騒がしい娘
サロモンが話し始めようとしたとき、突然、入り口の扉が大きな音を立てて開いた。
サロモンと息子のアルヴォは、驚いて飛び上がった。
椅子の上で腰を浮かせたサロモンは、腰の短剣のあたりに手をさまよわせている。
アルヴォは、慌てて椅子を蹴って立ち上がったが、その椅子が壁に当たって跳ね返り、足を取られてまた座ってしまった。焦って、足をバタバタさせている。
戸口には、こちらもぎょっとして立ちすくんだ小さな細い影が、夕日を反射してまぶしく光る隣家の壁を背景にして固まっていた。
一人だけ落ち着いているヌーティが大きな声を出した。
「こら、ハンナマリ、扉は静かに開け閉めしなさい。お客さんが驚いてるだろう」
その声で我に返ったその影は、後ろを向いて大げさなくらいにそっと扉を閉めた。
目をくらませる光が消え、飾り気のないひざ下丈のジャンパースカートを着たフェイの少女が現れた。
身の丈は三尺半、三つ編みにして頭の両側から背中に垂らした髪は左右非対称に緩み、シャツには泥汚れが付き、スカートの裾にはかぎ裂きがある。その下ににょっきりと生えた細い脛には赤と青の打ち身の跡がいくつかと、かさぶたになった擦り傷があった。
ヌーティの頭痛の種、一人娘のハンナマリだ。
「お客さん、脅かしてごめんなさい」
一応はしおらしく謝ったハンナマリだが、父親の方に向き直るとすぐに地が出た。
「だって、急いでたのよ。今日は夕方の仕事があるって言ってたでしょ。それを思い出したのがついさっきなの。玉運びの試合で、もう少しでハンスのチームに勝つところだったのよ。でも、仕事があるから、途中でやめて戻ってきたの。勝負よりは仕事が優先だもんねっ」
ハンナマリは、そうまくしたてると、仕事のために勝てる勝負を捨てたのだからほめてもらえるのが当然だと言わんばかりに、鼻の穴を広げて昂然と頭を上げた。
ヌーティは、こういう娘にあまり厳しくできない。妻が病死した後ずっと男手で娘を育ててきたものの、女の子のしつけ方がいまだによくわからないのだ。そのせいか、まるで男の子のように走り回るお転婆に育ってしまった。
「わかったわかった。まあ、お客さんに謝ったんだから良しとしておこう。足のあざが増えているようだが、その玉ころがしのせいだな」
「玉ころがしじゃないわ、玉運びよ。棒で球を叩いて自分のゴールまで運ぶの。相手を邪魔してもいいのよ。だもんだから、あのうっかり者のハンスが何回もあたしの足を棒で叩いたのよ。あたしの棒だってハンスの足に当たっちゃったけどね。勝負でのことだから仕方ないわ。わざとやったんじゃないのよ、大体はね。あ、少し腫れてる。道理で痛いと思った。あの子、明日とっちめてやらなきゃ」
ヌーティは、ため息をつきながら立ち上がると、椅子の背に掛けてあったローブをハンナマリに押し付けた。
「あのなあ……」
「あ、そうか。仕事よ仕事。今日は街灯の点灯作業よね。どこ?」
「……ヘゲール通りとジャンカー通りだ」
「わあ、町のあっち側だ。急がなきゃ」
くるりと後ろを向いたハンナマリは、ローブを片手に抱えたまま扉を勢いよく開けた。
手が滑って動く扉を止めきれず壁にぶつけ、また大きな音がした。
「ハンナマリ、扉は……」
「静かに開けるのよね。はいはい。早く行かなくちゃ暗くなるわ。お父さん、行こ」
ヌーティは、黙って目を閉じ、十まで数えた後、努めて落ち着いた声で話した。
「ハンナマリ、今日は、お前一人で行ってくれ」
「えー、街灯が二十個もあるのよ。一人じゃ二時間もかかっちゃうわ」
「二十もない、十五だ。二時間はかからんよ。いいから行ってこい。俺は、お客さんと話があるんだ」
「ちぇっ、はあいっ」
ハンナマリは、大声で返事をすると、ローブを振り回しながら駆けて行った。
娘が夕刻に一人で出て行ったというのに厄介払いをしたと言わんばかりの表情のヌーティに驚いたサロモンは、急いで息子に合図した。
「アルヴォ、行け!」
「はい」
アルヴォは、さっと立ち上がって外套を掴むと、戸口から走り出していった。表情が固い。
ヌーティは、そんなアルヴォが遠ざかるのを、角を曲がって見えなくなるまで不思議そうに眺めていた。
「どうしたんだい? 何か忘れものかい?」
サロモンは、のんびりした口調のヌーティに緊張した表情で答えた。
「お嬢さんの護衛を言い付けたのだ。今から二時間と言えば、もう真っ暗だ。年端もいかない女の子を暗い街に一人でやるわけにはいくまい。私と話をするためにそういうことをさせたのでは申し訳ない」
ヌーティは、また不思議そうに、今度はサロモンの顔を見た。
「この町で危ないことなんかないよ。街路は明るく照明されてるし、人通りも多い」
「何も問題ないのか?」怪訝な顔のサロモン。
「問題なんかないよ。兵士が巡回してくれるしな。あんたの住んでるところはそうじゃないのか?」
「街中では、暗くなったら外には出ない。もし出るなら、道を選ばねばならん」
「そりゃ難儀なことだ。この町とはずいぶん違うなあ。とにかく、娘のことはほっといても大丈夫だよ。息子さんを呼び戻してくるかい?」
サロモンは、少し迷ったが、かぶりを振った。
「いや、行かせておこう。お嬢さんの仕事を見学させるのもいいだろう。魔法職人という考え方は、面白いから」
宿屋の主人が魔法のことを口にするときの屈託のなさを感じたり、魔法職人であるヌーティと話してさえ緊張を解くことができなかったサロモンだが、やっと心からくつろぐことができた。この町に着いてからの出来事すべてが、この町は魔術師にとっても安全だと告げている。
ヌーティが娘を一人で魔法を使う仕事に行かせたことは、彼にとって、それを象徴する出来事だった。
ヌーティは、客の緊張がすっかり解けたものだから、また世間話を始めた。最初の世間話とは違って、商売人が客に対して話すようなものではない、個人的で気楽なものだ。
「そうだな、まだハンナマリの仲間もそこらで遊んでるだろうから、あんたの息子さんにも友達ができるかもな。さっきあいつが言っていたハンスという奴は人間の男の子で、確か十二才だ。あんたの息子さんと同じくらいの年じゃないかな。元気な子でね、ハンナマリの好敵手だよ。
いやまあ、これが頭の痛いところで、どうしてハンナマリみたいな女の子が年上の男の子を好敵手にしてるんだろうなあ。あいつの母親は、だいぶ前に死んじまったけど、もっと淑やかだった。まあ、自分のかみさんだから、ひいき目に見すぎてるかもしれないけどね」
「そんなことはないだろう」
サロモンは、すっかり緊張が解けてゆったりとした気分になり、ヌーティのおしゃべりを楽しむ余裕が出てきた。
「かみさんは、魔術師だったんだ。魔法の効果を残せる方の魔術師さ。さっき、俺がこの町に魔法職人という仕事を持ち込んだって言っただろ。最初はかみさんと組んでやってたんだよ。かみさんが予備呪文をかけて、俺や仲間が発動させるんだ。魔術師と違って高い報酬を得られるわけじゃないけどね、払う金が安い分、客には事欠かなかったね。
一番うまくいったのが、町外れの砂糖工場だ。俺が来たときには小さい工場で、近所の農家が作った砂糖芋を細々と処理してたのさ。ほら、砂糖を作るにはずいぶんと燃料がいるじゃないか。煮詰めたり、乾燥したりさ。だからってやたらに木を切っちまっちゃ山が荒れるだろ。
そこに魔法を持ち込んだんだ。かみさんが得意な発熱の魔法を使って燃料いらずになった。そしたら、燃料代は浮くし、これまで燃料の足しにしてた砂糖芋の絞りかすも、肥料やら家畜の飼料やらとして売れるしで、大もうけだ。おかげで追加の投資もできて、今じゃこの辺一番の砂糖の産地だよ」
サロモンは、本当に魔術師が一人しかいなかったのかと疑問に思った。
「魔術師は、あんたの奥さん一人だったのだな」
「そうだよ。予備呪文のできる魔術師と魔法職人が組めば、たいしたことができるのさ」
「素晴らしい成果だ」
サロモンは、心から感心した。
ヌーティは、その賛辞を聞いて気をよくし、大きくうなずいた。
「そうだろ。でも、それだけに、かみさんが病気で死んじまった時には大慌てしたもんさ。かみさんの呪文に頼ってた魔法職人仲間の仕事を確保しなけりゃならないし、客にも迷惑をかけられない。もちろん、ハンナマリを育てるための金も必要だ。おかげでゆっくり悲しんでる暇もなかった。いろいろ大変だったが、まあ、そんな話はよしとこう」
ヌーティは、言葉を切った。亡くなった妻のことを考えているようだ。
サロモンは、背中に当たる秋の日の残照が気持ちよく、黙ったままヌーティの話の続きを待った。
ヌーティは、少しの間窓の外をぼんやりと見ていたが、まもなく気を取り直したように話を再開した。
「かみさんの血を引いたんだろうなあ、ハンナマリは、俺より魔力が強いみたいなんだ。娘だからって、ひいき目じゃないよ。俺達と取引のある隣町の魔術師がそう言ったんだから。自分の弟子にしないかって誘ってくれてるんだ。
魔術師になれば生活も楽だし、いろいろな道が開けるだろ。だから、頼もうかと思ってる。魔力が強ければどこかのお抱え魔術師にだってなれるかもしれないし、かみさんみたいに町の魔術師になってもいい。
予備呪文が使えれば、なおいいな。娘と組んで仕事をするのも楽しそうだ。その魔術師は、母親が予備呪文を使えたんだからハンナマリも使えるんじゃないかって言ってる。
ハンナマリは今十一で、まだ一年学校があるんだ。でも、早く訓練を始めるためにすぐにでも弟子入りさせろってその魔術師がうるさいから、学校をやめさせようかと思ってる。ハンナマリも弟子入りには乗り気なんだ。修行は厳しいぞと脅かしても全然動じないんだから、わが娘ながらたいしたもんだ。
でも、そうやって脅かしたもんだから、今のうちにたくさん遊んでおこうくらいに考えてるんだろうかねえ、最近は遅くまで友達と遊んでいて言いつけられた時間までに帰ってこなかったりする。
あんたが来た時に俺が怒ってたのはそういうわけなんだ。間違えて怒鳴ったりしてすまなかったね。でも、子供に責任ってものを教えなくちゃいけないと思ったんだ。あんたも親ならわかってくれるだろ」
サロモンは、笑みを浮かべながらうなずいた。
ヌーティの娘自慢は、微笑ましい。自分も彼のように平和な生活を送っていれば、息子の自慢をしたりしただろうと思う。まだ十三才なのに、武術に優れ度胸もある。にじみ出る誠実そうな雰囲気は、人に好印象を与えるはずだ。この旅でも、息子というよりは相棒として信頼できた。
だが、これを口に出すのは、さすがに照れる。ヌーティが愚痴を交えるのも照れ隠しだろう。
確かに自慢の息子だが、彼は、そのように育たざるを得なかったのだ。その事情が脳裏を走り、サロモンは、すっかり緩んでいた頬を引き締め、椅子に座り直した。
ヌーティは、その様子を商売の話に入る合図とみなし、テーブルに肘をついてサロモンの方に身を乗り出した。
「さて、魔法の御用ということだったが、用件をうかがいましょうかな」
自分の用件どころか、自分が何者なのかも話していないサロモンは、ヌーティの実直さに居心地の悪さを感じた。ここしばらく続いた逃亡生活が、心を蝕んでしまったようだ。
ここは魔術師にも安全な国だ。ここから東はどこもそうだろう。
サロモンは、自分に言い聞かせ、椅子に深く座り直して姿勢を正した。今日からは、逃亡者ではなく警告者としてふるまわなければならない。
「最初に言ったとおり、話したいことがあるのだよ。西の国の情勢と、これから東の国々に何が起ころうとしているかについてだ」
「へえ?」
ヌーティは、自分にはまるで関係なさそうな言葉にあっけにとられ、ぼうっとサロモンを見つめた。