第6話【まだ届かない】
動かない空気のなかで、
憐花は、紙飛行機を両手にそっと抱えた。
一歩、スルヴァ=トーンに近づこうとするたびに、
足取りは重く、
世界そのものが、彼女を押し戻してくるようだった。
碧斗も、横で額に汗をにじませていた。
そのとき、憐花はふと気づいた。
――音が、ない。
風のさざめきも、
町のざわめきも、
自分の靴音さえも、
すべて、吸い込まれるように消えていた。
動いたはずの自分の影も、
わずかに、遅れて地面を滑っている。
まるで、
この空間そのものが、
「動くな」と命じているようだった。
呼吸するたび、胸が重く沈む。
憐花(……このままじゃ、まともに動けなくなる。)
体温さえ、ひんやりと冷めていくような錯覚。
碧斗が、低い声で言った。
碧斗「……悪い。オレ、そろそろヤベぇ。」
いつもは平然としている彼の表情が、
かすかに引きつっていた。
憐花は、ゆっくりとうなずく。
ここでは――
紙飛行機も、風も、想いすらも、
届かない。
まだ、その時ではない。
まだ、この風には、力が足りない。
憐花は、そっと紙飛行機を胸に抱きしめると、
碧斗に目配せした。
憐花「……戻ろう。」
碧斗「……ああ。」
ふたりは、重い足を引きずるようにして、
静かに、スルヴァのもとから離れていった。
背中に、スルヴァの視線が刺さることはなかった。
彼は、最初から最後まで、
ただ静かに座ったままだった。
世界の中心で、
自らを止め、
誰も寄せつけない孤独のなかに、沈んでいた。
森を抜け、町の外れまで戻ったとき、
憐花と碧斗は、ようやく、
まともに呼吸ができるようになった。
風が、かすかに、頬を撫でた。
憐花は、顔を上げる。
そこには、変わらぬ空が広がっていた。
けれど、
彼女の胸の奥には、
たしかに――
動かない男に届けたい、まだ小さな風が、
静かに、力強く、吹きはじめていた。