表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

104/157

残された人々 ~譜久村慶子の場合・1~

 施術中、患者さんと他愛のない会話を交わすこともある。

 静かにしてたい患者さんには、そのように。でも、話し相手を求めて院に来るひともいる。そういうひとには他の患者さんの迷惑にならない程度に応じてあげなさい。それは、わたしの師である火世子かよこ先生がわたしに教え、わたしもまた弟子とも呼べる若いスタッフに伝えたことだった。

 佐倉澪さくらみおは、施術中に眠りたい患者さんにも、話したい患者さんにも、どちらのタイプにも好まれる施術者だった。




 わたしが初めてわたしの意志で積極的に選んだ弟子――澪ちゃんが施術中、患者さんとの雑談で話していたことを思い出していた。


『私の学年、主要なイベントことごとく全部悪天候。原爆ドームも伊勢もUSJもみーんな雨。小4の運動会なんか雨天順延繰り返し3度目の正直での開催で。中学も高校も入学式は大雨ですよ。うちらの学年、雨男か雨女おるんやないの、学年ぐるみでお祓いしてもろた方がええんちゃうか、なんてよく言い合ってましたっけ。

 でもね、こないだ地元のお友達から連絡あって、成人式はペカーッと晴れて式典日和やったんですって。その子が言うんですわ、アンタが雨女やったんちゃうか、って。何やの人のせいにしてってその時は反論しましたけどね。でもひょっとしたら私が雨女やった説、あると思います』



 澪ちゃん、確かにあなた、雨女かもよ。

 喪服のわたしは、傘も差さずにタクシーを降りた。


「濡れるよ、母さん」


 息子が傘を差しかけてくるのが気配でわかる。


「ミコ」


 わたしは身体のほぼ全部を雨から守る物体を、みことの方に押し戻した。


「あなたが濡れるわ」


 母のわたしより大きく育った息子と腕を組み、斎場に向かって歩き出す。白杖は一応持っている。でも使うまでもなかった。

 ミコのナビなら安心。ある意味息子は夫より頼りになる。そして、そんな息子とタイを張るくらいに、澪ちゃんのナビも歩き易かった。


『ケイ先生、あと30mぐらいしたら右曲がりますよ』

『2歩先ぐらいに段差、気を付けて』

『赤なんで停まります。信号の目盛り、あと半分ちょいです』


 身内に視覚障碍者がいるわけでもないのに、どこでどうして身につけたのかと不思議になるほど、彼女のナビは安定していた。息をするように他人を慮る、それが彼女の本質だった。 澪ちゃんと歩く時、わたしは白杖を使わずに済んだ。手に持つことすらなく、たたんだままにしておいた時もあったくらい。

 建物内に入ると、雨音が強くなった。まるでわたしたちが入場するまで待ってたみたいなタイミング。


「涙雨……」


という単語が、頭に浮かんだ。


「まるで澪ちゃんが泣いてるみたいだわ……」




 今日は澪ちゃんのお葬式。

 履歴書の実家の連絡先に知らせてもなしのつぶてだったので、わたしが弔うことにした。

 澪ちゃんは詳しくは話さないけど――話さなかったけど、関西にある実家とは没交渉のようだったし、何より彼女自身が「実家に戻されること」を望んでいないように思えた。

 でも、その表現もおかしい気がする。だって、澪ちゃんの身体は、ここにはないのだから。




 夫の浮気は初めてじゃなかった。

 休職中、家事に育児に奮闘するわたしを尻目に朝帰りした夫に殺意を覚えたものだった。そのとき別れておけばと今となっては思うけど、そのたびに火世子先生の言葉がちらついた。

 慶子けいこさん、本当に彼でいいの、よく考えなさい。

 わたしが夫と結婚すると伝えたとき、火世子先生は言った。子どもができたっていう理由だけで結婚するのはよくなくてよ、とも言った。

 その忠告が純然たる善意からだと、年を経た今ならわかる。でもそのとき私は若かった。反対されればされるだけ、意地になってた。

 わたしも夫も、元々は火世子先生の下で働いてた。火世子先生には、夫がどんな男かよくわかってたのだ。


 息子が小学校に上がる頃、夫の2度目の浮気が発覚した。

 私は本気で離婚を考えた。余所の女にじゃぶじゃぶ金を使って、生活費も満足に寄越さない。一点集中の小猿だから、女にかまけると他に意識が行かなくなる。そのころ夫は仕事にも身が入らず、火世子先生にまで勤務態度を注意される有様だった。

 わたしは目が不自由だけど、身の周りのことはひと通りできる。実家の父母は目が見えないからってわたしを甘やかしたりはしなかった。鍼灸師としてやってけてるのも両親の協力が大きい。自分が親になって改めて思う。わたしの両親はすごいひとたちだった、と。感謝してもしきれない。

 わたしは、わたしのことは自分でできる。でも夫の面倒までは見きれない。それが夫には不満みたいだった。

 余所のダンナさんはいいよな、家帰ったらなんもしないで座ってりゃビールが出てくるんだから。夫はそんなことを言っていた。具体的に冷蔵庫からビールを出してくる誰かを想い浮かべてる口ぶりだった。引っ越したばかりのマンションでまだ動線に慣れず、リビングからキッチンに辿りつくまであちこちぶつけてるわたしに対するあてつけみたいだと思った。

 仕事で疲れて帰って来て惣菜のメシか、とも夫は言った。全盲のわたしに調理のハードルは高い。わかってて結婚したくせに。


「ホテル並みのサービスを受けたいならまず生活費ぐらい寄越せば? このマンションだってあなたじゃ審査通らなくって結局わたしの名義じゃないの。仕事で疲れて帰って来てっていうならそれはわたしも一緒。定時で上がれる整骨のあなたより、予約があったら時間オーバーする鍼灸のわたしの方が大変なんだけど? 仕事して、家事して、ミコの面倒見て。その上あなたのお世話までしろって? ミコでさえ飲みものぐらい自分で飲むわよ。あなた小学生以下の子供なの?」


 そのころはまだわたしの両親も健在で、実家は北関東の某県にあった。

 いっそ実家に身を寄せようか。今の東京の職場には通えないけど、実家のある県には火世子先生の分院がある。マンションは売って、異動希望を出して、息子を連れてとりあえず別居。父も母も孫を溺愛してるし、否とは言わないだろう。

 当時のわたしは、そこまで考えてたけど。

 息子が大泣きして大反対して、わたしの第一次離婚計画は計画倒れで終わった。


「おとうさんがひとりになっちゃう」


 幼稚園から一緒のおともだちと離れるのがいやということよりも、その一点で息子は反対したのだ。

 夫は東北の災害で家族を亡くしていた。就職して東京に出ていた夫と、ご主人の実家がある首都圏某市に暮らす妹の善恵よしえちゃん以外に、譜久村の家の者はいない。夫はわたしが実家に帰省するたび言っていた。いいよな帰る家のある奴は、と。あんまりチクチク言われるから、実家とも少し疎遠になっていた。父母が心配して連絡をくれても、夫の悪口は言えなかった。特に母は「全盲の娘をもらってくれた」と夫に感謝してたから。

 息子にまったく無関心で、おむつも替えたこともないような男でも、命にとっては父親だ。ミコから父親を奪っていいのだろうか。

 この考えは長いことわたしを縛りつけて放さなかった。




 澪ちゃんの実家からは何の返事もなかったので、せめてわたしとミコだけでもと、ごくひっそりとした、家族葬のような規模の告別式。

 特に告知したわけでもなかったのに、驚くほど沢山の人が澪ちゃんのお別れに来た。

 院の患者さん、鍼灸学校の同級生、同じアパートのご近所さん、わざわざ関西から来たという学生時代のお友達。


 ――澪ちゃん、あなたは本当に愛されてたのね。


 不思議な子だった。年齢不相応に落ち着いてて、そのくせいざという時の度胸は満点で。

 ある患者さんが過呼吸発作を起こした時も、驚いて固まる『院長』を尻目に慌てず騒がず処置をした。わたしが過去に一度だけ教えたことを彼女は覚えてた。ケイ先生が言ってた通りにやっただけ、と、彼女は淡々と言った。

 知っている、と、できる、は、別物。でもそれを一致させる機転が彼女にはあった。知識を得ること、できることを増やすことに貪欲で、こうと決めたら突っ走る。鍼灸の資格を取りたいからってかけもちでアルバイトまでして、倒れるまで働いて。だったらひとこと相談してくれたらいいのに。

 自分は献身をふりまくくせに、他人の善意はまるでアテにしてないような子だった。そんな子だから、何かしてあげたくなる。助けてやりたくなる。わたしが彼女に学費を用立てたように、アパートの大家さんが夕食のおかずを差し入れるように。




 息子に付き添われながら、わたしは喪主の役目を果たした。

 参列者はどのひとも、顔を見て最期のお別れを、なんて無神経なことは言わなかった。彼女の死因は今や日本中の人が知っている。


「こんなの茶番だよ」


 人の列が途切れたのを見計らうようにして、命がぼそっと言い捨てた。わたしは息子をなだめた。


「お葬式は、残されたひとが心の整理をつけるための儀式でもあるのよ」


「だけど!」


 体ばかり大きくなっても、まだ高校生。割り切れるものじゃない。わたしだって、割り切れてない。


木本真波きもとまなみは捕まってない、親父は行方不明、澪さんの遺体も見つからない。それで葬式なんて、納得いかない!」


「……」


 そう、それは日本中の人が知ってる『真実』だ。

 あの朝、ホームで電車を待つ澪ちゃんを木本真波が――夫の愛人が突き落としたのは、事実。

 防犯カメラは木本真波が澪ちゃんを突き落とした画像を記録していたし、澪ちゃんのスマートフォンは、その日、その時刻に、持ち主を害した人物の顔をアップで捕えていた。木本真波は澪ちゃんをホームに突き落とした後、逃げる時に澪ちゃんの脇に並んでたOLさんも弾みで押してしまったという。そのシーンも防犯カメラに映ってて、木本真波は結果的に2人の女性を殺してしまった。真波は今、殺人犯として大々的に指名手配されている。

 おかしいのは、巻き添えで殺されたOLさんの遺体は――言葉にできないくらい酷い状態だったそうだけど――復元できる程度に発見されたのに、澪ちゃんのものは貴重な証拠品のスマホ以外は何も見つかっていないこと。遺体や遺髪はおろか、DNAの1片、服の切れはし、持ってたバッグに至るまで、何ひとつない。まるで神隠しにでもあったかのように、彼女は忽然と消えてしまった。

 死体無き殺人事件とマスコミがあおり、日本中で挨拶代わりのように捜査の進捗状況が話題に上る。わたしたちのところにも取材と称してメディアのひとたちが呼びもしないのに連日押しかけてくる。

 今日だって、斎場のひとが止めてくれてるだけで、外には記者を名乗るひとたちがハイエナのように群がってるはずだ。




「まったく、酷いねえ。哀しいねえ。若い人が亡くなるのはやり切れないよ。澪先生、まだアタシの4分の1しか生きてないじゃないか……」


 御焼香の後、涙声で言い募るのは長谷川さんだ。彼女は元々は火世子先生の患者さんだった。米寿を目前にいまだ現役の日舞の師範。

 長谷川さんは澪ちゃんを気に入っていた。受付兼アシスタントスタッフだったころから、彼女は澪ちゃんを褒めていた。あの子はスジがいいよ、手に迷いがない、度胸のある子は伸びるよ、と。

 そして、木本真波を蛇蝎の如く嫌っていた。


「あのドラム缶、まだ捕まってないんだってね? あの小生意気なブタ女、アタシゃ最初っから気に入らなかったのさ。さっさと辞めさせとけばこんなことにゃ……ああごめんよ、ケイ先生にこんなこと言ってもねえ。でもまったく、やり切れなくてねえ……」


 長谷川さんはわたしの手を取り、言った。


「ケイ先生、気をしっかりお持ちよ。

 いつもウチまで来てもらってるけど、今度はアタシが院に行くからね。アタシはまだまだ踊ってたいんだよ。ケイ先生の鍼がなきゃ困るんだ」


 こんなことになってしまってもう院はつぶすしか、と考えてたわたしを、長谷川さんは見抜いていたかのようだった。


「ケイ先生を紹介してくれた時、火世子さんホントに嬉しそうで得意げでねえ。ホラ、アンタがまだ駆け出しで小娘みたいだった頃のさ。鼻っ柱の強い娘だって思ったっけ。

 澪ちゃん……澪先生も、若い頃のアンタによーく似てた。優しそうにほわわんとしてるくせに治療に関しちゃ手厳しくてねえ。いい子だよ……ホントにいい子だった。

 ケイ先生の手中の珠だったろうにねえ、かわいそうに、かわいそうにねえ……」


 長谷川さんは人目もはばからず、声を上げて泣いた。

 日舞の師範として沢山のお弟子さんを抱える彼女には、弟子に先立たれる哀しみは他人事ではないのだろう。


ブクマ評価等ありがとうございます。とても嬉しく励みになっております。


某コ口ンボ(某の意味ナシ)の「うちのカミさん」ばりに実体のなかった「ケイ先生」の登場です。

騎士団員P殿に変態仮面推参キャハッ☆ とかノリノリでお仕置きキメてた頃、故郷の日本ではこんなことになってました……というお話です。


以前私がお世話になった鍼灸師の先生は視覚障碍者でしたがご子息のおしめも替えたし、身の周りのこと全般何でも自分でこなします。

火は危ないから自重しますが、IHならOK! だそうです。何ならカレーとか作ります。

凄い人だなあと思いました。


OLさん、という表現に少しばかり彼女の年代を感じさせてみました。

今言いませんよねOLさんって。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ