残された人々 ~譜久村慶子の場合・3~
棺の方向が騒がしい。
わたしは善恵ちゃんに御焼香をお願いし、そちらへ向かった。
「ごめんねぇぇ……澪ちゃん、ごめんねぇぇぇ……!」
わたしは、空っぽの棺に取り縋って号泣するご婦人に触れた。
澪ちゃんのアパートの大家の大谷さんだ。譜久村鍼灸整骨院のテナントの大家さんでもある。
「お部屋が荒らされた時、ワタシがもっとしっかりしとけばこんなことには……ごめんね澪ちゃん、ごめんねええぇぇぇ……!」
「お義母さん、ホラ、ケイ先生来たから」
大谷さんの義理の娘の冬美さんが、わたしの反対側から大谷さんをささえ起こした。
冬美さんと、手が触れる。
「ケイ先生、このたびは……」
冬美さんはお悔やみを言おうとして、失敗した。わたしの手を雫が濡らす。冬美さんも、泣いていた。
「まーま、ばぁば、みおてんてーは? みおてんてー、ねんね?」
子ども特有の舌足らずな声が響いた。大谷さんのお孫さんの夏樹くんだ。
転んで腕を脱臼した夏樹くんを抱えて冬美さんが院に駆け込んできたとき、夫は真波と出かけてて留守だった。澪ちゃんはわたしに処置をしていいか尋ね、わたしは許可した。澪ちゃんは見事やり遂げた。痛みでわんわん泣いてた夏樹くんがぴたりと泣き止み、大谷さん一家は「澪先生」を聖女か女神みたいに崇めるようになった。
あとでそれを知った夫は、勝手なことをするなと怒った。素人が適当なことやって悪化させたら責任とれるのか、が『院長』の言い分だった。わたしは、わたしが許可したのよと弁明したが『院長』は、随分エラくなったなぁ「ケイ先生」? と、鼻で笑った。わかってるとは思うが院長は俺だぜ、と。
澪ちゃんは夫の言い分を容れ、素直に謝罪した。彼女はこのことに関して、言い訳ひとつ、愚痴ひとつ言わなかった。彼女はただ、大谷さんのお孫ちゃん大したコトなくてよかったですよ、心配なら整形(外科)行ってねとは言っときましたけど、と、言っただけだった。
「そうだね、澪先生もおねむなのかな」
夏樹くんのお父さんが言った。でもその棺に澪ちゃんはいない。澪ちゃんは、眠ってなんかいないのよ。
「夏樹くん」
わたしは、いとけない声の方を向いて、言った。
「澪先生はね、遠くに行っちゃったの」
「とおく? りょこう??」
「そうね……」
「りょこう? いつかえってくるの? みおてんてー、こんど、べるたーすおりじ…? ……くれるって、ゆった。とくべつなきゃんでぃー、なっくんとくべつだから、くれるって、ゆった! みおてんてー、どこ? みおてんてー、みおてんてー!」
大谷さんはさらに号泣した。
冬美さんが誰にともなく、すみません、すみません、と、涙声で口走っている。
「なっくん、澪先生の『飴ちゃん』、おばちゃん預かってきたんだよ。一平が持ってるから、一緒に食べよ?」
明るくつくった女性の声が、背後から。星さんの奥さん明子さんだ。
「いっくん、いるの?」
夏樹くんと、星夫妻の息子一平くんは、院の患者さん同士で仲良しだ。
「べるたーす、あるの?」
「あるよ。早くしないと一平がぜーんぶ食べちゃうぞ~ぉ!?」
「はやくする!」
「よし、じゃあ行こ!」
コツコツというヒールの音と、とてとてと危なっかしい足音とが遠ざかる。わたしは明子さんに感謝の一礼をした。
「大谷さん、そんなに自分を責めないで。そんなことをしても澪ちゃんは喜ばない。大谷さんのせいじゃないわ」
「だけど! だけどねえ千夏先生……! ワタシが、ワタシがもっとしっかり見とけば澪ちゃんは……! 澪ちゃん、澪ちゃぁぁぁん……!」
大谷さんは、清野会計士の奥さんに取り縋り、泣き崩れた。
レイキヒーラーでもある千夏さんの気配は独特だ。彼女の気配はすぐにわかる。セラピスト特有の気配が号泣する大谷さんを支えた。千夏さんの落ち着いた声が、静かに響いた。
「わたしも、あの時こうしてれば、もしかしてあの時、って、思うことばかり。でもね、大谷さん。澪ちゃんのことは、誰のせいでもない、誰も悪くない――」
「いいえ違うわ、千夏さん」
私は彼女を遮った。
「誰も悪くない、誰のせいでもないっていうのは違う。大谷さん、あなたは悪くない。大谷さんのせいだなんて言ったら、それを言ったのがあなた自身でも澪ちゃん、化けて出るわよ。
あの子はあなたに感謝以外の感情を持たないと思うわ。悪いのは、わたし。しっかりしてなかったのも、遅すぎたのも、わたし。あの子を独りで闘わせてしまった。わたしがすべての元凶よ」
澪ちゃんが死んだと聞いてから、何回も、何百回も、それこそ何千回も、思ってきたこと。
澪ちゃんはわたしを責めないだろう。そういう気質の子じゃない。でも、それでも、謝罪と共に、何度も何度も繰り返し、浮かぶこと。
――わたしがもっと、動いていたら。
万全を期すなんて言い訳で手をこまねいていなければ。「しかるべき処置」をもっと早くに取っていれば。
――こんなことには、ならなかったんじゃないか。
「それは違うぜ、ケイ先生」
いかにも切れ者の男性の声がさっくり響いた。
木本真波が牛耳るまでは、月末と年度末、この声と気配の主に恐々としていたものだ。
「清野先生……」
「誰のせいでもない、ってのは嘘だ。誰も悪くないなんざ大嘘だ。
大谷さんも千夏もケイ先生も、この会場にいる奴は誰も悪くない。悪いのは、木本真波と、院長だ」
清野さんは言い切った。
「澪先生は嘘と不正が大嫌いだから、そこら辺はハッキリさせとかなきゃな。
院長と愛人が無罪放免で、ここにいる人達が泣いてんじゃ、澪先生にケツの穴から手ぇ突っ込まれて奥歯ガタガタ言わされるぞ」
澪ちゃんがいたら、いかにも言いそうだと思った。
千夏さんが、
「大谷さん、冬美さんも、御焼香を済ませましょう」
と、促していた。
複数の気配が動き、去った。わたしはその方向に向けて一礼した。
「ケイ先生は、辞めたりしないよな?」
清野さんが念を押すように言った。疑問形だけど、口調は断定。
「長谷川さんにも、同じようなことを言われたわ」
わたしは言った。
こんなことになってもう患者さんも離れてしまう。院はたたむしか、と、思っていたけど、まだわたしが必要と言ってくれるひとがいるのなら。
「そうね、落ち着いたら早々に再開しようと思うわ」
問題は、いつ落ち着くか、だ。
今だって外にはハイエナがうようよしてる。
「そりゃ何よりだ」
清野さんは言った。
「こういう時は、忙しなく仕事してた方がいい。おかしなこと考えずに済むからな。
木本真波と譜久村善治が仕出かしたことの後始末は俺がつけてやる、経理上のことだけならな。善恵さんも戻ってきてくれるだろう。千夏達もサロン再開を待ってる。今日ここに来てくれた人は皆、そうなんじゃないか。何より澪ちゃんが一番、『ケイ先生』の復活を望んでそうだ。
難しいことは光君を頼れ。俺達に出来ることは何でもするから言ってくれ。力になるぞ」
「そう? ありがとう。それなら……」
わたしは早速、力になると言ってくれたひとに、ひとつの頼みごとをした。
わたしの「お願い」を聞いた清野さんから戸惑いの気配がする。珍しいこと。
「光君におうかがいを立てなくていいのか? やっこさん、今日は野暮用とかで後日日を改めてって言ってたが――」
「早いほうがいいと思って」
わたしは、フォーマルバッグを軽く叩いた。この中には記入済みの離婚届が入っている。
背に腹は代えられず、往診を始めたばかりのころだろうか。
往診の帰り道、運転席の澪ちゃんが後部座席のわたしに訊いた。院長とケイ先生のなれそめって、どんなんやったんですか、と。若い女の子にありがちな好奇心。わたしは素直にありのままを答えた。院長からの猛アタックに折れたのよ、と。
当時のわたしは我ながら可愛げがなかった。目が不自由ってハンデもあって、負けるもんか負けるもんかって思ってた。あの火世子先生の弟子なのよというプライドもあった。かけだしながらも鍼灸師、無資格者なんておよびじゃないのよ、とまで思ってた。
譜久村善治はそんなの歯牙にもかけなかった。押して、押して、また押して。引くことはせずに、押しまくり。これ見よがしな、熱烈なアプローチ。姉弟子の手伝いで四国に転勤になったときには、彼は毎日電話をくれた。目の不自由なわたしに配慮して、メールじゃなくて、電話。
無資格者とは付き合えません、と言ったら彼は、柔道整復師の資格を取ってきた。1度落ちたみたいだけど。ついでに、鍼灸師は結局、受からなかったみたいだけど。
そのころは夫は、わたしをお姫さまみたいに扱ってくれた。そんなころもあったわね、と、澪ちゃんに話しながら、なつかしくも哀しかった。どうして今、こんなことになってるのかしら。
澪ちゃんの運転は、散々乗り回してきたひと特有の安定感があった。ブラック会社のドサ周りで鍛えられましたんで、と、言う彼女のドライビングテクニックは、急発進急加速急ブレーキを繰り返す夫のそれより余程安心できた。運転には、人柄が出る。
澪ちゃんは、結婚前の夫の行動について、付き合ってもないのに毎日電話とかストーカーかよ怖ぇ、と、怯えていた。今ならわたしも同意する。恋は盲目って、よく言ったものだわ。わたしは通常状態でも盲目だけど。リアルで盲目なのに、心の目まで曇ってたんだから、どうしようもないわね。
火世子先生に『お餞別』をいただいたのは、このころだった。
譜久村鍼灸整骨院からは手を引いた火世子先生だけど、彼女はわたしを見捨ててはいなかった。手広くやってた自分の院をあらかたたたんだ火世子先生は、ひそやかにしずしずと身辺の整理を始めていた。このころには彼女はもう、いつ召されてもおかしくない状態だった。
これが最期かと往診に向かった火世子先生の自宅。もう先導がなくても歩けるぐらいになじんだそこで、火世子先生はわたしに『それ』を握らせた。
「慶子さんが本院にいた頃の通帳よ」
火世子先生は、通帳と印鑑をわたしの手に触れさせた。
「休眠口座になってなくってよかったわ。他のお弟子さんたちとわけっこしたから、大した額じゃなくって悪いわね。生前贈与? だとか、相続税? だとか、難しいことは光さんに全部おまかせしたから、慶子さんは何も心配しないでただ受け取ればよくってよ。
今後、どうするにしても、お金はあって邪魔にならないわ。命さんの為に使うもよし、生活の為に充てるもよし、パーッと散在するもよし、……その道の専門家にお願いするもよし。あたし? あたしはもういいのよ。お墓まで持ってけないでしょこんなの。
ねぇ、慶子さん。何事も遅すぎるってことはないのよ。やり直しなんてね、生きてさえいれば、いくらだってきいてよ?」
火世子先生は冗談を言う口調でさらに言った。
「あたしに限って言えば、主人と死に別れてからの人生の方が長くって、でも、独り身になってからの方が気楽で、楽しかったわ」
そして彼女は、内緒話のように囁いた。
「いいこと? これを善治さんに嗅ぎつけられては駄目よ。
あたしは、あの小狡い猿男にじゃなくって、愛弟子のあなたに、これを差し上げるのよ、わかって?」
わたしははじめて火世子先生の前で泣いた。
その後、火世子先生は召された。
夫は火世子先生のお葬式にも行かなかった。
わたしは息子に付き添ってもらって出席した。澪ちゃんは、火世子先生にはよくしていただいたしせめてお通夜だけでも、と『院長』に訴えたが、夫は彼女を行かせなかった。
わたしは、夫であるはずのひとがわからなくなった。ここまで恩知らずだっただろうか、わたしが夫と呼ぶひとは。
ブクマ評価等ありがとうございます。とても嬉しく励みになっております。
作中の「澪先生」の行動には賛否両論あるかと思います。
「整体師」の資格オンリーでそこまでやってしまっていいのか、という意味で……そういう点では『院長』の叱責は妥当とも言えます。
生前の(?)ミオちゃんはそれも覚悟で目の前の「患者さん」を放っておけなかったのでしょう。
そもそも論として、「『院長』が不在」ってこういうことよ、とも言います。信用を失う、って、こういうことです。「患者さん」は、ここにくれば何とかしてもらえると思って来院するのですから。
でもこの『院長』だと、素直に整形外科に行って下さいと勧めたとしても、何で何の対処もしないで帰したんだと怒るでしょうね。
インチキフラグの2択です。
奇しくも生前の(!?)ミオちゃんが愛人の娘にしたのと同じようなことを、マダムカヨコこと火世子先生が愛弟子のケイ先生にもしています。
大師匠と孫弟子、似た者同士かも知れません。