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記憶喪失の大量殺戮者(ジェノサイダー)  作者: 黒雨みつき
第3話『指名手配の大量殺戮者(ジェノサイダー)』
15/32

その2「指名手配の大量殺戮者(ジェノサイダー)」

 姫の成婚パレードという国を挙げての慶事に襲撃をかける三人組。これはもう文句なしの重罪である。苦労して築いた正義の味方の肩書きも全てが水の泡だ。

 ああ、なんということであろう。我々に残された道は、ただ逃げるのみ。一生消えない罪人の十字架を背負い、追っ手から逃れるだけの日々が始まるのであろうか。

 ――いや。

 いやいや、ここは逃げるべきではない。

 俺はともかく。ミュウやルーンにまで過酷な逃亡生活を強いるわけにはいくまい。

 ならば。

 ならばどうする。

 そう。ならば――俺が全ての罪を背負い、暗い牢獄からの二人の幸せを願おうではないか。

 それが父(仮)として最低限の務め。

 おお、まだ見ぬ母さんや。

 俺は今こそ、務めを果たそうではないか。




~指名手配の大量殺戮者ジェノサイダー




 悲鳴をあげて人々が逃げていく。

 馬車を守れ――

 捕まえろ――

 怒声が響き渡る。

 ミュウの力で起きた爆音に、祝福ムードに溢れていた通りは大混乱だった。

 しかし俺はその場に立ったまま。

 決めたのだ。逃げも隠れもせぬ、と。

 そして俺はミュウを見つめる。

「ミュウよ……何も気に病むことはない。お前の早とちりを止められなかったのは紛れもなく俺の責任。だからお前には何の罪もない」

 ミュウが悲しそうな顔で俺を見つめ返した。

 お義父さん、と。

「言うな。何も言わずともよい。全ては俺の罪。お前は何もしておらぬ。よいか。お前は何もしておらぬのだ――」

「御主人様。あの――」

 と、ミュウはますます悲しそうに――あ、いや。

 全然悲しそうじゃなかった。

「まだ何もしてませんけど」

「そう。何もしていない――へ?」

「おい、ヴェスタ!」

 ルーンが辺りを鋭く見回して、

「今のはそいつじゃないぞ! どこか別のとこで爆発したみたい――うわっ!」

 パン、パパパン! と。

 どこかで爆裂音が響いて、ルーンが身を縮ませる。確かに。今のは紛れもなくミュウの力ではない。

「……とすると先ほどのも?」

 ミュウは頷いて、

「はい。申し訳ありません。先を越されてしまいました」

「いや、先を越されてよかった……」

 ホッと胸をなで下ろす。――とはいえ、辺りが大混乱であることに代わりはない。馬車の周りの憲兵と恐慌状態の見物客が入り乱れて大変なことになっている。

 とにかくボーっと突っ立っている場合ではない。

「ヴェスタ、とにかく避難だ! ここにいたら巻き込まれちまう!」

「避難? ……ルーンよ、お前はなにを言っているのだ?」

「え?」

 身を翻しかけたルーンがピタリと止まる。

 俺の顔を見て、そして少し青ざめた。

「お前、まさか――」

「ふ」

 ブワサァッ! と、漆黒のマントを翻す。

 姫の婚礼パレードを狙った謎の爆発。

 逃げまどう人々。

 この光景を前にして、すごすご退散するヒーローがいようか。いや、いない。

「ルーンよ、こうは思わないか? 我々はこの日、このとき、人々を護るために、そして美しき姫の幸せな未来を護るために、神の手に導かれてこの町にやってきたのではなかったか、と!」

 人差し指を天に向け、高らかに宣言する。

「ならば応えねばなるまい! この命に代えても人々を、そして姫の幸福な未来を護ろうではないか!」

「……あー、やっぱそうなるのか」

 どうも乗り気ではない様子のルーン。

「ぱちぱちぱちぱち」

 どこからともなく音声による効果音発生。

 そのうちに辺りの人も徐々に減り始め、馬車が止まった辺りからは“追え!”だの“安全を確保しろ!”だのという叫びが聞こえてきた。

 追え、ということは、犯人らしき人物が近くにいるいうことであろう。

 よし。ひとまず彼ら憲兵隊から情報提供を受けるとしよう。

「では行くぞ、二人とも!」

 人の波に逆らって――ミュウは放っておくと人波に流されてしまうので、片腕に抱いたまま、ルーンを引き連れて進んでいく。

「なんだかなぁ。嫌な予感がする……」

 と。

 そうして歩き出していくらもしないうちに、

「きゃ……っ!」

「お……っと」

 俺は通りの向こうから走ってきた小柄な少女とまともにぶつかってしまった。

「すまぬ。大丈夫か?」

 と、尻餅をついた少女に手を伸ばす。

 もちろん、俺は彼女を助け起こしてすぐにでも馬車の方へ向かうつもりだった。

 しかし。

「……」

 ゆっくりと見上げた少女は、俺の顔を確認するなりハッとした顔で突然叫ぶ。

「――助けてください!」

 いきなり俺の服を掴み、上目遣いにそう懇願してきたのである。

「へ?」

 改めて少女を見下ろした俺は瞬時に目を奪われた。

 美しい少女だった。

 ふわりと広がったウェーブの髪。

 大きな黒翡翠の瞳。

 まるで西洋人形が現実世界に迷い込んだかのような可憐な―― 

(……ん? どこかで見覚えがあるような――)

「あ、あなたのような方をお捜ししておりました。どうかお願いします。私は命を狙われているのです」

「な、なんだとっ!?」

 少女の言葉に俺は驚愕した。

 あの爆発だけでも大変な事態だというのに、今度は暴漢に追われ命を狙われる美少女の登場だ。

「し、しかし我々は今、あの馬車の姫を助けに――」

 はた、と。

 言葉を止める。

 俺をじっと見つめる少女。目尻には涙が浮かんでいる。見るからに必死の表情だ。事情はわからぬが、確かに彼女は何者かに追われているのだろう。

 ……神よ。

 これを。

 こんな少女を俺に見捨てていけというのか。

「必ずお礼はいたします。ですから、どうかお助けください……」

 消え入りそうな声だった。

 姫を助けるか。

 この名もない町娘を助けるか。

 一つしかない肉体では、両方を取ることはできない。

 二つに一つ。

 と、そこへ、

「つ、つーか、おい、ヴェスタ。その女――」

「御主人様」

 ルーンが何事か言おうとしたようだが、それは神の絶妙な采配によって遮られた。

「複数名、ものすごい勢いでこちらに迫ってきます。かなり殺気立っている模様です」

 ミュウはいつも通り冷静だ。

「む……」

 猶予はない。

 いや。

 ――迷う必要などない。

 確かに姫のことは心配だが、それでも向こうには護衛を務める男たちがいる。しかしこの少女には誰もいない。

 今、俺が助けなければ誰もいないのだ。

 ならば――迷う必要などないではないか。

「娘よ。……落ちぬようしっかりと掴まっているがよい」

「あっ……」

 左手で少女の体を抱えると、少女はほんの一瞬躊躇した後、はい――と素直に俺の体にしがみついた。

「おい、ヴェスタ――」

「ルーン、お前は自分で走れるな? しっかりついてくるのだぞッ!」

 地面を蹴って、走り出す。

「え、って、おい、ヴェスタ! だって、そいつ――!」

「――見つけた! おい、怪しい男たちが――ッ!!」

「うわぁっ、来たぁぁぁ――ッ!!」

 弾かれたようにルーンもついてくる。二人抱えているとはいえ、俺のスピードについてくるとは大したものだ。

 駆ける。

 駆ける。

 右肩にミュウを、左腕に少女を抱えたまま。

 逃げまどう人波を縫うように。

 追ってくる怒声よりも速く。

「ていうか、おい! ヴェスタ! あの追っかけてきてる連中、どう見ても暴漢なんかじゃないような――ッ!!」

 息を切らせながらルーンが何事か叫んでいる。

「舌を噛むぞ、ルーン! 今は黙って走るのだッ!!」

 俺だってそれほど余裕があるわけではない。なにしろ人を二人抱えて走るのは並大抵のことではない。

 今はとにかく走るのみだ。

「だぁぁぁぁぁっ! どうなっても知らねーぞぉぉぉぉぉぉッ!!」

 ルーンの叫びは、人々の叫喚の中、一際大きく青空の中に吸い込まれていった。

 

 

 

「……ルクレツィアがさらわれた、ですって?」

「まさか――」

 町の中心部を襲った騒動とは無縁の、静かなテラスの中に二人の女性がいる。片方は左右に三本ずつ、頬の辺りまで隠れてしまいそうな豪華なロール髪を結った二十歳ぐらいの気位の高そうな貴婦人。そしてもう一人はそれよりいくらか年下であろう、ストレートロングの、こちらは温厚そうな女性だった。

「はい。カディーナ様、フローラ様。どうやら爆発の混乱に乗じて何者かが――」

 甲高い声に、空気が裂けた。

「馬鹿者ッ! お前たちは何をしていたッ!!」

「は、はッ!」

 年上の方の女性、カディーナの叱責に侍従の体が硬直した。

「も、申し訳ありません! 現在、全力を挙げて行方を捜索中ですので――!」

「……」

 カディーナは目を細めた。

「それで? ヴィルヘルム様はどうなさったの?」

 ただでさえきつい目尻がさらに厳しくなる。

「あ……はい。ヴィルヘルム様も大層ご心配なさっておられまして、その、捜索チームに加わられて――」

「すぐこちらにお連れしなさい」

「は?」

「すぐにヴィルヘルム様をお連れしなさいと言ったの。この町はあの方が歩かれるには危険すぎます」

「は……はい! かしこまりました!」

 弾かれたように、侍従はサロンを飛び出していった。

「……まったく」

 その後ろ姿を見送って、カディーナは正面の妹――フローラへと視線を移した。

「カ、カディーナお姉様……」

「しっかりなさい、フローラ。今はお父様も他のお姉様方もおられないのだから」

「ル、ルクレツィアは、無事なのでしょうか……わ、私はどうすれば――」

 今にも気を失ってしまいそうな弱々しさで、フローラは姉にそう訴えた。

 カディーナはテーブルの上を彷徨っていた彼女の手をそっと取って、少し口調を柔らかくして答える。

「あなたが取り乱したところで何も解決しないでしょう。とにかく、今は彼らに任せるしかないわ」

「ああ……」

 フローラは泣きそうな顔になって姉の顔を見つめた。

「まさか……さっきまであんなに幸せそうにしていたのに……ルクレツィア、どうか無事で――」

 

 

 

「――ルクレツィア、と申します。この度は本当に危ないところをお助け頂き、心より感謝いたします」

 スカートの裾を軽く持ち上げて優雅に。儚げな印象の美少女はその挨拶もまたイメージどおりの楚々としたもので、声はまるでオルゴールのような美しさだった。

「これは丁寧に。俺の名はヴェスタという。見てのとおり、通りすがりの正義の味方だ」

 そう自己紹介してミュウを促す。ミュウはぺこりと頭を下げて、

「ミュウです。見てのとおり、通りすがりの正義の味方です」

「……おい」

「それとこっちの無愛想な顔をしているのがルーンだ」

 何が気に入らないのかルーンは相変わらず不機嫌なので、代わりに紹介した。

「それで娘――いやルクレツィアよ。色々事情はあろうかと思うが、そろそろ我々にも事情を話してはもらえんだろうか。あのような暴漢どもに追われることになった理由は? 事と次第によってはこれからも力になろうかと思うのだが――」

「……おい、ヴェスタ」

 ちなみに我々がいるのは町の中心部からだいぶ離れたところにある空き家の地下室である。以前、この町で正義のパトロールを行っていたときに偶然発見した場所なのだ。

 つまり日頃の心がけがこういうときに役立つということだな。うむ。

「しかし姫の成婚パレードなどという人の集まるイベントの最中に、ごく普通の町娘をかどわかそうとするとは、なんという大胆な悪党どもだ。あるいは何か裏にとてつもなく大きな組織が――」

「……いつまでボケ倒すつもりだ、お前」

 む。なんだかルーンがいつも以上に不機嫌だ。少しひやっとした地下室の壁に背を預け、右手で愛用のナイフを弄び、そして凍り付くような目でこっちを見ている。

 俺はそんなルーンに向けて大きく両手を広げ、

「ルーンよ、先ほどから一体どうしたというのだ。何か気に入らないことがあるのであれば遠慮なく言ってみるが良い」

「話になんない」

 と、ルーンはクルクル回していたナイフを腰の鞘に収め、腕を組んで町娘――ルクレツィアを見た。

 どうにも好意的とは言い難い目だ。

「おい、言っとくけどな。そこの馬鹿、本気であんたのこと気付いてないぜ」

「そうなのですか?」

 と、ルクレツィアは驚きに目を少し見開いてこっちを見たが、すぐににこやかに微笑んで、

「私のことを御存知ないにもかかわらずお助けくださったのですね。なんと素晴らしい殿方なのでしょうか」

「む?」

 話がまったく見えてこないような。

「ルーン、ルーンよ。どういうことだ。俺には話がさっぱり見えてこないのだが」

「……フン。なにが御存知ないにもかかわらず、だ。むしろ知ってたら助けてないだろ」

 悲しいかな、俺のセリフは完全無視だった。

「暴漢だって? ずいぶんお堅い格好の暴漢がいたもんだ。あいつら、あんたの周りにわんさかいた連中だろ。襲われてたんじゃなくて、あんたがいなくなったもんだから捜して追っかけてきてただけじゃないのか」

「……」

 ルクレツィアは何も言わず、ただ微かにまつげを震わせてルーンを見つめていた。

 得も知れぬ疎外感。

「おい、ルーン。だから俺にもわかるように話を……」

「だ・か・ら!」

 ようやくルーンがこっちを見た。ただし、とてつもなく苛ついた目で。

「お前の目はガラス玉かなんかかよ! どこをどう見たらこいつが普通の町娘に見えるってんだ!」

「む?」

 確かに、普通の町娘にしては少し奇妙な格好である。長めのコートを羽織っていたのでわからなかったが、その下はかなり高価そうな純白のドレス。頭には白金のティアラが輝いていて、その肌も髪も毎日相当丁寧に手入れされた女性のものだ。

 とすると――

「あ、なるほど……そういうことか」

 確かに、俺の目は節穴だったようだ。

 ルーンは呆れた様子で片手を腰に当てて、

「ったく。すぐ気付けよな。だからさっきの連中は暴漢なんかじゃなく――」

「うむ」

 それはそうだろう。

「つまり連中はもっと大きな犯罪組織の構成員ということか」

「……は?」

「きっと彼女の父親は有名な大富豪かなにかなのだろう。その娘をさらって金やら不当な要求やらを突きつけるつもりだ、と。――つまりお前はそう言いたいのだろう?」

 ちょっとした名探偵気分で自信満々にそう言うと、ルーンは何故か脱力した顔をした。

「御主人様」

 ミュウが地上へ続く階段のそばで天井を見上げている。

「町の中が騒ぎになっているようです」

「何か聞こえるのか?」

 地上の音は俺にはぼんやりとしか聞こえないが、ミュウにはそれが聞こえているらしく、

「はい。なんでもお姫様が暴漢にさらわれたとか」

 ……なんと!

「馬鹿な!? くっ! この俺が助けに行かなかったがために、なんてことだ!」

「――ああ! もうッ!!」

 ついにルーンがぶち切れた。

 顔を真っ赤にして近づいてくると、軽くジャンプして俺の後頭部を掴む。

「うぉっ!? ル、ルーン。ちょっと落ち着け! 家庭内暴力反対――」

「アホか、お前はぁッ! よく見ろ、お前の目の前にいるのがそのお姫様だろうがぁぁぁぁッ!!」

「へっ?」

 僅か二十センチほどの距離に近付いたルクレツィアの顔をまじまじと見つめる。

「……」

 なんだかふんわりとしたいい匂いがする。

 そしてしばらく。

「……ルーンよ」

 彼女の顔と、記憶の中の――馬車から手を振っていた少女の顔を重ね合わせてみた後、俺はようやく我に返ってルーンに言った。

「他人の空似というのは、あるものだな」

「ああ、そうだなヴェスタ」

 返ってきたのは永久凍土のように冷たい言葉だった。

「もしそうなら、お前、国賊級の犯罪者にならずに済んでたな」

 ――少し、整理してみようか。

 目の前にいる少女、ルクレツィアは件のパレードで主役だったお姫様である。

 何の因果か、そのお姫様は現在我々と一緒にいる。

 地上では、姫が暴漢に拉致されたと大騒ぎになっている。

 イコール。

「……終わった――……」

 巡り巡って結局のところ重罪人というわけか――

「あの。ヴェスタ様、と、そう呼ばせていただいてもよろしいでしょうか?」

 ハッと、ルクレツィア――いや、ルクレツィア姫を見る。

 そして俺は、超高速で土下座した。

「ほ、ほんの出来心だッ!」

「……は、い?」

 きょとん、と。

 姫が俺を見下ろした。

「ゆ、誘拐などと、実は俺の本心ではなかった! つい魔が差してやってしまっただけなのだ! だからどうか情状酌量をッ!! い、いや、俺のことはいい! だがせめて、せめてこの子たちの命だけは助けてやってくれぇぇぇぇッ!!」

「あ、あの、ヴェスタ……様?」

「み、見るなッ! そんな犯罪者を見るような目で見ないでくれぇぇぇぇッ!! お、俺はただ、俺はただ――!!」

 ただ――

「……はて? 俺は何故、誘拐などという大それたことをしようとしてたのだろうか?」

「永遠に考えてろ、バカ」

「それはともかく御主人様」

 ミュウがそう言って階段から離れ、両手に大きめのバスケットを抱えてトコトコとやってくる。

「そろそろ昼食にしましょう」

「お前もマイペースだな、ホント。……ま、とにかく落ち着いて事情を聞く必要がありそうだし、ちょうどいいか。お姫様、あんたもそこ座りなよ。――ほら、お前もいい加減立てっての」

「いてっ」

 ルーンの蹴りが尾てい骨に入った。

 まったく。最近は以前にも増して扱いが酷くなってきた気がするぞ。

 ――そんなこんなで。

「まぁ、可愛らしい」

 開いたバスケットの中身に、ルクレツィアは目をまん丸にした。

 ミュウが言った。

「今日はルーンさんに以前指摘された味付けを少し調整しました。それと御主人様の好物の甘藷が安く買えましたので、茹でてからすりつぶしたものを焼いてお菓子風に調理してみました」

 なるほど。今日の昼食はなかなかバラエティーに富んで豪華だ。食費はいつもと同じだけしか渡していなかったはずだから、おそらく彼女なりに工夫したのだろう。

 甘藷の料理を一口。

「うむ、美味い。また上達したな、ミュウ」

「……ありがとうございます、御主人様」

 いつも無表情なミュウが少しはにかんだ顔をするのが、なんとも愛らしい。

 ――そうそう。前回、爆発オチ並のひどい扱いだった彼女の料理はアッという間に上達して、今では一流シェフ並の腕前となった。結局のところ、彼女は正しく指導さえしてやれば何をやっても一流なのだ。

 ただ、

「でも次こそは、口から火を噴いたり目から光線が出るような料理を作ってみせます」

 奇妙な目標を掲げているのが少々気にはなるが。

「確かに短い間によくこれだけ上達したもんだよ。最初なんか、ホント――ああ、思い出したくない」

 と言いつつ思い出してしまったのか、胃の辺りを押さえて青ざめたルーン。

 気持ちはわかる。

「って、あんたは食わないのか、お姫様」

「いただいてもよろしいのですか?」

「庶民の料理が口に合うのならな」

 と、素っ気ない口調のルーン。言葉に少し棘がある。やはり彼女にはあまり良い感情を抱いていないようだ。

 が、おっとりとしたルクレツィアはそれにも気付いていないのか、無邪気な仕草で両手を合わせて、

「私、市井の方々の生活にとても憧れておりますの。ですからこのようなものはかえって好ましく思います」

 と言うと、豪快に――とまではいかないが、見た目のイメージよりは遙かに遠慮なく、ミュウの料理に手を付け始めた。

「――それで姫よ。改めて問いたいのだが」

 バスケットの中身がだいたい片付いたところで、俺はルクレツィアに向かってそう切り出した。

「何故、あのような嘘をついてまで我々に救いを求めたのだ? おそらく何か事情あってのこととは思うが――」

「……」

 ルクレツィアは口元を上品に拭いながら、膝の上で両手を重ね、一つ、二つと深呼吸。ゆっくりと持ち上げた視線が少し悲しそうに俺の全身を捕らえた。

「嘘、ではありません。命を狙われていたのは本当のことなのです」

「ふむ」

 意外な言葉ではない。あのときの必死の表情はやはり本当だったのだ。

 ルーンは冷めた目で見ている。

 ミュウはなにを考えているかよくわからないが、やはりルクレツィアを見ている。

 ルクレツィアは続けた。

「私は十二人いるお姉さま方の中の一人に命を狙われているのです」

「姉? 姉に命を狙われているというのか?」

 どこかで聞いたような話。

 そう。昨日の宿の女将の話だ。

 しかし、まさか――

「まさか。妹が姉に命を狙われるなどと、そのようなことが――」

 信じがたい。

 そんな俺の心情を読みとったかのように、ルクレツィアは悲痛な表情で首を横に振った。

「私もそのようなこと信じたくはありません。ですが、これまでの経緯を考えるとそうとしか考えられないのです」

「それはつまり――」

 女将の話を思い出して、

「あのヴィルヘルムという青年のことで、なのか?」

「……」

 少し躊躇った後、ルクレツィアは無言で頷いた。

「しかしそのようなことで、まさか……なにかそう思う出来事でもあったのか?」

 ルクレツィアは視線を伏せ、一呼吸置いてから話し始めた。

「二年ほど前、ここの別荘ではなく本邸での出来事です。姉の一人が二階のテラスから転落して大怪我をしました。その姉は時々屋敷を抜け出して外に遊びに行ってしまうような方だったのですが――本邸を抜け出すときにいつも使うテラスの手すりに細工がしてあったのです」

「む?」

 脈絡のない話のように思えた。

 が、

「姉上は当時、ヴィルヘルム様ととても親しくしておられました。……どうやらそれを妬んだ別の姉が細工をしたようなのです。――そして私がヴィルヘルム様と婚約してから、今度はそれが私の身に起こるように……」

 なんと。

「先ほどの爆発のように、ということか?」

「……」

 少しの間をおいて、ルクレツィアはコクリと頷いた。

「しかし……なんだ。俺の聞いた話では、そのヴィルヘルムという青年は最初から一番下の姫――つまりあなた一筋であったと聞いたが……」

 ルクレツィアは悲しげに視線を横に流して、

「違うのです。本当は姉上が一番あの方と親しくされていて、ヴィルヘルム様も本当は――ですが、姉上はそのときの酷い傷跡が顔や身体に残ってしまったため、自ら身を引いてしまわれたのです」

「馬鹿な」

 俺は少し憤って、

「女性の価値はそのようなもので決まるわけではない」

「あるいは」

 ルクレツィアはようやく視線を上げ、少しだけ微笑んでみせた。

「ヴィルヘルム様もそうお思いだったかもしれません。でも姉上は――もともと親しかったというだけで男女の感情など持っていなかったと、笑いながらそうおっしゃられるだけで――」

 ……なんとも。

 それが強がりなのだとしたら、やりきれない話ではある。

「姉上がそのテラスから抜け出していたことを知っていた者はほんの数人しかおりませんでした。それ以外にも――とにかく身近にいる者の仕業でなければ起こり得ないような出来事がいくつもあったのです」

「なるほど。それで、その青年を慕う姉の誰かが、というわけなのだな?」

 ある程度筋は通っているように感じる。実際、そう確信できるだけの出来事が起こっているのだろう。でなければ、この大人しそうな姫が今回のような大胆な行動をとるはずもない。

 しかし、 

「はっ」

 ルーンは馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに笑い飛ばした。

「そんなくだらないことで命狙おうなんざ、常人の考えることじゃねぇよ。さすが、生きていくのに不自由のない方々は考え方がぶっとんでら」

 ルクレツィアがルーンを見る。

「否定はいたしません。市井の方々が明日の食べ物を気にしているときに、私たちは社交界に着ていくドレスを何にするかで悩んでいるのです。――それを疑問に思わない方々も確かにたくさんおられるのですから」

「……へぇ」

 ルーンは少し意外そうに口だけで笑って、

「自分はそうじゃない、とでも言いたいのか?」

「いいえ」

 ルクレツィアは首を横に振った。

「何も行動に現せないのでは同じ……です。私は末娘ですから……周りに何か口出しできるような――出したところで聞き入れてもらえるような立場にはないのです。ですから……反論する資格も、そのつもりもありません」

「ふーん。……つまりそのぶっ飛んだ考えの誰かさんは、何の口出しもできないような末の小娘に思い人を取られちまって、プライドとやらが許さない、ってわけか」

 まだ少し含んだ口調だったが、ルーンなりに納得したようだ。

 タイミングを見計らって俺は言った。

「それで、姫よ。これからどうするつもりなのだ。ここにいても何も解決せぬだろうし、ヴィルヘルムという青年も心配するであろう」

「私は――」

 少し、迷うような表情をした。

 しかし。

 ――この姫。一見すると儚く壊れてしまいそうに見えるが、実際はかなり気丈な少女なのかもしれない。

 上げた視線は強い力に満ち溢れていた。

「姉の間違いを正したいのです。ここで私が身を引いたとしても次は別の誰かが――このままでは、姉は本当に人を殺めてしまいます。そうなる前にどうにか止めたいのです」

 そして少しだけ、視線を落とす。

「ですが、私の力だけでは……助けが必要なのです。それも屋敷の者ではなく、外の方のお力が。ヴェスタ様。偶然お助けいただいただけの貴方にこのようなお願いをするのは非常識であるとわかっております。でも――」

 再び、視線を上げた。

 ――外見以上に気丈ではあるけれど。

 それでも所詮はか弱い少女。

 おそらくは半分以上が虚勢であろう。

 しかしそれでも、ここまでの大胆な行動が取れるのはひとえに――姉に罪を犯させたくないとの姉妹愛故か。自分は命を狙われているというのに――

「どうかお力添えをお願いいたします。私に出来る限りの御礼はさせていただきます。ですから、どうか――」

「……」

 なんと。

 なんと健気な。

 これほどに健気な姫の願いを断れる男がこの世にいるのだろうか? いるとすればそれはよほどの冷血漢に違いない。

 もちろん俺は即答した。

「頭を上げるのだ、姫よ。……あなたの気持ちはよくわかった。礼などいらぬ。俺にできることであれば喜んで力を貸そうではないか」

「……」

 ルーンがチラッとこっちを見た。が、さすがのルーンもこの姫を突き放すほどの冷血漢ではないらしく(もちろん俺はそう信じていたが)そのまま何も言わず視線を流した。

「ああ――……ありがとうございます、ヴェスタ様」

 よほど安堵したのか、ルクレツィアはホッと息を吐いた後、急に脱力した様子で椅子に腰を下ろした。

「ふ、礼などいらぬ。あなたのような方を助けることこそ、俺にとって至上の喜び」

 キラン、と、白い歯を見せる。

 おお。

 今の俺は最高に輝いている。

 勢いに乗って俺は立ち上がった。

「よぅし! そうと決まれば善は急げだ。そろそろ日も傾いてきた頃だろう。ひとまず外の様子でも窺ってくるとしようか」

「お供します、御主人様」

「む、そうだな。よし、ついてこい、ミュウよ。――ルーン。留守の間、姫のことはお前に任せた。一人の漢として、姫の護衛をしっかりと頼むぞ」

「くっ、いちいちムカツクな……けど、わかった。やるよ」

 ルーンにしては素直な反応だった。

「よしよし。お前もようやく正義の味方としての自覚が出てきたか」

「……正義の味方じゃねえし」

 憎まれ口のルーンに背を向けて、俺は気分良くバサッと漆黒のマントを翻した。

「では、出・撃!」

「アイ・アイ・サー」

 ミュウは一体どこでこういう言葉を覚えてくるのだろうか――なんてことを頭の隅で考えながら。俺たちはルーンとルクレツィアの二人を地下室に残し、地上の偵察へと出掛けたのであった。

 

 

 

 ――ちょうどいい、と。

 ルーンはヴェスタたちの出ていく音を聞きながら地下室の天井を見上げていた。

 壁に背を預け、クルクル、クルクルとナイフを弄ぶ。

 地下室はしばらくの間静寂が支配した。地下室といってももちろん完全密閉されているわけではない。ひんやりとした空気がどこからか流れ込んでくる。

 中央にあるテーブルのそばにはルクレツィアが座っている。

 沈黙。

 沈黙。

 沈黙――そして頃合いか、と、ルーンはピタッとナイフを弄ぶのをやめた。

「それで」

 ルクレツィアがこちらを見たのが気配でわかる。

 ルーンはわざと視線を上にそらしたまま、不機嫌でも上機嫌でもなく、ごく当たり前に質問した。

「さっきのあんたの話、私はどこまで信用すればいいんだ?」

「?」

 ルクレツィアが不思議そうな顔をするのがわかった。

「どういう……意味ですか?」

 予想通りの反応だ。

「ふん」

 ルーンは口調を変えずに続けた。

「だったら言い方を変えよう。……どこまでが、本当の話だ? それとも全部嘘っぱちなのか?」

「全て本当です」

 心外とばかりにルクレツィアは即答した。

「嘘など申しません。ヴェスタ様のような心根の正しいお方に嘘など申し上げるはずがありません」

「……心根の正しいお方、ねぇ。ま、あんたよりは正しいかもしんないけどさ」

「なにを――」

「嘘をつくな」

 ルーンは語尾を強め、ようやくルクレツィアの顔を見た。

 ふんわりとしたウェーブの髪。

 大きな黒翡翠の瞳。

 純粋で可憐な姫。

 だが――ルーンの目には彼女の別の一面が見えている。 

「あんたは自分が周りにどういう風に見えてるかちゃんとわかってる。それを利用する術も熟知してる。馬鹿な大人やお人好しのアイツは騙せても、私はそう簡単に騙されないぜ」

「……何故、そのようなことをおっしゃるのですか?」

 姫のつぶらな黒い瞳が震えた。

 それだけで、まるで自分が悪者であるかのような錯覚に襲われる。無意識にやっているのだとしたら、ただ純粋無垢なのだともいえるが、違う。

 これは確信だった。

 彼女は間違いなく意図している。そういう自分がどう見えるか熟知していて、その上で“演じて”いる。

 ルーンは壁から離れ、ルクレツィアに歩み寄った。

「!」

 手にしたナイフを見て、ルクレツィアが怯えたような顔をする。

 だが、もちろん彼女を傷付ける意志などない。

 ルーンはナイフを腰の鞘に収めて、

「少なくとも。あんたが正直に語ってないことが一つある」

「正直に語っていない、ですか? ……それは?」

「あんたはきっと頭も切れる。わかってるんだろ」

「わかりません」

 頑なにそう言い張るルクレツィアに、ルーンはフンと鼻を鳴らした。

「“あの爆発のように、か?”」

「……」

 少しだけ。

 表情が硬くなった。

 ルーンはそんなルクレツィアを見据えたまま続けた。

「ヴェスタがそう聞いた瞬間、あんたは一瞬考えた。正直に答えるべきか、嘘をつくべきか……何故ならあの爆発は本当はあんたの命を狙ったものじゃない。あの爆発――あの騒ぎ自体、あんたが自分で起こしたものだから、だろ?」

「……」

「普通に考えて、今まさに命狙われてますって状況で自分から護衛どもを撒いてくるわけがない。……で、結局正直に答えなかったのは、その事実が自分の純粋で可憐なイメージを壊すと咄嗟に考えたからだ。――つまりあんたは最初から、自分がヴェスタの目にどう映っているか計算しながら話を進めていたことになる」

 ルクレツィアは下を向いたままだった。

 予測も多分に含まれている。が、それほど事実とかけ離れてはいないはずだという自信がルーンにはあった。

「さて、どこまでが真実だ?」

 とはいえ。そんなルーンも先ほど語った彼女の話が全て嘘だまでは思っていない。あんな騒ぎを起こしてまで逃れ、ヴェスタを頼ろうとしたのはやはりそれなりに切羽詰まった事情があるからだろうし、きっとそれは誰か――あるいはこの目の前にいるルクレツィア自身の命にかかわるものなのだろうとも思う。

 だからヴェスタの前では敢えて口を挟まなかった。

「本当のことを隠したまま力を借りようなんて虫が良すぎるよな。私はヴェスタのヤツと違ってそこまでお人好しじゃないんだ。……さあ、答えてもらうぜ。あんたの本当の目的を」

「……」

 やはりしばらく。ルクレツィアは黙っていた。

 だが、ルーンは慌てない。

 やがて――

「――申し訳ありません」

 ポツリ、と。

 ルクレツィアは素直に自らの非を認めた。

 往生際悪く否定するわけでも、開き直るわけでもなく。

 本当に申し訳なさそうにそう言って、ゆっくりと視線を上げた。

 変わらない。

 やはり彼女は健気で可憐な姫だった。

 

 

「――しかし勢いで思わず出てきてしまったが、大丈夫であろうか」

「なにがですか?」

「いや」

 俺はゴソゴソと、家と家の間の狭い隙間から路地の様子を窺いながら背中のミュウに言った。

「ルーンもあれで思春期の少年だ。あの可憐で美しい姫と二人っきりにしてしまって良かったのだろうかと、少しな」

 まあ、不憫な境遇ゆえひねたところはあるものの、根本的なところは真人間であるルーンのことだ、間違いなどはないと思うのだが、しかし。あの年頃の情熱と言おうか熱情と言おうか、まあそんな感じのアレはなかなかにコントロールし難いものでもあって――

 しかし。

「はあ」

 そんな俺の心配にミュウはなんとも奇妙な言葉を返してきた。

「御主人様にはルーンさんという名前のお知り合いがたくさんいらっしゃるのですね」

「む? どういう意味だ?」

「あ。御主人様。あれをごらんください」

「ん?」

 見ると、ちょうど十二、三歳――ちょうどルーンと同い年ぐらいの少年が歩いていた。身なりを見る限り、それなりに裕福な家の子供のようだ。

「……ったく、あのババア。なんでもかんでも口出ししやがって。自分の考え押しつけようとするんじゃねーよ」

 何やら不満そうにしている。

「他人の真似事なんてうんざりだっつーの。俺は俺、他の誰でもないんだ。見てろ、いつかきっと他の誰にもできないような何かを成し遂げてやる」

 ブツブツ呟きながら、少年は俺たちの近くを通り過ぎていった。

 ミュウが言った。

「御主人様。今のが“あの年頃のそんな感じのアレ”ですか」

「……」

 違うと思うが、完全に違うとも言い切れない。

 まあいい。ルーンのことだ、きっと大丈夫だろう。

「ところでミュウ」

「はい」

「ここはどの辺りだ」

「……」

 ミュウは少し辺りを見回した。

 日は完全に沈みかけていた。

「人生のハーフタイム辺りでしょうか」

 いや、そういうことではなくて。

 というか、俺はまだそんなに行ってない。せいぜい前半の二十分ぐらいだ。

「使命感に燃えすぎて道を忘れてしまったようだ。街の様子もだいたい掴めたしそろそろ戻ろうかと、な」

「そういうことですか」

「普通はそういうことだと思うが……」

 もっとも道を忘れてしまった俺が偉そうに言える立場でもない。幸い、ミュウはきちんと道を覚えていたようで、彼女に案内されるまま暗くなった街の中を進んでいく。

 遠くには昼間の喧噪がまだ残っていて、ルクレツィアが戻るまで騒ぎは収まりそうもない。

「ところで御主人様。先ほどのお言葉はどのような意味だったのですか?」

「む? ああ、ルーンとルクレツィアのことか。――まあ、年頃の男女を二人きりにすると色々と良くないことがあるのだ。調味料を取ろうとして手が触れ合ってしまったり、偶然風呂場で鉢合わせてしまったりとな」

「はあ」

 わからんようだ。

 うむ、俺自身も何を言っているのかよくわからん。

「ですが、私と御主人様も二人きりです」

「む? いやまあ、それはそうだが」

 しかし年頃というにはミュウは少し幼すぎる。まあ人間換算でいくつぐらいの年齢に相当するのかはわからんが。

「要するに俺はそういう方向では正常な人間だということだな、うむ」

「?」

 不思議そうな仕草があまりに可愛らしくてちょっとだけ目覚めそうになってしまったことは内緒だ。

「しかし、それよりも気になるのは――ルーンのヤツが、ルクレツィアにあまり良い感情を持ってないらしいことだ」

 ミュウが俺を見上げた。

「いや。不憫な境遇で育った故、そうたやすく他人を信用できないというのはわからんでもない。……しかしだ。あんなにも健気で、それこそ――天地がひっくり返りでもしない限り嘘などつきそうにない、あの姫の言葉さえ信用できないとは、あまりにも悲しいではないか」

「はあ」

 そう言いながらミュウが地面を夜空を見比べる。

「でもひっくり返ってませんね」

「む? まあ、そのぐらいあり得ないという例え話だからな」

「はあ。……?」

 そのときミュウが何故よくわからないような顔をしたのか、そのときの俺にはもちろんわからなかったのだが――

 

 

 

「申し訳ありません、ルーンさん。私、あなたのことは頭の軽いお猿さんか何かだと思っていたのです。本当に申し訳ありませんでした」

「……」

 一瞬。

 さすがに呆気にとられた。いや、あるいはルーン自身も少なからず騙されていたのかもしれない。

 その儚げな容姿に。

 オルゴールのような繊細な音色の声に。

 ルクレツィアは可憐な姫のまま、今にも泣き出してしまいそうな顔で言葉を続けた。

「学などまるでなさそうな貴方にしてはとても筋の通った推測でした。――ですが、どうか勘違いなさらないでください。別に悪意があったわけではないのです。ただ私は、私にとって不利になることを口にしなかっただけなのです。ですからどうか、どうかお許しください」

 儚く可憐に微笑むその姿も、その口調も、先ほどまでと何一つ変わらない。

 だが、

「……てめぇ」

 どうやら彼女の本性はルーンの推測のさらに上をいっていたようだ。

 思わず口調を荒らげる。

「そういうのを悪意ってんだろーが!」

 ビクッと怯えた“フリ”をして、ルクレツィアは悲しそうな顔をした。

「ルーンさん……どうか落ち着いてください」

 と、正面の椅子を指し示し、

「少し落ち着いてお話をいたしましょう。……それとそういう汚い言葉はあまりお使いにならない方がよろしいかと思います。ますますヴェスタ様に性別を勘違いされてしまいますから……」

「くっ……!」

 ルーンは即座に言い返そうとしたが、地上の方から物音が聞こえて口を噤んだ。

「……」

 ヴェスタやミュウが戻ってきたにしては早すぎる。しばらく様子を窺っていたが、異変はない。

 どうやら近くを通った人間が何か重い物を落とした音らしかった。

 ひとまず安堵する。

 見ると、ルクレツィアもその音が気になっていたらしく天井を見上げていた。

 少し冷静になる。

「……いいのかよ、あんた。私がヴェスタのヤツにバラしたらあんたの思惑は台無しになるんじゃないのか?」

「……」

 ス、と、ルクレツィアは上品な仕草で視線を天井からルーンの元へ戻した。

「それも誤解なのです。私は最初から隠すつもりなどありませんでした。ただ、あのヴェスタ様というお方は、余計なことさえ言わなければ無償で働いていただけそうでしたので――」

「不利になることを口にしなかっただけ、か?」

 ルクレツィアは少し微笑んだ。

「はい、そのとおりです。あなたが見掛けによらず話のわかるお方でとても助かります」

「ちっ……」

 なんといけ好かない女だろうか、と――ルーンはおそらく同い年ぐらいの姫を睨み付けた。

 その視線にさらされた可憐な姫は、ホッと物憂げなため息を吐いて、

「ですが……残念なことに、私があなた方のお力を必要としているのは本当なのです。ですから――ルーンさん。あなたに対しては、純粋にビジネスとしてお話しすることにいたしましょう」

「ビジネス?」

「はい。ビジネス、です」

 そう言って、姫はニッコリとルーンを見つめた。

「末とはいえ領主の娘です。きっとルーンさんにご満足いただけるような謝礼ができると思いますわ」

「……」

 気に入らない、と、そう思っていながら。ルーンは思わず動きを止め、マジマジとルクレツィアを見つめてしまう。

 頭を過ぎったのは残り少なくなった路銀の額と、そういう方面ではまったく頼りになりそうにない黒衣の男の顔。

 ほんの数秒の葛藤の末。

 ルーンは彼女の正面に腰を下ろして不機嫌そうに言った。

「……とりあえず。話は聞こうじゃないか」

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