プロローグ
魔界――
人間界と次元の壁一つ隔てたその場所には“魔”と呼ばれる生物が存在している。
“魔”は大きく三つの種類に分けられた。
人間界における人間たちと同じ位置を占める“人魔”
人間を除く動物の位置を占める“獣魔”
そして、人と獣の両方の姿を持ち、また、高い知能を持ちながら、数多くの規律に縛られた特殊な存在“契約者”
そしてこれは“魔”たちが人間界に現れては人々を襲って苦しめる、そんなことが日常的に起こっていた時代の物語である――。
~プロローグ~
ゴォォォォォォ……
辺り一面は真っ赤に染まっていた。
パチパチ……と、火の粉がまるで踊るように空を舞い、おそらくそれほど裕福ではないであろう、村の人々が築いてきたものを、一瞬にして焼き払ってゆく。
数瞬前まで村を支配していた、人々の絶望と嘆きの叫び声さえ、もうすでにどこからも響いてこなくなっていた。
“男”がやってきて、この状態になるまでに消費した時間は、ほんの数十分。その僅か数十分の間に、決して大きいとは言えないながらも、一つの村……そして、数十人もの命が消え去ったのである。
その光景は、まさに地獄絵図であった。
「ふん、くだらんな」
“男”はまるで吸血鬼のような出で立ちで漆黒のマントに身を包み、燃えさかる炎の中に立っていた。若干細身の体に、美しささえ感じるほどに整った、それでいて冷徹さを漂わせる表情。切れ長の目は、周りの炎を映して真っ赤に染まり、冷徹な視線を辺りに向けていた。
この男こそが村を滅ぼした張本人。その名を“ヴェスタ=ランバート”という。
その性格は、極めて冷酷で残忍。命乞いをする若者を。子供を庇う母親を。そして、兄弟の亡骸の前で泣きじゃくる少女を。その全てを残酷に切り刻み、全ての命を奪い去った後でも、彼の心の中には罪悪感のカケラすらも浮かんでいなかった。
その代わり、彼の心の中に浮かんでいたのは、
“退屈”
そう。彼にとって、今日、殺した人々の命など、暇潰しにもならない……その程度の価値しかなかったのである。
「やはり、ある程度の抵抗がなければ、なんの面白味もない」
呟いて、ヴェスタは肩越しに自分の斜め後ろに視線を移動させる。
「ミュウ。生き残りはいるか?」
「はい、御主人様」
彼の斜め後ろ――そう。その場にいたのはこのヴェスタという男だけではなかった。長身の彼に隠れて目立たなかったが、そこには背の低い一人の少女がいる。着ているのはヴェスタとはまるで対照的な、法衣のような白い衣、額の部分に黒い宝石のはめ込まれたサークレットをつけている。
「まだ一人残っているようです」
ミュウと呼ばれたその少女は視線を真っ直ぐ正面に向け、そう答えた。まるで濁りのない瞳――いや、それは光のない瞳、と言うべきだろうか。
「そうか。まだいたか」
ヴェスタの視界には入っていないが、このミュウという少女にはそれが見えているらしい。
「消滅させますか?」
その言葉には何のためらいもない。犬や猫を追っ払うかのような口調だった。
「そうだな……いや、待て」
ヴェスタの視界にも、ようやく一人の少年の姿が映っていた。
「あれか」
そう言って口元に冷酷な笑みを浮かべる。
「……私がやろう」
額から血を流し、真っ赤な瞳に涙を浮かべ、煤で汚れた顔を拭おうともせず。その状態で、なんと少年は少しずつヴェスタの方へ近付いてきていた。まだ十二、三歳。その手には短剣が握られている。
「ほぅ……」
ヴェスタは目を細めた。その笑みがさらに冷酷に歪む。
「よくも――」
少年は手にしていた短剣をグッと握り直して叫ぶ。
「……よくも父さんや母さんをっ!」
「子供ごときが、私に刃向かうというのか? これは面白い」
「よくも……よくもォ……ッ!」
ヴェスタの言葉にも少年は恐れを見せなかった。あまりの怒りと悲しみで感覚が麻痺しているのか……あるいは、すでに耳が聞こえなくなっている可能性もある。
「ふん、おもしろい。たまには、こういう余興もなければ、な」
ヴェスタは少年を見据えたまま、無防備に歩み寄る。
「くっ……ううっ……」
少年はさすがに怯んだ様子を見せた……が、そこから後ろに下がる気配はない。
ヴェスタと少年の間が縮まる。
十メートル。
五メートル。
三メートル――。
そして、その間が一メートルほどになっても、ヴェスタは全く無防備のままだった。
「どうした? 仇を討つのではなかったか?」
「うっ……うううっ……」
ヴェスタの挑発に、少年が目に溜まった涙を払い、短剣を手にした右腕を振り上げる。
「……みんなの仇っ……!!!」
そして、その短剣はヴェスタに向かって真っ直ぐに振り下ろされ――
ボンッ!
「……えっ――?」
少年が驚きの声を上げた。
奇妙な音とともに、弾かれた剣が宙を舞う。
「おやおや……だらしないな」
ヴェスタは相変わらずの冷笑で、宙を舞う剣に視線を向けていた。
短剣は赤い飛沫を飛び散らせながら宙を――……いや、宙を舞っているのは短剣だけではなかった。
「うっ……うわああああああっ!!!」
一瞬、何が起きたのかも理解していなかった少年は、剣とともに弾け飛んだのが自分の右腕だったことに気付き、それとともに襲ってきた激痛に苦悶の叫び声を上げる。
ヴェスタはそんな少年の姿に、嬉しそうに目を細めると、
「なるほど。恐怖は麻痺しても、痛みは麻痺していなかったか。……ミュウ!」
「はい」
ヴェスタの言葉に、ミュウが音も立てずに歩み寄ってくる。が、激痛にのたうち転がる少年にはそんな光景すら、すでに視界に入ってはいなかった。
「次はどうする?」
「はい」
ミュウはまるで昆虫観察でもするかのように、無表情に少年を見下ろして、
「頭を飛ばすのが一番確実だと思われます」
「そうか。……任せる」
「はい」
そんなミュウの返答に、ヴェスタは満足そうな顔で頷くと、少年に背を向けて歩き出した。
背後の少年の叫び声が、一瞬にして途切れたのを耳にしながら――
「たいして面白くはなかったな」
ヴェスタとミュウの二人は村を出て、今は森の中を歩いていた。雨が降ったのか、地面はぬかるんでドロドロになっている。
「御主人様が強すぎるのです」
その後ろを歩くミュウが無表情で答える。すでに夜になり、野獣たちの声がそこかしこに聞こえていたが、この二人の前に現れようとするものはない。
彼らも、相手が自分より圧倒的に強いことを、本能的に悟っているのだろう。
「数がいれば楽しめるかと思ったのだがな……」
「これから、どうなさいますか?」
ミュウの問いに、ヴェスタは答えて、
「とりあえずはこのまま移動だ。今度はもっと大きな所を襲う」
「はい。この近くでは北西の方に街があります」
「規模は?」
ヴェスタはそう言って肩越しに後ろのミュウを振り返った。
「先ほどのところよりは大きいと思われます」
「では、次はそこだ。……今度はもっと面白い楽しみ方を考えておかなければならんな」
「はい」
そしてミュウが頷いたのを確認し、ヴェスタが正面を向こうとする。
そのときであった。
「!」
「あ……」
ミュウが軽い驚きの声を上げた。
(なっ……)
ヴェスタの足の甲を軽い衝撃が襲い、その体は前のめりにバランスを崩していた。どうやら、木の根が地面に突き出していて、それに足を取られたらしい。
――世の中には完璧な生き物など存在しないのである。
それはこのヴェスタとて同じこと。たまにはそういうミスがあってもおかしくはない。
だが……この小さなミスこそが、彼の人生を大きく変えることになろうとは、一体誰が予想しただろうか?
当然、彼の体は即座に反応した。
片手を地面につき、すぐに跳ね起きようとする。
だが。
……ズルッ!
(っ!?)
雨でぬかるんだ地面はヴェスタの手を大きく滑らせたのである。片手で充分だと油断した、これは完全に彼の失敗であった。
そして、そのまま横に倒れこむヴェスタの身に、次に訪れたものは――
――後頭部への大きな衝撃。
ゴンッ!!!!