
そうして獣魔が再びその巨大な爪を俺たちの方へ向けた、その刹那。
「動きを止めます」
ミュウが右手を上空に向けた。
「!」
右手からほとばしる閃光。
一時的に視力を失ったのか、滑空してきた獣魔の動きが鈍る。
(……ここしかない!!)
「おぉぉぉぉぉぉ――ッ!!」
覚悟を決めて地面を蹴り、俺はその巨大な敵に手の中の剣を振り下ろした――。
「……にしても」
月の光を浴びてウェーブがかったブロンドの髪が風にそよぐ。可憐で幻想的な要望も相まって、その姿はまるでおとぎ話の中から飛び出してきた姫のようだ。
「本当に人間ではないのですね」
いや、その人は実際に姫なのだ。そしてその人がそこにいるからこそ、俺たちは今、こうして人目を忍びながら国境を越えようとしているのである。
地上から数百、いや千メートル以上はあろうかという上空。
巨大な鳥の背に乗った俺たちは、今、まさにビルア領を抜け、隣のヒンゲンドルフ領へ入ろうとしていた。
(誘拐犯の汚名を着せられたままというのはどうにも心残りだが……)
仕方あるまい。
いや、今回ばかりは本当に俺は悪くないのだ。
「いよいよ、ビルア領を抜けるのですね」
と、ルクレツィアは少しかすれ気味の声でそう言った。
そんな、期待に胸を膨らませている彼女に水を差すのは少々気が引けたが、
「……ルクレツィアよ」
一言、言っておかねばなるまい。
「しつこいようだが、本当に行くのか? 考え直すなら今のうちではないか?」
「あら」
こんな上空であるにも関わらず、可憐な姫はまったく臆した様子も無く、巨大の鳥の背から身を乗り出すようにして地上を見つめながら言った。
「ヴェスタ様。今更、私を見捨てて行かれるおつもりですの?」
「いや、そういうつもりではないのだが……」
正義の味方が誘拐犯に間違われるという、あの世紀の冤罪事件からちょうど1週間が経った。
この1週間、俺は何度も何度も、しつこいぐらいに彼女を説得していた。それはそうだろう。国中の誰からも愛される姫が、誤解とはいえ誘拐犯として追われる一味と、今まさに国境を越えようとしているのであるから。
「俺たちの旅は決して安全なものではない。悪いことは言わぬ。家族のもとへ帰ったほうが良い」
「……」
するとルクレツィアは視線を横に流した。
その深く思案するかのような様子に、ようやく説得が通じて考え直してくれるのかと思いきや、
「……ひどい」
「へ?」
見る見るうちにその大きな双眸に涙の粒が溜まり、風に流れて夜空の中にきらりと溶けていった。
「大切なお母様のティアラを売り払ってまで尽くそうという私を、ヴェスタ様は用がなくなったからといって捨てていかれるおつもりなのですね……」
「な、なにを馬鹿な!」
なんという人聞きの悪いことを。
「そ、そもそもティアラもドレスも貴女が逃げるのに邪魔だと言うから――だ、だいたいあのティアラがそんなにも大事なものだったなど完全な初耳だ!」
俺がそう主張すると、ルクレツィアは上目遣いにチラッと俺の顔を見て、
「言ってませんでした?」
「聞いとらん!」
「……だとしても、あのティアラは二度と戻ってはこないでしょう。ああ、家に戻ったとしても、もうお母様の遺影に顔向けできません。ヴェスタ様に捨てられてしまったら、私はもう帰る場所もありませんわ……」
再び泣き崩れる。
俺はどうしたらいいのかわからなくなって、
「……ルーンよ。何とか言ってやってくれぬか」
「自業自得だろ」
尻尾の辺りに乗っていたルーンが突き放すように言った。
「だから何度も言ったじゃないか。そいつは曲者だ、って」
「……あら。曲者だなんて」
顔を上げたルクレツィアはケロッとしていた。
「最高のほめ言葉ですわ」
「……」
呆れるぐらい見事な変わり身の早さである。完全に騙されていた。可憐な天使はその白衣の下に小悪魔の尻尾を隠し持っていたわけだ。
やはり人は外見で判断してはいけないということなのか。
「そう、深くお考えにならずともよろしいではありませんか」
と、ルクレツィアは可憐な――もとい、小悪魔の微笑を浮かべて、
「ドレスとティアラの代金は約束どおり報酬としてお支払いいたします。私のことも、本当に邪魔だと思われたら人買いにでも売り飛ばしてくださって結構ですわ。きっと良い値で買っていただけます」
そんなルクレツィアの言葉に、俺は憮然と言い返した。
「そのようなこと、できるはずがない」
「もちろんヴェスタ様はそういう御方ではないと思っております。ただ、そうなったとしても後悔はない、ということですわ」
平然とそう言ってのけるルクレツィア。
俺はいよいよわからなくなって、
「……結局、貴女の目的はなんなのだ?」
ルクレツィアは少し思案して、
「大陸の北のほうには、好奇心は猫をも殺す、ということわざがあります。ヴェスタ様は御存知ですか?」
「確か、好奇心はほどほどにせよ、という教訓であろう」
そのぐらいは知っている。
が、ルクレツィアは小さく笑って、
「そのようですわね。……でも私は、その解釈は少し違うのではないかと思うのです」
「む? どういう意味だ?」
「それが本望だと、そう考える“ネコ”もいるということですわ。だいたい、愛のために死ぬのが美学で、好奇心のために死ぬのが愚かだというのは、どうにも納得のできない話だと思いませんか?」
「むぅ……」
そんなことは考えたことがなかったし、個人的には彼女に賛同する気にもなれなかったが、言いたいことはわかった。
「つまり貴女の目的はその“好奇心”である、と?」
ルクレツィアは嬉しそうに微笑んだ。
「おっしゃるとおりですわ」
「……」
なんとまあ。
そんなことのためにあのような騒ぎを起こし、高貴な身分を捨て、素性のよくわからない男とともに先の見えない旅をしようなどとは。
(愚かしい――とばかりは言えぬのか)
それを望んでいるネコを憐れむことは侮辱になるのかもしれない。
少なくとも彼女はそう考えているのだから、これ以上言うことはあるまい。
と、そのとき。
『御主人様』
ミュウの声が聞こえた。
『まもなく国境を越えます』
「そうか」
どちらにしてももう後戻りはできぬ。それに今更帰したところで俺の汚名が晴れるわけではない。
とすると……もう仕方が無いだろう。
「わかった。貴女がそこまで考えているのであればこれ以上は言うまい」
「感謝いたします。ヴェスタ様」
ルクレツィアはニッコリと微笑んで、そして深々と頭を下げた。相変わらずの微笑みは、その一瞬だけ裏のない本当の笑顔になったように見えた。
いや、そう感じてしまうこともあるいは彼女の掌の上なのだろうか。
「ミュウちゃんもルーンさんも、これからよろしくね」
『はい。ルクレツィアさん』
「……急になれなれしい口調になりやがって」
ルーンは相変わらずの態度である。
対照的にルクレツィアは楽しそうだ。
「あら。だって私のほうが年上ですもの」
「同じぐらいだろ?」
「だってルーンさんは“13歳ぐらいの男の子”でしょう? でしたら、私のほうが3つは年上ですわ」
「殴るぞ、このヤロウ」
視線で火花を散らし合う2人。
……まあ、なんだ。喧嘩するほど仲が良いという言葉もあるようだし、心配はあるまい。
たぶん。
『御主人様』
「む? どうした、ミュウ」
『そろそろ、限界のようです』
と、ミュウは言った。
そうそう。言い忘れていたが、ミュウは今、俺たちを乗せたこの巨大な鳥の中にいる。
“中にいる”という表現が正しいのかどうかわからないが、つまりはこの獣魔――風の三十三族と同化し、精神を乗っ取っている状態らしい。
もちろん、彼女にそんな能力があると知ったのはつい先ほどのことで、最初にルクレツィアが“やはり人間ではない”と感心していたのもそのことを指して言ったのだった。
「3人も乗せた状態ではそう遠くまでは飛べぬか。あまり人里に近付くと騒ぎになりかねん。どこか遠くの森か山に下りて、そこからは歩くこととしよう」
『はい、御主人様。では――左手の、あの森の中へ』
「うむ」
鳥が少しだけ体の向きを変えて森へと向かう。
「――」
「――! ――!」
後ろではルーンとルクレツィアがまだ何事か言い合っている。ムキになってまくしたてているルーンと、余裕の表情でそれを流しているルクレツィアは確かに“喧嘩するほど仲が良い”姉弟のように見えなくもない。
ミュウはなんだかんだとルーンとは仲が良いようだし、おそらくはルクレツィアからも可愛がられるだろうから、やはり末妹のポジションだろうか。
その光景を想像すると、少しだけ微笑ましい気分になった。
(……俺も頑張らねばな、色々と)
結婚もせずに3児の父となった気分を味わえるというのは、これはこれでなかなかオツなものだ。
「ところで、ルクレツィアよ」
「なんでしょう?」
ふと思いついて声をかけると、ルクレツィアはルーンとのじゃれ合いをすぐに中断してこちらを向いた。
「結局のところ、貴女とカディーナ嬢、それにフローラ嬢とはどのような関係だったのだ? ヴィルヘルム公を巡って命を狙われていた云々……も結局はただの方便だったのであろう?」
「ああ――」
と、ルクレツィアは頷いて、
「フローラ姉様は一番私の“姉らしい”御方でしたわ」
「というと?」
「おっとりしているように見えて姉妹一聡明な御方でした。今回の私の企みもお見通しの御様子でしたが、結局目を瞑ってくださったようです」
「む……まったくそんな感じには見えなかったが」
俺はあの、おっとりとして気が弱そうな、いかにも深窓の令嬢然とした立ち居振る舞いを思い出しながら言うと、
「それがフローラ姉様の恐ろしいところなのです。おそらく今回の追跡の手が緩かったのも、フローラ姉様が裏で手を回してくださったのですわ。私もフローラ姉様にだけは色々なことを相談しておりましたし」
「な、なるほど……」
そうなのだとすれば、本当に恐ろしい女性だ。ルクレツィアが“もっとも自分の姉らしい人物”と言ったのは、つまりは見た目と本質のギャップという意味なのだろう。
「では、カディーナ嬢は?」
「姉上は……」
と、ルクレツィアは少し考えるように視線を泳がせた。
「腹黒い下の妹2人に振り回されて、いつも貧乏くじを引かされる役でしたわ。基本的に嘘のつけない、直情的で、愚かしいほど正直な方でした」
「……」
不思議とけなしているようには聞こえなかった。
「本当に」
そう言って、ルクレツィアは苦笑した。
いくつもの微笑を持つ彼女の、初めて見る苦笑いだった。
「本当に馬鹿正直な姉でしたわ」
「……なるほど」
そこで俺はようやく気付いた。彼女の好奇心を満たすために作られたシナリオの、その裏に隠されたもう1つの目的に。
背後に視線を向けると、ビルア領の国境はすでに夜闇の中に溶けていた。
正面には広大な森が迫っている。
少しずつ高度が下がっていた。
『御主人様』
「ああ、頼む。……2人とも、落ちないようにしっかりと掴まっているのだぞ」
ガサガサと翼が枝葉を掻き分ける音。
こうして俺たちは新たな地、ヒンゲンドルフ領へと降り立ったのであった。
「まだ、お休みになられていなかったのですか?」
ノックの音とともに聞こえてきたそのおっとりとした口調の言葉にカディーナはゆっくりと部屋の入り口を振り返った。シンプルな調度品と明度を落とした照明に包まれた部屋の入り口に立っていたのは彼女の妹であるフローラだった。
パタン、と、フローラは後ろ手に扉を閉じる。
「カディーナお姉様。そうも毎晩思い悩んでおられては、いつか倒れてしまいますわ」
「……」
その言葉には何も答えず、カディーナは再び正面の鏡に視線を戻した。
それからしばし間があって、
「……何を考えているのかしら、あの子は」
と、カディーナは言った。
「ルクレツィアのことですか? ……あれは本当にあの子が望んだことなのです。あの子は常日頃から外へ出たい、色々な世界を見て回りたい、と、そう言っていたではありませんか」
「だからって」
カディーナは眉間に皺を寄せ、腹立たしそうに言った。
「あんな騒ぎを起こす必要はなかったわ。ちゃんと相談してくれたなら、父上に掛け合って、帝都やネービス辺りに留学させることだってできたじゃないの」
「……」
フローラはゆっくりと部屋の中央に進んで、1人掛けのソファへと腰を下ろした。
カディーナはそんな妹の動きを目で追いながら、さらに続ける。
「なのにあんな無茶をして、ヴィルヘルム様にも御迷惑をおかけして――」
「本当に、無鉄砲な妹ですね」
カディーナは腹立たしげに鼻を鳴らして、
「無鉄砲で、大迷惑な妹だわ」
「……」
少し沈黙があって、
「……そんなに心配ですか?」
フローラがそう言うと、カディーナは小さく握り締めた拳で鏡台の上を叩いた。
「当たり前でしょう! 襲撃騒動を起こして、無事に帰ってきたと思ったら、今度は誘拐騒ぎ! あなたは大丈夫だと言うけれど、どこの誰ともわからぬ怪しげな連中と一緒で――ああ、もう! 今度という今度は愛想が尽きたわ!」
「……」
フローラはクスッと笑って、
「カディーナお姉様の愛想は本当に無尽蔵ですわね」
「何か言った!?」
「いいえ、なにも」
フローラは視線を外へ向ける。
雲一つ無い、見事な満月の夜空だった。目を凝らすと、満月を背に夜空を飛ぶ鳥の姿が見える。……夜に飛ぶ鳥は珍しい。人間界の生き物ではない、魔界の鳥なのかもしれない。
「そういえばカディーナお姉様」
フローラは思い出したように言った。
「その、出来の悪い妹のおかげで大迷惑を被ってしまわれたヴィルヘルム様の件ですが、どうなさるおつもりですか?」
「……なんのこと?」
少し間があって、カディーナがそっぽを向いた。
フローラは淡々とした口調で続ける。
「あれだけ大勢の目の前であのようなことになってしまったのですから、何もなかったというわけにはいかないのではありませんか?」
「あれは――あのときはヴィルヘルム様も混乱しておられたのよ」
「そうかもしれませんけれど、あのような騒ぎになってしまってはヴィルヘルム様もお困りでしょう。あの方に懸想しておられた多くの娘たちも、今回の件で――」
「フローラ」
少し強い口調で、カディーナは彼女の言葉を遮った。
「私はもう寝るわ。貴女も部屋にお戻りなさい」
「……」
フローラは窓の外から戻した視線を不機嫌そうな顔の姉へと向ける。
「愚かな妹の不始末の責任をとって、カディーナお姉様がヴィルヘルム様をもらって差し上げるというのも――」
「フローラ!」
「……はい。失礼しました」
そう言って深々と頭を下げたフローラは、眉間に皺を寄せた姉の表情に密かに苦笑を浮かべたのだった。
――カディーナ姫とヴィルヘルム公が結ばれた、と、ヴェスタたち一行がそんな噂を耳にするのは、これより2年も後の話である。
ヒンゲンドルフ領は“帝都”と呼ばれる大陸の中心ヴォルテスト領の東に国境を接する土地である。北には北西から南東に向かって大きく伸びる難所“グリゴラ山脈”がそびえ立ち、大陸の東北部に位置する領地から帝都を目指す人々は山脈を迂回するため、ほぼ間違いなくこのヒンゲンドルフ領を通過することになる。
また、南東に国境を接するビルア領とは昔から犬猿の仲で、断絶とまではいかないまでも、国家間の交流はほぼゼロといってもいい状況であった。
「つまり追手の心配をする必要がほとんどないということですわ」
見上げると太陽は天空の中心にあった。それでも風は冷たい。
冬の足音。
右隣を歩くルクレツィアは雪のように白い耳当てのついた帽子をかぶり、茶色の紙袋を抱えていた。紙袋の中には真っ赤なリンゴがいくつも入っていて、そのうちの1個が彼女の手の中にある。
シャリッ、と、音がした。
「……ルクレツィア。このような往来の真ん中で歩きながらリンゴを丸かじりというのは、高貴な身分の者としてどうかと思うのだが」
「あら。その身分を捨てた者にとっては相応しい行いだと思いませんか? それにリンゴはこのように食べるのが一番美味しいのですわ」
ルクレツィアは紙袋からもう1つリンゴを取り出して、
「ルーンさんも、1ついかが?」
と、後ろを振り返る。
俺たちの真後ろを歩いていたルーンはチラッとルクレツィアの手の中に視線をやって、
「……もらう」
「はい。ミュウちゃんは?」
「……」
左隣を歩いていたミュウは伺うように俺の顔を見上げる。
敢えて何も答えないでいると、やがてミュウは答えた。
「いただきます」
「はい。どうぞ」
「ありがとうございます」
ペコリと頭を下げるミュウ。
「……」
ヒンゲンドルフ領に降り立った俺たちは、そこから3日ほどかけて南東部にある小さな町へと辿りついていた。今日、明日とこの町に滞在し、旅に必要なものの買い出しや、これから向かう先について考えるつもりだ。
季節は冬。
(早いものだな……)
俺が記憶を失い、こうして旅をするようになってから半年が経過しようとしている。季節は春から冬へと移り変わり、当初はミュウと2人きりだった旅もルーンとルクレツィアが加わって4人連れに。
後ろを振り返ってみた。
ミュウとルクレツィアが並んで何事か会話を交わしていて、その少し後ろを歩くルーンが、時折ルクレツィアの発言に突っ込みを入れているようだった。
ここ数日でわかったことだが、ルクレツィアはこのメンバーに入ると意外にも一番口数が多く、ミュウに対しては世話焼きな一面も見せた。ルーンとは相変わらず口喧嘩をしていることが多かったが、そこまで険悪になることもない。彼女らしい人付き合いの上手さといえるだろう。
意外と、潤滑剤のような性質の持ち主なのかもしれない。
ルーンと、ルクレツィア。
出会いはどちらもトラブル絡みで決して望んだわけではなかったが、改めて考えてみると、この2人と同行することになったのは運命的な何かだったのかもしれない。
歳が近いルーンと、同じ女性であるルクレツィア。
どちらの存在もきっと、ミュウの情操に良い影響を与えてくれるに違いない。
いや、すでに与えつつある、といったほうが良いか。
「御主人様」
その証拠に、ほら。
早足に隣に並んできて、俺を見上げる少女――人形のようだった少女は、少しずつ、表情で心を表現する手段を覚えつつあった――
「……“ハーレム状態”というのはいったいどのような意味なのですか?」
「ぶっ!!」
ミュウの口から飛び出したその言葉に思いっきりむせて、すぐさま後ろを振り返る。
そこには――
「ヴェスタ様? どうなさいました?」
相変わらずの微笑みを浮かべる少女。
「ル、ルクレツィア! あ、貴女はミュウにナニを教えているのだ!」
「ナニを、とおっしゃられても」
ルクレツィアは可憐な――いや、もう騙されん――人をからかうような悪魔の微笑を浮かべて言い切った。
「ヴェスタ様の今の状況を端的に表現しただけですわ」
「端的どころか歪曲しまくってるではないかっ!!」
「御主人様」
ルクレツィアに食って掛かろうとした俺の袖を、ミュウがくいっと引っ張った。
「ハーレムとは女性の住まう部屋というような意味ですが、御主人様がその状態というのは不思議な状態です。御主人様は男性ですし、体の中に女性が寄生している様子もありません」
「……寄生されてたまるか!」
「あら。でもイメージ的にはとても正しい解釈だと思いますわ」
「貴女は少し黙っていてくれ!!」
「?」
不思議そうな顔のミュウ。
……見誤った。
ルクレツィアはもしかしたらミュウに悪い方の影響を与える存在なのかもしれない。
「ああ、もうお前ら、その辺にしとけよ」
最後尾を歩いていたルーンが割って入ってきた。
「こんな往来のど真ん中で騒いでちゃ余所に迷惑だろ。……ほら」
呆れ顔のルーンがそう言って辺りを示す。
「む……」
確かに俺たち4人は周りの注目を集めまくっていた。
これはいかん。
「そ、そうだな。すまぬ、ルーンよ。俺もついつい熱くなって我を忘れてしまったようだ」
「いつものことだろーが」
ルーンの冷たい物言いが、このときばかりは頼もしく思えた。
それに――そうだ。
俺はようやく“そのこと”を思い出し、ルクレツィアに向かって堂々と言い放つ。
「よくよく考えてみればルーンがいるのだから、ハーレムどころか2対2ではないか。まったく貴女という人は、なんという根拠のない言いがかりを――」
――ゴスッ!!
「ぐぇっ……!」
「さっさと行こうぜ。……おい、先に行ってるぞ、ヴェスタ」
俺の右脇腹の急所に打ち込んだ拳をふっと一吹きし、ルーンは不機嫌そうに鼻を鳴らしてズンズンと先に行ってしまった。
「ル、ルーンよ。急に何を――」
「あらあら。……ヴェスタ様、どうか御大事に」
ルクレツィアはクスッと悪戯っぽい笑みを残し、くるっとブロンドの髪をなびかせてルーンの後に付いていく。
「な、なんなのだ、いったい……」
ルーンの怒り出した理由がまったくわからず、俺はその答えを求めて、唯一残ったミュウに視線を向ける。
と。
「……その」
俺のほうを見て、そして言った。
「今のは、ちょっとだけ、御主人様が悪い……と、思います」
「え?」
――びっくりした。
だが、その言葉の意味を問いかける暇もなく。
「……」
ミュウは小走りにルーンの後を追いかけていってしまった。
「……ミュウ?」
乾燥した冬の風がひゅぅと吹き抜ける。
ルーンが何故怒り出したのか――こんなことが前にも何回かあった気がするが――それについてはまったく理解できなかった、が。
今はそのことよりも。
(ミュウが俺のことを非難したのは……初めてではなかろうか)
しばし、放心。
といっても、ショックだったわけではない。いや、ショッキングといえばショッキングな出来事なのだが、それは悪い意味などではなく。
空を見上げる。
――いくつかの人々との出会いを経て、ミュウは少しずつ俺の望む方向へ成長している。そういえば最近は自分のことを“奴隷”だなんて言い方をすることもなくなった。
俺を非難したことが、さらに一歩前進したことの証だとするならば――
良いことだ。
ゆっくりと立ち上がり、パン、パン、と、膝についた土を手で払う。
視線を上げると、少し離れたところでミュウが心なしか申し訳なさそうな顔をして俺を待っていた。
その向こうには相変わらずの微笑みを浮かべたルクレツィアと、腕を組んで不機嫌そうなルーンもいる。
人生はままならぬもの。
とはいえ――こういうサプライズならばいつでも大歓迎だ。
俺はこれからの、おそらくは4人で体験することになるであろういくつものサプライズに想いを馳せながら、透き通った冬空の下、俺を待つ仲間のもとへと駆けていくのだった。




