隣家の娘
家の扉を勢いよく開けたハンナマリは、小走りの速度を緩めないまま家に駆けこんだ。
扉は壁に当たって跳ね返り、やっと戸口にたどり着いたアルヴォに向かって飛んできた。
「ぎゅっ!」
慌てて手で防ごうとしたものの間に合わず、扉で胸を打ったアルヴォが妙な悲鳴を上げた。
「ハンナマリ、扉を静かに開け閉めしろといつも言っているだろう!」
テーブルについてサロモンと何かを話していたヌーティが叱った。
だが、聞き飽きたいつもの説教など、今のハンナマリの耳には入らない。
走りこんだ勢いで椅子の背に乗り上げてテーブルに手を突き、サロモンの眼前に一気に迫った。
「サロモンさん、私に魔法を教えて!」
サロモンは、目を輝かせて迫ってくるハンナマリに目をしばたかせた。
「アルヴォから聞いたの。魔術師は一杯勉強しないとなれないの。だから、すぐ勉強を始めないといけないの。教えてっ!」
サロモンは、助けを求めてヌーティを見た。
ヌーティは、怪訝な顔をしながら、ハンナマリに話しかけた。
「ハンナマリ、なぜいきなりそんなことを言い始めたんだ?」
「だから、アルヴォから教わったのよ。魔術師は八十才になっても勉強し続けるんだって。それでも勉強が足りないんだって。だから、急がないといけないのよ」
「アルヴォ、どういう話をしたんだ?」サロモンが尋ねた。
「そういう話をしたつもりはないんですけど……」
「具体的には?」
「算術や幾何が魔法に役立つとか、そんな話です」
大人二人がうなずく。
「正しいな」
「うむ、正しい」
大人達の同意を得て、ハンナマリの勢いが増した。
「でしょ! あたし、すぐに勉強始めるわ。一昨日始めるべきだったと思ってるくらいよ」
「それを言うなら、四年前学校に入った時に始めるべきだったなあ」と、ヌーティが苦笑いした。
「だから教えてっ!」
ヌーティは、手でハンナマリを制した。
「まあちょっと待て。アルヴォは、算術や幾何が大切だって言ったんだろ」
「そうよ」
「算術や幾何なら、学校の勉強にあるだろう。まずはそちらをやったらどうだ?」
ヌーティは、ハンナマリの勉強道具を指さして強調した。
「だって、他にもいろいろあるみたいなんだもん。魔力行使のなんとかかんとかとか」
「そのなんとかかんとかは、魔術師に弟子入りしてから習うんだ。まだお前には早いぞ」
ヌーティの指摘に、ハンナマリは唇を尖らせて抗議する。
「だって、一生勉強しても足りないって言うのよ。急いで全部勉強しないと間に合わないじゃない」
「何に?」
ヌーティは、ハンナマリの焦りように面食らった。何をそこまで大急ぎで学ばねばならないのか、分からない。
「立派な魔術師になる前におばあさんになっちゃうわよ。孫に魔術を教えるだけならそれでもいいけど、一杯仕事をしたかったら、もっと早く魔術師にならなくちゃいけないでしょ」
ヌーティは、娘の単純さに頭が痛くなってきた。
サロモンが笑いながら言った。
「立派な魔術師とは何かという話だな。アルヴォ、八十才の魔術師とはアレステンデンのことだな?」
「はい」
「ハンナマリ、アレステンデンは、サンデ国の魔術師の頂点に立つ人だったんだ。国中の魔術師が尊敬する大魔術師だった。
アルヴォが言ったのは、そんな人でも勉強し続けないといけないくらい魔法は奥が深いということだよ」
「そうなの?」
ハンナマリは、アルヴォに問いかけた。
アルヴォがうなずくと、ハンナマリは、ふうと息をついた。少し気持ちが落ち着いたようだ。椅子の背から降りて、座面に座り直した。
ヌーティは、ため息混じりに言った。
「なあ、魔術師に限らず全部の仕事がそうだが、なぜ弟子入りが学校を出た後なのか考えてみろ。学校で習うことが基礎として必要だからだ。焦ることはない。今は学校の勉強をちゃんとやって、弟子入りした後困らないように備えるべきだぞ」
ハンナマリは、おとなしく聞いている。うんうんと何度かうなずくと、アルヴォに問いかけた。
「アルヴォはいくつから魔法の勉強をしているの?」
「僕は五才のころから」
「やっぱり! 街灯を点ける時にアルヴォが速いのよ。呪文を自分で短くしたって言うし、きっと五才のころから一杯勉強したんだわ。あたしだって勉強してもいいじゃない。
学校の勉強が大事なのは分かったから、そっちもちゃんとやるわ。だけど、まだ魔法の勉強をしちゃいけないってことはないでしょ!」
ヌーティは、渋い顔をした。せっかく納得しかけていたのに、アルヴォが馬鹿正直に答えたせいで、元の木阿弥だ。
サロモンは、ヌーティがどう判断するかに興味があった。
ハンナマリは弟子入りを一年早めて十一才から魔法の勉強を始めるという話だった。サンデ国では八才くらいから始める。
確かに幾何などを勉強しておけば魔術の呑み込みも早いが、魔術は慣れや感覚も大事だ。武士の剣術のように体に覚えこませるものも多い。早めても十一才、普通は十二才から訓練を始めるというのでは遅いような気がしていた。
結局、ヌーティは、始める時期はともかく、師弟関係の常識を教えるためにも、ここは強く言って聞かせる必要があると判断した。
「いや、だめだ。お前はホルンに弟子入りが決まっている。ホルンの許可なく勝手に他の魔術師に教わるわけにはいかない」
「でも……」
はっとした顔をしながらも抗弁しようとしたハンナマリに、ヌーティは厳しく言った。
「だめだ。これは、師に対する礼儀の問題だ」
ハンナマリは、しょんぼりと肩を落とした。その元気のない様子に、ヌーティは一言付け加えた。
「今度ホルンが来た時に相談してみるのはいい」
それを聞いたハンナマリはあっさり立ち直り、大喜びでヌーティの首に飛びついた。
サロモンは、せっかくの威厳ある態度があっという間に腰砕けになったヌーティの甘さに微笑した。
ホルンという魔術師の考え次第だが、自分が基礎を教えることになる予感がした。アルヴォに手伝わせればいい経験になるかもしれない。
その時、玄関扉がそっと開けられた。ティルダが顔を出している。
「あ、ティルダ! さっきはごめんね。桶を蹴っ飛ばしちゃって」
ハンナマリがあんまりすまなそうでもない顔で謝ったが、ティルダは首を横に振った。
「あれはいいの。気にしてないわ。いつものことだし」
アルヴォは、あれがいつものことなんだ、と、なぜか納得できた。
「それより、あたしもハンナマリと一緒に魔法を教えてほしいの」
やれやれ、やっとハンナマリが落ち着いたと思ったら、今度は隣の子か。ヌーティは、ため息をついた。
「ティルダ、お父さんはお前が魔術師になるのには反対していたはずだよな」
「うん。でも、それは魔術師に弟子入りするとルンドフェルトに行かないといけないからなの。だから、マーリングにいられるなら賛成してくれると思う」
ヌーティは、一つうなずいて一応の同意を示し、しかし、と続けた。
「まず、それをお父さんと相談しておいで。魔術師を目指すと決めるのは、お前の一生に関わる問題だ。一人で急いで決めないほうがいい」
ティルダは、不安そうにサロモンに目をやった。サロモンは、嬉しそうな目でティルダを見ていた。
「でも、いつまでここにいるの? 早く決めないと、また旅に出ちゃうんじゃない?」
ティルダの心配そうな声を聞いたヌーティは、苦笑いした。
「旅に出るなら、どのみち教わることなどできないじゃないか。大丈夫だよ、彼らはマーリングに住むことになったから」
ティルダの顔がぱっと明るくなった。
「本当? どこに住むの?」
「この家に住むよ。お隣なんだからいつでも話ができるさ。だから、お父さんやお母さんとゆっくり相談しておいで」
「うん、そうするわ」
ティルダは、素直にうなずいた。
「彼女を送ってきます」
アルヴォがそう言って、戸口に向かうティルダを追った。
「あら、ティルダの家は、お隣よ。送ってかなくても大丈夫」
ハンナマリが教えたが、アルヴォは首を振った。
「知ってる。でも、さっきぶつかったのにちゃんと謝らなかったから」
「ふーん、じゃ、あたしも行こ。いつものことだと思って、ちゃんと謝ってないもんね」
アルヴォは、やっぱりあれがいつものことなんだと改めて納得して、二人とともに外に出た。
ティルダが帰り際に戸口できちんと挨拶をしたので、サロモンは、ティルダをすっかり気に入った。
「良い子だな。積極的だし、もし才能があれば伸びそうだ」
「まあな。気持ちのいい子だ。だが、親御さんは、あの子を職人の道に進ませたいんだ」
「魔術師だって、職人みたいなものだよ」
「そうだね。まあ、どうするかはあの子と親御さんが決めるさ。でもなあ……」
ティルダを送って庭に出た二人が戻ってきたので、ヌーティは途中で言い止め、黙ってしまった。




