ティルダ、魔術師を目指したい
次の日の夕方、ヘルミネン家の隣のピリス家は、何かそわそわとした雰囲気だった。
先ほどからずっと、一人娘のティルダが窓からチラチラとヘルミネン家の様子をうかがっている。奥には両親のタルッティとパニラもいるようだ。
しばらくの間ティルダは窓辺に現れたり消えたりしていたが、そのうち疲れてしまったのか、窓辺に座り込んで窓枠に置いた腕の上に頬をもたせかけて動かなくなった。奥の方からも、何か緩んだ気配が伝わってくる。
さらにしばらく経った頃、サロモンがヘルミネン家に帰ってきた。戸口に立った時、かすかに何かがぶつかる音がした。サロモンは、身に染みついている用心深さから扉を開けかけた手を止め、辺りの様子をうかがった。じっと耳を澄ませていたが、大事ないと判断し、そのまま扉を開けてヘルミネン家に入っていった。ヌーティのお帰りという声が聞こえる。
ピリス家では、サロモンを見て慌てて立ち上がったティルダが椅子を蹴倒しそうになり、避けた弾みに足を取られて転んでいた。父親のタルッティが慌てて飛んでいき、母親のパニラは、大きな声で笑っている。
「大丈夫か、ティルダ」
「うん、大丈夫。お父さん、ありがと」
どこか怪我でもしなかったかと心配そうな父親に、ティルダはにっこり笑って礼を言った。
ティルダは、いつもこうやって助けてくれる父が大好きだった。魔術師を目指すと言うと難色を示すところだけが困る。
だが、隣に魔術師のユバ家が住むようになり、それもあまり言わなくなった。昨日の話し合いの結果、今日は、ティルダがサロモンに弟子入りをお願いするのに付いてきてくれることになっている。
「お父さん、お願い」
ティルダはそう言って、戸口に向かった。
だが、タルッティは、手近の椅子に座ってしまい、溜息を吐いた。まだ迷っているようだ。
「ねえ、お父さん?」
タルッティは、不安そうな顔のティルダを見て、やむなく立ち上がった。
「じゃあ、行くか」
ティルダが寄ってきて、タルッティの手を握った。タルッティは、わずかに身じろぎした。
パニラは、この様子では、タルッティが弟子入りをまともに頼めるか怪しいと考えた。さっさと肝を据えてしまえばいいのに、いつまでも心配ばかりして先に進めないんだから困ったものだわ。ティルダだって、こんな様子を見せられては不安だろうし、そんな状態ではできることもできなくなりそう。せっかく自分の道を決めて進もうとしてるんだから、親はとにかく応援すればいいのよ。
「あたしも行くわ」
そう言って立ち上がったパニラを、タルッティは驚いた様子で振り返った。
「珍しいな」
「そうね、こういうのは父親の仕事だと思うけど、弟子入りをお願いする相手がお隣さんだし、両親が揃ってお願いすれば、家族みんながティルダを応援していることも伝わるでしょ。ね」
「そうだな……」
「じゃ、行きましょ」
パニラは、タルッティを戸口から押し出した。
ティルダは、慌てて後ろを追ってきた。
パニラに操縦されたタルッティがヘルミネン家の戸口に立ち、ノックした。
扉を開けたのはサロモンだった。
ヌーティが出てくると予想していたタルッティは、またたじろいだ。
パニラは、その後ろで逃げ道を塞いでいる。
サロモンは、その微妙な状況には気付かなかった。
「やあ、こんばんは。おーい、ヌーティ、お隣さんだぞ」
サロモンの声に応じて、ヌーティが厨房から大声で答えた。
「入ってもらってくれ。すぐ行くから」
サロモンは、発熱石が薄赤く光る煖炉の側の椅子に三人を案内した。煖炉自体が暖まっていて、発熱石自体の鋭い熱だけではなく、ふわりと包み込むようなぬくもりも感じられる特等席だ。
椅子を勧められた三人は、ティルダを中にして座った。ティルダはもじもじと不安げだし、タルッティはなんだか困惑気味だ。
「いいわあ、この煖炉。暖かいわね」
パニラは、嬉しそうに煖炉に手をかざし、意味ありげにチラリとタルッティ見ながらそう言った。
タルッティは、それには答えず、じっと煖炉を見ている。
サロモンは、彼らの様子から用向きを察したが、自分から言い出すべきではないと考え、彼らが口を開くのを待った。
しかし、三人とも黙ったままで、ただパニラだけが、意味ありげにタルッティに目を向けている。
そのうち、ヌーティが、全員分のお茶と菓子を載せた盆を持って厨房から現れた。ヌーティは、盆を小さなテーブルに無理矢理置いて、自分も椅子に着いた。
「今日はピリス家勢揃いじゃないか。どうしたんだい?」
ティルダがぱっと顔を上げて、サロモンを見た。
サロモンは、優しげに口角を上げ、促すようにうなずいて見せた。
「サロモンさん、弟子にしてください。あたし、魔法の勉強をしたいんです!」
ティルダは、跳ねるように立ち上がってサロモンに向かって大声でそう言うと、すぐにぺたんと座ってしまった。また大声出しちゃったと赤くなり、口を手で覆っている。
サロモンは、その様子に微笑し、次いで、父親のタルッティに問いかけるように目をやった。
タルッティは、ティルダに裾を掴まれて覚悟を決め、話し始めた。
「ティルダが早く魔法を習い始めたいと言ってるんだ。ハンナマリが教わってる時に横で聞いているそうなんだが、魔法の勉強がとても面白いと感じてるらしい。それで、うーん……」
パニラがはっきり言えと、ティルダの後ろから手を回して口ごもったタルッティをつつく。
「あんたに弟子入りさせて欲しいと言ってるんだ」
タルッティは、なんとか言葉をひねり出して文章を終わらせた。
まだ学校も出ていないティルダが魔術師に弟子入りするのは早すぎると考えつつも希望を叶えてやりたいタルッティの迷いを、サロモンは感じ取った。サロモンとしてはティルダを弟子にすることにやぶさかではないものの、ティルダのためにも親に心から賛成してもらいたくて、敢えて尋ねた。
「ティルダは、なぜそんなに早く魔法の勉強を始めたいんだい?」うまい返事をくれよ、フォローしてあげるから。
「ハンナマリがアルヴォから教わってる魔術の勉強を横で聞いてるんですけど、とても面白いんです。私も魔法についてもっと知りたいし、魔法が使えるようになれば皆の役にも立てると思います。アルヴォもハンナマリも魔法で仕事しているし、私もそういう仕事をしたいんです」
「魔法の理論なんか、聞いてても退屈なだけではないかね?」
サロモンの疑問に、ティルダは大きく首を振った。
「本当に面白いんです。もっともっと知りたいです。アルヴォはハンナマリのために教えてるんだから、あたしが分かったかどうかは気にしてもらえないし、あたしは質問もできないの。ただ聞いているだけは、もう嫌なの」
熱弁を振るうティルダに、サロモンは、うなずきながら応じた。
「そうだな、そんなに面白く思うなら、今が勉強を始めるには一番いい時なのだろうな」
真剣だったティルダの顔が、ぱあっと明るくなった。
タルッティは、思わずパニラに目をやった。昨日妻から聞いたのと同じ台詞をサロモンが言ったからだ。
パニラは、ほら言った通りでしょうと言わんばかりの顔で見返してきた。
ヌーティも、今から始めることに賛成した。
「それだけやる気があるなら、今初めてもいいだろう。それに、ティルダが一緒に勉強できれば、ハンナマリにも良い影響がありそうだな」
タルッティは、面食らった。ヌーティまでパニラと同じことを言う。
「ヌーティ、この前相談した時には、学校を終えてからが良いと言ったじゃないか」
「うん、でも、これだけやる気があるんだよ。それを認めないわけにはいかないだろ。それに、もっと知りたいという好奇心は、魔術師が持つべき才能の一部だぜ。ティルダは、それをたっぷり持っていそうじゃないか」
「そうなのかな……」
パニラが、再びティルダの後ろから手を回して、口ごもったタルッティの背中を拳固で殴った。
少し痛かったタルッティがパニラを睨むと、パニラは圧力のこもった瞳で睨み返してきた。これで見えざる夫婦の戦いに最終的に勝負がついた。
「うう、そうだな、どうだろう、サロモン、娘の頼みを聞いてもらえないだろうか」
「ああ、もちろんいいんだが、ちょっと待ってくれ」
サロモンは、ティルダを受け入れると言いつつも、何か思うところがあるようだ。ヌーティとひそひそと話し始めた。
「最初に魔法職人の訓練をしてみたいんだが、どう思う? 魔法職人の訓練は、半年くらいなんだろう? ハンナマリの上達具合から見ると、いきなり魔術師の訓練をするより、いったん魔法職人の訓練をした方が早く力が付くと思うんだ」
「そうだな、ハンナマリには俺もびっくりしたよ。おっと、あいつに言うなよ、調子に乗るから。魔法職人の訓練を半年やってから、魔術師の訓練をすると、ひょっとしたら三年くらいでそこそこものになるかも知れんな」
「じゃあ、やってみるのに賛成だな」
「ああ。きっと良い成果が出るよ。サロモン、こりゃあ重要だぞ」
「分かってる。魔法職人の訓練はあなたがやってくれるだろう? 私には分からない」
自分の弟子の教育をヌーティに頼むサロモンは済まなそうな眼差しだが、ヌーティは当然のように引き受けた。
「いいとも、任せてくれ」
二人がひそひそ話を終えて向き直ると、ティルダは、体を硬くして不安そうな目でじっと見つめていた。
タルッティとパニラも、彼らの言葉をじっと待っている。
ヌーティは、急いで説明した。
「ごめんごめん、ちょっと教育方針について話し合ってたんだ」
三人は、少し緊張を解いた。だが、ティルダは、まだ不安そうだ。
「ティルダ、君が私の弟子になることを嬉しく思う。今日はもう遅いから、明日から魔術師の訓練を始めよう」
婉曲に表現された言葉の意味を掴みかねて、ティルダは一瞬戸惑った。だがすぐに意味を理解して、喜びに頬を赤くした。
「ありがとうございます! よろしくお願いします!」
思わず立ち上がって礼を言った。立ち上がったまま喜びをかみしめていたが、少し落ち着くと、再び大声を出してしまったことに気付いてまた赤くなり、慌てて座った。
パニラは、その様子を温かい目で見守り、タルッティは、いつもはおとなしい娘の高ぶりに驚いている。
サロモンは、そんな家族の様子を面白そうに見ながら、ティルダに話しかけた。
「だが、その前に一つだけ確認しておきたい。魔術師の訓練は、覚えることも多いし、練習することも色々とある。魔術師と名乗れるようになるまでに、短くても五年くらいはかかる。
その間に適性が足りずに脱落する者も多い。そして、一人前になるにはさらに十年も修行を続けなければならない。その後も常に研鑽を続けなければ、立派な魔術師になるのは難しい。一生勉強と訓練を続けることになる。
そのような生活に耐えられるかね?」
タルッティは、横目で娘の表情をうかがった。
今サロモンが言ったことは、かなり厳しい表現ではあったが、どのような職人にでも当てはまることだ。勉強を怠った職人は腕を落とし、作品の品質を落とし、他の職人に追い抜かれてしまう。
タルッティも、学校の勉強はそれほど好きではなかったが、こと木工に関しては誰にも負けないくらい新しい技術を追い、腕を磨いて精度を上げ、顧客の信頼を得て、木工職人組合内でも一目置かれるようになっているのだ。
それが当然だったので、ティルダにもそのような覚悟があるのかどうかなど考えもしなかった。
大丈夫だろうか。ティルダは、そのようなことを分かっているのだろうか。
タルッティは、ティルダがどのように答えるか、不安と共に見守った。
ティルダは、タルッティの期待にも不安にも気付かないまま、背筋を一杯に伸ばして大きな声で答えた。
「そんなに勉強することがあるなんて、嬉しいです!」
サロモンは、それを聞いて目を丸くした。こんなに積極的な答えを聞いたのは初めてだ。嬉しくなり、にっこりと笑った。
その笑顔で安心したのか、弟子入りを受け入れてもらったことに興奮したのか、珍しくティルダは、思うままに話し始めた。
「あたし、真面目だって友達や先生によく言われます。でも、本当は違うんです。新しいことを覚えたり、できるようになったりするのが好きなだけなんです。魔法にそういうものがたくさんあって、とても嬉しいです!」
その答えを聞いて、サロモンは満足そうにうなずいた。
パニラは、当然だという表情で、誇らしげだ。
タルッティは、娘を誇りに思う気持ちと、自分の望み通りに職人になってくれれば立派な結果を出したろうにと思う気持ちの間で揺れ動いていた。
「君の考えは分かった。そのような気持ちは、魔術師にはとても大切なものだ。それを忘れずに修行しなさい」
サロモンの言葉を聞いたティルダは、喜びで顔を輝かせ、タルッティとパニラの手を握った。
サロモンは、表情を引き締め、話を続けた。
「さて、明日以降の訓練の方針を教えよう。先ほどヌーティと相談したのだが、まず、君には魔法職人の訓練を受けてもらう」
思いもしないことを言われて、ティルダの表情が消えた。両親の手を握っていたティルダの手がだらりと下がる。
タルッティとパニラも、怪訝そうに眉をひそめた。
「サロモン、娘は、魔術師を目指したいのであって、魔法職人になりたいんじゃないんだぞ」
タルッティは、娘の望みを勘違いしているのではあるまいなと、力の入った低い声を出した。
サロモンは、苦笑いをしながら説明した。
「大丈夫だ、分かっている。いきなり魔法職人の訓練をすると言われて驚くのも当然だな。これには理由があるのだ」
ピリス家の面々は、その理由に興味津々で、身を乗り出してきた。
「魔法職人であるハンナマリが魔術師の勉強をしていることは知っているだろう。彼女の進捗が、通常では考えられないほど早いのだ。ヌーティと話し合った結果、最初に魔法職人の訓練をすることにより、魔術師としての能力を身に付けるまでの期間を短縮できるのではないかと考えた」
「魔法職人になってから魔術師を目指した方が、早く一人前の魔術師になるだろうってことだよ」
サロモンの言葉は難しくていけないと感じたヌーティが言い換えた。
「相談したってことは、あんたも同じ考えなんだな?」
タルッティは、ヌーティに問うた。
「ああ、俺もそう思ってるよ。これまでの魔術師の訓練ってのはな、あんたの仕事の木工で言えば、スプーンやら皿みたいな比較的簡単なものを作る前に、扉や引き出しの付いた立派な彫刻付きの戸棚を作るようなことをやらせてたんだ。こんなやり方をどう思う?」
タルッティは、この例えに顔をしかめた。
「無茶だな。いつかはできるようになるだろうが、簡単なものから練習を始める方がよっぽど早く上達する」
「これまで、そういう基礎的なものが魔術師教育にはなかったんだよ。でもな、ハンナマリの上達具合を見てると、魔術師教育にとって、その簡単なものってのが魔法職人に違いないと思えるんだ。魔術師教育の前に魔法職人教育をして魔法や呪文に慣れさせる方が、よっぽど早く上達するに違いない」
パニラとティルダは、サロモンを見つめて、納得したようにうなずいている。
「ティルダ、サロモンの言う通りにしてみるか?」
「先生が一番いい方法だっておっしゃるんだもん、頑張るわ」
タルッティが最終的に確認する意味を込めて聞くと、ティルダは、迷わず師への信頼を見せた。
サロモンは、一般的な魔術師教育とは異なる方法での訓練に対するタルッティの懸念を感じた。
「タルッティ、私は、最初に魔法職人教育を利用する方法が有効だと信じている。そして、私は、師としての義務を果たす。ティルダを私に預けるなら、私を信頼してもらうしかない」
タルッティは、その言葉にサロモンの師としての覚悟を感じ取り、やっと心が決まった。
「信頼するよ。娘をよろしく頼む」
その言葉を聞いたティルダは、父親にぎゅっと抱きついた。




