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東方二次創作(短篇)

舟と化け物【東方二次創作】

作者: 遠野なつめ

妖怪の山の麓に、霧に包まれた湖がある。

小型の妖獣が湖畔を駆け回り、氷の精が水面を凍らせて寝床にしたりと、人ではないものが集いやすい場所だった。


湖の底に、境界の揺らぎが生じることがあった。

地上に裂け目があれば、境界を操る妖怪や博麗の巫女が動くのだが、水底のことは表立った問題にはならなかった。


湖畔を歩いたり空を飛んだりしても目に入らないし、渦になって水を吸い尽くすわけでもない。潜水の器材がない幻想郷で、霧の湖で素潜りをするような命知らずは滅多にいない。


境界の揺らぎは外の水場に通じていた。小魚が急に消えて、また別のほうから現れる。


小魚や藻屑の次に境界を越えたのは、水難事故の念縛霊──ムラサだった。


ムラサは命蓮寺に帰依しながら、幻想郷のいろいろな水場に顔を出していたが、その日は霧の湖に現れた。


日が暮れて、霧が晴れてくる頃、舟幽霊は湖に潜った。底のほうで夕陽がねじれて見えて、なんだろうと意識を向けたときには、様子を見に近づいていた。水面に波を立てることなく、ムラサはたやすく境界を越えた。


舟幽霊は既に一度死んでいるから、水に潜っても命を落とすことはない。水底に落とせる命がもうないから、人より長く水に潜っていられた。



水兵服の少女は、外の世界の川べりを歩いていた。


幻想郷に海はない。彼女が嗅ぎ取ったのは、幻想入りする前に知った海の匂いだった。沢や湖に慣れていても、自分の根底にはいつも海がある。


妙な匂いの場所だ、というのが第一印象だった。

ムラサにとって、外が臭いというのはわかりやすいことだった。森の獣が死んで腐った匂い。肥溜めの匂い。焚火の煙。何が匂っているのかはすぐに分かった。


ここは違っていた。ひどく臭いわけではないが、どこを歩いても、妙な匂いが薄く漂っている。発生源は見えない。土にも空にも、匂いの元は見当たらなかった。


舟幽霊は知らなかったが、それは車の排気と塗料の揮発する匂いだった。


橋げたの下で足を止める。ムラサの背よりも高い灰色のブロックに、蛍光色の落書きがあった。頭上の橋からは、一定のリズムで車の行き交う音が聞こえてきた。


毛布や木材を積み上げた小山があった。雑に積んだわけではなく、雨露を避ける手製の家のようなものだろう。中には人間の気配があったが、ムラサを気にする様子はなく目をつぶっていた。眠っているのかもしれない。


橋げたを通り過ぎて、海のほうへ向かう。頭上には月があったけれど、星の数は少なかった。空は晴れているのに、いつものような星空は見えなかった。


代わりに地上が明るすぎた。橋の上や街並みの向こうから、白色の光が溢れている。人は夜には寝るものだろうに、こんなに明るいと寝付けないだろう。


川が海に繋がるところまで来ると、ムラサは柵をひょいと越えて、凪いだ海に飛び込んだ。護岸ブロックの合間を抜けて沖へと向かう。



夜の海を沖へと泳いでいると、水面の振動に気がついた。白地に波の模様が書かれたそれは、見たことのない大きな舟──外の世界のフェリーであった。


「……舟だ!」


錨がついた鎖を引っ張り出す。ムラサは狙いを定めて舳先に錨を投げ、甲板に飛び移った。


髪の水気を払って周りを見回すと、甲板で恋人同士が写真機を向け合っていた。船乗りではなさそうだから、これは渡し舟で、甲板にいるのは客なんだろう。舟幽霊が出ても気づく様子はない。


そのうち、甲板に出てくる人が増えた。橋をくぐりぬける景色をお楽しみください、と放送があったのだ。


ムラサは外の様子に言葉を失った。


海の上に柱が立っていて、海峡を渡る巨大な吊り橋が架かっている。夜の水面を灯火が照らしていた。


彼女の知る吊り橋といえば、谷に縄を張って、木の板を掛けるものだった。怯えて腰を抜かしたりしなければ、数十秒で歩いて渡り切れる。海の上に吊り橋を渡すなど想像もつかない。


橋はゆっくりと頭上を覆い、後ろを通り過ぎていった。客は船内に戻っていき、ムラサもいったん中に入ることにした。


──せっかくだから、沈める前に見て回ろうと思ったのだ。



船の中に売店があって、湯気の立つうどんや唐揚げ、いなりずしを売っていた。温かいうどんといなり寿司の盆を受け取った客が、壁際の席に座って箸を持っている。


中有の道の屋台を思い出す。三途の河に繋がる道には、両側に屋台が並んでいて、ムラサもうどんや寿司を食べたことがあった。


渡し舟の中に台所があるのは初めて見たけれど、いつの世でも似たようなものが店に並ぶらしい。


しばらく売店を眺めてから引き返した。こっちは小銭も持っていないし、店員には自分が見えていないらしい。少々残念だけど、買い物のために乗ったわけじゃなかった。久しぶりに海に出て、見たことのない大きな舟に出会ったのだ。


水難の権化。数多の舟を沈めた舟幽霊。

この舟を沈めて、亡霊の力を示してやろう。


そこにためらいも疑問もなく、ムラサは甲板に戻った。柄杓で海水をすくおうとして、この程度じゃ沈みそうにない、と考え直す。


舳先に鎖を絡めると、不可視の錨を下ろして、柵を越えて海に身を投げた。



弾幕戦のたびに鎖を投げていて、錨の扱いには慣れていた。鎖の掛け方に間違いはないし、鎖は言ってみれば掛け算の符号。自身の腕力に、霊的な力──水難への恐れや舟幽霊への畏怖といったものを掛けて強化することができた。


柄杓でちょっかいを掛けるのとは違って、一度鎖をかければ、相手が沈むまで放さない。鎖をかけたら必ず沈めることが前提になっていた。


ムラサは錨と一緒に沈んでいった。


海底に錨を下ろして、鎖を握りしめても、船は止まる様子がなかった。


「……沈め、沈めっ!」


舟幽霊の力を思い知れ、と叫ぶ声は泡になって海に吸われた。


外の世界では、本気で舟幽霊を恐れる者は減っていたし、機械仕掛けの鉄の船に挑んだのも分が悪かった。水死はしないとはいえ、やがて胸が苦しくなって、鎖を引く腕が痛み始めた。


──鎖をかけたら沈めるまで放さない、か。


「放したくても、放せないんだよね……!」


これは舟幽霊の矜持というより、霊的な制約に近いものだった。負けが込んだからといって、手を離して泳ぎ去ることはできない。


スペルカードに名付けた「道連れアンカー」は、一緒に水底に沈め、という意味である。錨ごと引きずられるのは心外だし、行先がどこなのかも分からない。


錨に縋って鎖を引き続けるか、寄港地までただ引きずられるかの二択だった。


ムラサは少し休んでは鎖を引いて、力を使い切ってしまい、水底から薄目を開けて海面を見上げていた。遠い昔、自分が沈んだときの景色に似ている、と思った。



日付が変わる頃になって、船が速度を落とし始めた。鎖からようやく手が離れて、ムラサは錨を回収し、港の沖合にぐったりと浮かんでいた。


港から最寄り駅までの連絡バスが出ていくと、埠頭には係員だけが残った。二人で指さし確認をする途中で、一人が沖のほうを指さした。


「なんか浮いてないですか」


年上のほうが、指のほうに目をやった。


「何もない。見間違いだろう」

「人っぽいのが見えた気がします」

「……本当に人が浮いてたら事件だけど、何も浮いてなかったぞ。 夜の点検って、何もないときでも何かしら変なとこがある気がしたりするよな。終わったし、早く帰ろう」


若い係員も納得し、二人は踵を返して歩いていった。





一夜明けて、命蓮寺にて。

ムラサは明け方に境内の井戸から這い出して、水汲み中の一輪を驚かせた後、本堂の隅で座り込んでいた。


霧の湖ではなく、寺の井戸に繋がった理由はわからない。入り口と出口は一致するわけではなく、帰りたい思いに呼応したのかもしれなかった。


水兵服のまま床に突っ伏して、包帯の巻かれた手を顔の前にかざす。指は痺れて感覚がない。そのうち治るとしても、負けた気分は募る一方だった。


「……化け物みたいな舟」


白蓮に「どうしたのです」と訊かれても、ムラサは口を閉ざした。


「別に」


舟に負けた悔しさもあるが、この寺には不殺の教えがある。戒律を重んじる住職の前で、大勢が乗った舟を沈めようとしたとは言い出せず、ムラサはむっつりと顔を背けた。



さらに数日が経って、ムラサは寺の修行に戻り始めた。手も治ったことだし、いつまでもふて腐れるわけにはいかなかった。


住職に命じられて倉を掃除しているとき、木箱の中に丸めた新聞が入っているのを見かけた。古道具屋で仕入れた品を、埃がつかないように新聞紙で包んでいたのだ。


色付きの写真が気になって、しわを伸ばして両手で広げた。外の世界で船が座礁し、油が漏れて水鳥や魚に被害が出ている、という記事だった。


知らない地名ばかりで文章は半分も読めないけれど、写真を見れば意味は分かった。黒く濁った海面と、翼が油にまみれた水鳥。


「……沈めなくてよかった」


機械仕掛けの舟を沈めていたら、油で海を汚すところだった。


舟幽霊として、舟を沈めたい思いは消えないけれど。澄んだ水の中を沈むから良いのであって、油にまみれた海は最悪だ。水難で水辺を汚すぐらいなら、私は、水難を防ぐ側に回ってもいい。


ムラサは新聞を片付けると、はたきを持って倉の掃除に戻った。

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