聖女様の身の上話 ~jazzたんとの出逢い~
フクムラ鍼灸整骨院は朝9時に開院します。私は8時半までに出勤し、院長と一緒に開院の準備をします。具体的には院内清掃、トイレ掃除、ベッドや器具の準備などです。そして、院から徒歩5分程の場所にあるフクムラ家の自宅のあるマンションにケイ先生とまーくんを迎えに行きます。
ケイ先生は自宅から院までの道のりでは白杖は使いません。私が腕を組んでケイ先生をナビします。右手にまーくんのケイジ、左手にケイ先生。責任の重さをひしひしと感じる5分間です。
ちなみに、開院前の30分もちゃんと時給が発生します。時給は市の最低賃金より少しばかりいいかなって感じです。何というホワイト! と、ブラック会社に染められまくりの思考でおったまげたのですが、冷静になってみるとそれが普通なんですよね。
失業手当をもらいつつ――もちろん、アルバイトの収入分はちゃんと申告したからその分減額されましたけど、3ヶ月が経ち、ケイ先生からフルタイムでやってみない? とのお言葉をいただきました。願ってもない申し出です。
その頃にはもう体調もすっかり回復し、知的なアルパカDr.タカノにも、もう来なくていいよとお墨付きをいただきましたから、後顧の憂いはありません。
失業保険が切れると同時に私はフリーターからフクムラ鍼灸整骨院の社員として勤務することになりました。
フクムラ鍼灸整骨院で社員として働くことになり、色んな事が一気に変わりました。
一番大きく変わったのは、やはり勤務時間です。午前中は8時半から12時半、午後は15時から20時。時間ギリギリまで受付OKなので就業時間は日によってまちまちですが、どんなに伸びても1時間といったところでしょうか。どこぞのブラック会社のように昼食を食べ損ねるとか夜中まで拘束されるとかはありません。何しろ院には閉院ってモノがありますからね! 業界あるあるなんでしょうが、長い昼休みが嬉しいです。
仕事内容も変わりました。アルバイトの頃のケイ先生のアシスタントに加えて受付業務――というかむしろ受付メインです。受付は院の顔です。笑顔で気持ちよく患者さんをお出迎えお見送りするのはもちろんのこと、保険証の確認とか患者さんの案内とか、場合によっては鍼灸の患者さんのお着替えを手伝ったりとか。
鍼灸の患者さんは特にそうなのですが、服のボタンを外すのにも一苦労って方もいらっしゃいます。そうでもなけりゃ院に来ないよっていうか。お年寄りも多いですしね。タオルや施術着を洗濯したりたたんだりとか、細かく挙げればキリがありません。
あと、他の院にはないであろうフクムラ鍼灸整骨院独自の任務として、マスコットキャットまーくんのお世話があります。何せ院の経営を左右する独眼竜まさむねこ(う)にお仕えするのですからね! 誠心誠意心を込めてお仕えさせていただきます。
これはある意味最重要任務かも知れません。私のように、まーくんにつられてやって来る患者さんは多いんですよ。
そして、もうひとつ。
フクムラ鍼灸整骨院はバックヤードがこぢんまりとした休憩室のようになっていて、そこを時間貸ししています。1時間500円という破格のお値段です。大々的に貸しますよって宣伝はしていませんが、口コミで色んな人がやってきます。ネイルをやる人もいるし、占いをする人もいるし、カラーセラピーや耳つぼをやる人もいます。
必要なら4つある鍼灸ベッドのうちのひとつをやはり1時間500円で貸し出してくれます。前出の散々お世話になってるレイキティーチャーのチナツさんも週2回ほど来てヒーリングをしています。チナツさんは元々エステティシャンでキヨノ会計士と結婚するまではそちらの道でバリバリやってた有資格者です。ちなみに彼女、ケイ先生といくらもお年は変わらないのだそうです。初対面で20代後半と目していたのですが――びっくらこきました。
ケイ先生だって40代半ばのはずなのにピンで電車に乗る時「乗車案内、30代女性」と駅員さんにアナウンスされる程の超若見えなんですけどね。ホラえっと、体の不自由な方が電車に乗る時って駅員さんが伝達するんですよ、この方はどこそこの駅で降りますから介助ヨロ! みたいな。
鍼灸って若返りの効果もあるんでしょうか。そう言えば鍼灸の患者さんってお年の割に若々しい方が多い気がします。
ベッドの方もやはり色んな人が来ます。足裏マッサージをする人、内臓整体をする人、気功の先生、フェイシャルピーリングをする人、オイルマッサージをする人、美容鍼をする人……etc.etc.
気まぐれにケイ先生のお師匠さんが飛び入り参加することもあります。ケイ先生のお師匠さんもやはり鍼灸師で高齢の為数年前に自分の店をたたんだのですが、友人や昔からの馴染みの患者さんに請われれば時々自宅で気まぐれに施術しているとのことで、その一環として弟子のケイ先生の所にも時折フラッとやって来てはサクッと施術していきます。
不思議なことにマダムカヨコ――ケイ先生のお師様です――カヨコ先生がフラリと現れる時は鍼灸予約ががっつり入ったてんやわんやの時が多くて、さながら主人公のピンチに颯爽と現れバッサバッサと敵をなぎ倒してくNPCのお助けレアキャラみたいです。
ケイ先生が特に何かアクション起こしてるわけでもないのに見計らったかのように現れサクサク助けてくれるマダムカヨコはテレパスか何かなんでしょうか。フクムラ鍼灸整骨院の七不思議のひとつです。
私が患者として通ってた時も思ったのですが、この院に来れば誰かしら気の合う人がいて、気がまぎれる。バックヤードはちょっとしたサロンのようです。午前中から夕方までの患者さんはそれを狙ってくる方も多いです。夜からはちょっと毛色が変わってお仕事帰りのサラリーマンや部活帰りのスポーツマンの比率が高くなるのですが。
どちらにしても不思議と人が集まる場所、人を呼ぶ場所、居心地のいい空間。フクムラ鍼灸整骨院はそんな所でした。鍼灸整骨の患者さんに加えて、流しの施術者(?)のそれぞれのお客様もお見えになるので、フクムラ鍼灸整骨院はいつだって盛況です。
基本は地域密着・家族経営の院です。スタッフは柔道整復師の院長と、その妻で鍼灸師のケイ先生、常駐スタッフは私のみというこぢんまりとした院です。患者さんが家庭菜園で採れたお野菜を持ってきてくれたり、お団子とかお菓子とか差し入れてくれたり。
まーくんにお手製の眼帯を下さる患者さんもいます。まーくんはお洋服は嫌いで着てくれないそうなのですが、そのおばあちゃんの手縫いの眼帯だけは着用してくれます。
ペットショップ勤務の患者さんはキャットフードの試供品をくれたりもします。まーくんは何でもウマイウマイと食べてくれる大らかなねこさんなのでモニターとしてはイマイチなのかも知れませんが、ワダさんは別にまーくんにジャッジの役割は期待していないようなのでそれはそれでいいのでしょう。まーくんが喜んでくれるとワタシも嬉しい、それがワダさん他我々下僕一同の一致した意見です。
まーくんはワダさんの他にも熱烈な信者を抱えていて、ネズミのおもちゃとかねこ用おやつとか似顔絵付きファンレターとか色々もらっています。何気にまーくん貢がれ大王です。
こうしてご近所の方々に愛され根付いた小さな院なのですが、評判を聞きつけて遠方から――かつての私のように都内からとか、別の市からとかも来る人もいて、やっぱりフクムラ鍼灸整骨院はいつだって盛況なのでした。
1ヶ月程して院長から打診がありました。バイク通勤にしたらどうか、と。
院長曰く、バイクにすれば通勤時間が今の3分の1に短縮できるとのことなのです。確かに、私が住んでいるアパートから院までは同じ市内ではあるものの公共交通機関を使用するなら1時間弱は見ておく必要があります。
大家のオオヤさんが厚意で譲ってくれた自転車のおかげでアパートから自宅最寄駅までは大分楽になりましたが、その後は電車→乗り継ぎ駅→院の最寄駅→バス→徒歩で院という七面倒臭いルートを辿らなくてはなりません。直線距離なら大したことはないのですが。
自宅最寄駅の鉄道は、何でも大昔の戦争で補給路として使用していたのをそのまま転用したとかいう都市レジェンドのある路線なので、何でこんなトコ走るの? つかこの急カーブ何? って感じに戦時の造り易さに特化したわやくちゃなルートです。まったく利用者ファーストじゃありません。市民は文句のひとつも言っていいと思います。
と、それはさておき。
院長が言うには、知り合いのバイク屋で中古だけどいいブツが入ったからそれを院の公用車として押さえたとのこと。それを私に貸与する、と――要は交通費の現物支給ってことですね。結局、院長は私に交通費を払うのが馬鹿らしくなったのでしょうね。電車はともかくバス代は高いですし。
とにかく現物を見て来てくれと院長が言うので、昼休みに院と同じ商店街の中にあるバイク屋さんに行ってみました。
オートサイクルヤマサンはバイク屋というより自転車屋という趣のある店で、ちょっとした整備工場風のガレージにバイクや自転車が所狭しと並べられています。比率としてはバイク4:自転車6ってトコでしょうか。
気をつけて歩かないと自転車バイクのドミノ倒しが勃発しかねないような店ですが、奥に入るとそれなりに広々とした作業スペースがあって、手前で青いつなぎを着た小太りの若い男性が自転車のタイヤを換えています。パンクでしょうか。そしてそのさらに奥ではもうひとり、赤のつなぎの天然パーマのひょろっとのっぽの男性が作業をしています。原付スクーターのエンジントラブルっぽいです。
私は見当をつけてスクーターのエンジンを分解しているエンジニア風ののっぽさんの方に声をかけました。私の勘は当たっていました。ヤマサンのオーナーことヤマグチさんには院長が話を通していたらしく、彼は作業を中断して裏から1台のバイクを押してきました。
ちなみにこのオートサイクルヤマサンのオーナーことヤマグチ氏が、お下がりのライダースジャケットくれた人です。そう、今着てるコレがそうです。若い頃に着てたヤツなんだけど体型変わって着れなくなっちゃったってことで――今でもひょろっとして見えるけど、ヤマグチ氏ってば若い頃はどんだけ痩せてたんでしょうかね。
私は一目でそのバイクが気に入りました。
アメリカンタイプの小粋な型で、色はペパーミントグリーン。オリジナルの色ではないから塗装し直したのでしょう。中古と聞いていましたが、前のオーナーさんは余程大事に乗っていたのか状態もよさそうです。
天然パーマでひょろっとのっぽのヤマグチ氏が熱く語るによると、このシリーズはカブと同じエンジンを搭載してるからタフだしホnダ車だから故障も少ないし30年前の機体にしてはすこぶる良好な状態だ、とのことです。30年前って――このバイク私より年上か、と少しばかり遠い目になってしまいました。1980年代から90年代半ばくらいまでしか製造してなかったとかいう機体でもう新車では手に入らないだろう、新品同様で流れてきたのは運がよかったよ、とヤマグチ氏は得々と語ります。
ただひとつ懸念があるとすればそれは、私は普通自動車免許しか持っていないのです。バイクだったら50ccまでしか乗れません。そのことを申告するとヤマグチ氏はあっさりと言いました。
「ああ、ジャズは50ccだから普免でOKだよ」
ちょっと驚きました。ペパーミントグリーンのこのアメリカンバイクは車体は低いけどどっしりとした存在感があって、原付スクーターのお仲間には見えなかったので。現に操作はキックスタートに始まり細かなギアチェンジが必要でクラッチ切ったり何だりと――いわゆるマニュアル車というものです。大きいバイクと変わりません。キーを回せばエンジンかかるスクーターとは違うのだよスクーターとは! って感じです。
でも、それを聞いて安心しました。車だったらブラック会社のドサ回りで散々乗り回してきたし、交通ルールはバイクもあまり変わらない。面倒なマニュアル操作は慣れが何とかしてくれるでしょう。
お値段は破格の15万円。後で知ったところによると、jazzの中古は20万を下らないそうなので、ヤマサンのオーナーは大分お勉強してくれたようです。
が。
「院長、また買うんだねえ」
と、ヤマグチさんは呆れたように言います。
私が頭上にハテナマークを大量発生させていると、彼は煙草に火を点けて美味そうにふかしつつ、
「いや、院長がね。前にもウチでゴリラとか電動スクーターとか買ってくれたんだけど。でも通勤はフェアレディZだっていうじゃん。ウチは売るのが商売だし、お客さんに文句言うのもアレなんだけどさ。でも乗ってもらいたいと思っちゃうわけよ、バイク乗りからすると」
と、しみじみとした調子で言いました。
そう言えば小猿じゃねぇや院長は自宅マンションから徒歩5分の距離を派手な真っ赤なスポーツカーで来ることが多いです。視覚障碍者のケイ先生でも歩く距離をフェアレディZ――歩けよ、と心から思います。駐車場に寄って、エンジンかけて、それだけでもう5分以上かかるんじゃないの? とすら思います。
ゴリラとかいうちっちゃいけれどゴツめのバイクはほぼほぼ院のディスプレイみたいになってます。昼休みにコンビニに行く時に乗ってるかな? 乗ってないかな? みたいな。
電動スクーターとやらに至っては、私は見たことありません。存在自体初めて知りました。
と、私が正直に言うヤマさんはふーっとため息のように煙を吐いて、
「だよねえー。レアな置物じゃないんだからさ。コイツも鍼灸院の豪華なディスプレイになっちゃうのかなーって思ったら、何かね。いやコッチも商売なんだしこーゆーのアレかなーとは思うんだけどさ。でも乗ってやってナンボでしょー」
ですよねー、と、私は全力で同意しました。
jazzたんは私が通勤で乗ります、と言うとヤマさんは嬉しそうに笑って、是非そうしてクレメンス、と言いました。
そして私は、バイクとスクーターと車に対する院長の扱いを知って、何となく院長の人となりがわかったような気になりました。
ブクマ評価等ありがとうございます。とても嬉しく励みになっております。
バイクもハマれば楽しい沼でござるの巻。
またの名を、ニートから脱したヒロインの世界が広がった話。
あるいは、車の扱いを見ればその男の女性に対するスタンスがわかるよ的な伏線とも言います。
そしてやはり、文章の3分の1くらいがねこねこしてます。猫々しいのが最早デフォ。