その4「アクロバティック大量殺戮者(ジェノサイダー)」
割れんばかりの歓声。
テントを覆い尽くす熱気。
暑さなど簡単に忘れてしまうほどの興奮。
凶暴なはずの猛獣たちは合図に合わせて芸を披露し、ステージ上の人々は信じられないような身軽さで様々な演目をこなしていく。
そこは今、完全なファンタジーワールドと化していた。
まあ……しかし、なんだ。
世の中、華やかな舞台があれば、もちろんそれを支える裏方ってのは間違いなく存在しているわけで。
言うなれば、縁の下の力持ち? というのが必ず必要になってくるわけである。
……で、何を言いたいのかと言うと。
「こら、キリキリ動けっ!! さっさとしねえと次のプログラムに間に合わねえだろうがっ!!」
「お……おう」
俺にはサーカスを見る時間など、どうやら与えられないらしい……ということだ。
~アクロバティック大量殺戮者~
「ふぅ、やれやれ。やっと一息つけるぞ……」
「ご苦労様です、御主人様」
舞台裏、様々な器具が置かれている倉庫で、ようやく一息。
裏方といっても俺の場合はほとんどが雑用係みたいなものだが、だからこそ、とにかく徹底的にこき使われるという現状もあるわけで。
よりにもよって、数日に渡って続いてきたこのサーカスの最終日である本日は、今までにないほどの真夏日。日陰で黙っているだけでも汗が噴き出してくる気温だ。いくらこの俺が鍛えられた肉体を持っているとはいえ、その中をこの格好であれだけ動き回れば、軽い脱水症状になるのも仕方のないことであった。
と。
「馬鹿だな、お前」
突然、俺に向けられた声。
「む?」
その方向を見ると、そこではルーンが相変わらずクルクルとナイフを回しながら、呆れ顔でこっちを見ていた。
「もうピエロの格好なんて必要ないだろ。そんな動きにくい服で裏方仕事なんて――」
ワァァァァァァッ!!
舞台の方から歓声が聞こえて、ルーンの言葉が途中で掻き消される。
が、その先の言葉は聞かなくても当然理解できた。
「なるほど」
確かに俺は今、宣伝時に使っていたピエロの衣装のままである。
「しかし、臨時とはいえ今はサーカスの一員であるからな。いつ何時、臨時要員としてステージに立たされるかわからんではないか」
「んなわけないだろ。どう間違ったって、芸も覚えてないズブの素人をステージに立たせたりなんかするもんか」
「む?」
それは盲点であった。確かに俺は、ステージに上がったところで芸の一つも出来るわけではない。
「そうか。ならばやはり、いつもの格好に着替えるか……ミュウ?」
「はい。……どうぞ、御主人様」
そう答えて、ミュウは法衣の下から俺の着替え(いつもの服だ)を取り出した。
……何度も言うように、突っ込みは不可である。
「あのな……」
そんな俺たちのやり取りに、ルーンはさらに呆れた調子を強くして、
「そいつは、どう見ても今の格好より暑苦しいだろ」
「む? そうか?」
「……」
ルーンは大きなため息をついて、それから首を横に振るだけだった。
「ふーむ……」
しかし、残念ながら俺は別の服を所有していないのだ。
つまりはいつもの服に戻るか、ピエロの格好のままでいるかの二択になる。
「仕方あるまい。ミュウよ、やはりその服はしまっておいてくれ」
どっちにしても暑いならわざわざ着替えることもあるまい。
「はい」
再び、俺の服を収納するミュウ。
と、そんなところへ、
「あ、ピエロさん」
「む?」
聞き覚えのある声とともに、一人の少女がこの器具室に入ってきた。
「おお、君は確か……」
まるで水着のようなサーカス衣装。年齢に似合わない化粧を施した顔は、以前とはだいぶ印象が違って見えた。が、俺はいわゆる義理堅い人間であって、ちょっとやそっとのことで恩を受けた相手の顔を忘れることはないのだ。
「ユン、といったか」
「うん。覚えててくれたんだ?」
そう。彼女はまだサーカスの準備期間中に、俺に一杯のかけそば――じゃなく、一杯の麦茶を持ってきてくれた少女だったのである。
が、残念なことにあの日以来、この少女と話をする機会には恵まれてなかった。ついでに言うと、サーカスが開幕してからの数日間仕事が忙しくて、彼女の演目も一度も見れずじまいである。
せめて最終日の今日ぐらいは見に行きたいとは思っていたところなのだが――
(ふむ。なんとかせねば、な……)
「あれ……ミュウちゃん?」
と、歩み寄ってきたユンは不思議そうに俺のそばにいるミュウを見て、
「ピエロさんと知り合いだったんだ?」
「はい」
ゆっくりと頷くミュウ。
以前、少し会話を交わしたと言っていたが、ユンの反応を見る限り、結構好印象を持たれているようだった。
(うむ……それはよいことだ)
年の頃も同じぐらいだろうし、同年代の娘と話すことはミュウにとってもプラスになるであろう。
とまあ、それはいいのだが。
「ところで、ユンよ」
俺は少しだけ眉をひそめて、
「前にも言ったように、俺は決して“ピエロさん”という名ではないのだが」
「ふふっ……でも、ほら。今日もピエロさんのままだもん」
「むぅ」
言われてみればその通りであり、まったく反論できん。
するとユンは満面の笑みを浮かべて、
「それにピエロさん、その格好、良く似合ってるよ」
「む? そうなのか?」
丁度近くに鏡があったので全身を映してみる。
……言われてみれば似合ってるような気がしないでもない。
「ふむ、なるほど……なるほど、なるほど」
色々ポーズを取ってみる。
まあ、詰まるところ、俺のようにスーパービューティーな男はどんな格好をしても似合うというのが定説なのであるが。
「……」
「ん?」
隣のミュウがいつからかじっと俺の事を見つめていた。
明らかに何か言いたそうな感じである。
「どうしたのだ、ミュウ?」
「いえ」
問いかけると、ミュウは少しだけ首をかしげて、
「私はいつもの御主人様の方がいいと思います」
「む?」
ミュウがこういうことで自己主張するのは珍しい。
「……ところで」
そこへ口を挟んできたのは、少し離れた場所で腕を組んでいるルーンだ。
手の中にあったナイフはいつの間にか姿を消している。
「お前、こんなところでそんなのと話してる暇ないんじゃないのか? そろそろ出番だろ?」
「そんなの?」
なんとなく引っ掛かる言い方だが、多分気のせいであろう。
「あ……うん」
頷くユン。
「おぉ、そうか」
高綱はサーカスの華でもあるので、いつでも最後の方らしい。
さっきも言ったように実際にやっているところは見たことないのであるが、裏方の仕事をしているときにロープを張っているところは見た。何メートルあるのかわからないが、おそらく他のサーカスと比べてもかなり高い。落ちたら怪我どころじゃ済まない高さなのだ。
「怖くはないのか?」
俺だったらあの高さに上るだけでも少々遠慮しておきたいぐらいである。
「うーん……」
ユンは少しだけ考えて、
「少しは怖いけど、でも怖いって考えたら余計に怖くなるかな」
「ふむ。そういうものか」
「それに私、これしかできないから」
そう言って、屈託なく笑った。
「むぅ……」
こんな小さな子供でも、自分の居場所を確保するのに必死なのであろうか。感心すると同時に、ほんの少しだけ不憫にも思えてしまう。
(しかし、俺に何ができるわけでもないのだな……)
「よし!」
俺は決心するとともに、ポンッと膝を叩くと、
「ならば今日こそは見に行ってやらねばならぬな!」
「え?」
俺の言葉にユンは少しびっくりした顔をする。
「でもピエロさん、お仕事忙しいんじゃ……」
「そんなものは気合でどうとでもなる!」
ググッと拳を握り締める。
何しろ相手は命の恩人なのだ。仕事とどっちが大事かといえば……そりゃ生活がかかってるわけでもあり、仕事は仕事で大事だが、まあ多少ならば支障はあるまい。
限りなく主観的な判断であったが。
「そうなんだ」
ユンは嬉しそうだった。
「なんだか緊張してきちゃった。ピエロさんが見に来るなら、絶対に失敗できないね」
「む?」
そう言われてみれば確かに。
笑顔ながら、ユンの表情は心なしか青白く映った。
「ふむ。いや、そういうつもりはなかったのだが……」
これはまずい。
変にプレッシャーを与えてしまったのだろうか。
「ならば、やはり見に行かない方が良いか?」
だが、ユンは思いっきり手を振って、
「あ、ううん。そういうことじゃないから!」
「む?」
「おーい、ユン!」
そこへ、器具室の入り口から声がかかった。
「そろそろ準備しとけよ!」
「あ、はーい!」
返事をして、ユンは最後にもう一度、俺の方を見ると、
「じゃあ……約束だよ! 絶対に見に来てね!」
「それはもちろん構わないのだが――」
「ありがと! じゃあまた後でね!」
元気良く、手を振って背を向けるユン。
そこへ、
「おい」
ルーンが再び口を挟んだ。
「?」
振り返るユンに、ルーンは相変わらず腕を組んだまま、
「頑張れよ」
どこか真剣な。
確実に気持ちのこもった言葉を投げ掛けた。
「あ……はい」
「?」
なんであろうか。
と、そんな俺の疑問は、ユンの姿が器具室から消えるなり、ルーン本人の口から明らかにされた。
「だいぶ悪そうだな」
「む?」
「……なんで私の顔を見るんだよ」
ルーンは不審そうだったが、俺は納得して頷きながら、
「いや、確かにルーンの口は悪――」
「刺すぞ」
どこからかまたナイフが現れた。
どうやら違うらしい。
ルーンは呆れ顔をして、
「あの子……ユンのことだよ。体調、相当悪そうだったろ」
通路の方を見つめながら、ナイフを懐にしまう。
「む? そうなのか?」
びっくりして聞き返すと、ルーンはやはり呆れた顔をして、
「お前にそんなのを期待した私が悪かった」
「む……」
なんとなく馬鹿にされている気がしないでもないが、考えないようにしよう。
考えたら負けである。
そこへミュウがさらに口を挟む。
「いつもに比べて足取りに安定感がありませんでした」
「ほぅ」
なるほど。ミュウがそう言うのであれば間違いな――
「もしかすると、いいパンチをもらっちまったのかもしれません」
「は?」
「?」
ルーンともども呆気に取られ……それから意味を尋ねようとして、ミュウの手の中にある本の存在に気付いた。
目を凝らして見る。
タイトル……“リングの鬼”。
「でも大丈夫です。男と男のしょーぶは肉体が限界に達してからがホンバンなのです」
誰だ、こんなものをミュウに読ませたのは。
「まあ、それはおいとくとして……だ」
だがまあ、せっかく染まっているところをムリヤリ醒ますこともあるまい。
「ルーンよ。ああいう演目は体調が悪くても平気なものなのか?」
尋ねる。
が、ルーンはあっさりと言い放った。
「並外れた集中が必要な演目だぞ。平気なはずあるか」
「そ……それはまずいではないか! ルーンよ! 気付いていたなら何故止めなかったのだ!?」
抗議したが、ルーンは変わらず腕を組んだままの厳しい表情で、
「本人が隠そうとしてるんだから仕方ないだろ」
「し、しかし! それではあまりにも危険すぎるではないか!」
さっきも言ったように、失敗して“ごめんなさい”で済むようなものではないのだ。
俺は居ても立ってもいられなくなって、
「ええい! ならば俺が止めて――!」
「やめろって!」
「!」
少し苛立たしげな声が、俺の足をその場に縫い止めた。
振り返ると、ルーンは組んでいた腕を下ろし、まるで睨み付けるように俺を見て、
「私だってお前だってここの事情を知ってるわけじゃない! 余計なことをして、あいつがここに居づらくなったりどうするつもりだ! 責任取れんのか!?」
「っ……」
そういうものなのであろうか。確かにそういう事情に関しては、俺よりもこのルーンの方が詳しいようでもあるが。
「しかし……」
「それに」
俺の言葉を遮り、ルーンはチラッと器具室の入り口に視線を向けて、
「本人は大丈夫だと思ったから行ったんだ。どうしてもダメなら自分から言うさ。あんな子供でも、それで生活しているプロなんだから」
「……むぅ」
それで俺の反論は完全に封じられた。
確かにそういう事情であるならば、そう易々と口を挟めるものではない。
「しかし……むぅ……万が一……」
「……」
腕を組んで呟く俺に、ルーンは少し怪訝そうな視線を向けてきた。
そして一言、
「お前、本気で心配しているのか?」
「む?」
その言葉に、俺は眉をひそめて、
「当たり前ではないか。……ルーンよ。お前は心配ではないのか?」
「……」
良くわからないが、何やら複雑そうな表情だった。
なんであろうか。
まるで、俺の心を探ろうとするかのようにじっと視線を向けている。
……これはまさか。
「ルーンよ……前にも言ったが――」
「なんだかわからんが、違う!」
まだ何も言ってないのに突っ込まれてしまった。
ムキになって否定するところが怪し――かったりはしないであろうな、おそらく。
「ふむ。しかしともかく……ユンがそこまでして頑張ろうというのであれば、やはりこの俺が見守ってやるしかあるまい!」
そして俺は決意を新たにするのである。
ググッと拳を握り締め。
「……カンカンカン」
ボソッと、何故か試合終了のゴングが鳴り響いた。
歓声。
歓声の渦。
普段見られないいくつもの超人的なショーの数々に、観客の興奮は否が応でも高まっていった。
そしていよいよクライマックスが近付く。
残された演目はあと僅か。
ステージには、二階席よりも高い位置に僅かに段差のある二本のロープが張られていた。そしてそのロープの一端、その台上に現れたのは、キラキラと輝く派手な衣装を身につけた、年端もいかない一人の少女。
その瞬間、客席が一瞬静まり返った。
「……」
台上で少女が客席に一礼。
それとともに、下のステージいるピエロがお決まりの口上で観客を煽る。
少しずつ。
少しずつ、ざわめきが戻り始めた。
緊張と興奮。
これこそが、このサーカスというものの醍醐味なのかもしれない。
危険であること。
失敗すれば命すら落としかねない状況。
もちろんそれを演じる者はそれだけの修練を積んでおり、おそらく失敗しないであろうことは観客にもわかっている。むしろ、そうでなくては客も見に来るはずはない。彼らが見たいのは悲劇ではなく、一見不可能とも思えることをやり遂げてしまう瞬間。それを見に来ているのだから。
それが客を興奮させ、感動させる。
だから少女が台上に現れたときも、観客は“本当に大丈夫なのか”と緊張し、その後、少女がいかにしてそれをやり遂げてしまうのかを期待して見つめているのだ。
ワァ……
短い歓声。
少女がロープの上に一歩を踏み出したためだ。
……手には長い棒を持っていた。バランスを保つための小道具であろう。
ワァッ……
危なっかしい足取りで、だけど確実に少女はロープの上を歩いていく。
今までの演目とは違い、観客は比較的静かに、固唾を呑んでそれを見つめていた。歓声を上げることで、少女がバランスを崩してしまうのを恐れているかのように。
フラ……フラ……
足取りは相も変わらず危なっかしい。
だが、それを見上げていたピエロは、さらなる口上で観客の不安を煽り続けていた。
……おそらく演技。
観客の一部はそのことに気付いている。
少女は危なっかしく見える足取りながらも、致命的なミスは決しておかさない。見る人が見れば、ロープ上の少女に余裕があることはわかるはずだった。
そして少女の足はついにロープを渡りきり、反対側の台上に立つ。
沸き起こる拍手。
だが、一瞬の後。
わぁっ……
それはさらなる緊張に変わった。
「……」
少女は台上で再び一礼するなり、手にしていたバランスを保つための棒を投げ捨ててしまったのだ。
それだけならまだしも。
今度は先ほどよりもまるで慎重さのない足取りで、無造作にロープの上を歩き出したのである。
わぁぁっ……
悲鳴とも感嘆ともつかぬ声が観客から漏れる。
だが、少女は先ほどよりもよっぽど安定した足取りで、まるで地面を歩くかのごとくロープの上を進んでいった。
途中、ロープの中央で片足を上げ、クルッと回転してみたり、その場でジャグリングをしてみせたりと、少女は様々な芸を見せる。
そうしていて、観客もようやくわかってきたようだった。
……ああ、大丈夫なんだ、と。
少しずつ遠慮のない派手な歓声が沸き起こるようになって。
少女は高いロープの上、笑顔で観客に応え、そしてまた歓声が起こる。
興奮が高まる。
熱気がテントの中を覆う。
そんな、数分ほどの時間。
おそらく観客にとっては一瞬にも近い、興奮した時間。
全ての演技を終えた少女は、最後にロープの中央で一礼をした。
同時に沸き起こる、割れんばかりの拍手と歓声。
それを背に受けて、少女は台上へと戻っていく。
やはり最初と同じように、危なっかしいフラフラとした足取りで。
……誰一人として、異変には気付かなかった。
興奮した観客も。
下で相変わらずの口上を続けるピエロも。
それが、最初と同じ少女の演技であると、信じ切っていたから。
……バランスを崩し。
……体が横に傾いて。
それでもまだ、誰も異変を信じない。
一瞬の後には、何事もなかったかのようにロープ上に復帰するだろうと、そう思って。
「……――きゃぁぁぁぁぁっ!!」
客席のどこかからようやく悲鳴が上がったのは……少女の足がロープから離れ、ゆっくりと落下を始めた、そのときになってからだった。
「あー、そこそこ。なかなかうまいね、あんた」
「そ、そうなのか?」
返事をしながらも、俺は空の上……じゃなくて、上の空である。
俺の手の先でうつ伏せになっているのは、派手なステージ衣装に身を包んだ年上の女性。
二十歳ぐらいだろうか。
断じて、向こうが年上である。
(むぅ……)
気が逸る。
先ほど最終段階のステージのセッティングを終え、さあ誰にも見つからないように隠れてユンの演技を見よう……と考えていた矢先、運の悪いことに俺はこの女性に声をかけられてしまったのである。
曰く、出番が終わって疲れたからマッサージしてくれ、と。
「俺は按摩さんではないのだが……」
「別にプロの技なんて期待しちゃいないよ。ちょっともみほぐしてくれればいいんだ」
ちょっとなどと言いつつ、こうしていてかれこれ十分以上が経過している。
これは由々しき事態であった。
(まずい……このままではユンの演技が見れないではないか!)
先ほどのセッティングによる休憩時間から、演目を一つ挟んで高綱だったはずなのだ。とすると、今頃はもう始まっている、いや、ヘタをすれば終わっている可能性すらある。
(……ぬおおおおおっ!!)
「いたっ! ちょっと! 痛いってばっ!!」
「む……す、すまん……」
いつの間にか力が入っていたらしい。
「ちゃんとやってよね」
「むぅ……」
どうやらこの女性はまだまだ続けさせるつもりらしい。口答えは許されない……悲しきアルバイトの身であった。
「……」
すぐそばではミュウが、相変わらずの無表情で女性の足の裏を揉んでいる。“リングの鬼”の呪縛からはすでに解き放たれたようだ。
で、もう一人……ルーンはといえば、どうやらユンの演技を見に行ったらしい。やはり彼女のことが心配だったようだ。
彼も根は心優しい少年なのだろう。
(うむむ……俺も何とかしてこの場を抜け出さなくては!)
こうしていても始まらない。
「……ところで」
とにかく話を切り出すことにした。
作戦その一。
「実を言うと、俺はこれから少し用事が――」
「あっ、もうちょっと下ね」
「う、うむ」
聞いてない。
失敗。
作戦その二。
「実を言うとだな。祖母が危篤で――」
「あー、そこ、きくわぁ」
「む? ここか?」
「っ……そうそう」
聞いてない。
失敗。
……というか。
(聞いてないのでは話にならんではないかっ!!)
俺の明晰な頭脳が閃いた。
文字通り“話にならない”のだ。
(ダジャレを言っている場合ではない!!)
心の中の呟きである以上、自分で突っ込むしかなかった。
(くぅ……どうすれば)
世の中はあまりにも理不尽だ。
こうしている間にも時間は刻一刻と過ぎていく。ヘタをすればすでに手遅れかもしれない。
(ぬおおおおっ! このままでは俺は、少女との約束を破る最低野郎になってしまうっ!!)
変態で最低なロリコン野郎(?)とか、そういうレッテルだけはどうしても回避しなければならない。善良な一般市民としてのプライドを賭けてでも!
「……で?」
「へ?」
クールでビューティーな俺としたことが、思わず間抜けな返事をしてしまった。
女性はうつ伏せになりながら肩越しに俺の顔を見ている。
「何か言いたいことがあったんじゃないの?」
「……おお」
どうやら聞いてくれていたらしい。
神はまだ俺を見捨てていなかったぞ、うむ。
「実はだな――」
すかさず事情を話すことにした。
ユンが俺の命の恩人であり、この最終日に演技を見に行く約束をしたことを。
簡潔に、手短に話した。
もちろん、それで納得してもらえるかはいささか不安であったが……それはいらぬ心配だったようで。
突然、
「……なんだぁ! そういうことなら早く言いなさいよっ!」
女性はがばっと起き上がった。
「お?」
そうしてすかさず俺の背中をバンッと叩く。
「ほらほら! 高綱だったらもうとっくに始まってる! 急がないと終わっちゃうわよ!!」
「お、おお……?」
「……」
ミュウとともに背中を押され、控え室の外にまで押し出される。
「な、なにを――」
驚きとともに何とか尋ねると、女性はニッコリと笑顔を浮かべて、
「あの子は私たちの可愛い後輩よ。約束したってんなら、破らせるわけにはいかないでしょ」
「……おお、そうか!」
その言葉を聞いて少し胸が熱くなる。
どうやらユンは結構可愛がられているようだ。
実を言うと、居場所がどうこうとかいうルーンの言葉を聞いて少し不安になっていたのだが、こういう人がいるのであれば心配することもないであろう。
「名もなきサーカス団員よ! 礼を言うぞ!」
「失礼な! ちゃんと名前あるわよ!」
背中に浴びせられた言葉に手を上げて応え、
「ミュウよ! 急ぐぞ!!」
「はい。御主人様」
駆ける。
駆ける。
女性は“とっくに始まってる”と言った。
一つの演目にどれぐらいの時間を割くのかはわからないが、まさか三十分もやっているわけではあるまい。
それを考えると、本当に時間はなさそうである。
……わぁぁぁぁぁぁっ!!
「!」
一際大きな歓声が上がった。
(まさか……終わってしまったのか!?)
通路の先に出口とステージが見えてくる。
もちろんいわゆる関係者以外立入禁止な通路であって、ステージに直接出られる通路だ。
「……ん?」
その通路の奥に見知った人影があった。
「ルーン! どうなのだ!? もう終わってしまったのか!?」
「お、おい、騒ぐなって」
俺の姿を認めたルーンが振り返って、それからフッと息を吐き出すと、
「そろそろクライマックスだ。ギリギリ間に合ったってとこじゃないか?」
「そ、そうか……」
本来なら全部見たかったが、贅沢を言うわけにもいくまい。
ホッと息を吐いてルーンのそばに並ぶ。
「それで、ユンの様子はどうなのだ?」
「心配無用、ってところだ」
そう答えてから、ルーンはハッとした様子で少し身を離していく。
……どうやらまだまだ親密度が足りないらしい。
が、今はそれよりもユンの方である。
「ふむ」
頷いてステージの方を見ると、
「……うぉ」
見上げるだけで目眩がしてきそうな高さ。
そんな高さで、ユンがロープの上、信じられないようなバランスで立っている。いや、立っているどころか、そこで派手な動きを見せているのだ。
「み……見ているだけで寒気がするぞ」
「大したもんだ、あいつ。さすが、これだけ大きなサーカス団でやってるだけのことはあるよ」
ルーンの賞賛は混じりけのない、純粋なものだった。おそらく、それだけのものをこれまでに見せられてきたのだろう。
「……」
そんな俺とルーンの間から顔を出し、同じようにユンを見上げていたミュウ。
ふと、不思議そうに、
「御主人様。あのユンという方は空を飛べるのですか?」
「む? そんなはずはなかろう」
突然の質問に、当然のごとくそう答えると、
「では、あの高さから落ちても大丈夫なのですか?」
ユンがステージ上のピエロから投じられた二本のクラブを、見事にロープの上でキャッチする。
バランスを保ちながら、ユンはその場で華麗にジャグリングを始めた。
「もちろん大丈夫ではないぞ」
クライマックス。
ユンの動きも激しくなってきた。二本のロープの上で舞い、踊る。
「っ……」
思わず息を呑んでしまうほどの大胆な動き。
それでもユンはロープの上にいた。
「……」
ミュウも黙ってそれを見つめている。
いつの間にか響いていた音楽も、興奮を煽るかのようにテンションを上げている。
ものすごい熱気だ。
「御主人様」
もう一度、ミュウが俺のことを呼んだ。
「む……なんだ? 今、いいところではないか」
俺は視線を動かさずに答える。
演技は完全にクライマックスを迎えていた。
ロープが揺れ、二本張られたロープの上で軽く飛び、跳ねる。
そのとき俺の視線は、完全にロープ上の少女に釘付けだったのである。
「……」
ミュウは黙った。
いや、
「――……ます」
何事か呟く。
「む?」
聞こえなかった。
「何を言ったのだ、ミュウ……?」
やはり視線を動かさずに尋ねる。
そして、ユンの演技が終わった。
観客から沸き起こる拍手。
すぐそばからも、小さな拍手が聞こえる。
ルーンのものだ。
いや……俺も無意識のうちに手を叩いていた。
それほど素晴らしいものであったのだ。彼女の演技は。
「……」
だが、ミュウは微動だにせず。
ロープ上。
客に向かって礼をするユンを見て。
「御主人様」
もう一度、言った。
「落ちます」
「……は?」
今度は間違いなく、その言葉は俺の耳に届いてきた。
「なにが――」
聞き返すまでもなく、ミュウはもう一度言った。
「落ちます」
その視線は微動だにせず。
見つめているのは……ロープの上。
「……」
その言葉の意味を理解し。
そんな馬鹿な、と振り返って。
そして……そこに、その光景があった。
「……――きゃぁぁぁぁぁっ!!」
客席から轟いたのは悲鳴。
「なっ……!!!」
息を呑んだのはルーンであったか、あるいは俺自身であったか。
何百人もの観客の前で、ロープの上にあったユンの体は、ゆっくりと、まるでスローモーションでも見ているかのように、落下を始めていた。
「……っ!!」
ミュウの言葉がなければ、まず最初に呆然としていたかもしれない。だが幸い、今の俺には何が起きたのか瞬時に理解することができた。
何をすべきか。
どうするべきなのか。
……考えるまでもなく。
「ミュウっ!!」
「はい」
何を指示したわけでもないというのに、ミュウはそう答えた。
それより先に、俺の足が床を蹴っている。
「おいっ……!」
背中に飛んだルーンの声に反応する暇もなく。
疾風のごとく、俺とミュウの体はステージに飛び出していった。
観客のざわめきよりも速く。
速く。
……早く。
(っ……間に合うかっ……!!)
ユンの体はロープと地上の真ん中ほどにまで達している。
意識があるのか、ないのか……どちらにせよ、あの体勢のままで地上に叩きつけられたらどうなるか、考えずとも明らかだった。
(絶対に……助けてみせるっ!!!)
体が燃えるように熱くなる。頭にかぶっていたピエロの三角帽子が後ろに飛んだ。
その速さは、もはや人間の領域にはない。
「ユン――ッッッッ!!!」
渾身の力を両足に込めて、出来うる限りの最速で飛ぶ。
俺とユンの体が見る見るうちに近付いていく。
「っ……!」
だが……その距離を測って愕然とした。
――届かない! ほんの数メートル……届かない!
「うぉぉぉぉぉぉっ!!!!」
その瞬間、
……ヒュッ!
横を何かが走り抜けた。
「!?」
俺を上回るスピードで走り抜けた何かは、真っ直ぐにユンに向かっていく。
「……ミュウッ!!」
白い装束。白い羽。
ミュウが俺の限界を越える速度で翔んだ。
(……羽?)
疑問に思う間もなく、ミュウの体は落下寸前のユンに追いつく。
そのまま空中で受け止めようとするが、
「っ……!」
いくら軽いとはいえ、落下している人間をミュウの小柄な体で受け止められるはずはなかった。
無表情で端正な顔が僅かに歪む。
だが、その一瞬。
僅かに落下速度が弱まったその一瞬だけで、俺には充分であった。
「ミュウ! ユンッッッッ!!!」
俺の体は間一髪で二人の真下に入り込んだ。
そのまま二人を抱き留め、
ガクンッ!!!
両腕を襲うとてつもない衝撃。
両足を前に投げ出して抱え込むような体勢を取る。
「くぅぅっ!!」
腰が落ちるとともに体にかかる衝撃を全て受け止め、堪えて、和らげる。
冷静に考えると常人には到底不可能な荒技であったが、必死だった故か、俺はそれを完璧に成し遂げていた。
「っ……!!」
やがて、全身にかかっていた圧力が緩和し……そして最終的には、人間二人分のそれへと収束していく。
いや、最後に訪れたそれは、二人分にしては軽すぎるぐらいであったが。
「……ふうっ!」
安心した直後、全身から溢れ出す冷や汗。
……そして静寂。
テント内はまるで水を打ったように静まり返っていた。
ステージ上にいたピエロも。
悲鳴に彩られていた客席も。
テント外の音が聞こえてきそうなほどに静寂。
そして、最初にそれを破ったのは、
「んぅ……ぅ……ピエロ……さん……?」
「御主人様……」
腕の中にいる二人の少女。
片方は少し青白く怪訝そうな顔で。
もう片方はいつもと変わらない無表情。
――直後。
ワァァァァァァァッ!!!!
(うおっ!?)
割れんばかりの大歓声がテントを揺るがした。
それと同時に送られる、惜しみない拍手。
その向けられた先は。
「……俺?」
一瞬、何が起きたのやらさっぱりであったが……どうやら俺たちの行動は、パフォーマンスの一環として観客に認知されてしまったようである。
「うーむ……」
とりあえずミュウを下ろし、そして未だ意識がはっきりとしていないユンを抱きかかえたまま、客席に一礼してみる。
……さらに大きな拍手が沸き起こった。
何やら大スターにでもなったかのような気分である。
やはり俺のような人間は、全く普通に生活していてもスポットライトを浴びてしまうのであろう。
「いや、どうもどうも……」
調子に乗って手を上げ、軽くポーズを取ってみる。
さらに轟く歓声。
「御主人様?」
ミュウも怪訝そうな顔をしていた。
……そういや、先ほど一瞬見えた羽はすでにそこにはない。
(やはり錯覚であったか……)
その後、呆然としていたピエロ(俺ではなく、元からステージにいたピエロだ)が、とりあえず臨機応変に観客を煽り、俺たちはさらなる歓声を受けることになったのであった。
(わ……悪い気分ではないな、うむ)
さらに手を振って歓声に答えるヒーロー(俺)。
……そのときは浮かれてて全く気付かなかったのだ。
自らの体に起こっていた異変を。
そして。
「やっぱり、あいつ……」
そんな呟きとともに。
とある一点から鋭い視線が突き刺さっていたことを――。