1. Day0.1 風格
ぽやんとした音が鳴り響いた後、『当機は最終の着陸態勢に入りました。シートベルトをお締めください』との録音アナウンスがアレマン語、ローラン語、ビタラン語で響き、さらに人の声でクレス語、最後にスナバラン語がそれに続いた。12時間を超える旅ももうすぐ終わる。私物のノイズキャンセリングヘッドホンを外して機内に持ち込んだ鞄にしまい込み、少しだけ倒していた座席のリクライニングを元に戻し、着席中締めていたベルトが外れていないことを確認した。
この飛行機の目的地リンデンホフ国際空港には15時55分には到着予定だったのだが、オゥイエードでの搭乗前に大雨が降り始め雷が当機に落ちたのことで機材の点検が行われ、結局出発が四時間遅れた。飛行中、モニタを見ているとかなり頑張って回復飛行を行っていたようだが、ようやくそろそろリンデンホフ空港の上空といったところだ。機長から、三時間半遅れのご迷惑をおかけすることをお詫びするという、こちらの航空会社ではあまり聞かない種類のアナウンスが流れた。
今回の出張は一週間の予定だ。スナバランの電力会社でセキュリティ管理部長をしていた僕は、三ヶ月と少し前、ここカントナー国の電力会社でセキュリティをやらないかと誘われた。誘ってきたのはスナバランの商社だ。人材派遣ビジネスか?と思って聞いたら、そうではなくて企業買収をしてカントナー国の電力会社、リンデンホフパワーの親会社になっており、駐在要員として雇いたいのだそうだ。採用交渉そのものはとんとん拍子に進み、二週間前にその商社に入社した。しかしこの話、入社してから全容を聞かされるとなかなかに闇が深かった。
この電力会社は買収から一年も経つのに全く本社のいうことを聞かない、完全子会社なので慣例に従い社長か財務担当役員を派遣すると言ってもさまざまに抵抗し、そもそもどんな管理をしているのかすら今だにはっきり開示しない。買収後からずっと続けられていた議論の最後には、おそらくリークもあったのだろう、国の安全保障を左右する重要インフラ会社の社長が外国人であっていいのか、と政府とカントナー国民を巻き込んだ大議論に発展してしまったという。現地側からしてみれば、元親会社の都合であっという間に異業界の会社に売り飛ばされ、新しい親から社長が来ると言っても電力会社の経営なぞ分かっているワケじゃなく、どんな経営されるのかたまったものではないという不安があるのは容易に想像がつく。そもそも電力マンという人たちは国の電力安定供給とエネルギー政策の根幹を支えているのは自分達なのだ、という自負と強い誇りがある。そういうカルチャーや思いを理解せず、こちら側は高圧的に交渉したんだろうなという気がしてならない。
落とし所として、セキュリティの管理責任者を本社から派遣するということになったのだそうだ。本社としては子会社管理のまずまず重要なエリアを本社の人間が直接的に指揮しているという事実を作ることで一旦拳を下ろすことができ、同時にこれを子会社経営のリエゾンという名のスパイとして使うことで彼らの状況を把握することができると期待しているのだろう。一方、子会社としては今までの経営に決定的な影響を与えることなく、このリエゾン経由で子会社そのものを理解させ、また場合によっては防風林として機能することを期待する、セキュリティ事故が発生したならばコイツに責任を取らせて首を斬れば良い、というあたりを意図したということだと思う。両者が各々の意図をお互いに開示した様子はない。絵に描いたような同床異夢の構図が偶然に近いところで描かれ、手打ちしたのだと僕は理解した。こんな交渉が表で動いて、慌てて、僕の採用を進めたということだろう。このためこの会社はどうしても電力会社でセキュリティを担当した経験がある人材が欲しかったのだ。それが例え僕のように中途採用で電力会社に入った人材であったとしても。
入社後二日間にわたって会議室に缶詰にされ、交渉担当からこの経緯を聞かされたときには正直、頭を抱えざるを得なかった。この人は僕の採用交渉の一回目に出てきて、セキュリティ担当としてオマエは何ができるのかと事細かに聞き、挙句の果てにはできることをリストにして出せぐらいのことを言い出すかのような勢いで同席していた人事部に諌められていたと記憶している。一般的に採用交渉では話せない内容があるのは理解できるし、それは当然だ。でも、蓋を開けてみたら、セキュリティ屋として傭われたがその業務の本質はスパイだ、というのは少々度を外しすぎていやしないかという気がする。
こんな経緯からリンデンホフパワーで勤務する本社からの派遣者は、僕が第一号となり、他にスナバラン人はいないと聞いてきた。人材の派遣条件などは通常、派遣元である本社と受入先である子会社の総務や人事との間で調整される。しかもこの商社は多くの人材を国外に派遣していて、社員の派遣条件の交渉や派遣状況を管理する部署まで存在する。しかし今回は子会社にとって初の事例で、さらに派遣そのもののすったもんだも影響して本社と子会社の間で議論が拡散してしまいどうにも方針がまとまらないので、もう、当の本人が一度行って纏めて来いと丸投げをくらったというのが、今回の出張の主な理由なのだった。
リンデンホフ国際空港周辺の空域が混雑しているとの理由から空港上空をぐるぐると旋回させられた結果、回復飛行に対する機長の努力も虚しく着陸は結局定刻からほぼ四時間遅れの19時50分となった。この空港はカントナー国いちの大きさを誇るのだが、世界的に見ればそれほど大空港というわけではなく、着陸してしまえば地上走行は短い。あっという間にボーディングブリッジに到着した。シートベルト着用サインが消えるまで立つな、と言われているのだが、後ろの方の座席からはどやどやと皆立ち上がり、降機の準備を始めちゃった音がする。スマホの電源を入れる。すぐにピロンと、メッセージ着信音が鳴った。
『長旅お疲れ様です。到着ロビーでお待ちしております。』
迎えを寄越すという話は事前に聞いていた。ここの空港は市内とは近いし、この国のタクシードライバーは信用できるので、自分でホテルに行きますよと言ったのだが、迎えに行きます、入国したところで当社のロゴを持った者がいるので落ち合ってください、と返答が返ってきていた。出発が遅れたという情報は搭乗直前に連絡先にはメールしておいたが、当地深夜に送られたメッセージを確認しているかどうかは怪しいし、こちらの人々が大切にする休日それも土曜日の午後に四時間遅れだ。迎えに来る時には飛行機の運行状況を確認して来てはいるだろうけど、極めて申し訳ないと思う。しかしスナバラン語でメッセージ送って来るなんて、かなり気を遣われているなあと思いながらアレマン語で返答を返した。
『ありがとうございます。待たせて申し訳ありません。できるだけ早く行きます』
入国審査官は私のパスポートを上にめくったり下にめくったりしながら、じろじろとこちらを見ている。入国目的を聞かれる。将来的には長期滞在を予定しているが、今回の訪問はビジネス客としての短期滞在なので回答はシンプルで、子会社との打ち合わせだ。審査は終了し、バゲージクレームに進んだ。
さて。この場所についてからかれこれ三十分経つが、カルーセルが動き出す気配はない。怒りとも諦めともとれる雰囲気を発している人々の間を係員に連れられた麻薬犬が歩き回っている。訓練されているからなのかそれとも重い雰囲気を察しているからのか、この犬に愛想はない。カルーセルからやや離れた場所で立っている僕の横には、先ほどから年のころおそらく十年ぐらい先輩か、シルバーの髪の男が立っている。機内で二列前の最前列に座っていた人だ。元々厳しい風貌の人なのだろうが、四時間遅れの疲れからか表情はさらに険しい。その横には彼の、おそらく秘書だろう。かっちりとしたビジネススーツに身を包んで長い髪をした、男とは年齢の離れた女性が表情を見せずに立っている。秘書はカートを手にしており、そこにはジュラルミンのキャリーオンケースひとつが積まれている。年季を感じさせるそれはずいぶんと前に生産終了した二輪モデルで、あちこちが凹み引っ掻き傷も随分ついている。男が大きなため息をついたとき、僕はなぜか彼に話しかけていた。
「なかなか動きませんね」
「ここの空港はこの手のトラブルは少ないと思うのだけど、今日はダメみたいだね」
いきなり話しかけたにも関わらず、厳しい風貌に似合わない柔らかな返答が返ってくる。僕はそれに釣られて調子に乗ってしまったようだ。会話を続けた。
「そのキャリーオン、良いですね」
これかい?と男はニッコリする。
「もう四十年も使っている。若い頃に無理して買ったんだが、これであちこち飛び回ってね、相棒ってやつさ。見ての通り傷だらけだけどね」
「風格を感じますね。金属だから凹んでも裏から打ち直せますしね」
「そうそう、打たれても打ち返せる強さ、とでもいうのかな。しかし、風格か。いい言葉だな。ボロボロだから新しいのを買えという人もいるのだけどね」
そう言って男はわざとらしく秘書の方をチラリと見る。秘書はゆっくりと顔をあっちの方に向けた。
「アレマン語が話せるんだね」
「ええ、若い頃、もう三十年ほど前の話ですが、アレマンで仕事をしていました。その後使う機会がなかったのですっかり単語も文法も忘れてしまっていて、もう野蛮人レベルですが」
いやいや、そんなことはないよ、と男が気を遣ってくれる。大きなベルが鳴り響き、カルーセルが回転を始めようやく荷物が出始めた。皆の注目の中、最初に出てきたのは男の荷物のようだ。秘書にカートを見ているように言い、男がカルーセルに近づくと航空会社の職員が慌ててやってきて白い大きなスーツケースをカルーセルから降ろす。次に流れてきたワインレッドのスーツケースも、秘書のものなのだろう、彼が指示をするとカルーセルから下ろされた。男が白いスーツケースを引っ張り、航空会社の職員が赤いのを引いてカートまで戻ってきた。職員はカートに乗っていたキャリーオンを降ろして秘書に渡し、二つのスーツケースをカートに積んで税関検査に向けて移動を始めた。秘書が目だけで「それでは」と言っている。四十年物の相棒は秘書が転がしていくようだ。流石の秘書の技なのだろう、二輪でもだらしなく斜めに引っ張るのではなく、急角度を維持しながら投影面積が最小限になるよう引っ張っていく。プロの技だ。彼が僕に向けて右手を上げた。
「じゃあまたね」
荷物が最初に出てくるというのは相当なVIPだ。この路線には設定がないのでCに乗ってたんだろうけど、本来はFに乗る人なんだろうな、また会うチャンスなんてないよねと一瞬思ったが、ここは失礼にならないよう、型通りの返事を返した。
「ご自宅に着くまでがご出張です。どうぞお気をつけて」
彼はニカっと笑ってこう言った。
「確かに君のいうとおりだ。お互い気をつけよう」