月満つる桃源郷
充分深まった緑が、紅葉の前に現す期待を夜の帳が覆い隠したころ、オトハは生活の気配がない、見えざる神や霊の住処であるかと思われるほど荘厳な秋名の仕事場――『月の都』があるべきところに到着していた。秋名の別荘も兼ねていたこの場所には、人が一人なんとか通れる程度の空間しかない竹垣の門に、俗世の人間が神聖な空間を侵犯することを許さないかのように、重たい錠が付けられている。秋名の造っていた庭を見に行かせてほしい、と秋名の本宅に電話を掛けたときは、オトハを快く思わないどころか、老舗の名家の御曹司に不純な交際をもたらしていることを疑われて露骨に嫌悪されることも度々あったため彼も身構えたものだが、一人の理解者が運よく電話に出たのでオトハも安堵して彼の使命を打ち明けることができたのである。
「京極さん、お待たせしました」
飛び石で示された道から、くぐもった声が響いてくる。草履の底が擦る微かな音と共にゆっくりとその姿を現した、鳶色の単衣姿の青年は、秋名の異母弟にあたる隆明である。『月の都』に殉じた兄の代わりに、戦前から呉服屋を営んでいる秋名家を継ぐ役割を背負うことになった隆明は、オトハよりも数年年上で、自分のことは二の次で、周囲が和やかにあれるように気を遣いすぎるきらいがあった。オトハの抱える事情も推察はしていただろうが、あえて気づかないふりをして、秋名の法事を知らせたのもこの青年である。彼はうまく理由を付けて、仕事終わりに本宅へ戻らずオトハとの約束を果たしに来たのだ。
街灯も無く、星だけがちらちらと光っている暗がりの中でも、オトハの旅路をねぎらう隆明の優しい眼差しが感じられ、彼はしばらくぶりに会った友人にするように、歓喜のこもった力強い足取りで隆明へ近寄った。
「隆明さん。お久しぶりです」
「本当にね。今日は兄のところまで、ありがとうございます」
時折吹く風に、虫の音色が鳴る以外には何も聞こえないこの場所は、秋名の魂が眠るのに最もふさわしい場所かもしれない。彼を悼む沈黙の後、隆明はオトハがいつかまたこの地に来てくれる日を待っていたのだと語った。
「兄は京極さんと出会ってからというもの、取りつかれたように理想を形にしようとしていました。貴方の言葉、過ごした時間……それらが兄にもたらしたものは、まさに珠玉だったと思います。貴方がいなければ、この庭園が造られることはなかったでしょうね」
隆明の品のある京都訛りは、通信技術が目まぐるしく成長し社会の価値観が昭和からの脱却を図る中、オトハに彼や秋名を時に遠く感じさせるものであった。しかし、自身と同じように秋名から取り残されて時間の流れから断絶してしまったオトハという存在を心から受け入れ、その幸福を祈っている、そんな隆明の思念をオトハも受け取っているので、彼のことは恋人の弟という複雑な前提を超えた、ある種の恩人として捉えているのである。隆明は視界に連なる山々の端を見やりながら、彼の言葉を一言一句噛みしめるように思考を巡らせているオトハに続けてある秘密を打ち明けた。
「音羽山という山をご存じですか。兄はあの山を信心深く思っておりまして、京極さんのもう一つある名は、その山の名前から付けたと教わりました。それを思い出しまして」
「その話、初めて聞きました。ある時突然そう呼ばれるようになったから……」
秋名がオトハという青年に懸けていた想いもまた、狂気的な信仰のようであったのかもしれない。彼は自身ではなく、現人神のように思っていたオトハを招いて住まわせることで、かの都を完成させたかったのではないだろうかという、オトハの言語化されない期待に満ち溢れた夢の重たさが、彼を伏し目がちにさせた。隆明もオトハの心情に寄り添うように、彼の傍らにそっと立っていた。
「貴方は見ていないのですか。……『月の都』と、あの人が呼んでいたものを」
オトハは彼が過ごしてきた秋名との蜜月を思い返して、夜が明けるまで激情に任せて吐き出してしまうのを意思の力でどうにか中断して、隆明へ決然と向き合った。秋名のこととなると、数学理論を研究しているときの集中や静寂とは全く真逆の処理がなされることがあるオトハの情緒は、秋名との出会いから急激に細やかになっていった。秋名がオトハを才能に振り回されて、その誇りを抱いたまま落ちぶれかけていた『少年』から『大人』に変えた、という花鶏や隆明の見立ては、実に正確であったのである。
「いいえ。むしろ、貴方にしか見届けられないと思っていたから」
そよぐ風を受けた隆明からの返答は、オトハに今夜の約束の品を握らせることで為された。彼らのすぐ近くにひっそりと建てられた門の鍵は、秋名家の人間にしか持ち得ない。
「どうか、お願いします」
オトハの平たい手を握る、隆明の骨ばった両手には、眉目秀麗な青年にそぐわない力が込められていた。鍵の形状がオトハの掌の肉に食い込んでしまいそうなほどのがっしりとした握手は、彼をただ友人として大切に思う心が込められたものであった。オトハは緩慢に数度頷いて、照れたような泣き出しそうな、そんな微笑を以って隆明の心遣いに応えた。奇跡が起きるような予感をわずかに感じるこの夜、生者たちはお互いに名残を惜しみながら月下に別れた。来た道を人の世へと引き返していく隆明の姿が見えなくなるまで手を振っていたオトハは、小さく震えだした手で彼の青春を閉じている錠を開けた。
人がしばらく立ち入っていないわりに、存外に錠はあっさりと外れ、門自体も押せばきちんと動いた。瓦屋根の住居を過ぎて本懐の庭園へと、足元の柔らかい草を踏みしめて歩いていく。オトハの視界にさらさらと流れている枯山水の緻密な波形は、彼の内なる関数の描く曲線によって生み出されたものであり、夕闇の中であってその思想の主たるオトハに秋名の生きた足跡を送りこんでいた。色調の一定の統一が見られながらも、張り出した枝木の曲線は力強く流れている。静かに湛えられた池の水は、山の影を黒々と溜め込んで、今夜雲を払うように輝く月に引き込まれて張力を作用させていた。自然が月を戴くその見事な光景は、オトハがまさに探していた、彼の心のあるべき場所であった。満月が反射する光がそのまま水中へ向かって零れてくるかのような粒子の調和した遊泳に、オトハはどんな思考を辿っても決して喪失し得なかった、一つの願いを思い描いた。
(隆司さんに、もう一度会えたら……)
この庭園の荘厳かつ枯淡な情趣を、秋名と分かち合って持つことこそが、オトハという自走して止まることのできない精神を持つ青年を真実の姿である『京極大樹』に再構築できる唯一の鍵であった。月の光に曝け出され、その二つの名の間で分裂した自己を統一する――という試みを繰り返すうち、オトハの柔い頬の上に涙が伝っていた。まだ涙が自身に残っていたのか、などと考えている余裕も彼には無かった。オトハは凹凸のある大きな瞳から努めて涙を溢さないように、水面から視線を外してさめざめと目を伏せていた。
……そんなオトハの涙を指でそっと拭ってやる一人の青年が、反射的に顔を上げたオトハの眼前に立っていた。オトハはその人物――底知れない秘密を優美な線をした指の先まで含ませているような、フィルムの中と変わらない秋名隆司の肖像に、息をするのも忘れて釘付けになっていた。眩しすぎる真実の願望が、もしくはあの不思議な夢に羽ばたいた鳥が、オトハに幻想を見せたのだろうか? 彼は震える手をか弱いものを慈しむような、秋名の優しい指に重ねようとして、(もしこれが幻覚や妄想だったら……)という。希望を裏切られる恐怖からやめてしまった。しかし秋名の息遣いすら感じられそうなほどの親密な距離の中で視線を交錯させているうち、オトハはこの奇跡と呼ぶべき一瞬の幸福を少しだけ信じることにしたのである。
「隆司さん、ぼく……」
久方ぶりに口にしたその響きには、時間を超えてなお、確信めいて抱いている恋人への甘えがこもっていた。秋名もまた、そうしたオトハの媚態を引き出した張本人として、ただ穏やかに耳を傾けていたが、当のオトハが多すぎる話題から何一つ選べず頬に赤みを差しているだけなので、(仕方がないやつ)といった様子で笑みを浮かべていた。染まっていくのを今かと待つばかりの楓が揺れる音、池の中から天へと登ろうとするように伸びた岩、秋名は自身が魂を込めて造り、息づいているものを自身に焼き付けるようにぐるりと見渡した後、輝く月の元へと音もなく歩き出した。
月を映すためのこの池の水は、秋名が一人で冷たく透き通った霊水を遠方から汲んできて、祈祷の後、石の中に循環させているものであった。魚を飼うのではなく、盃を浮かべたいと秋名は構想していたが、何らかの理由で取りやめたようである。手入れをされておらずともこうして水が満ちているのは、その法力に加えて、主の秋名の来訪を歓ぶような意味合いがあるのではないか、とオトハには思われた。紺色の作業着姿で水中へとためらうことなく進んでいった秋名は、その身を沈めてしまわず、月の光を浴びて水面にすっと立っていた。そして、その袖を翻して舞い始めたのであった。扇を持たず、種々の小道具や笛などももちろん無かったが、彼の最期の瞬間にオトハへ伝えられなかった言葉や感情の全てを込めた舞であることは、オトハにもありありと感じられた。それは秋名の手足の動き一つ一つに意味が了解される、実に優れた技巧が用いられていた。荒れているはずの都を蘇らせて行われるこの超常的な儀は、風流に傾倒して人としての生を終えた秋名隆司の執念によってもたらされた。
いつか恋人たちが心の深淵にお互いを住まわせ始めたばかりの頃だったか、『君に負けないくらい、美しいものを造ってみせる』と秋名がまだ手付かずの自然を前にして、理想というビジョンを持つ苦しみを吐露したことがあった。(美しいもの?)とオトハが興味を引かれて聞き返すと、畏れや敬服のために口をつぐんでいた秋名から『……月の都』とその名を告げられたのであった。神聖なものの名前をいたずらに呼ぶのを避けていた秋名が、真にオトハを美の行きつく先の存在として認めた瞬間であった。当時のオトハはそうした仔細な感覚を秋名によって育てられていた最中であったので、(ふうん)と長い睫毛で数度目元を打つように柔らかく瞬きをした後、秋名の緊張で強張った手にいくつも指輪の嵌まった自身の指を絡ませたのであった。
秋名の舞は森閑としていながらも段々と華やかさを増して、流れ去った時を回想していた。うっすらと嵐山を覆って、山の色を全て消してしまうような雪の日があった。町田の外れで生まれて幼少期を過ごしてきたオトハは、神妙な面持ちで図面を引いている秋名の隣にいて、その静謐な世界を初めて認識した。
思い返せば、彼があてもなくさ迷う街の中にはアルコールのひりついた脳に不快な刺激を与えてくる蛍光色の広告や、過剰な丸みを帯びたフォントに飾られたポスターなどが溢れかえっていた。そうした世界から足を洗って、一端の数学者として秋名にふさわしい伴侶でありたい、とオトハも冬の嵐山に思わないわけではない。堕落しきった学生の自分と、人の世と違うものへ志を以って臨む秋名という存在のギャップは、さながらグラフを突っ切る漸近線のような危ういバランスの上に立っている。オトハの膨張したアイデンティティが変異した、強い自己嫌悪は、度々彼から言葉を奪っていた。
秋名が何か助言を求めてか、息抜きにオトハに構おうと思ってか、彼に声をかけていたのに、オトハはそうした内的葛藤のために秋名を半ば意図的に無視していた。雪のもたらす沈黙の後、秋名は本当に心を見透かしているかのような、あの深い眼差しをオトハの危うい拒絶を表す横顔に当てた。『自分を見失ったままでは、どこにも辿り着けない』いつも雪を解かすように話す秋名の、鋭利な諭旨は、やはり(そうは言っても、もう何にもなれないかもしれないのに)というオトハの悲観的観測をすぐには打ち破れるものではなかった。『人の一生は、短すぎるから。君が向かう場所は、自分で努力して見つけ出すしかないんだ』しかしそれらの短い問いかけは粉々になったガラスのように、完全に取り去ることはできず、オトハの心に今も沈殿しているのであった。年上の恋人との幸福を享受するだけの生活で描ける未来がどれくらいあっただろうか? 秋名のいない今、オトハは変わっていけるのだろうか? 湧きあがってくる底知れない不安は、オトハが直面しながらも今まで解決の糸口を見いだせなかったものであった。今も舞い続ける秋名を照らす月は、夜明けが近づくにつれてその光を弱めている。彼は現世を、オトハのいるこの場所を離れる心残りを感じさせながら、音の無い中、曲の最後まで舞ったのであった。
「ありがとう、隆司さん。今までずっと、一緒にいてくれて、ありがとう」
心の奥底からふり絞るように、対岸のオトハが秋名に呼びかけた。野毛を発つ前に感じていた胸のつかえが完全に取れたような、爽やかな心持で、再び流れ出した涙もどこか暖かなものだった。秋名は水の上を歩いてオトハの元へと戻ってくると、再び彼の前に立った。オトハが彼の人生の『解』になるような何かを得られたであろうことを、彼の瞳に宿る、小さな星のような輝きに理解した。秋名はそっと腕を開いて、オトハという儚くてかけがえのない存在にも強さが芽生えたことを愛おしく思う感情をそのままに、彼を抱きしめた。温度のない抱擁ではあるが、オトハも確かに満ち足りた気持であった。
そうして秋名は、月の光に吸い込まれて同化し、消えてしまった。残されたオトハの頭上には、ただ変わらずに満月が輝いていた。花鶏が先日言った通り、秋名はオトハの夢を見て、月へと帰っていったのだろう。(貴方のいない世界でも、ちゃんと歩けるように……)オトハもまた、二つの世界を繋ぐ月に、さよならの代わりに何度も手を振った。天上にある都、美しい場所に帰り行く恋人の旅路に祈りを捧げて。