夢路で見た座標
夜も大分長くなったような気がする、と星の見えない横浜・野毛の空を見上げてオトハは秋の深まりにそっと哀愁と疲労の刻まれた瞳を閉じた。つい先日、この浮世離れした、息の詰まるような暗い美しさを湛えた青年は、嵐山で執り行われたある法要を終えてこの街へ戻ってきた。トレンディ俳優の手元を飾っていたのと同じハイブランドの腕時計の針を見やりながら、オトハは飲み屋へと浮足立って向かう足音を立ち止まって聞いていた。まだ数分、行きつけのバーの開店まで時間がある。渋カジを粋に着こなす彼は、温度の下がり始めた風が入ってくるのも厭わずに前を開けているレザージャケットの内ポケットから、PHSを取り出して、電話番号を打ち込もうとして、やめた。自身の数学の才を信じて、名門大学の数学科に入学したものの、東京の煙臭い夜に魅入られて目覚めた放蕩癖のために留年を繰り返しているオトハは、そうした来歴もあり、多くの『遊び相手』の連絡先を空で暗記することができるのであった。
070……で始まるある番号を、脳裏から消そうと(不幸にもそう出来ないことを知っていながら)試みていた。彼はしばらく格闘していたために、旧い知人で、バー『Flower Frame』のマスターである花鶏が音もなく眼前に立っていたのに気が付かなかった。何年経っても若さを失わないと言われる花鶏は、人ならざるものとしての振る舞いまで身に着けているかのように思われた。ポマードで固められた、流れるようなシルエットの髪は、内側が薄い金色になっていて、少々奇抜な印象を与える。
「雨でも降るといけないからね」
そんな花鶏からの、妙に遠回しな入店の催促である。『準備中』の札を返して、さあ仕事だ、と力の入った足取りで店に入る彼の後ろ姿をオトハは追った。カフェとバーの二部式営業であるこの店での、オトハの定位置は、カウンターの左端である。
「行ってきたよ。あっちに」
花鶏は注文も聞かずにウイスキーの瓶を開けて、オトハが一度そのデザインを何の気なしに褒めたグラスに注いで出した。あっち、というのが西方・嵐山の地を指すことは、共通言語として花鶏にも理解されている。
「それは『オトハ』として? それとも『京極大樹』として?」
夢と現、心にもなく繰り出される甘い言葉の応酬と停止することなく脳に流れ続ける数字とアルファベットの羅列、いつからか二つの名前を使い分けて生活するようになったオトハは、聞きやすいテノールから切り出された花鶏の鋭い質問に閉口してウイスキーをぐいぐいと流し込んでいる。彼はやや色が褪せ始めた、一枚のフィルム写真を取り出して、そっと机の上に置いた。淡い色使いの花々を背景にしながら、纏ったシャツとの境界が曖昧に感じられる青白い肌をした、線の細い青年が屈託のない笑みを浮かべている。
「未だに信じられないんだ。もう会えないなんて」
オトハの掠れた小さな声は、写真の中の青年に降りかかっていくかのようであった。この写真の人物の名は秋名隆司といい――オトハが彼の人生を懸けて想った男であった。前髪を左右に流して、明け透けになっている額に呆然とした苦悩を現わしているオトハを見てか、花鶏がしめやかな空気に二杯目を渡した。
「彼のことは残念だった」
未だに少年らしい気性の抜けないオトハだったが、最近随分機微の備わった、大人びた表情をするようになったものだ、と花鶏は連綿と続く記憶を辿りだす。才能だけではどうにもならない、数学の迷宮に囚われ、その開かない扉と壮絶な戦いを繰り広げていたかつてのオトハを恋の魔術にかけてしまった秋名もまた、彼の世界を実現して――この平成の世に『月の都』を呼び出そうという使命と向き合っている最中であった。秋名隆司という、優秀で何か世俗を超越したような内的器官としての目を持っている若い造園技能士が志半ばにしてこの世を去ってしまった。その知らせが野毛に飛んできたのは、一年前、月の無い真夜中のことであった。
「秋名は、月の都を見に行ったのかもしれない」
その言葉に、内心で写真に何かを語りかけていたオトハがぱっと顔を上げた。
「あの人が作っていた庭園は今どうなっているんだろう」
秋名の言う『月の都』は、天体としての月を指しているのではない。荒涼とした中にも美しさがあり、人為的造形の中に自然の風情を溶け合わせた、地上で見る桃源郷のことである。オトハもしょっちゅう秋名の自宅へ電話を掛け、要求される以上の学問的見地(厭世家として振舞っていても、やはりオトハの根源には学問への探求心が燻っているようであった)を熱心に語っては『月の都』の完成を心待ちにしていた。しかし秋名の葬儀以降、オトハは未完成のまま時の止まったかの地を見ることを明らかに避けていた。不完全な状態の都に足を踏み入れるのは秋名が何より許さないような、そんな気がしていたからである。
「行ってみたらいいじゃないか。あの場所に。君にとっては勇気がいるだろうがね」
それが即断できたら苦労はしない、と答える代わりに、オトハは思考をわざと中断させるために氷がほとんど溶けていないウイスキーを一気に飲み干すと、空のグラスを花鶏の手元へ乱暴に置いた。不機嫌を隠さない沈黙に、花鶏もそれ以上は何も言わず、氷の上から次を注いで出してやった。こうしてオトハは冗長な夜を浪費して、ウイスキーの飴色を浅い眠りの中にたゆたわせるのであった。花鶏はぱらぱらと店へ訪れる他の客に「この子は大丈夫だから」と断りを入れながら悠々とした調子でカウンターに立ち続け、店じまいの時間となっても優雅な曲線を描いている背中を丸めて器用に眠っているオトハの頭頂部から額にかけて指で触れると、何かこの世界の文字や発音で表せないような言語を呟いた。
……そう、想い出の中の秋名と彼が住まうはずであった『月の都』からの逃避行を図っていたオトハは、夢の世界でひとつのビジョンを見たのである。焦げ茶色の羽に、鮮やかな黄色の尾を垂らしている一羽の鳥が、彼のもとに飛んでくる。鳥はオトハに、「私の都は、主がいなくなって以来寂れてしまった」と語り、うら寂しげに鳴く。オトハはそんな鳥を慰めて腕に抱えると、その都がどれだけ美しく素晴らしい場所なのか聞かせてほしいと頼む。鳥は都の様子を懐かしみながらオトハに語って聞かせた後、彼に謝意を示しながら、西方へと飛び去って行った。鳥がひゅうひゅうと鳴く声が木霊する中、オトハはその声からある予言めいたものを受け取ったのであった。
(『月の都』へ、結局俺は向かうことになるだろう。いや、行かなくてはならない……)閉ざしていたもの、見ようとしなかったものを、あの鳥によって拓かれたことは、オトハの心臓の鼓動を痛いほどに早めた。いつか心の整理がついたら、自分の数学の才覚が通用するようになったら、と自らの感情を内殻に閉じ込めている理論上の理由にすがっていたオトハは、いずれ自分が秋名のいた場所や彼の世界と向き合わなければならない時が来るのを理解していたので、何か彼自身の内殻を打ち破って飛び立てるようになるきっかけを本当は強く欲していたのである。
空に陽が昇り始める頃合いに、この夢ではないような夢から目覚めたオトハは、魂のどこかが新しいものとして生まれ変わったかのような心持で、マホガニーがあしらわれた窓から遠く一番街の景色を眺めていた。外からか、もしくは彼の背後からか、ひゅうと物音がしたのでオトハが彼の豊かな髪を揺らさんばかりに振り返ると、彼に付き合ってちびちびと酒を傾けていた花鶏が、凪の無い水辺のような、穏やかな声で「おはよう」と声を掛けた。彼はオトハの瞳に生気や決意のようなものが渦巻いているのを見て、これは大変に興味深いといった様子で含みのある笑みを浮かべていた。
「いい夢でも見たか?」
「……どうだか」
昨日の勘定を手早く払って花鶏を一時遠ざけてから、オトハは夢で見た鳥の姿を心に再度思い描いてみた。意識や身体の存在が不確かなあの空間の中で、闇の中でも光を放っているかのようなあの尾は、きっと極楽鳥や風鳥と呼ばれる鳥のものだ。まさしくその鳥の名の通り、秋名の目指した世界が『極楽』であったなら良いという、一つの希望がオトハの中に生じた。
「鳥のように、飛んで彼の元に帰るんだな、君は」
花鶏は未来や過去を見渡しているかのような、底知れなさを感じさせる発言をすることがあった。根拠のあるなしは関係なく、過程無く真理を言い当ててしまうのである。オトハはくっきりとして影が落ちるような、微細な精巧さのある顔にいなくなってしまった恋人への執着を滲ませながら、花鶏の追及めいた視線から目を背けた。
『遊び相手』からやや過剰に巻き上げた金(いわゆる『花代』ともいう)で輸入品である財布の中を満たしてから、レンタカーを駆って東名高速を走る。オトハを丁重に扱い、自分こそが最も良い相手だと知らしめたい人間たちが運転する車を足変わりに使うこともよくあるのだが、彼は自分で運転することも好んでいた。原色で彩られた3Dアニメのキャラクターがテレビの中で解説している、今月のヒットチャートの中を巡回しているラジオから流れる爽やかでポジティブな曲調の歌が、オトハの明晰な意識とぶつかり合い、幾分かうんざりしたような感想を彼は抱いた。決意も新たに嵐山へ向かうことにしたものの、いざ秋名の残したものをオトハ自身の目で見るとなると、大いなるものへの畏れや自分が傷つくかもしれないという危機感があるのが正直なところである。それに、大学では後期の授業がとっくに始まっている。オトハとてそれを気にしていないことはないのだ。
平日の高速はそれこそ『鳥のように』軽やかに流すことができたので、(思い詰めていたって、行くしかない)とオトハに余計な思考をする隙を与えなかった。地図を開かずとも、行くべき場所は頭に入っている。オトハは窓を少し開けて、緊張から無意識に止めていた息を吐いた。道路の淡白な景色から、思いのほか冷えた風が入り込んだために、彼はヴィンテージのフライトジャケットに首を埋めた。(暖めてくれる人は、もういないのに)一瞬湧きあがったその感傷が、オトハの心境に色づいていく時間は、彼に秋名が贈った至上の枷であったのである。
それはまるで天体の月が持つ引力のように、オトハを引き上げたり離したりしながら、彼を縛る法則となっていた。それによって、オトハは彼の真実の名前、『京極大樹』に強制的に姿を戻されてしまう。その内的変身を経て、嵐山の地に足を踏み入れたオトハは、気もそぞろに高速を降りると、親しみのある懐かしさを想起させる商店街を横目に走り出した。