無価値になった世界
今朝のことだった。
いつも見かける黒い服を着た女性が、いつもは曲がらない角で曲がった。
いや、どこの角で曲がろうが彼女の勝手だ。
それをどうこう言う権利は僕にはない。
だが、二年だ。
二年間彼女があの道をまっすぐ通るのを見てきた。
僕にとって彼女があの道をまっすぐ通ることは日常の一部になっていた。
それが今朝、壊されてしまった。
それほどまでに僕にとって彼女があの角を曲がることは衝撃的だったのだ。
僕と彼女に接点はない。
いつも見かけてはいたが、挨拶をしたわけでもないし、もちろん知り合いでもない。
ただ、僕は彼女が気になっていた。
恋とは違う。
おそらく、親近感というやつだ。
彼女は悲しい顔をした女性だった。
泣いてるとか、俯いてるとかそういうわけではない。
ただ、彼女の顔を初めて見た時、僕は胸のどこかに痛みを感じた。
それから僕は毎朝決まった時間に家を出て彼女の顔を見るようにした。
そうして毎日彼女の顔を見て、いつかその顔から悲しみを感じなくなればいいと思っていた。
だが、僕が望んだ変化は訪れず、彼女はいつも通り悲しい顔をして、いつもとは違う道を進んでいった。
なんだか嫌な予感がした。
僕は玄関に戻り鞄を置いてから彼女を追いかけた。
角を曲がるとすぐに分かれ道になっていた。
左は書店、右は高台に続く道だ。
僕は右に進んだ。
それで彼女がいなければそれでいい。
左に曲がったとしたらおそらく大したことのない用事だろう。
左の道に死は転がっていない。
だが、右は違う。
もし彼女が右に進んだとするなら、おそらく彼女は。
そうだ。
僕は彼女が角を曲がったことへの衝撃ですっかり見落としていた。
彼女は今の僕と同じように鞄を持っていなかった。
鞄と言うのは社会に生きる人間であることを証明するものだ。
どんな身分の人間だって社会に属している限り鞄を持っているはずだ。
鞄を捨てると言うことは社会から外れることを意味する。
今の僕だって学校に行くのを放棄して彼女を追いかけている。
学校に行くべき時間に人を追いかけている僕は、この瞬間社会から外れている。
だから今の僕には鞄が必要ない。
必死に走っていると、いつの間にか高台に着いていた。
彼女は柵の外側に立ち、遠くを眺めている。
「ダメだ」
柵を挟み込むようにして、彼女に抱きついた。
「離して」
「もう死なせて」
悲痛な叫びが僕の耳に刺さる。
「僕だって死にたい」
本心だった。
僕はずっと死にたかった。
昔からずっと。
僕の言葉を聞いた瞬間、彼女の力が抜けたのがわかった。
僕が彼女に柵の中へ戻るように促すと、すんなりと戻ってきてくれた。
それから近くにあったベンチにかけて、僕は彼女の話を聞くことにした。
彼女の名前は薊さん。
年は僕より一回り上だった。
家は有名な旅館で、薊さんは望まれない子供だったらしい。
跡取りが欲しい祖父母と父親にとって女の薊さんは疎ましいだけだった。
母親も金目当ての結婚だったため薊さんの味方をするわけでもなく、程なくして弟が生まれると薊さんは完全に家に居場所をなくしてしまった。
高校生になると家を出され、金銭的な支援は受けられていたもののほとんど一人で生きていくしかなかった。
それから人を信じることも愛することもなく、少しずつ心をすり減らして生きてきたようだ。
「私ね、左目が見えないの」
「殴られてね」
誰に、とは聞かなかった。
彼女の痛みが僕に同様の痛みを与えた。
「あなたはどうして死にたいの?」
「薊さんみたいな人がいるからです」
「どういうこと?」
僕は心に思っていたことを全て吐き出した。
「薊さんみたいに、傷つかなくていい人が傷つくこの世界が僕は嫌いなんです」
世界という言葉を使うのは少し子供っぽくて恥ずかしかった。
でも、この言葉が一番適切だと思った。
「誰かが傷つかないと成り立たない」
「僕はそんな世界が嫌いなんです」
僕は恵まれた境遇ではないし、辛い思いもしてきた。
でもそんなことは僕にとってはどうでもよかったし、それを恨んだこともなかった。
僕が恨んでいたのは、人が人を傷つけ、笑える人と笑えない人が分かれるこの世界だった。
僕だってこんな考えを抱いて生きてきたわけじゃない。
ただ、薊さんみたいに自分の人生に絶望し、幸せを諦めた瞬間、今まで受け入れてきたものに対する疑念が浮かんだ。
不条理で理不尽なものも甘んじてきたが、人生を諦めた途端それらに対する猛烈な怒りと憎しみが湧いた。
だが、僕にそんなことどうすることもできなかった。
怒り、悲しみ、憎しみ、苦しみ、差別、孤独、争い、そう言った言葉をこの世界からなくすことなんて僕にできるはずもなかった。
だから僕は死を選んだ。
でも、僕と薊さんには一つだけ違いがあった。
薊さんは生きたかったのに死ぬことを選ばなければいけない人だった。
僕は生きたくないから死ぬことを選んだ人間だ。
同じに聞こえるかもしれないが、全く違う。
薊さんの死にたいという気持ちは薊さんの意思でありながら薊さんの意思ではない。
薊さんがそう思うしかないように追い詰められたんだ。
でも僕は違う。
僕は僕の純然たる意志で死を選ぶ。
そう思わされたわけでもなく、自分でそう思いそれを選ぼうとしている。
それに自分以外に対する絶望と言うのはどうにもし難いものである。
例えば僕が自分の能力に絶望したとしよう。
この絶望から抜け出すのは簡単だ。
僕が努力をして自分の能力をあげればいい。
僕自身の問題は僕自身で解決できる。
だが、世界に対する絶望はどうだ。
僕が世界を変えられるか。
いや、僕にそんなことはできない。
僕はこの世界の一部ではある。
だが、一部でしかない。
世界という自分以外の何かに絶望した僕に生きる道はない。
逆に言えば、薊さんはこの世界に生きる余地があるということだ。
「薊さん、僕と一緒に来てください」
薊さんを連れて僕は家に戻った。
「どうぞ」
「お邪魔します」
僕が一回り年下だからか、それともさっきまで死のうとしていたからなのかはわからないが、とくに家に上がることを警戒している様子はなかった。
いや、そもそもこの発想自体がおかしいんだ。
夜道を気をつけるとか、警戒するとか、そんな言葉の存在がこの世界の醜さを表している。
部屋に入り、茶をすみれさんに出した。
すみれさんは少し会釈するとそれを一口飲んだ。
「これ、見てください」
僕は押し入れから小さな箱を取り出し、薊さんに渡した。
「指輪?」
「ええ。その指輪は特別な指輪なんです」
「その指輪をつけていると、幸せになれるんですよ」
全くの嘘だ。
あの指輪は母の形見だが、そんな力はない。
ただの指輪だ。
「薊さんに差し上げます」
「ダメよ。指輪なんてもらえないわ」
「そう言わずに、受け取ってください」
何度も粘り、ようやく薊さんは指輪を受け取ってくれた。
「では、また何かあったらここへ来てください」
「あと、指輪はちゃんとしてくださいね」
それから数日して、薊さんは家を訪ねてきた。
「この指輪すごいのね」
「これをつけてから毎日いろんなことがうまくいってるの」
「それはよかったです」
「でも、こんなすごいもの本当にもらっていいの?」
「ええ。僕には必要ありませんから」
「ありがとう」
僕の思った通り、薊さんはあの指輪で幸せになれた。
薊さんが幸せになれなかった理由は一つだけだった。
自分で自分が幸せになれると思えなかったからだ。
間違いない。
だから僕は幸せになれると言って指輪を渡した。
それから、お礼と言って薊さんは僕を喫茶店に連れて行き、ケーキを食べさせてくれた。
その時の薊さんの顔にはもう悲しみはなく、笑顔が溢れていた。
これで薊さんはもう大丈夫だ。
最後の気がかりがなくなり、僕にもう思い残すことはなかった。
彼は死んだ。
私に幸せになれる指輪を残してこの世から消えた。
それからしばらくして、私のもとに彼の遺書が送られてきた。
「薊さん、お元気ですか?」
「僕は死んでいるので元気もなにもありませんが、ようやく世界を出れて幸せです」
「それはそうと、一つお詫びしなければいけないことがあります」
「薊さんのしている指輪はただの指輪なんです」
「薊さんは自分が幸せになれないと思っていたから、だからその指輪を渡して幸せになれるって思い込んでもらいました」
「薊さんは幸せになる権利があるし、幸せになっていいんです」
「それに薊さんは世界が嫌いなわけじゃない。薊さんが憎んでいたのは自分の過去ですよね」
「でも、今の薊さんは前を向いていますから生きていけるはずです」
「この先で傷つくこともあるかもしれませんが、それでも薊さんには幸せでいて欲しいです」
「それと、少しの間でしたが薊さんと過ごした時間は楽しかったです。そんな幸せな瞬間に死ねて僕は幸せです」
「ありがとうございます」
「それと、ケーキごちそうさまでした」
彼は何もわかっていなかった。
私が幸せになれたのはこの指輪のおかげでもなんでもない。
これがただの指輪なんてことわかってた。
彼がいてくれたから私は幸せになれた。
私のために走り、しがみつき、話を聞いてくれた。
そんな彼がいたから、私は幸せになれたのに。
指輪にかかった魔法が切れてしまった。
もう、あの時間にあの道を通る理由も無くなってしまった。
私はこの世界が憎くなった。
彼を殺したこの世界が。
角を曲がり、その先の道を右へ。
それからしばらく歩いて私たちが出会った場所に着いた。
「いま、行くわ」
彼のいる世界に、私は飛び込んだ。