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聖女様の身の上話 ~暗転、そして~

 帰宅して、食事や入浴、翌日の準備等、日常のこまごまとしたことを片づけて、今後のことを考えました。日記代わりにしたためるノートは思考を整理する助けになります。

 精神統一を狙って就寝前だというのにコーヒーなぞ淹れて――ケイ先生に叱られそうですね。せめてデカフェにしなさい、と。コーヒーをドリップしてると、無になる感じでいいですよね。カフェインが少しは私の働かない頭の回転数を上げてくれることも期待してもいます。


 結局、思考は堂々巡りです。考えても考えても結論は出ません。

 不正の告発は退職覚悟。とは言え今の私はブラック会社の時のように職を失ってすぐさま困るということはありません。例の解決金とやらはほぼほぼ手つかずで残してありますし、当座はどうにかしのげます。何なら学校のピアスじゃらじゃら金髪チャラ男(ブラインドでトップになった人です、コンビニでバイトしてるそうです)や、職人気質のメガネ君(ブラインドで視覚障碍者のちょいポチャおばちゃんと同率3位だった人です。この人は某激安チェーン店の施術スタッフです、道理で上手いはずです)みたいに余所で働いたっていい。


 でも、ケイ先生はどうなるの?


 心身共にどん底だった私に職と生き甲斐をくれた人。何も持たない私にとてもよくしてくれて、鍼灸学校の学費まで出してくれた人。

 無人の状況が至極レアだった頃の院で面接した時、ケイ先生は私に言いました、「ミオちゃん、私の目になって頂戴ね」――あの時から私は、彼女の目であり、手足であろうと決めました。自分で思っている程に役に立てていたどうかはわかりませんが、そうありたいと思っていました。


 ――そんな大恩ある人を、危険と判っているこの場所・この状況に置き去りにして逃げ出せる?


 仮に私が辞めると申し出ても、ケイ先生はすんなり赦すでしょう。多分、すんません学費はローンで返しますんで許してちょ、からの、じゃあトイチでええよー、で終了です。……いえ、トイチは冗談ですが、おそらくそんなノリでカタが付きそうかな、って予想です。

 ケイ先生は来る者拒まず去る者追わずのさばさばした人ですから……そんな人柄の女が何故そこまでされて亭主と別れようとしない? ってランス隊長、実は私もそう思ってました。

 なもんで、ある往診の帰り道、車内で私、訊いてみたんですよ。流石にあんな下品な脳筋クソ小猿と離婚した方がよくないですか、とは言えませんから遠回しに、ケイ先生と院長のなれそめってどんなんだったんですか、って。ケイ先生、はにかみ屋の少女みたいな雰囲気醸し出して話してくれましたよ。



 マダムカヨコが経営者兼鍼灸師で手広くやってた頃、院長とケイ先生はマダムカヨコの元、同じ店舗で働いてたんですって。

 ケイ先生は駆け出しとは言え鍼灸師の有資格者で、マダムカヨコが選んだお弟子さん。私が想像するに、高嶺の花ってヤツだったんじゃないかなーと。ケイ先生、綺麗ですし。

 対する院長は、当時は無資格のアシスタントスタッフで小猿。しかも脳筋。さらに言えば若気の至りでイキってた。実妹のヨシエさんがよくこの頃の院長の黒歴史を私にこっそり話してくれたものです。ヨシエさん曰く、もしおケイちゃんの目が不自由じゃなかったら果たして彼女は小猿を選んだかどうか……って顔で判断するなって? いやあのランス隊長、そういう意味ではなくてですね……つか私の意見じゃなくてヨシエさんの原文ママっていうか。カノン様、そこでそういうフォロー入れられたらかえってイヤミっていうか……超絶美形の持ち主に私は貴方のお顔は好きですよって言われるランス隊長のお心うちをですね、少しは考慮していただけましたらね、幸いと言いますか何と言いますかね。

 ホラよくいるじゃないですか、内面の卑しさが外まで滲み出してる人。院長ってそんな感じなんですよ。ヨシエさんは頭良くて上品で小猿じゃないのに、何で実の兄が馬鹿で下品で小猿なんでしょうね。ってやだわーまた話が逸れました、時を戻そう。


 当時の院長はケイ先生に猛アピールしてきてて、でもケイ先生は相手にしてなかったんだそうです、最初はね。「無資格者とか無理!」撃退はその一言でOK牧場です。

 それで院長、資格を取ろうとしたらしいんですが、勉強する習慣のなかった人であり、また絶望的に頭も悪かった。結局、鍼灸は取れなくてかろうじて柔道整復師に引っかかった、みたいな感じで。こう言っちゃ何ですが柔整師って、その当時はお金を用意できて真面目に学校に通えば八割方は取れる資格とされていたそうです(多分院長、今の基準で国家試験受けたら受からないんじゃないかと思います)。その学費さえ院長はご両親に用立ててもらったそうです。実妹のヨシエさんが言ってたんだからガセじゃないです。

 スポーツ選手が引退して柔整師に転身するパターンもありますが、院長はそのタイプでもありません。引退するまでスポーツ一筋で頑張ってた人達は、努力し続けられる才能を持つ人達ということです。今時、スポーツ選手もおつむが悪くちゃ大成しないんですよ。でもまぁ当時は今よりもっと体育会系のノリが激しい職種でもあったようですし、脳筋小猿の院長でもどうにかやっていけたんでしょうね。いい時代に生まれたものですね院長、羨ましいですわ。何度も言いますがあの小猿は今の基準だと試験に受からないえ何でもありません。

 ちゃらんぽらんで勉強する習慣がなく努力できる根気も才能もない院長がまがりなりにも国家資格を取得したって奇跡に近いですよ……コレはヨシエさんのお言葉です。実の妹が言うんだから確かです。

 院長が長々と資格取得を引き延ばしてるうちに――院長、最短の3年で取れなかったんですって――ケイ先生が四国某所に転勤になりました。マダムカヨコの他のお弟子さん(ケイ先生にとっては姉弟子ってことになりますね)が実家のあるK県で開業することになり、ケイ先生が修業兼お手伝いで派遣されたというわけです。姉弟子の院が軌道に乗るまでの1年程をケイ先生は四国で過ごし――カツオのたたきは美味しいし、周囲の人も皆気風の良い人達でよくしてくれて、いい1年だったとケイ先生は言ってましたっけ。


 その離れてる1年の間、院長はケイ先生に毎日電話してきたんですって。私だったら別に付き合ってるわけでもないのに毎日電話とかストーカーかよコワイってなりますけど、ケイ先生はすっごく感激したんだそうで。まぁ人それぞれですよね。院長そんなコトしてっから試験落ちるんだよとか言っちゃいけませんね。つかケイ先生の姉弟子さんも、地元とは言え1年で自分の鍼灸院をきっちり軌道に乗せちゃうんだから凄いです。流石マダムカヨコのお弟子さんです。

 で、ケイ先生が東京に帰って来て、院長とお付き合いすることになって、ミコトくんが出来て、結婚した、と。……カノン様、そんな驚かないで下さいません? 確かに順番逆ですけども、こういうのもなくはないんですよ日本では。……破廉恥な! って……うぷぷ……ハレンチとはまた強烈な……つかカノン様の反応、今時思春期少女でもありえないえ何でもありません。


 

 そういう話をね、頬を染めて少女のように語るケイ先生に、私は何も言えなくなりました。

 院長がちゃらんぽらんでロクでもない男でもケイ先生は心底惚れてんだなぁって思ったら、慰謝料もらって別れてせいせいしなよ、なんて、とてもじゃないけど言えないです。

 一番いいのは、院長が改心し自分を金蔓としか扱ってない愛人をすっぱり切ることですが、現時点ではまず無理でしょう。院長、愛人の言うなりですもん。いっそ弱みでも握られてんのかってぐらいに。愛人も最近では自分こそ院長夫人だぜみたいなふるまいしてますし。

 次善の策として、ケイ先生が寄生虫の院長を排除するのもアリかなと私は思いますが――ケイ先生はピンでも充分やってけます。ケイ先生あってのフクムラ鍼灸整骨院ですよ。もし仮に、ケイ先生と院長が別れて共同経営を解消するとして、困るのは院長の方ですよ。レセプト不正なんかするぐらいですもの、院長ひとりでやってけるもんですか。

 ケイ先生は今のテナント出たって大丈夫、何なら移動診療をメインにしたっていい。鍼灸師、鍼と灸だけあればいい(五七五調)……なんてな。干渉波やハイボルテージ、その他こまごました機材――場所ときかい(機会でもあり、機械でもあります)を選ぶのはむしろ柔道整復師の院長の方です。多分今の院長では、独力であのテナントの家賃すら払い切れないんじゃないかと思います。だから院長は共同経営者としてのケイ先生にしがみついてるんでしょう。……ホントにね、オイシイとこだけ持ってこうってクズですよあの院長は。いつか罰が当たると思います、えぇ、きっとね。



 結局私には、不倫カップルがケイ先生に何かしないよう見張ることしかできないな、という結論にもならない結論を出しました。

 その夜私は、退職届を書きました。日付は入れませんでした。

 時間をかけて書き終えて、日記代わりのノートに挟んで、冷めたコーヒーを飲み干し、ベッドに入りました。




 就寝前のカフェインが効いたのか、快適な眠りは得られず、バタバタと慌ただしく仕度をし、自宅アパートを飛び出しました。

 私はjazzたんの不在を心から嘆きました。こんな朝にこそバイクの助けが必要です。

 Jazzたんの『治療』にはしばらく時間がかかるそうです。被害届を出したので、警察が色々調べてそれから修理ってことになるそうです。日本の警察は優秀です、でも諸々の処理にとても時間がかかります。それは前職ブラック会社のセクハラストーカー専務の件で充分身に染みています。


 駅まで半ばランニングで電車に乗り込みます。駆け込み乗車はいけません。時間に余裕を持って乗りましょう。Jazzたんで行けない時は、自宅アパートから駅まで徒歩(オオヤさんの自転車は隣室の大学生にあげてしまったので) → 自宅最寄駅 → 乗り継ぎ駅 → 院の最寄駅 → バス → 徒歩で院という七面倒臭いルートを辿らなくてはなりません。

 戦前の路線をそのまま転用したとかいう都市レジェンドのある電車の中で息を整え、乗り継ぎ駅へ。

 前の電車は既にホームを出た後でした。私は最前列で次の電車を待ちました。次の電車を逃すとバスの時間にギリギリです。どうにか間に合った、と安堵で息をついた時、スラックスのポケットの中でスマホが震えました。ケイ先生からかと思いました。咄嗟に、ケイ先生に何事かが起こったのか、と。

 私は震え続けるスマホを見ました。着信は、非通知。ケイ先生じゃない? じゃあ誰? ――気を取られたその一瞬、誰かが私の背中を押しました。


 私はその『誰か』を見ました。

「今年はボーイッシュにキメる♪」とインス夕に上げてた大きな男物のニット帽は彼女にはジャストサイズでした。顔の面積が広いので季節外れのマスクが妙に小さく見えます。鼻出しマスクはマスクの意味がありません。いずれも変装のつもりなんでしょうが、口の悪い患者さんに関取と呼ばれる体型は隠しようがありません。コナソ君のネタで細身の人がアリバイ作りにお腹に詰め物なぞして太った人のフリをして――みたいなトリックがありましたが、逆バージョンは無理です。肉は削れません。つけまならつけま、マスカラならマスカラでどっちかにしとき、とツッコミ不可避なハエトリソウめいたまつげに、ただでさえお直し痕が目立つんだからそれ以上デカ目を強調すんなし、とたしなめたくなる茶色いカラコン、今時それはないやろ、とげんなりしてしまうパッサパサの茶色い巻き髪。


 その時は、何で愛人が最寄でもないこの駅にいるんだろうという疑問さえ湧きませんでした。今思いつきました。何でも何もありませんけど。

 愛人のどんぐりまなこが蛇みたいにニィィっと細められたのを、私は確かに見ました。ホームから突き落とされたほんの数瞬、まるでスローモーションのように――建設会社でドサ回りしてた時に高所から転落した人の話を聞く機会がありましたが、アレ不思議なことに足場から地上に落下するまでのごくごく短い間に、足場上で驚く同僚の顔とか、向かいのビルの窓から自販機で缶コーヒー買ってる人がいたのが見えたな、とか、色んなコトを、細かく細かく分析してるんだそうです。何ならその缶コーヒーの自販機がBossだったとかそんなことまで覚えてる、ってそのおっちゃんは言ってました。私の場合もそんな感じだったのかも知れませんね。


 落ちながら、快速電車が突っ込んでくるのも見えました。

 私が乗る予定の電車ではありません、それはこの快速の次の電車です。この駅は快速は止まらないのです。当然、電車はスピードを落とさず走ってきます。イヤ……死ぬのはイヤ……死ぬのはイヤァァァアァアッァァ! と、ひとり工ヴァごっこなどしてみましたが実際声に出ていたかどうかは不明です。

 ホーム上での怒号や悲鳴も聴こえます。女の子が落ちたぞ! 非常ボタン! 駅員呼べ! 等々。ちゃうねん落ちたんやないねん落とされたんや! と、叫んだつもりですが果たしてそれも声になっていたかどうか。凄まじいブレーキ音にかぶって誰かの、駄目だ間に合わない! 救急車! という悲痛な叫びも――私はこの瞬間、早々に人生を諦めました。ただ、コッチはいいからとにかくその0.1t女を捕まえて! あの女野放しにしといたらアカン! 奴ら私の次にはケイ先生を――! 






記憶は、そこまででした。

気づくと私は寒くて薄暗い山頂の遺跡前にいて……あとは、カノン様もご存知の通りです。

ブクマ評価等ありがとうございます。とても嬉しく励みになっております。


※このお話はフィクションです。実在する人物や団体等とは関係ありませんでござるの巻。

別名:転移前・現代日本での記録はひとまず終了です、という話。


いやいやいや柔整師も国家資格だからね? 

柔整師が脳筋小猿なんじゃなくて院長が脳筋小猿なだけでむしろ柔整師風評被害だからね?

というお話でもあります。

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