遠雷
「何を考え込んでるんだ?」
サロモンは、バレッシュに声をかけられて、我に返った。
「ああ、すまない。私に何か言ったかね?」
「西の国の様子を詳しく聞かせてくれと言ったんだ。だが、随分と疲れているようだから、今日はやめた方がいいかもしれないな」
バレッシュは、眉をひそめ、気づかわしげな表情でサロモンの目を覗き込んだ。
「ああ、明日にしてもらえるとありがたい。自分ではそうでもないつもりだったんだが、疲れているようだ。目の前にいるあなたの言葉を聞き逃してしまったくらいだから」
「うん、問題ない。あんたの話を記録する必要があるから、ここで話を聞いても、もう一度詰め所で聞きなおすことになる。今日は、宿を教えてもらうだけにしよう」
「助かるよ。宿は、跳ねる仔馬亭だ」
「ああ、いいところを見つけたな。あそこの食い物は、見てくれは少し良くないが、うまいぞ。鳥の燻製なんか絶品だ」
「彼からもそう聞いた」
サロモンは、ヌーティを目で指し示した。ヌーティは、笑みを浮かべて応じた。
「早く宿に戻らないと、品切れになっちまうよ。あそこのかみさんは、一日に出す量を決めてるんだ。それを超えると、奥に在庫があっても、出してくれない」
「それでは急がねばな。ただ、まっすぐに戻れるか心配だよ。入り組んだ場所にあったし、あまり付近の様子を覚える時間もなかったから」
「じゃあ、あんたの息子さんが戻って来たら、俺達が案内してあげよう。ロニー、彼らの食事に付き合って、この国のことを教えて差し上げろ。彼らの国とだいぶ違うようだから、もう少し勝手が分かるようにな」
バレッシュの指示に、ロニーがうなずき、ふと気づいて質問をする。
「隊長、あの、費用は……?」
「公費に付けていい。あまり飲むんじゃないぞ」
「ありがとうございます! では、早速取り掛かります!」
途端にピンと耳を立てて戸口に向かうロニーをバレッシュが捕まえた。
「慌てるな。この人の息子さんが戻ってきたらと言っただろう」
「先に行って鳥の燻製とテーブルを確保しておきます。隊長がお二人をお連れください」
バレッシュは、わざとらしく姿勢を正したロニーを睨んだが、くりくりとした黒い目を強調するように見開いて純朴な兵士を気取った表情を見ると、あきれたように言った。
「よし、行け。だが、俺達が着くまでに一杯でも飲んでいたら全部お前に払わせるぞ」
「大丈夫です。一杯には満たないようにします!」
ロニーは、バレッシュが一口でも駄目だと言う前に逃げ出そうと、急いで戸口に向き直った。
その途端、扉が勢いよく飛んできた。
ロニーは、額と鼻をしたたかに打ってよろめいた。
戸口には、ロニーに当たって跳ね返った扉にぶつかったハンナマリが尻餅をついている。
その後ろには身構えたアルヴォが見える。
「アルヴォ、どうした?」
ふらふらともたれかかってきたロニーの脇を肩で支えながら、サロモンが声を上げた。
アルヴォは、父親の様子を見て警戒を解き、背を起こした。
「ハンナマリが開けた扉が跳ね返ってきたんです。中で何か起きたのかと思ったんですが……」
「何も起きてはいない」
そう言ってにやにやするサロモンの横で、ヌーティは、できるだけ怖い顔をしながら怒った声を出した。
「ハンナマリ、扉はゆっくり開けろといつも言っているだろう」
目と口を丸くしたまま座り込んでいたハンナマリは、何が起きたかをヌーティの言葉でやっと理解し、跳ね起きてロニーに走り寄った。
「ごめんなさい、痛かった? わあ、鼻血が出てる。ちょっと待って」
「いやいい、大丈夫だよ。じゃあな」
服に垂れた鼻血に気づいたロニーは、ちらりとバレッシュの様子をうかがい、ハンカチで血を拭こうとしたハンナマリを押しのけると、着替えを命じられる前にと急いで走り出て行った。
「あら、行っちゃった。何を慌ててんのかしら?」
ハンナマリは、通りを走り去っていくロニーを戸口から見送りながら、怪訝そうに首をかしげた。
バレッシュは、ロニーの行為を謝罪するようにハンナマリの背中を叩きながら言った。
「気にしなくていいよ。鼻血のせいで自分の仕事をとりあげられちゃかなわないと思ったんだろうさ」
「そっか、お仕事なのね。大変ね」
ハンナマリは、よく分からないながらも大真面目に受け取ったらしい。
それを聞いたバレッシュは、大きな声を上げて笑った。
ハンナマリは、びっくりしてバレッシュの顔を見上げた。
バレッシュは、ハンナマリに笑いかけて、サロモンを促した。
「息子さんも戻ってきたことだし、そろそろ宿に案内しようか」
「助かるよ」
サロモンは、兵士達に続いて家を出、戸口の外まで見送りに出てきたヌーティに向き直って言った。
「話を聞いてくれてありがとう。私が話したことを、あなたの知り合いの魔術師に伝えてほしい。
神の御子の国と神聖教に取り込まれた国々が今後いつどのような行動を取るかははっきりしないが、彼らの考え方が変わらない限り、サンデを滅ぼしただけで満足するとは思えない。魔法が盛んなこの辺りにも悪い影響が及ぶことになるのではないかと心配だ。
多くの人が早く危険を認識することが大切なのだ。よろしくお願いする」
ヌーティは、曖昧にうなずき、去っていく三人を見送った、
そこにいるだけで威圧を感じるほどの存在感を持った魔術師が去ると、ヌーティには、家の中が妙にがらんと広く感じられた。
彼が語ったのは恐ろしい話だったが、すぐに何かが起こるというわけではないようだ。バレッシュから軍の指揮官にも話が伝わるだろうから、本当に問題になりそうなら、きちんと対策を立ててくれるだろう。頼まれた通り、隣町の魔術師に話を伝えてやろう。近いうちに、ハンナマリの弟子入りの段取りについて相談するつもりだ。その時にでも話すことにしよう。
ハンナマリは、街灯点灯の仕事をアルヴォが手伝ってくれたことをうれしそうに話している。あっという間に呪文を覚え、最初からハンナマリと同じペースで点灯したらしい。
ハンナマリは、しっかり修行してアルヴォに負けない魔術師になると息巻いている。新しいライバルは、やっぱり年上の男の子だ。どうしてこうなるんだろう?
まあ、それは気にしないことにしよう。
ハンナマリが今声高に主張している通りに頑張れば、やがて立派な力を身につけるにちがいない。
今まで考えていなかったが、娘には、その期待に見合った支度をしてやる必要がありそうだ。そうすれば、やる気も倍増するだろうし、将来大きな見返りがあるだろう。
もちろん、その見返りを受け取るのは娘自身であるべきで、親としてはその手助けができるだけで幸せだ。
ヌーティの体の中に、心地よい緊張感が生まれた。この秋は、余分の薪代を工面するだけではすみそうにない。
「何か音がした?」
ハンナマリがおしゃべりをやめて耳をそばだてた。
ヌーティも耳を澄ませてみたが、聞こえるのは隣家の子供の笑い声、食事を与えられる犬の張り切った吠え声、虫の音などで、いつもの夕暮れ時と変わりない。
「ほら、小さいけど、どどーんって」
二人は、庭に出てみた。外は、すっかり暗くなり、雲一つない夜空に星が輝いている。
確かに、時々、その空の彼方から、かすかだがそのような音が響いてくる。よく聞いてみれば、なじみのある音だ。
「ありゃ、雷鳴だな。この季節に雷なんて珍しい」
「なあんだ。雷かあ。ずーっと西の方から聞こえるわ。あの人達、西の方から来たのよね? 雷に遭う前にこの町に入れて良かったね」
「ああ」
ヌーティがうなずいた時、かすかに風が吹き、秋向きの服の隙間から寒気が入り込んできた。
「この格好じゃ風邪を引きそうだ。早く家に入ろう。今夜は冷え込むぞ」
ヌーティは、温かい家の中に戻ると、西から迫る雷のことなどそれきり忘れて、ハンナマリとともに夕食の準備を始めた。