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残された人々 ~譜久村慶子の場合・2~

 息子が2ケタの年齢に差しかかるころ、わたしは独立した。

 火世子先生の弟子たちがそうしているように、生活拠点である首都圏某市に分院を開くという形をとる予定だった。

 夫は既に火世子先生の下を離れ、他の整骨院で働いていたが、わたしの独立を知ると当時の勤め先を辞めてきた。わたしの院で、整骨部門も作ればいいというのが夫の主張だった。

 わたしと火世子先生は新規院を譜久村鍼灸院として立ち上げるつもりだったけど、結局は譜久村鍼灸整骨院として、夫を院長に据えてのスタートになった。理不尽だけど、「目の不自由な」「女の」わたしが代表で交渉するよりも、夫が院長として進めた方が万事スムーズだったのだ。

 火世子先生は半ば破門みたいな形で放流した夫を分院の長に据えるのに抵抗があるようだった。腕のいい鍼灸師であると同時にシビアな経営者でもあった火世子先生は、譜久村鍼灸整骨院から手を引いた。

 わたしたちは本当に、何もないところからはじめたのだ。譜久村鍼灸整骨院はわたしたちの2人目の子供のような存在だった。




「このたびは、ご愁傷さまで……」


 やわらかな関西弁のイントネーションに、わたしは顔を上げた。

 澪ちゃんのと似たアクセント。でも澪ちゃんに言わせると、「全然違う」のだそうだ。


『私のしゃべりはけたたましいって院長が言ってたけど確かに否定できませんわ、やかましくてすんませんね。……三田みたさんが私と似てる? いやいやいや何をおっしゃいますの。三田さんはしっとりはんなりな京言葉ですやん、私のがさつな(by.院長)べしゃりと一緒にしたら、あきまへんえ』


 冗談めかして、彼女はそんなことを言っていた。関東生まれ関東育ちのわたしにも、彼女が主張する「違い」はあまりよくわかってはいなかったけど。


「三田さん……」


 見えないわたしは、声と気配で察するしかない。でもたいていは当たる。

 わたしの正面の気配は、お久しぶりがこんな席で、と、声をつまらせた。


「まーくんは達者にしとりますの?」


「ええ……」


「ほなよかったわ。澪先生、まーくんのこと、えらい可愛がっておられましたもんなぁ……」


 手芸が得意な三田さんは、うちの飼い猫のためにお洋服や眼帯を沢山プレゼントしてくれた。片目の無いまさむねのために贈られた眼帯を日替わりでコーディネイトするのが澪ちゃんの楽しみだった。


「ホラまーくん今日は黒地にピンクの肉球スタンプ柄の眼帯やで男前やな、なんて……澪先生が喜んで下さるから、私も張り切ってしもてなぁ……ご迷惑やないやろかなんて思うとりましたけど澪先生、まーくんは三田さんのお手製の眼帯やったら喜んでつけてくれるし迷惑やったらケイ先生かミコトくんがそう言うと思いますって言うてくれはりまして。

 和田さんも今、私の隣におられますけど……澪先生がこないなってしもて、まーくんが寂しがらんとええんやけどなぁって言うてたとこでしてねぇ……」


 和田さんも、まさむねを可愛がってくれていた。ペットショップに勤めてて、まさむねにおやつやおもちゃを差し入れてくれた。彼女は澪ちゃんの足裏と内臓整体の「お得意様」だった。ほとんど信者と言ってもいいくらい。


「和田さんも来て下さったのね、ありがとう。澪先生も喜んでると思うわ」


 わたしは、泣きじゃくる若い女性の気配に言った。和田さんはしゃくり上げながら何とかお悔やみを口にした。

 三田さんに続いて、彼女のご主人と、和田さんが御焼香をする気配を感じながら、わたしは思い出していた。そう言えばミコがまさむねを拾ってきたのは院を開業したころだったわ、と。




 開院当初、譜久村鍼灸整骨院は閑古鳥が鳴いていた。

 地方紙にクーポンをつけたり、web上で宣伝したり、思いつく限りの手を打ったけど、なかなかうまくいかなかった。

 夫は焦っていたが、わたしには根拠のない自信があった。姉弟子たちの院も、最初はこんなものだったから。


 小学生の息子が、やせっぽちの仔猫を拾ったと言って学校帰りに院に来たとき、院には夫とわたしの2人だけだった。

 夫は、なんで猫まで養わなきゃなんないんだ捨てて来い、と、息子を叱った。


「でもコイツ、片目が無いんだよ」


 捨てたら死んじゃうよ、と、息子は言った。

 わたしは息子が抱える毛玉の塊に手探りで触れた。毛はべたついていて、皮の次にすぐ骨、という手触り。仔猫は頼りなく、にゃあ、と、鳴いた。

 わたしはそのとき、息子を産んだときのことを思い出した。出産までの不安。わたしの目が子どもに遺伝したらどうしよう。そんなことばかり考えてたけど、いざ産まれてみると触れる命のかたまりが愛しくて尊くて。

 だからわたしは息子を『命』と名付けた。いのち、と書いて、みこと。

 この仔も一緒。命のかたまり。尊くて、愛しい。


「ミコ、ちゃんと面倒みられる?」


「うん!」


「あと20年、この仔にエサやって、水あげて、ウンコの掃除しての下僕生活が続くんだよ?」


「ちゃんとやる! 全部できるよ! オレ、いいゲボクになるよ! ……よかったな、独眼竜まさむねこ!」




 あれから7年経つけれど、息子はずっとまさむねのいい下僕だ。

 反抗期みたいなときもあったけど、まさむねにとって命はずっといい飼い主だったと思う。

 あのあと、動物病院に連れて行ったら、まさむねは仔猫ではないことが判明した。外での生活はよほど過酷だったのだろう。

 べたついた毛の、骨と皮だけみたいな、仔猫と間違うほど小さかったまさむねは、今では干したてのおふとんみたいないい匂いの、ふわふわな毛並みに肉々しい手触りの大猫だ。

 命がまさむねを保護してから、不思議と院の経営が上向いた。まさむねは譜久村鍼灸整骨院の福の神かもしれない。




「おケイちゃん、少し休んだら?」


 代わるよ、と言ってくれたのは。


「善恵ちゃん……」


 夫の妹、今は嫁ぎ先の家業の裏方を一手に仕切り、木本真波が来るまでは院の経理も引き受けてくれてた善恵よしえちゃんだ。

 このひととは初対面から馬が合った。わたしを障碍者扱いしない。ひとりの人間として尊重してくれる。そう言えば澪ちゃんもそうだった。不自由そうなら手を貸すけど、腫れもの扱いは決してしない。彼女たちの距離感は心地よかった。


「ありがとね。でも大丈夫よ。喪主の務めだし」


「そう? ……命くん、ウチのチビたち来てるんだけど、ちょっと相手してやってよ」


 命を休ませてやろうという心使いか、善恵ちゃんは言った。

 命は、叔父と甥姪のところに行った。命の気配が完全に消えたころに、善恵ちゃんがため息混じりに吐き捨てた。


「あの馬鹿兄、レセプト不正に横領までやらかしてたんだって?」


 なるほど、命には聞かせたくない話ってわけね。わたしは小さく頷くにとどめた。


「殺人の共犯までならまだしも、そんなことまでやってたとはね。我が兄ながらホントしょーもない!」


 殺人の共犯より不正経理の方が重大犯罪みたいな言い方だ。


「善恵ちゃんがいたら、こんなことにはなってなかったでしょうね」


 わたしは心から言った。

 事実、善恵ちゃんが目を光らせてたころは、夫はささいな女遊びはしても犯罪に手を染めるまではなかったのだから。




 譜久村鍼灸整骨院が軌道に乗るのと比例するように、夫は真人間のようになっていった。院長院長と持ち上げられて、気分良く働けるのが大きかったのかも。結局、夫に足りなかったのはリスペクトされることだったのかしらなんて考えたりもした。

 わたしも夫も、経営者として適してるとは言えなかった。わたしはただただ施術が好きで楽しくて、それさえあれば充分満足。夫は、目先の利には聡いけど、物事を俯瞰で見れないタイプ。

 譜久村鍼灸整骨院は、経理の鬼善恵ちゃんと、彼女が紹介してくれた会計士の清野きよのさんの力添えで成り立ってると言っても言い過ぎじゃなかった。

 時々波風は立つものの、譜久村鍼灸整骨院は順調だった。夫は時折、自分の気に入りの女を連れてきては受付スタッフに据えたりしてたけど、それしきのことでわたしも動じなくなっていた。


「別に構わないけど、次やったら離婚よ?」


 夫にはそのひとことで充分だった。

 譜久村鍼灸整骨院から「鍼灸」の文字が消えたら経営が成り立たないのは、いくら小猿でもわかってるだろうし、自宅マンションの名義はわたし。開院して2年ほどしてわたしの母が病に倒れ、その後1年くらいで父が後を追うようにして息を引き取った。実家という後ろ盾を失くしても強く出られるのは、わたしが院の屋台骨をささえてるという自負。両親はわたしにいくらかの遺産を残してくれた。

 この男はいつだって追い出せる。それをしないのは、息子には父親が必要、ただその一念だけだった。

 夫には、ぬくぬくと『院長』でいられる場所から放り出されて雇われ柔整師として裸一貫やり直すなんて根性はない。それに、今時の若い女性はみな賢い。うっかり不倫関係にでもなったら面倒なことになるって、ちゃんとわかってる。善恵ちゃんが目を光らせてるのもあって、彼女たちは面倒なことになる前にとっとと撤収した。

 ひとりだけ深入りしてきた受付の子がいたけど、ご実家に知らせ、しかるべき処置をしっかり取らせてもらった上で、辞めていただいた。善恵ちゃんにも星さんにも、その節はお世話になったわね。


 開院4年目、澪ちゃんを受付兼アシスタントとして迎えた。彼女は歴代受付スタッフの中でも特に優秀で有能だった。わからないことはちゃんとわからないと言う。自分のできることとできないこととがわかってる。同じことを2度言わせない。彼女がメモを取る気配はよく感じていた。

 接客については改めて彼女に教える必要がなかった。学生時代のアルバイト、そして建設会社での社会人生活で彼女は基本的なことはほぼ身につけていた。彼女に指導したのはせいぜい鍼灸整骨院の基本として、「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」は言わない、「おはようございます、こんにちは、こんばんは」「お大事にどうぞ」で統一すること。

 彼女にした注意はそのくらいだった。ここは鍼灸院、普通のお店と違う。具合が悪くて来院してる患者さんに「いらっしゃいませ」「ありがとう」はないでしょう、と、説明したら、彼女は一発で理解し、飲み込んだ。

 鍼灸院には身体の不自由な患者さんもよくお見えになる。彼女のアシストは完璧だった。最初からそうだったわけじゃないけど、彼女は常にブラッシュアップしてた。相手に気を使わせない気使いを、ごく自然にやってのける子だった。

 彼女が施術者に転向するのはすぐだった。スポンジが水を吸うように、教えたことは貪欲に吸収した。何より嬉しかったのが、彼女が「目の前の人を癒す」ことが好きなひとだということ。技術よりも何よりも、いちばん大事なことだ。


 澪ちゃんを迎えて3年目、木本真波が来た。

 あの女が夫とどういう仲なのか、善恵さんに「報告」されなくてもわたしはちゃんとわかってた。

 木本真波にももちろん、しかるべき処置をしっかり取らせていただくつもりだった。

 だった、で、終わってしまった。わたしは遅すぎた。

 

 ――よりによって、澪ちゃんを手にかけるなんて!




「あたし、澪ちゃんのこと縛っちゃったのかな……」


 善恵ちゃんが内緒話のトーンで言った。

 わたしは声の方向に顔を向けた。顔というより、耳を。


「あたしが院を辞める時、あたし澪ちゃんに言ったの。おケイちゃんのこと頼むね、って。だっておケイちゃん、施術のことしか考えてないんだもん!

 澪ちゃん、目端きくし頭いいから、あたしいなくても大丈夫かなーなんて。あたしがあんなこと言っちゃったから、澪ちゃん引くに引けなくなって、それでこんなことになっちゃったのかな、って……」




 木本真波は驚くぐらい何もできなかった。

 電話も満足に取れない。領収書の切り方も知らない。受付もできないのに施術のアシスタントなんて恐ろしくて任せられない。何かあるたび、施術中でも構わず澪ちゃんを呼びつけて後始末をさせて。

 本当に、何をやらせてもダメだった。同じ経験年数のころ澪ちゃんは……と、何度言いかけたかわからない。もっとも澪ちゃんは10代終わりにして既に社会人として完成されていたから、比べる対象が間違ってた。

 ダメならダメなりに一生懸命やってるのがわかればまだ温かく見守れるものを、真波からはやる気のなさしか感じられなかった。あの女はいかにして楽をするかしか考えてない人種だ。そんなところが夫と合ったのかもしれない。抜け目ない小狡さは若いうちなら要領の良さと片づけることもできる。でもそれでずっとやってきたら、年齢相応の深みのない、空っぽの人間になってしまう。

 木本真波はそういう女だった。積み重ねてきたものがないから、アラサーなのに10代以下の社会性。患者さんともよくいらぬトラブルを起こしてた。


 わたしは、少しばかり真人間のようになっていた夫に賭ける気持ちがあった。

 仕事にかこつけて書類置き場と称する別宅に入り浸るようになっても、また生活費を入れなくなっても、様子見を続けた。

 もう少し、もう少しだけ、証拠を集めて。不倫の証拠としてはまだ弱い、これは経済DVの実績づくり、と、うそぶいて。

 あのときも、あのときも。もっと迅速に動いていたら――。


「善恵ちゃん、それは違うわ。わたしのせいよ。わたしが、のんびりしすぎたの」


お読みいただきありがとうございます。


ケイ先生視点の続きです。

院のドル箱まーくんこと独眼竜まさむねこ様との出逢いの回想でもあります。

いつかまーくん視点もやってみたいですね。

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