第十八話 泣きつかれた女
「やだあぁぁぁ……っ、ママといっしょがいいのぉ……っ」
広いエントランスホールにミアの泣き声が響き渡る。
雪乃は、自分のスカートにしがみついて泣いているミアの頭と背中を撫でながら「困ったわぁ」と眉を下げた。いや、雪乃だけではない、周りもみんな、困ったように眉を下げているし、充にいたっては今にもつられて泣き出しそうだ。
待ちに待った我が子との対面は、雪乃が考えていた以上の幸福を与えてくれた。サヴィラもミアもすぐに雪乃を「母様」「ママ」と慕ってくれて、真尋に聞いていたのだろう二人は、雪乃の体をとても優しく気遣ってくれた。
この屋敷に暮らす大勢の人々と、雪乃たちの護衛をしばらく務めてくれる騎士たちに挨拶をして、おやつを食べた後には自分たちの部屋を案内してくれた。
特に幼いミアは、好意を全開にして雪乃を慕ってくれてママ、ママと雪乃にべったりだった。大好きなパパが長期で留守にしている分、大人に甘えたい気持ちを持て余していたのかもしれない
それでもウォルフから町の治安や現状について聞いていた雪乃は、夕暮れには真尋が帰って来るまでの家となる孤児院に移動しなければならない。そのことは雪乃がきちんと説明したし、ミアも分かったと頷いてくれたのだが、その時間になって、エントランスで挨拶をして、いざ出発という段階でサヴィラのズボンにくっついていたミアが雪乃のスカートにしがみついて泣きだし離れなくなってしまったのだ。そして「行っちゃやだぁ」と大泣きなのだ。
「ウィルくん……どうするんですか?」
アルトゥロが逃げたそうなウィルフレッドを振り返る。
ウィルフレッドの立場とすれば、孤児院に行ってほしいのだろう。そのための準備もしているし、万が一のことを考えればミアとサヴィラ、何より領主夫人やレオンハルトとシルヴィアのこともあるのだ。ドラゴンを連れた得体のしれない人間をその傍に置きたくはないだろう。もちろん雪乃たちは本物であるし、彼らに害を成す気は一切ないのだが、それを証明できる術はなく、証明できるのもここにはいない真尋ぐらいのものだろう。
まだ出会ったばかりだが、ウィルフレッドという人は、騎士団長、領主の弟という肩書を持っているが、その実は優しい人だと思う。言動の端々にそういった誠実な人柄が見て取れるのだ。
だから彼には、母親と離れたくないと泣く小さな女の子を無理やり引きはがすような真似は出来ないのだろう。むしろ、ここにいる誰もミアを引きはがせないから困っているのだ。
「ミアちゃん……ママ、明日、朝一番で来」
「やだぁぁぁあ」
聞く耳すら持ってもらえない。
ぎゃんぎゃんと泣いているミアを雪乃は、よいしょをと抱き上げて背中をとんとんとあやす。だが首に苦しいほどしがみ付かれて、ますます泣き出されてしまう。
周りが困惑している様子から察するに、ミアがこれほどまでに泣いてぐずるとはサヴィラでさえも想像していなかったようだ。普段、おとなしくて聞き分けの良い子ほど、泣きだすと止まらなくなるというのはこれまで真咲によって十分に立証されている。真咲もミアと同じタイプなのだ。
「……ウィル、ユキノと双子だけはこっちの屋敷でもいいんじゃないか。奥様がいらっしゃるからカイトとミツルは向こうに行ってもらうが。タマはユキノの従魔だからこちらにいたほうが良いだろう」
ジョシュアの提案にウィルフレッドは悩むように腕を組んで唸った後、はぁと溜め息を一つ零して顔を上げた。
「ミアを泣かせたとあっても俺の首は飛ぶんだ。それに……父親をこちらの都合で長い時間ミア嬢から奪っているのに母親まで奪っては、慈愛の神たるティーンクトゥスにも泣かれそうだ」
降参だと言いたげにウィルフレッドは両手をひらひらと振った。
「まあ、こちらで生活していいのですか?」
ウィルフレッドは、苦笑交じりに頷いて、傍にいたサヴィラの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「サヴィラ、頼んだぞ?」
「任せてください」
サヴィラが嬉しそうに頷く。
「ほらミアちゃん、ママ、おうちにいられることになったわ。だからもう泣かないで、大丈夫よ」
「もう寂しくないよ」
「ミア、泣かないで」
真咲と真智が傍にやってきてミアの背中や腕をとんとんしながら声をかけるが、なかなか泣き止む様子はない。ぎゅうと縋りつく細い腕が愛おしくも切ない。
「母様、ミアの部屋で少し休んで、そうすればミアも落ち着くと思うから」
サヴィラが言った。
「ええ、そうさせてもらうわ。海斗くん、充さんをよろしくね」
ミアを抱き直しながら、二人を振り返る。やっぱり涙腺がもろい充はすでにぼろぼろとつられ泣きをしていた。
「任せといてよ。みっちゃんの泣き虫には慣れてるからさ」
「雪乃様っ、私は朝一番でこちらに参りますので、お待ちくださいねっ」
ぐすぐすと泣きながら充が言う。
海斗がやれやれといった様子でその背をさすってくれている。
「充さんも疲れたでしょう? ゆっくりでもいいのよ?」
「いえっ、私はお二人にお仕えする執事でございます故、本来であれば一時さえもお傍を離れるわけにはいかないのですっ。ですので夜明けと共に参りますっ」
「そんなに朝早く来ても、鍵がないでしょう?」
はっと充がそのことに気づいて愕然とする。普段、水無月家のありとあらゆる鍵を管理していた彼は、いつもの癖が抜けていなかったらしい。
真尋が帰ってくれば、再び彼に鍵を預けるようになるのだろうが、生憎と不在の今はそういうわけにはいかないだろう。
「でしたら私は、庭先で野宿を……っ」
「もうお馬鹿なこと言わないの。孤児院で子どもたちのお世話をすることも真尋さんにとってはきっとありがたいお仕事の一つだわ。ねえ、サヴィラ」
話を振られたサヴィラが、慌てたようにこくこくと頷いた。
「ミアとかリースくらいの小さいのが多いんだ。だから食事の席は戦争かってぐらい大変で、面倒見てくれる人が一人でも二人でもいれば助かるよ。ああ、そうだ。明日はネネ……って俺の家族なんだけど、そのネネたちが遊びに来る予定だったから、護衛もかねて一緒に来たら?」
なんて賢い息子かしらと雪乃の意図を正確に読み取って、充の無茶を止めてくれるサヴィラに雪乃は感動する。
「……そう、でしょうか? 真尋様のお役に立てるのでしょうか?」
「もちろん。父様はいつも孤児院が健やかに運営されることを願っているからね」
「サヴィラ坊ちゃまがそうおっしゃられるのであれば、この充! 真尋様がお認めになったただ一人の執事として頑張らせていただきます!!」
充が息を吹き返し、キラキラと顔を輝かせながら宣言する。真智と真咲が「みーくん、格好いい!」「頑張ってね、みーくん!」と声援を送れば、ますます誇らしげだった。相変わらず可愛らしい方ね、と雪乃も思わず笑ってしまう。もしかしたら、世話を焼きにいって世話を焼かれてしまう可能性あるけれど、目的があるのはいいことだ。
「海斗くん、本当に色々とお願いね」
「雪乃は心配性だな。みっちゃんだってちゃんとした大人なんだから他所でお泊りくらいできるって」
そうは言われても雪乃の心境として、初めての修学旅行に息子を送り出すような気分なのだ。真智と真咲を二泊三日の林間合宿に送り出した時と、全く同じ気持ちだ。
それから海斗と充は、彼らの護衛を務めてくれる騎士のルシアンとピアースと共に孤児院へと向かい、ウィルフレッドとアルトゥロ、カロリーナたちもそれぞれ職場へと戻っていった。
「そうと決まったら、いろいろと支度をしなくちゃ。ねえ、双子ちゃんもお手伝いしてくれるかしら?」
プリシラが声をかけると双子は、雪乃を見上げる。
「お願いできるかしら? ミアちゃんも仕度が終わるころには落ち着いていると思うの」
「分かった!」
真智が元気よく頷くも、真咲はちょっとばかり不安そうだ。
「サヴィお兄ちゃんも一緒?」
「一緒だよ。ついでに他の部屋も案内してあげる。この家は広いからね」
サヴィラが真咲の手を取ると、真咲はほっとしたように表情を緩めた。ジョンが「僕もいるよ」と声を掛ける。
「ジョシュ、ミアのお部屋まで連れ添ってあげて」
プリシラに声をかけられたジョシュアに「行こう」と促されて、雪乃は階段へと足を向ける。
ミアはとても小柄だが、重いものは重い。しかも部屋が三階なので、なかなかの重労働になりそうだと覚悟していると、不意に体がふわりと浮いた。
「きゅいきゅーい!」
どうやらタマが何らかの魔法を使ってくれたようだ。タマの向こうでジョシュアがびっくりした顔をしている。
雪乃は、シャボン玉のような玉のなかに浮かんでいてふよふよと階段を上がっていく。
「すごいな、初めて見る魔法だ」
「私も初めてです。タマちゃん、すごいごのねぇ」
褒められて嬉しかったのか、タマはその場でくるりと一回転して見せた。
冒険者をしているというジョシュアは、階段を三階まで駆け上がっても息一つ乱れていなかった。ミアの部屋の前でタマにおろしてもらった雪乃は、体力の違いに感心しながら、ジョシュアにお礼を言ってミアの部屋に入る。ジョシュアは、一旦、下へ行ったがすぐに水差しとコップ、ぬれタオルを持ってきてくれた。何かあったら、呼んでくれと告げて部屋を出て行った。
ミアの部屋は、白と薄桃色を基調とした可愛らしいお部屋だ。天蓋つきのベッドにドレッサー、クローゼット、そして凝り性の夫が凝りに凝って作ったというドールハウスが窓際に置かれている。
ミアが一人で寝るには大きすぎるだろうクイーンサイズのベッドに腰かける。ミアは、まだひっくひっくと小さな嗚咽をもらしていて、その背中をさすりながら「大丈夫よ、ママはどこへも行かないわ」と声を掛け続ける。
横に降り立ったタマが雪乃の腕に前足をかけて立ち上がり、心配そうにミアの顔を覗き込む。だが、ミアは顔を見られたくないのか、いやいやをしてそっぽを向いてしまった。タマがおろおろと首をひっこめた。
子どもは、泣くのも、笑うのも、怒るのも、喜ぶのも、哀しむことでさえ、いつも全力だ。小さな体で出来ることをすべてして、その感情を表現するのだ。
だが負の感情を表に出すときは、大人だってそうであるが体力や心の消耗が激しい。子どもであればなおさらだ。ミアは涙を止めたくてもどうしていいか分からないのだろうし、心の整理がまだうまくつかないのだろう。
薄暗いなと思っていれば、いつの間にやら天気が崩れ、パタパタと雨が落ちてきた。それはあっと言う間に強くなり、ザァザァと大きな雨音を立て始めた。
タマがぴょんと飛んでベッドのサイドテーブルに置かれていた燭台に息を吹きかけた。オパールのような輝きを放つ炎が灯されて、薄暗い部屋の中をキラキラと照らす。
「……ママ、おこってる?」
ぐすん、と鼻をすする音と共に微かな声が問いかけてくる。
「どうして? 怒ることなんてあったかしら」
「…………だって、ミア、わがままいったもん」
「ママは嬉しかったわ。ずっと一緒にいたいって言ってくれて、とてもとても嬉しかったの。だから我が儘なんかじゃないのよ。だって、ママもミアと一緒にいたかったんだもの」
ふふっと笑って顔を上げたミアの小さな額にキスをする。
涙にぬれたサンゴ色の瞳が、雪乃を見つめている。
きっと、ミアは普段は我がままを言わない子なのだろう。普段から我がままを言っているのなら、先ほどのエントランスで兄であるサヴィラが上手にとりなしたに違いない。だが、サヴィラはほかの皆と同じようにおろおろして、どう声を掛けるべきか考えあぐねているようだった。こんな風にミアが泣くのは、初めてのことだったのかもしれない。
「………………ミアの、おかあさんね」
雨の音に飲み込まれてしまいそうな小さな、小さな声だった。
「……遠いところに行かなきゃいけないって……でも、すぐ帰ってくるっていったの。だから、ノアといいこでおるすばんしててって。…………でも、お母さんは、帰ってこなかったの。今はね、お墓の中にノアといっしょにいて、それでおそらのきれいなところにいるの」
雪乃の服を掴む小さな手に再び力が籠められる。
「だから、だから……ママは行っちゃダメ」
すがるように伸ばされた手が求めるままに雪乃は、小さな体を抱き締める。
「ママは、どこへも行かないわ。だから一緒にパパの帰りを待ちましょう? 真尋さんなら、ミアとサヴィラのためにさっさと片付けてすぐに帰って来てくれるから、ママと一緒に、ううん、ママとサヴィラとちぃちゃんと咲ちゃん、それにほかの皆も一緒に待っていましょうね」
「ママ、どこもいかない?」
「行かないわ。それにママは来たばかりよ? ミアとお庭を探検していないし、一緒にお風呂にもはいっていないし、やりたいことがたくさんあるのよ」
ぐすんと鼻をすすってミアが甘えるように抱き着いて来る。ようやく落ち着いてきたミアの背を優しく撫でながら、雪乃は子守唄を口ずさむ。真智と真咲が今よりもっと幼い頃によくこうして歌ってあげたものだった。
「パパのお歌とおなじ」
「ふふっ、パパに教えたのはママだもの」
「そっかぁ」
泣き疲れたのだろう。ミアの瞼がだんだんと下がっていき、小さな体から力が抜けて重みを増す。けれど、その重さが無性に愛おしく思えて、ミアをぎゅうと抱き締め、砂色の髪にキスを落とす。
雨音が包み込む部屋で雪乃はサヴィラが様子を見に来てくれるまでずっと、ミアを抱き締めて子守歌を口ずさんでいたのだった。
「……全員、寝ちゃったのか?」
ひそめられた声に顔を向ければ、ジョシュアが立っていた。彼を呼び行ってくれたタマの姿はない。雪乃は「そうなんです」と小さく笑って返す。
石造りの教会は、雨音がこもるように反響しあっていて独特の静けさがある。
夕食もお風呂も済ませた後、ミアが「ティーンクトゥス様にお祈りにいきたい」と言い出して、雪乃はサヴィラとミア、双子共に屋敷の隣に立つ教会へとやって来たのだ。
だが、お祈りを捧げて少し話をしている間に、一人、また一人と寝落ちしてしまったのだ。
雪乃に抱っこされるようにして眠っているミア、右肩には真咲、左肩にはサヴィラ、サヴィラの膝を枕にして真智が眠っている。緊張していたから疲れが出たのだろう。
「タマちゃんに運んでもらおうと思ったのだけれど、こんなにたくさんは無理みたいで……あの子、どこへ行ったのかしら?」
「屋敷のほうへ飛んで行ったよ。もしかしたら、ほかにも誰か、テディ辺りを呼びに行ったのかもな」
ジョシュアが苦笑交じりに行った。
「そうですか……ジョシュアさんもどうぞ、座って下さいな。タマちゃんが帰って来るのを待ちましょう。帰って来るのをまたないとへそを曲げられそうだわ」
雪乃がくすくすと笑いながら促すとジョシュアは「そうだな」と頷いて、通路を挟んで隣の長椅子に腰かけた。
ザァザァと雨が屋根を打つ音が二人の間の沈黙を飾り立てている。
ティーンクトゥスの像は、雪乃が知る彼そのものだ。襤褸をまといながらも、こちらに向かって手を差し伸べ、綺麗な銀の瞳は優しく輝いている。
教会の中は、まだ足場などが残されているが、もうほとんど改修工事は終わっているのだろう。ぼろぼろの埃だらけだったという面影は見当たらない。
「どうだ、なにか困ったことや分からないことはないか? 同じ家で暮らすことになるんだから遠慮するなよ」
おもむろにジョシュアが言った。
セピア色の瞳が優しく雪乃を見つめている。
「ありがとうございます。今のところは……ミアやサヴィラが色々と教えてくれますから」
腕に抱いたミアの背をとんとんと撫でる。すやすやと気持ちよさそうに眠っている娘は、起きそうにない。
「随分、懐かれたんだなぁ。サヴィラまでぐっすりじゃないか。俺だってサヴィラにそれなりに気を許してもらえるのには時間がかかったっていうのに」
悔しそうに言う割にジョシュアの眼差しは、どこまでも穏やかで優しかった。
「サヴィラとミアは、マヒロからユキノの話を聞いて、ずっと君に会いたがっていたんだ。だが、マヒロときたら女子供にはユキノの姿絵を見せてくれるのに、俺にはちっとも見せてくれなかったんだ。おかげで貴女が見つかった後、本物か偽物かかなり悩んだんだ」
「まあ、ごめんなさい。あの人ったら相変わらず変なところで独占欲が強くて……ミアのことでも苦労があったんじゃないですか? あの人、とんでもなく親馬鹿だから……」
「ミアに関しては……あー、レオンハルト様のお父上が婚約の話を持ち出してちょっとばかりな」
ジョシュアがどこか遠くを見ながら言った。
雪乃の覚え違いでなければ、レオンハルトはこのアルゲンテウス領を治める辺境伯の息子だったはずだ。つまり真尋は、領主様に何かやらかしたあとらしい。
「あの人、変なところで大人げないというか……帰って来たらお説教ね。…………ところで」
雪乃は、言葉を切ってジョシュアに顔を向ける。
「何か、私に聞きたいことがあったんじゃないですか? 勘違いだったら、聞き流して下さいな」
ジョシュアはぱちりと目を瞬かせた後、きまりが悪そうに頬を指で掻いた。
あー、うーと意味のない音が彼の口からこぼれて、金茶色の髪を大きな手ががしがしと乱す。
教会の外には、雪乃の護衛をしばらく務めてくれるジェンヌという女性騎士がいたはずだ。彼女は親子水入らずの時間は邪魔したくないと言って、教会の外で待っていてくれる。
だがタマは、ジョシュアを呼んで来て、そして、まだ戻っていない。あの賢い小さなドラゴンは、ジョシュアから何かを感じ取ってここに連れてきたのだろう。それにきっとジョシュアも家の中ではなく庭にいたのだ。
「気を、悪くしないでほしいんだが……」
雪乃は黙ってジョシュアの話に耳を傾ける。
「あの、ミツルっていう執事は、本当にただの執事か? あまりに気配がない」
なんとなく良そうでいていた問いに雪乃は、どうしてそう思ったのかを尋ねる。ジョシュアは、しばし悩んで言葉を吟味してから口を開く。
「正直なところ、俺はユキノは本物だと判断してる。だが、俺は君や双子のことを話しには聞いていた。カイトの話もイチロから聞いたことがある。だが、あの執事のことだけは聞いたことがなかった。精々、癖はあるが優秀な執事がいたってことだけで名前だって知らなかった。サヴィラやミアでさえ、だ」
いくら雪乃や双子、真尋自身が充を家族だと思っていても、事情を知らない人間がそれを理解するのは難しいのかもしれない。とくに充は、武術にも長けているから、冒険者として身を立て、この屋敷を護る任務を与えられているジョシュアには、ことさら警戒すべき対象になっている。
「充さんは、真尋さんが拾って来たんです」
「……は?」
訝しむようにジョシュアが眉を寄せた。からかってるのか、と言いたげな表情に雪乃はミアの背をとんとんと撫でながら答える。
「充さんは、家族というものに恵まれなくて、色々な家庭を盥回しにされて、あまり幸福とはいいがたい少年時代を過ごして、そして、真尋さんに出会ったんです。最後に引き取られた過程で彼は暴力の末に殺されそうになって、真尋さんが間一髪で助けて、我が家の執事として迎えたんです。そうでもしなければ、死んでしまうと……真尋さんは思ったそうです」
よいしょ、とずり落ちそうなミアを抱え直す。
「私には気配とか、そういうのはよく分からないのですけれどジョシュアさんのようにお強い方からすると気配を感じられないのは、充さんが生きて行くために身に着けた術の一つなのかもしれません……だから、本人も気配を消しているという自覚はないと思うのです」
苦笑を零して、顔を上げる。
ティーンクトゥスの穏やかな銀の眼差しが、ただ雪乃を見つめている。
「充さんにとって唯一の神様は、ティーンクトゥス様ではありません。あの子の世界を創ったのは、真尋さんです。真尋さんだけが、充さんの神様なんですよ。だからそう、身構えないでくださいな、とはいっても難しいでしょうけれど、充さんは真尋さんの大切な人や場所を護るために頑張っている我が家自慢の執事さんなんです」
「……なら、どうしてマヒロは、口に出さなかったんだ? 大事な執事なんだろう。マヒロの性格から言って、何より大切な奥さんの傍に置くくらい信用していたのに」
ジョシュアは、どうにも腑に落ちない様子だった。
「真尋さんが考えそうなところで言えば、呼ぶと来てしまいそうだから、かしら」
「呼ぶと、来る?」
ジョシュアが困惑に眉を下げる。雪乃が彼の立場だったら同じような顔になっていただろう。
真尋にしてみれば、充が自分の下に来てしまっては困るのだ。彼はいつも自分が何より信頼する充を雪乃たちの傍に置きたがった。充もそれを承知していたし、真尋の大切な家族である雪乃たちを任されることを誇りにしていた。だが、それは真尋が存在してこそだった。真尋は充が自分に依存していることをきちんと理解していたから、真尋がいなくなった世界での充の危うさを危惧していたのだろう。
だから、真尋は充のことは口にしなかった。自分が呼んだら何もかもを捨て去って駆け付けてしまいそうだと思ったに違いない。
きっと海斗あたりなら「分かる」と頷いてくれたかもしれないが充のことを何も知らないジョシュアには理解しがたいことだろう
「神様に呼ばれたら、行きたくなってしまうでしょう? 真尋さんがティーンクトゥス様に呼ばれてここへ来たように……真尋さんは自分がいなくなった後、私たちを充さんに護ってほしかったから、決してその名前を口にしなかったんです」
ジョシュアが、曖昧な表情を浮かべて雪乃の視線の先を辿るようにティーンクトゥスを見上げた。
しばらく、二人の間には雨の音だけがざあざあと響いていたが、ふっと気を行詰めたのはジョシュアが先だった。
「……到底、理解できるようなことじゃないが、とりあえず分かったとだけ言っておくよ。……なんだかんだ言ってもあんなに泣いていた青年がそう悪い人間だとは思えないからな」
ふっと表情を緩めてジョシュアが言った。
「ありがとうございます」
「きゅーい!」
雪乃がお礼を言い終わるのと同時にタマが帰って来る。のそのそとテディとジェンヌもあとからやって来た。
「あら、随分とたくさん呼んで来てくれたのね、ありがとう」
「きゅきゅ!」
タマは得意げに一回転して見せた。
「じゃあ、行こうか。夜はもう冷えるからな」
ジョシュアがそう言ってサヴィラをそっと抱き上げた。ジェンヌが「失礼します」と断って真智を抱き上げ、タマは真咲をひょいと魔法でテディの上に乗せた。雪乃もミアを抱き上げて立ち上がる。
「そういえば、レイさんという方も一緒に住んで居るってミアが教えてくれたんですが、その方はどこに? 夕食の時も見かけなかったのですけれど……」
外へ出て水の魔法で透明な傘を作り出して皆が濡れないように広げながら、雪乃は問う。
「あー、ちょうど、ユキノたちが来たときは冒険者ギルドの仕事で留守にしててな。あいつは独身だから、山猫亭のほうにしばらく泊まるって連絡があった」
「まあ、気を遣わせてしまったんですね……ごめんなさい、真尋さんの心が狭くて」
「いや、俺だって男どもだらけの宿にプリシラを置いておくのが嫌でマヒロとイチロの家に部屋をもらった身だからなんとも。でも今はそれでよかったよ、シラはとんでもない方向音痴だから、人の目がたくさんあるここの方が安心だ。それに今は身重だから余計にな」
「ええ、ジョンくんが嬉しそうに教えてくれました。妹が生まれるんだって、もう性別が分かるんですか?」
「いや、性別なんて産まれてくるまで分からないけど、ジョンは女の子だって思ってるみたいなんだ。でも、シラもそんな気がするって言ってたから女の子なのかもな。ちなみに出産予定は春だよ」
「楽しみですね」
ああ、と頷いてジョシュアは目じりを下げた。
あの面倒くさい気質の真尋が、一緒に住むことを許しただけはあって、ジョシュアはとても良い人だと雪乃も思う。
強く、真っ直ぐで、それでいて穏やかで優しい人柄は、傍にいると安らかな気持ちになれる。ジョンが真尋との出会いを教えてくれたから、真尋がこの町でもっともお世話になっているのが彼なのだろう。
「楽しみと言えば、明日は一路くんの恋人のティナさんに会えるのかしら」
「ああ、今日は夜勤だから留守だが、明日には帰って来るよ」
「そうだ、ジョシュア殿、カロリーナ小隊長が、明日、暇ならば是非、訓練をしてほしいと言っていましたよ。そこの庭先でいいので、と。神父殿から許可は事前にもらっているそうですから」
会話が切れたところでジェンヌが言った。
雪乃は、再びタマが浮かばせてくれたので、ふよふよと三階へ運ばれながら耳を傾ける。
「俺の予定を把握しきって、言ってるな。明日はで領主夫人の護衛の日だから一日屋敷にいる日なんだ」
「だからこそ、ですよ。Aランク冒険者のジョシュア殿に教えを請いたいのです。ね、ユキノ夫人」
ジェンヌが雪乃に助力を頼んでくる。
雪乃は、くすくすと笑いながら頷く。
「そうね、お強い方に教わるのは大切なことですもの。あ、そうだわ。でしたら充さんと海斗くんにも声をかけてはいかがかしら? 相手の手の内が分かった方が、皆さんも安心するんじゃなくて?」
「それはいいですね!」
ジェンヌがぱっと顔を輝かせ、ジョシュアは思案顔を装っているがその目が輝いたのを雪乃は見た。
それにしても二人とも子ども一人ずつ抱えて、階段をあがり、会話までしているのに息一つ乱れていないのが不思議だ。階段を上がり終え、ミアの部屋に到着する。今日はみんなでここで眠ると約束したのだが、サヴィラは気を使って自分の部屋と言っていたが、面倒なので一緒でいいわよね、と雪乃はジョシュアとジェンヌに子どもたちをベッドに運んでもらう。テディの上にいた真咲は、タマがベッドに下ろしてくれた。
サヴィラ、真智、ミア、真咲と並んで寝ている姿にうちの子たちはなんて可愛いのかしらと頬が緩む。ミアと真咲の間に雪乃は眠る予定だ。
「充さんは、警棒術ですとか体術が得意なんです。海斗くんは体術です」
子どもたちに布団を掛けながら雪乃は告げる。
海斗は、射撃が趣味なのだが、この世界には銃がないので黙っておく。
「カロリーナ小隊長に相談してみますが、是非」
「……分かったよ。決まったら教えてくれ。ただし、魔法は一切禁止な。何か壊したらプリシラとクレアに叱られる」
ジョシュアの言葉にジェンヌは嬉しそうに頷いた。
「それでは、ユキノ夫人、おやすみなさいませ。私は隅の部屋におりますので、何かありましたらお呼び下さい」
「ええ、ありがとう。ジョシュアさんもありがとうございました。おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
会釈をして去っていく二人を見送り、雪乃は子どもたちを振り返る。
まだ穏やかに寝息を立てている。本当にぐっすりと眠りこんでしまったようだ。
ワンピースからネグリジェに着替える。テディは足元の大きなクッションの上で丸くなり、タマは枕元ですでに丸くなっていた。
窓辺に立ち、そっとカーテンを指先で避けて外を見る。夜警の騎士たちの姿がちらほらと見え、炎や怒りの玉が雨の中でも皓皓と庭を照らしていた。鉄の門は固く閉じられ騎士たちによって守られている。あの門が今すぐにでも開いて、愛しい人の姿見えればいいのにと願ってしまう。
「……早く、帰って来てね、真尋さん」
雪乃は祈るように呟いてカーテンを閉じ、子どもたちの眠るベッドへ足を向けたのだった。
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