突然、走る
店員は突然走り出した。
俺はぽかんとアホのようにそれを見送った。
ここは駅前の小さな雑貨店。
俺、井口正人は友人の梶川彰一と二人で、部活の帰りにこの店に立ち寄った。
俺はそこのCDコーナーで前々から欲しいと思っていた「Nolkers」のセカンドアルバム「Almark」をついに発見して、嬉々としてカウンターに向かった。
無愛想だが気配りの行き届いたいつもの店員がいつものようにレジを打ち始めた。
その時だった。
彼は突如、店の出口に向かって全力疾走したのである。
俺としては、アホのように口を開いて彼を見送るしかなかった。
「万引きだ」
俺の後ろで彰一がそっと囁いた。
「げ、マジ?」
俺は思わず振り向く。
「そういうのってやっぱバレるの?」
「決まってんだろ。特にCDなんか一枚一枚に防犯用の変な機械みたいなのが付いてるじゃねーか」
「へー」
そんな会話をしていると、店員がCDを手に戻ってきた。
店員と、奥から出てきた店長との会話から察するに、初犯だからってことで見逃してやったらしい。
警察呼ぶと時間かかるしね、と店長が諦め顔でぼやいていた。
俺は店員から会計が遅れたことを謝罪され、代金を払って外に出た。
「誰がやったのかな。まさか、蒼神高校の生徒だったりして」
「そうだよ」
彰一があっさりと答えたので俺はビビった。
「マジで?」
「ああ、隣のクラスの戸田だろ? 俺、見てたもん」
「ふーん、戸田が、ねえ」
俺は神経質そうな戸田治雄の顔を思い浮かべた。
「嫌なもん見ちまったな。早く家帰ってゲームでもやろうぜ」
「おうよ」
俺たちはぶらぶらと駅へ向かった。
駅のホームに戸田がいた。
「あっ、戸田だ」
戸田はホームの一番前、線路ギリギリのところに立ち、ホームの下をじっと見つめていた。
心なしか体も震えているようだ。
「何かアイツ、震えてねーか?」
「関わんな、関わんな」
彰一はそう言ってシカトを決め込んでいる。
「そうだな」
俺も彰一に倣うことにした。
二人で戸田に背を向けて、谷川総理の退陣とポメブ星人の握力の関係についての話題で大いに盛り上がった。
じきにホームが混んできた。
電車が来るまで、あと2分。
「井口くん、梶川くん」
俺がポメブ星人の握力が谷川総理の脳波に与えた影響について力説していた時、後ろから声がかかった。
「よう、佳菜子ちゃん」
彰一が言った。
振り向くと、赤池佳菜子が立っていた。
近くの桜南大附属高校の子で、友達同士で遊びに行った時に知り合った仲だ。
おっとりしたタイプの子で、だいたい何をするときも人から0.5テンポくらい遅れてしまう。
それが絶妙な笑いを生み出したりするものだから、グループの中ではムードメーカーというかマスコット的な扱いを受けていた。
俺たちは佳菜子ちゃんも交えて3人でさらに谷川総理とポメブ星人の握力の話を続けた。
その途中、ちらりと戸田の方を見ると、戸田はまだ同じ場所でじっとホームの下を見つめている。
万引きバレたショックで自殺でもするんじゃねえだろーな。
俺は彰一に目で合図した。
彰一が頷き返す。
背の低い佳菜子ちゃんには分からなかったようで、まるで気付かずにポメブ星人の握力から割り出したポメブ星の位置と谷川総理の官邸の位置との因果関係を力説している。
俺は時計を見た。
電車はもう来てもいい時刻だ。
少し遅れているようだ。
その時、ホームにアナウンスが流れた。
『えー、17時58分頃、Y駅におきまして、人身事故が発生いたしました。その影響で電車は約40分程遅れる見込みです……』
ホームが一斉にざわついた。
俺と彰一は弾かれたように戸田を見た。
しかし戸田はピクリとも動じず、同じ姿勢で下を見ている。
自殺するつもりはないらしいな、と俺は思った。
駅の人身事故。十中八九、自殺だろう。
もし自分も自殺するつもりなら、さっきのアナウンスに少なからず動揺するはずだからだ。
「自殺かな、怖いね」
佳菜子ちゃんの言葉で、俺たちはやっと戸田から視線を戻した。
「そうだね。でも自殺って俺は出来ないわ。自殺できる人ってある意味勇気あるよね」
俺が言うと、佳菜子ちゃんは首をかしげる。
「うーん。勇気っていうのかな……。でも、よっぽど人生が嫌になっちゃったんだろうね」
その時、彰一が別の女の子に呼ばれた。
俺の知らない子だ。
こいつは俺の知ってる友達の中でも一、二を争うくらいに女の子の知り合いが多い。
その上、モテるのだが彼女がいるという話は聞いたことがない。
「ちょっと行ってくる」
彰一はそう言って、向こうの女の子のところへ行ってしまった。
「梶川くんってモテるんだよね」
「ああ、そーだね」
佳菜子ちゃんの言葉に俺は頷く。
俺の知ってる女の子だけでも、その約半分が彰一に気があるくらいだ。
「私も梶川くんのこと、いろんな人に聞かれて面倒くさくて」
「そーだろうね。俺のこと聞く子はいないのかな」
「井口くんの場合は、知ってても教えてあげないの」
佳菜子ちゃんはなんだか意味深なことを言った。
「えっ、それってどういう……」
俺が尋ねかけた時だった。
「おい、井口」
低い声で名前を呼ばれた。
戸田だった。
戸田は俺と佳菜子ちゃんの前に立つと無遠慮にじろじろと眺め回してきた。
……なんだ、こいつ。俺にケンカ売ってんのか。
通っていた中学が荒れていた関係で、少し昔の地が出そうになるが、いかんいかん、ここは俺の地元じゃない、と抑える。
戸田は蛇のような厭らしい目で俺たちを見ている。
俺は鳥肌が立ってきた。
佳菜子ちゃんが不安げに俺の腕を掴む。
「何か用か」
俺が言うと戸田はやっと眺め回すのをやめた。
神経質そうに何度も瞬きをする。
「お前、俺が捕まるところ見ただろ?」
「CDのことか? 俺は直接は見てねーけどよ。お前あんまりバカな真似すんなよ」
「やっぱり見てやがったのか」
戸田の目に怒りの色が浮かんだ。
え? 俺の話聞いてた?
「俺は見てねーって言ってんだろ。でも俺の連れは見たし、他にも見たやつはいたかもな。駅前は人が多いからよ」
昔の悪い癖が出てしまった。
怒っているやつがいると、さらに挑発したくなってしまうのだ。
「調子に乗りやがって」
戸田が言った。
どっちが、と思ったが昔の俺ではないので今度はきちんと慎んだ。
「俺の人生めちゃくちゃになったら、てめーらのせいだぞ」
……何を言ってるんだろう、この男は。
俺は隣の佳菜子ちゃんを見た。
事情がよく飲み込めてない彼女は俺の腕を強く掴んで俺を見上げた。
俺は肩をすくめて見せた。
「俺は別にあれを買う金がなかったわけじゃねーんだ。それをてめーら好き勝手言いやがって」
「何も言ってねーよ」
「嘘つくんじゃねえ!」
戸田は叫んだ。
「俺には聞こえたんだからな、てめーらの声が」
「いい加減にしろよ。何で俺らがてめーごときのこと話題にしなきゃならねーんだ? てめーが何やろうと俺らの知ったこっちゃねーよ。俺らは谷川総理とポメブ星人の握力の話してたんだからな。なあ、佳菜子ちゃん」
事情が分からないながらも、健気な佳菜子ちゃんは俺を弁護しようと大きく頷いた。
ちッ、と戸田が舌打ちした。
「どいつもこいつもクズばっかりだ。ぐるになって俺を陥れようとしやがって……」
こいつはバカだ。さもなきゃどっかのネジが一本緩んでる。
「どーでもいいけど邪魔だぜ」
俺の言葉に戸田は、俺の顔をじろりと睨み返してから去っていった。
「なあに、あの人……」
まだ俺の腕を掴んだまま佳菜子ちゃんが言った。
俺は雑貨店の件から全部話してやった。
「俺らはやつが自殺でもするんじゃないかって心配してたんだけどね。まあそんなタマでもなさそうだ」
「ふうん、厭なやつ! 井口くんもいい迷惑だね」
「まあね」
「あ、そんなことより、遥香が今度みんなで遊びに行こうって言ってた」
野中遥香は、俺たちの遊び仲間の一人で、佳菜子ちゃんと同じ桜南大附属の学生だ。
「お、いいね」
俺たちはしばらくの間、その話題で盛り上がった。
やがて電車が36分遅れでやって来た。
プラットホームに滑るように電車が入ってくる。
俺は話をやめて、そっちを見て……ぎょっとした。
戸田がまた例の場所に立って下を見ている。
その体が前にぐらりと傾いた。
「バッ……」
……カ野郎!
俺はまだ腕を掴んでいた佳菜子ちゃんの手を振り切って、戸田のところへ突っ走った。
ちょうど、万引きした戸田を追ったあの店員のように猛然と。
駅に入ってきた電車のスピードは確かに落ちていた。
しかし、人を一人轢き殺すにはまだ十二分のパワーを持っていた。
戸田の体が完全にプラットホームから前に飛び出した。
気が付いた近くの女子高生が悲鳴をあげる。
激しいブレーキ音。警笛。
電車はすぐそこだ。
「間に合ええぇッ!!」
俺はプラットホームを強く蹴って跳んだ。
このタイミングでは引き戻せない。
俺は空中で、線路に落ちかけていた戸田の体を、後ろから思いきりぶつかるようにして抱き止め、そのままの勢いで体を投げ出す。
ギギギギギーッ……
不快な音をたてて電車が止まる。
俺は戸田と一緒に電車の向こう側に転がっていた。
ふう。
俺は安堵の息をつく。
やっぱり、日頃の鍛練って大事だよな。
「よっ」
と声を出して起き上がって、気を失っている戸田を見る。
よくわかんねー野郎だ、こいつも。
戸田の制服に血が付いている。
「マジか!」
触ろうとして、俺の右腕が流血していることにやっと気付いた。
着地の時に擦りむいただけのようだ。
「なんだ、俺の血か」
そう呟いた時、駅員が二人駆け寄ってきた。
若い方の駅員がホームに向かって、
「生きてるぞ!」
と叫んだ。
もう一人の定年間近らしい駅員は、
「全く、一日二件なんて勘弁してくれよ」
とぼやいている。
俺も全く同感だった。
駅員に連れられてホームに上がると、わっと歓声が上がった。
ちょっとした英雄気分だ。
「さすがだな、幅跳び選手。ナイスジャンプ」
彰一がそう言って右手を挙げた。
「おう、サンキュー」
俺も右手を挙げてそれに応える。
パアン、と手と手の鳴る音。
「井口くん!」
人だかりから佳菜子ちゃんが飛び出してきて、たくさんの人が見守る中で臆面もなく俺に飛び付いてきた。
俺は彼女を抱き止めながら、駅員に抱えられて上がってきた戸田にほんの少しだけ感謝した。