第77話 ステーキ肉と出汁のアドバイス
大きな作業台では、ワインらしき濁った赤紫の液体に漬け込まれた牛肉の塊が、ステーキサイズに切り分けられようとしていた。
霜降りとは程遠く、赤く筋張っていて、見るからに硬そうだ。
(スピネラではネズミとかウサギとか食べてたから、こっちで食べた時に、牛うめぇぇ!としか思わなかったけど、日本の牛肉と比べちゃったら、『肉屋でこんな肉出してたら、秒で潰れるからね??』ってくらいの、臭みと硬さなんだよなぁ……)
「大きな牛肉の塊ですね。ワインに漬けてあるんですか?」
横にいるピ料理長に声をかけてみた。ピ料理長はライチの声掛けに、嬉しそうに返事をする。
「ええ。原液の赤ワインとハーブ、それにニンニクで。臭み消しと、液体に漬けて少しでも柔らかくするためです。
若い牛なら臭みも少なく柔らかいのですが、貴族様に買い尽くされている日は、農耕を終えた老牛の肉しか残っていないのです。
食材調達に回されている資金は腐る程ありますが、土地に魔力を納めてくださる貴族様が買い付けの最優先ですので。
奥様のリクエストにより、本日は焼き調理となっておりますが、老牛は、できればじっくり煮たほうが食べやすいので、只今あれこれ苦心しております」
貴族はいつでも柔らかい牛肉を食べられるが、庶民だといくらお金を積んでも老牛しか食べられない日があるとは。それほど魔力は大切にされているらしい。
「なるほど……。臭み消しなら、玉ねぎも入れて漬け込むと、酵素……独自の成分で臭みを消して肉を柔らかくしてくれますよ。
それから、今くらいの下準備の最初くらいに、牛乳やヨーグルトに浸けておくと、さらに臭みは取れますね。あまりに臭い時は、さっと湯にくぐらせてから焼くと、表面の血の臭みが取れますよ。
柔らかくするには、肉自体をあまり厚く切らないことと、筋があると縮んで硬くなるので、筋を切るために指二本分くらいの間隔で包丁を突き立てたり、厚さが揃うように包丁の背で叩いたり、表面に浅く格子状に包丁で切れ目を入れておくと、火の通りもよくなって食感が和らぎます」
ピ料理長は、その言葉に『待ってました!!』と言わんばかりに目を輝かせた。
「なんと!一言ご説明しただけで、それほど多くの改善点がございましたか!
ヨーグルト、切れ目……なるほど。焼く前に仕込んでおくのですね」
こちとら伊達に貧乏時代を過ごしていない。
たまの奮発で買った半額のステーキ肉を、適当に焼いてカチカチぼそぼそにした経験が、次の工夫につながり、ライチを硬い肉マスターとして進化させてくれたのだ。
ライチの説明を聞いて、ピ料理長がさっそく、切れ込みを入れる指示を出す。
「このような感じでしょうか?」
料理人がライチに確認を取りながら丁寧に包丁を動かし始める。肉自体をやや薄めにしたので、片面のみに入れる切れ目は最大五ミリほどと浅く、対角線に交差するように、格子を描いてもらった。
「そのくらいでストップで。深すぎると肉汁が出すぎちゃうので気をつけて下さいね。あとはギリギリまでヨーグルトに浸けておいて、焼く直前にさっと水で流して布で水気を取ったら、塩を振って焼きましょう。あ、焼き過ぎは硬くなるので気をつけて下さい」
「……旦那様のお屋敷ならともかく、高級食材を惜しみなく、下味や肉を柔らかくするためだけに使って洗い流してしまうとは……。ライチ様は一体、どれほど裕福な環境で調理をされておられたのですか……」
ピ料理長が軽く引いてしまっている気がする。
(そうか。スピネラ村ではどの食材もほとんど口に入らない高級品だった。現代日本の感覚でアドバイスするときは、その辺も気をつけないとな)
「旅人なので、あちこちでちょっと小耳に挟んだだけです」
ナイススマイルで少し苦しい言い訳をしながら、話を変えるために、さかさかとピ料理長と共に次の作業場へ移動した。
かまどでは、煮込み料理を作っているようだ。キャベツとベーコンをメインにした煮込みらしい。
鍋の中には、牛骨?と鶏ガラと一緒に、大きく切られ芯までしっかり残った塊のキャベツと、三センチ角の厚切りのベーコンがごろごろと煮られている。
「おっ、ガラが入ってる。いいですね。キャベツは四等分ですか。かなり大きめですね。ベーコンも、口がいっぱいになりそうな大きさだ」
ライチの反応に、ピ料理長が自慢げに説明をしてくれる。
「そうでございます。小さく切るのは薪の少ない庶民の料理。あれは腹に入れば同じ、という考え方ゆえですな。
我々の食卓では、見た目にも豪勢であることが重要です。大きく切ったまま、長く煮込むことで、肉の旨味と香草の香りが芯まで染み込みます」
調理の担当者がキャベツを木杓子で軽く押し沈めている。
「保存肉も厚切りで煮れば、長く煮出しても噛みごたえと風味が残り、満足感も違うのです」
(なるほど。どどんという見た目の豪華さが命、ね)
ライチは頷きながら、大鍋から立ち上る香りを吸い込んだ。
豪快な見た目と、じっくりと煮込んだ肉の旨味。
これはこれで、ここならではの贅沢なのだと感心する。
(フォークがないから、ナイフで押して切れる柔らかさにするのも大切なんだろうな)
お金持ちでも手で食べるのが恥ずかしくない風土のようだが、さすがに熱い汁物料理にじゃぶじゃぶ手を付けるのは遠慮されるだろう。
「味付けはどうされてますか?」
これにはおおむね予想通りの答えが返ってきた。
「基本は貴重な塩をしっかり効かせ、さらに香草で引き締めて風格を与えています。また、ガラをプラスして肉の旨味を際立たせております。最後に、お酢で酸味をほんのり、臭み消しとアクセント程度に加えれば完成でございます」
ピ料理長が胸を張って歌うように説明してくれる。案の定、一口目に油分や塩分がガツンと脳天を刺激する味を理想とする調理法のようだ。
ライチはしばらく考え込んだ。
ガラからはもちろん旨味が出るし、ベーコンを長く煮出してるなら、なんならベーコン側の味がかなり減るくらい、汁に旨味が出るはず。
肉の旨味は充分だ。
あと足りないのは……。
「タマネギ、ニンニク、ネギなどの香味野菜をじっくり煮込んだ野菜出汁や、干したキノコの戻し汁とか、玉ねぎを黄金色になるまでじっくり炒めたものとか、そういった肉以外の旨味を足すと、味に深みが出て、より美味しく感じますよ。
あとは、ベーコンも、カリカリに焼いてから入れると香ばしい風味が増しますし」
「き、記録させていただいてよろしいでしょうか? しばしお待ち下さいませ」
筆記ができるのが彼だけなのか、ピ料理長は大慌てで木札とそれを押し削る金属ペンを持ってきた。
ライチはにわか知識で出汁について説明する。
「お酢を入れるスープなら、骨にはカルシウ……いや、骨を強くする白い成分が入ってて、それを酢で煮込んで壊したほうが旨味が出るので、ガラを煮込んで出汁を取るなら、酢は最後より最初に入れることをオススメします」
「なんと!味を調える効果があるかと理解しておりましたが、まさかそんな力が酢にあったとは……!」
「さっき言った香味野菜は、一センチ……小さな四角に切って、弱火でことこと食事と食事の間くらいから、半日ほど煮込むと、野菜出汁というものができます。
ぐずぐずになった野菜は雑味になるので布で濾し取って、透明なスープのみを使います。手間の割に、常温だと次の食事まで持たず、短い時間で腐敗するので、朝食時に煮込み始めて、ちょくちょく火入れをしながら夕食で使い切る……くらいの使い方がいいかもです」
「小さく切った野菜を長時間煮て、しかも野菜の方は濾し取ってしまうなんて……!なんと贅沢な……!究極の調理法でございますね」
「旨味は減ってますが、濾し取った野菜も全然食べれるので、まかないにしてもいいかもです。牛乳スープにするとか」
トマトはまだ影も形もないようなのでミネストローネではなく、チャウダー的なものをすすめてみた。西洋の舌にも合うだろう。
ピ料理長はその言葉をジョークと取ったらしく、思わず声が出た、という様子で笑う。
「ははっ、いいですな、牛乳スープ。いつか使用人でも気兼ねなく食べられるようになってほしいものです」
またやってしまった。ついついスーパーで二百円ほどで売られている牛乳のイメージで話してしまう。近くのオスティアの農耕地で楽に育てられている、と聞いているだけに、余計に脳が混乱するようだ。




