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称号は神を土下座させた男。  作者: 春志乃
第二部 本編
81/158

第九話 信用のない男


 グラウという町は、ブランレトゥの壁ほどの高さはないが石造りの壁に囲われたなかなかに栄えた町だ。観光地というだけあって大勢の人々で賑わっていて活気あふれる町並みが広がっている。

 真尋は窓から町を眺めながら、朝日の眩しさに僅かばかり目を細める。

 グラウとブランレトゥの決定的な違いは、色だ。ブランレトゥは白い漆喰と黒い屋根と木でできた家が基本だったが、グラウの家々は造りは同じだが屋根は赤だった。微妙な色の違いがある分、何だかとも町並みは鮮やかで白い漆喰の壁とのコントラストも綺麗だった。それにブランレトゥほど背の高い建物もない。精々高くて五階くらいで、その五階にいる真尋からは町が良く見えた。

 流石にこの町にロボは入れないので、頑として入らないと言うナルキーサスとアゼルと馬車と一緒に町の外で留守番をしてもらっている。双子はもちろん連れて来ていて、一路の腕にしがみつくようにしてソファに座っている。どうやら族長の息子に怒られることに対して身構えているらしい。置手紙はしてきたと言うがあまりに無茶な所業だ。行き過ぎない限り、真尋たちは双子が叱られるのは仕方がないと思っている。

 この町限定のスイーツってあるのかな、という一路の言葉を聞き流して、真尋たちが訪れたのはグラウの町を守るクラージュ騎士団の支部だ。五階建ての石造りの建物は、本部にあるそれと比べればこぢんまりとしている。

 グラウの町には、商業ギルドと冒険者ギルドの支部もある。

 領主が住んでいる領都ブランレトゥは別だが、そうでない場合は商業ギルドのギルドマスターが所謂町長の役目を担う。だが、全ての町村に商業ギルドがある訳ではない。各町にある商業ギルドが幾つかの小さな町や村も管理していて、そこには所謂、代表者ということで村長や町長がいる。

 商業ギルドは、相変わらず小奇麗な建物で広場を挟んで向かいに建つ冒険者ギルドは頑健とした石造りの建物だった。広場は屋台が出ていて、なかなかに朝から賑やかで、その広場を抜けて、町の北側に位置しているのがクラージュ騎士団第一師団第四大隊が拠点としている支部だ。

 そこで真尋たちは領主とエルフ族の使者を待っている。

 真尋は、ここまで案内してくれ、今は部屋の入り口でカチコチに緊張して突っ立っている騎士に許可を貰い、バルコニーへ出て煙草に火を点ける。

 眼下に広がる庭では、騎士たちが鍛錬をしていて、カンカンと木製の模擬剣がぶつかり合う小気味良い音が響いている。


「やはり質が落ちるか」


 欄干に寄り掛かり咥え煙草で眺める鍛錬は、ブランレトゥの本部で行われているものと比較すればやはり本部の騎士と比べてしまうと実力が少々劣るのが分かる。ただ、ここから見た限りでは階級も分からないので、一概にそうとも言い切れない部分もある。だが、中には剣術だけなら少し手を掛ければぐんぐん伸びていくだろうという素材がちらほらいて興味を引かれる。

 真尋は振り返りもせず、指だけでおいでおいでをする。そうすればすぐにリックがこちらに駆け寄って来て、どうしましたと首を傾げる。


「まだ来ないか? 領主様は」


「ええ、そのようです。我々の到着が予定より早かったですから、会議の予定を入れてしまっていたようで……マヒロさん?」


 リックが訝しむように眉をよせた。

 真尋は、くいっと鍛錬をする彼らを顎でしゃくる。


「ちょっとあそこで体を動かしてきても良い」


「良い訳ないですね」


 最後まで言わせてもらえなかった。


「大人しくしていてください。いいですか? これを見て下さい」


 リックが真尋がやったアイテムボックスから取り出したのは、何の変哲もない革表紙の日記帳だ。まだ新品だというのが小奇麗な様子から見て分かる。


「それが何だ」


「私を心配した心優しいサヴィラがくれたんです。ここに父様の所業を書き連ねて旅が終わった時に俺に提出してくれと。内容によって俺とミアが怒るからとくれた私のお守りです」


 奪い取ろうと手を伸ばすが、リックは飄々と避けて、アイテムボックスにしまってしまう。

 あれだけ念を押されたからちゃんと頷いて返したというのに、愛しの息子はどうも真尋を信頼してくれていない。


「あんまり無茶と勝手なことをなさるなら、私はその全てをあれに書き記して、サヴィラとミアに言い付けます」


話が聞こえているのだろう。部屋の中で一路が片手で口を押えてフィリアの肩に突っ伏し背中を震わせているし、その後ろでエドワードは相棒にエールを送っている。


「……お前、恥ずかしくないのか騎士のくせして十三歳と六歳の子どもに告げ口なんて」


「一切、恥ずかしくも情けなくもありません。そうでもしなければ、マヒロさんは私の言うことなど聞いて下さらないでしょう? むしろあれは、私が無事に帰れるようにと言うサヴィラからの愛情です」


 リックはきっぱりと大真面目に言い切った。

 真尋は煙草を噛みちぎりそうになるのを堪えながら僅かに顔を顰めるが、出会った頃は意味深な真尋の笑みに怯えていた護衛騎士は、痛くもかゆくもないと言わんばかりに飄々と受け流す。


「ひー、ふふっ、も、もう無理ぃ、あははっ」


 ついに一路が声を上げて笑いだした。ティリアとフィリアがきょとんとして一路を見ている。エドワードは「すごいぜ! 相棒!!」とリックに拍手を送っていた。


「……ちっ、いいじゃないか、一緒に鍛錬してくるぐらい」


「大人しくしていてください」


 取り付く島もないリックの返事に真尋は、不貞腐れたように紫煙を吐き出したのだった。









「こンの、大馬鹿共がぁ!!」


「いったぁぁ!」


「いでぇぇえ!」


 ゴツン、ゴツンとティリアとフィリアの頭に拳骨が一発ずつ落とされ、族長の息子・ダールの前に正座した双子は呻いたが止める間もない出来事だった。

 真尋とリックがバルコニーで火花を散らし、一路の笑いが漸く収まりかけた頃、いきなりドアがばーんと勢いよく開いてダールが飛び込んで来たのだ。ダールを目にした途端、一路に張り付いていた双子は床にスライディング土下座を決めたが、やはりそれだけで済むわけもなく冒頭の怒声が部屋の中に響き渡ったのだ。

 ダールはエルフ族らしい整った容貌の男で胡桃色の髪にベージュ色の瞳を持っていて、背が高く筋肉質だ。見た目年齢は、四十代くらいに見えることからかなり年上なのだろうと推測できる。


「どれだけ里の皆が、お前たちの母親が、心配したと思っているんだ!!」


「だ、だって……あたしたちに母様が、母様を助けられるのは神父様だけだって言うから……っ」


「母様が死んじゃやだから、俺たち、おれたちっ」


 痛みの所為だけではない涙を零し始めた双子をダールは、馬鹿、と弱々しく叱って抱き締めた。


「お前たちの母様の助言あって、こうして俺たちが来たんだろうが。お前たちの母様もまさか枝を渡しただけで、村を飛び出していくなんて思わなかったってどれだけ嘆いていたことか……、あの枝は俺たち大人に託せという意味だったんだ、最後まで親の話を聞け馬鹿者」


「ごめ、ごめんなさぁい」


「ごめんなざあい」


 わんわん泣き出した双子をぎゅうと抱き締めてダールは、また「馬鹿者」と呟いた。

 バルコニーで一連の流れを煙草をふかしながら眺めていた真尋はダールの目の下に出来た隈と双子を抱き締める武骨な手が微かに震えていることに気が付いた。本当に心配で心配でたまらなかったのだろう。ダールは村の外が、エルフ族の美しく幼い双子にとってどれほど危険な場所かを知っていて、だからこそ碌すっぽ自分の身も自分で守れないような子どもが行方をくらませたことに気が気ではなかったのだろう。


「やっぱり怒られましたねぇ」


 リックが苦笑交じりに呟いた。


「そりゃあそうだろう。俺だってミアとサヴィラが同じことをしたら同じように怒るさ」


「そうですね。私も弟と家出のまねごとをして、ああして怒られた記憶がありますから」


 短くなった煙草を火を点けて燃やして片付け、中へと入る。

 ほんの少し前にやってきたアルゲンテウス辺境伯・ジークフリートが苦笑を浮かべて入り口でダールたちを眺めていたが真尋と目が合うと、軽く手を上げた。真尋も頷いて返し、ダールの腕の中の双子が落ち着くのを待つのだった。






「改めて、お礼申し上げます。私はエルフ族の族長の息子、ダールです」


「初めまして、神父のマヒロと申します。こちらは見習い神父のイチロ、こちらが私の護衛騎士のリック、あちらが一路の護衛騎士のエドワードです」


 三人も会釈をし、ダールも挨拶を返す。泣き止んだ双子は、ぐずぐずと鼻をすすりながらダールの両脇に座っている。その向かいのソファに真尋と一路が並んで座り、ジークフリートが真尋から右斜め前の一人がけのソファに座っている。護衛騎士たちはその背後にそれぞれ控えている。

 ジークフリートの護衛騎士は、金髪の方がホレス、黒髪の方がオーランドといい二人とも三十代半ばで領主の護衛騎士だけあってその階級は正騎士だ。何度か話したこともあるが、二人とも超が付く堅物でクソが付くほど真面目だ。リックの倍は融通が利かない。


「不躾かとは思いますが、早速、エルフ族の里に起きている異変についてお話頂いても? 我々の力がどう必要なのか教えて頂きたい」


 ちらりとジークフリートに視線を投げれば、首肯が返って来て真尋は改めてダールに顔を向ける。

 ダールは、不安そうに彼を見上げた双子の背を抱いて、真尋に顔を向ける。


「辺境伯様には既にお話したのですが、世界樹とその魔力の恩恵に与る精霊樹が異変を来たしているのです」


「ティリアとフィリアに聞きましたが、若い精霊樹が枯れたと」


「はい」


 ダールは深刻そのものの表情を浮かべて頷いた。


「枯れた精霊樹は、普通の樹木として三百年生き、ほんの十年ほど前に精霊樹となった年若い樹でした。ですが二か月と少し前、急に葉を落とし始めたかと思うとあっという間に枯れてしまったのです。巫女様や私の父があれこれ手を尽くしたのですがその甲斐もなく。……それに、精霊樹に異変が起きる前からどうも世界樹の様子がおかしくて」


「葉が落ちて、魔力が弱っていると双子からは聞きました」


「その通りです。とはいっても葉は通年、他の木々と同じように落ちますが、その量が異様に多いのです。落葉樹ではないので冬だからと禿げることは無い筈なのですが……それになにより世界樹がその身に宿す魔力が弱まっているのです。巫女様が原因を探って下さっていますが、今のところは……それでこの子たちの母もそうですが、千年以上生きる精霊樹たちが口を揃えて、貴方を……神父殿を呼ぶようにと我々に助言を」


 真尋は顎を撫でながらソファに身を沈める。

 千年以上を生きる精霊樹ということはつまり、ティーンクトゥスの力が正常に作用しこの国をインサニアから守っていた時代を知っているということだ。


「最初、我々は王都の神父かと思ったのですが、精霊樹たちにあんな強欲な詐欺師じゃないと叱られまして、ブランレトゥにいらっしゃる浄化の力を真に持つティーンクトゥス神の愛を受けた神父殿をと」


 思わず一路と顔を見合わせる。

 ティーンクトゥス神の愛を受けた、など一体、どういう意味で精霊樹たちは口にしたのだろうか。真尋と一路の存在はまさにその言葉通り、ティーンクトゥスの愛を受けてこの世に、この世界に、この国に、この地に在るのだ。


「何故、精霊樹たちは、そんなことを知っているのですか?」


「我々も詳しくは分かりませんが、世界樹の魔力はこのアーテル王国全土隅々にまで行き渡り、地の魔力の整調を担っています。その魔力は私たちの体に流れる血液と同じようなものです。だから精霊樹は、王国で起こっている様々な出来事を知っているのだと考えられています」


「……エルフ族、或は、妖精族しか精霊樹と会話をすることは不可能ですか?」


「いえ、精霊樹とは可能ですよ。世界樹は無理ですけど……世界樹と会話できるのは、エルフ族の中でも巫女様のみですから」


「そう、ですか」


 精霊樹と会話が出来るとすれば、もしかしたらティーンクトゥスが力を喪った切っ掛けが分かるかも知れない、と真尋は目を細める。

 彼らは、真尋たちと王都の神父の違いをはっきりと認識している。


「ダール殿、貴方も先ほど仰っていましたが、双子が母親から託された枝にはある仕掛けがされていました」


 アイテムボックスから枯れてしまった精霊樹の枝とあの氷で作ったドラゴンを取り出す。ダールが枯れ枝にはっと息を飲み、ドラゴンに目を丸くする。


「この枝の魔法を暴いたところ、精霊樹の魔力に包まれた真っ黒な闇色の霧が溢れ出し、このドラゴンの形に成ったのです。ああ、このドラゴンは氷とインクで出来ている偽物ですのでご安心を。本物はとても儚いもので、既に消えてしまっています」


 氷のドラゴンをダールに渡す。


「何か心当たりはありますか?」


「いえ……里の近くにドラゴンはいませんし、里から一番近いと言ってもルドニーク山脈の標高の高い所です。あ、でも……」


 ダールの眉間に皺が寄る。


「雷の月の頭に一度、里の近くでドラゴンの咆哮を聞いたんです。里は一気に戦闘態勢に入りましたよ、またあの忌々しい蛮族がまた里の宝物庫でも荒らしに来たのかと」


 多分、蛮族というのはエルフ族とドワーフ族と仲の悪い竜人族のことなのだろう。竜人族のことを話してくれた時のジルコンと同じ顔をしている。


「ですが、それはその一度きりで三日三晩ほど警戒し、森全体に探りを入れましたがドラゴンのドの字もなく、今もあれはなんだったんだと……我々は首を傾げていたのですが、もしやあれが何か関係があるのでしょうか。……というかそもそも神父殿は、この異変をどうお考えですか?」


「質問に質問で返す無礼をお許しください。貴方方エルフ族の見解が知りたい」


 真尋の返しにダールは、気分を害した様子もなく「それもそうですね」と頷いてくれた。


「我々は最初、新たな、これまでは存在していなかった恐ろしい病だと思ったのです。ですから里の薬師があれこれ手を尽くしてくれましたが、そもそも世界樹が病に罹った例はなく、その魔力によって育てられる精霊樹も然りでした。そして件の精霊樹は瞬く間に枯れてしまった。葉を落とし続け、細い枝から枯れ、そして最後には葉という葉から色を喪い、枯れてしまいました。それはまるで魔力を喪った時の妖精族のような最期でした」


「真尋くん、やっぱり……」


 一路が真尋を見上げる。その琥珀に緑の混じる瞳が言わんとしていることを察し、真尋は静かに頷いた。


「……私たちは、今回の件は周期的にこのアーテル王国に発生する脅威、インサニアだと考えています」


 ダールが目を細め、唇を噛んだ。永い時を生きるエルフ族だ。その可能性も考えてはいただろう。


「水の月にブランレトゥに発生し、被害を及ぼしたそれとはまた別のものです」


「聞いた話だと、ブランレトゥのそれは人工的な、人の力が生み出したものだと……ならば、世界樹を蝕んでいるそれもまたそいつらの?」


「いえ、先に言った通り、世界樹を蝕んでいるかもしれないそれは王国に周期的に自然発生するインサニアだと考えられます」


「何故、そう言い切れるのですか? 犯人は捕まっていないのでしょう?」


 ダールが訝しむように首を傾げた。真尋は、その通りですが、と頷いてエドワードに目配せをした。エドワードが一路に確認し、一路が頷くとダールにくっついていた双子に声を掛ける。


「ティリア、フィリア。ここからは悪いが、ちょーっとお子様には聞かせられないんだ。俺と一緒に町でも観光して来ようぜ」


「すまないな。色々と機密があって……ほら、俺の財布をエディに渡しておくから好きなものを買っていいぞ。その代わり、美味そうなものがあったら買っといてくれ」


「で、でも……」


 ティリアが不安そうに真尋とダールを交互に見た。ダールは苦笑を零すと双子の頭をくしゃくしゃっと撫で、背中を押すようにして二人を立たせた。


「行っておいで。ついでにじじ様たちの土産でも選んで来てくれ。お前たちが買えば何でも喜ぶだろうから、なんでもいいぞ」


 ダールが赤銅貨を三枚ずつ、二人に握らせた。二人はようやく、わかった、と頷いてそれをポケットにしまった。


「じゃあ、ティー、フィー、僕には甘いものお願いね。僕の分は真尋くんの財布から出していいよー」


「はーい」


「レブ、案内してやれ」


ジークフリートが声をかけると、あのカチコチに緊張している騎士がエドワードたちと共に部屋を出ていく。

その背がドアの向こうに消え、足音が完璧に遠ざかってから真尋は、ダールに向き直った。ダールはただじっと真尋の言葉を待っている。


「水の月にブランレトゥを襲ったインサニアは、ザラームという男が魔法と自身の魔力によって創り出したものです。自然発生するインサニアは、空気中に存在する魔力の残り香とも言われる魔素が何かしらの原因で集まり邪気を放つようになったものだと言われていますが、この人工的なインサニアは、自然発生したものと同様、触れた者の命を奪い、魔獣をバーサーカー化させ、死の痣という脅威をもたらしますが……それを構成するものは全く違うのです」


「構成するもの……ですか?」


「はい。自然発生するインサニアは説明した通り、何かしらの要因が重なり魔素が集まり、邪気や瘴気を放つようになり、魔獣をバーサーカー化させます。そして、元来、儚いものであるインサニアはある程度の時が立てば消えてしまう。ダール殿、貴方はインサニアと聞いて何を一番に畏れますか?」


「もちろんバーサーカー化した魔獣と……それが齎す死の痣、北の悲劇です」


 予想通りの答えに真尋は、そうでしょうと頷く。

 これまでこの国に被害を与えたインサニアは、どれも人里離れた場所で発生し、消えて行った。人々は死の痣と魔獣の脅威には晒されたが、インサニア自体に人が触れた時に与えられる死については、誰も知らなかった。誰も触れたことがないからだ。だから、ブランレトゥの貧民街で次々と起こる変死体について、ナルキーサスのように専門的に研究している人間でさえインサニアという答えを導き出せなかった。


「その通り、インサニアの脅威は死の痣と魔獣です。ブランレトゥも甚大な被害を受けました。そして普通のインサニアは、いつか消えていく儚いものです。ですが、この人工的なインサニアは、人の命を糧に強大化し、いつまでも存在し続ける。確かにその欠片自体は本来の性質通り儚い。私や一路の浄化の魔法に触れれば呆気無く霧散してしまいます。ですが……その素は、ザラームの邪悪な魔力によって創られた核を壊さない限り、人の命を奪い存在し続ける。……貧民街で、そして、乗っ取られていた店の何の罪もない数十名の人々が命を奪われました」


「……大勢の人々がインサニアで亡くなったと聞いていました。同時にバーサーカー化した魔獣が町を襲ったとも。だからそれは死の痣によってだと思っていたのですが、違うのですか」


「今回の事件で、死の痣によって亡くなったのは……二歳の獣人族の小さな男の子一人きりです。それ以外の人々は、インサニアそのものによって、インサニアを生かすためだけに、その力をより強く、邪悪なものにするために命を奪われたのです」


 今でも鮮やかに夢に見る。

 小さな小さなノアを蝕んでいた黒を、穏やかで、寂しくて、静かな最期を、ミアの涙を、あの――悲しい言葉たちを。

 その度に記憶の中でティーンクトゥスが会わせてくれたノアが笑顔で「だいじょうぶ」と言うのだ。オルガの腕の中で翡翠色の大きな目をにっこり細めて笑う小さな兎の男の子の笑顔に真尋は何度も何度も救われている。


「インサニアは魔獣をバーサーカー化させる際、核を蝕みます。核は大抵、この辺にある。だからインサニアに襲われた人々は、総じて胸を掻きむしり、インサニアが齎す途方もない苦痛を自分から引き剥がそうとする。だからインサニアに命を奪われた遺体は全て、苦悶に満ちた表情を浮かべ、この胸に酷い傷が残ります。エルフ族の里、或はその周辺の地域でそのような変死を遂げた人はいますか?」


 真尋は自分の胸をとんとんと叩きながら問う。ダールは、少し考え込むように顎を撫でた後首を横に振った。


「いえ、精霊樹以外は犠牲者は出ていません。死の痣も私が里を出た時までは確認していません」


「……そうですか。ならやはり、人工的なインサニアは可能性として低いでしょう。そもそも犯人たちもすぐに回復出来るような怪我ではありませんので」


 腕を切り落とされたエイブもだが一路によって浄化の魔法をこれでもかとぶち込まれているザラームは特にそう簡単には復活できないはずだ。常人にとって光の魔法は癒しだが、邪悪な存在であるザラームにとっては何よりの猛毒だ。


「ですが神父殿、バーサーカー化した魔獣は確認されていないんです。インサニアだと決めつけるのは時期尚早では?」


「確かに自分の目で確かめた訳ではありません……ですが、二人の母親である精霊樹が託してくれた枝に封じ込められていたのは間違いなくインサニアです。そして、ティーンクトゥス神が正しくこの国の人々に愛され敬われていた時代を知る精霊樹たちが私たちを求めたこともそう判断する理由の一つです。私たちの浄化の力はこのインサニアに対抗するためのものであり、インサニアから神の愛し子であるアーテル王国の民を護るためのものでもあるのです」


 ダールは押し黙るようにしてソファに体を沈め、眉間に皺を寄せて目を閉じてしまった。


「ティリアとフィリアには言えませんでしたが……彼らの母親は既にインサニアに侵されている可能性が高い。精霊樹たちの心臓でもある世界樹がインサニアに侵されているなら、その魔力の恩恵を受ける精霊樹にも危機は訪れている筈です。……一刻も早い処置が必要です」


「神父殿は精霊樹たちが呼んだ方々でもあるが……別室にいる仲間とも相談したい。少し時間を頂きたい。二時間で良い」


 真尋は腕時計に視線を落とす。朝一番で町に入ったのでまだ午前十時だ。二時間くらいなら十二時過ぎには結論は出ているから、午後一番で出発できるだろうと算段をつける。それに真尋には、ジークフリートに夫人に毒が盛られた事件と夫婦喧嘩もいい加減にしろと伝える仕事も残っている。


「分かりました。では二時間後、またこの部屋に。私は別件で領主殿と大切な話がありますので」


「すまない、神父殿。領主殿、そういう訳で少々、席を外します」


「ああ。マヒロ神父殿とイチロ神父殿の実力は、間違いないものだと私も保証する。里のため、よくよく考えてくれ」


「分かりました。それでは失礼致します」


 ダールは立ち上がり真尋たちとジークフリートに一礼すると急ぎ足で部屋を出て行った。








「いいですか?」


 真尋は第一声、煙草を取り出してジークフリートに尋ねた。もちろん、と頷いた彼も懐からそれを取り出した。真尋も許可が出たので嬉々として煙草を咥え、火を点ける。

 ほろ苦いその煙を堪能し、ふーっとゆっくりと吐き出してからジークフリートへと目だけを向けた。


「……実はですね、領主殿」


「今は我々だけだ。ジークで良い。人払いも済んでいるし、ここは防音魔法が掛けられている」


 紫煙を吐き出しながらジークフリートが言った。真尋は、そうですか、と頷いて一応、辺りを探る。確かに緻密な防音魔法が掛けられているようだ。

 ジークフリートは真尋にそれなりに気を許してくれているようで、こうした身内だけの空間だと名前で呼ぶようにと言われている。ウィルフレッドと兄弟である彼は、弟と同様に堅苦しいのがあまり好きではないようだった。


「では、ジーク。お尋ねしますが、夫婦喧嘩は何が原因ですか?」


「ごふっ、ゴホゴホゴホッ」


 気管に唾でも入ったのかジークフリートが咽る。

 ホレスが慌ててその背をさすり、オーランドが投げ出された煙草を慌てて拾い上げ、リックが急いで水を用意する。無論、その水はホレスが毒見をしてからジークフリートに渡される。ここは真尋の屋敷ではないし、彼が口に着けるものは煙草以外全てホレスかオーランドが必ず毒見をする。リックもそれは心得ている。


「マヒロさん、領主様を揶揄うのは御控え下さいと何度言えば分かるのですか」


「時間は有意義に使わねばならない。回りくどい話は時間の無駄だ」


「だからってものには言い方ってものが……!」


 話を遮るように伸びてきたジークの手にリックが口を噤む。

 未だ戻らない平静に少々、眉間の皺を深めて紅い瞳が真尋に向けられる。


「なんで、君がそれを……ごほん、んんっ、知ってるんだ?」


 咽すぎて掠れた声が問いかけて来る。


「貴方が町を発ったその日、奥方様が騎士団に来て、困り果てた団長閣下が私のところに連れて来たんです。そして、奥方様は私に「修道女になります」と言って教会に身を置きたいと」


 唖然という言葉をこれほど表した顔もないだろうと真尋は固まるジークフリードに肩を竦める。一路がどこからともなく取り出したクッキーを齧りながら、どうするの、と目で問いかけて来る。どうするのと聞かれたところで、どうしようもない。ここはブランレトゥではなく、大分離れたグラウだ。


「そ、れでアマーリアは?」


「僕らの家にいますよ。お皿を二十八枚割ってリリーさんに反省文書かされていましたけど、レオンハルト様とシルヴィア様も僕らの屋敷です。なかなか楽しそうに屋敷中をジョンくんたちと駆けまわっていますよ」


「なんで神父殿たちの屋敷に?」


「面白おかしくその辺を語ってもいいのですが、とりあえず奥方様とレオンハルト様、シルヴィア様の命を守る為です。……貴方が町を発ったその日の朝、奥方様に毒が盛られました」


 はっと息を飲む音が聞こえ、紅い瞳が極限まで見開かれる。伸びて来た手に腕を取られて、煙草が手から落ちた。すぐにリックが呪文を唱えテーブルから生えた小さな枝とその葉が煙草を受け止めてくれる。


「アマーリアは? レオンとシルヴィアは無事なのか!?」


「言ったでしょう。アマーリア様は……まあ虚偽なくご報告申し上げるのならば正確には皿を三十二枚ほど割って反省文を書いているし、レオンハルト様はジョンと屋敷中を探検していますし、シルヴィア様はミアとお人形遊びに興じておられます。……毒見をしたメイドが重症、そのメイドを救護したアイリス騎士が軽症ですが、メイドも快方に向かっています。元々、命を奪うような毒ではありません。ウィルフレッド団長閣下から、書簡を預かって来ました。お目通しを」


 真尋はアイテムボックスから手紙を取り出し、ジークフリートに渡す。ジークフリートは真尋の腕を掴んでいた手を離すと、すまない、と短く告げて手紙を開いた。紅い瞳が忙しなく文字を追い、緊張からか握りしめ過ぎてくしゃりと紙が悲鳴を上げている。それを横目にリックが受け止めてくれた煙草を再び咥えて紫煙を吐き出す。

 文字を追うごとに紅い瞳から不安は消えて、怒りにも似た感情が浮かび上がる。

 家族を害されたことによる不安、それが消えれば残るのは家族を害した者への怒りだ。

 ジークフリートの口からアマーリアや子どもたちの話を聞いたことはほとんどない。時折、思い出したように零されるだけだ。真尋自身は聞いてくれる人がいればずっと子供らがいかに愛しい存在か語っていたい人間なので真反対と言えるだろう。

 どんなきっかけで喧嘩をしたか知らないし、レオンハルトとシルヴィアにとってジークフリートが良い父であるかも知らない。でも、ただのお飾りの妻だとしたら、ただの領地の平和のためだけの後継ぎだとしたら、アマーリアは夫の無関心を悲しまないであろうし、レオンハルトは父を誇りには思わないのではないだろうか。


「神父殿の屋敷ならば、安心だ。……お前たちも目を通しておけ」


 ジークフリートがソファに身を沈め、手紙をオーランドたちへ渡した。オーランドが持つそれをホレスが覗き込む。


「すまないな、神父殿。また巻き込んでしまった」


「それはもう聞き飽きました。奥方に毒を盛った馬鹿共に関することは閣下たちが駆除するでしょう。俺が神父として任されたのは夫婦の仲をどうにかしろという一番厄介で面倒な問題です」


「相変わらず刃を隠さない男だ」


「そいういうところを気に入って頂けていると思っているのですが」


 ジークフリートは苦笑を零すと煙草を取り出して火を点ける。


「神父殿は中身を読んだか?」


「読むわけないでしょう。物が物です」


「なら、読んでみるといい」


 何故か呆然としているオーランドの手から手紙を抜き取り、真尋の手に押し付ける。

 訝しみながらもそれを受け取り、視線を落とす。横から一路が、後ろからリックが覗き込んで来て読み進めるごとに二人が驚きをその顔に乗せた。


「とことん炙り出す気のようだ」


 紫煙を吐き出しながらジークフリートが言った。

 一路とリックが真尋の機嫌を窺うようにこちらを見ている。逆にどうだと窺えば二人は揃って大丈夫と頷いた。


「閣下もああ見えて苛烈なお方ですからね。俺たちとしては男なら一人増えても文句はありませんよ」


 煙草を口に咥え、手紙を畳みながら答えればジークフリートは、そうか、と頷き自分の護衛騎士を振り返った。瞬間、ぶんぶんと勢いよく首が横に振られた。そのまま取れてしまいそうな勢いだ。


「このような命令を聞けるわけがありません!」


「そうです! 我々は貴方の護衛騎士なのですよ!?」


「だが、ウィルフレッドの考えも一理ある」


「だからってなんで我々が影武者の護衛などしなければならないのですか!?」


「我々二人がブランレトゥに戻ってしまったら誰が貴方を護るのですか!!」


 きゃんきゃんと騒がしい二人に真尋は眉を寄せ、指で耳を塞いだ。

 ウィルフレッドから預かった手紙には、領主様の影武者を立て、それを囮に夫婦喧嘩も利用して隙を作り阿呆共を捕まえるという作戦の概ねが書かれていて、身の安全を守るためにもジークフリートは真尋たちと共に視察も兼ねてエルフ族の里へ、彼の護衛騎士であるホレスとオーランドは信憑性を持たせるためブランレトゥに帰還し、影武者の護衛をするようにと命令が書かれていた。                            

 ホレスとオーランドの抗議をジークフリートが真面目に耳を貸している。

真尋としては、ここでジークフリートが死ぬとアルゲンテウス領の平和が崩れ、愛しい息子と娘と過ごす時間が確実に減るので彼を護衛する分には何の不満もない。ジークフリートは領主としては視野も広く優秀な男なので、このまま平穏にアルゲンテウス領を治めていてくれないと、家族の時間的にも教会的にも困る。


「……真尋くん、いいの? ほっといて」


 泣きつかれ始めたジークフリートに憐れみの目を向けながら一路が言った。真尋は横目でちらりと確認し、腕時計で時刻を確認する。ダールが戻って来るにはまだ時間がたっぷりある。

 

「あと一時間は大丈夫だ。この間、クロードと面白い魔道具を開発してな。だから、いざとなったらちょっと作戦を変更して、それを使ってみようと思う。クロードが使用情報を欲しがっていたから喜ぶぞ」


「え、何作ったの? 大丈夫なの? 危ないものじゃないでしょうね?」


「何でそんな疑いの眼差しを向けるんだ。おい、リック、まだ何もしてないんだからその日記はしまえ」







ここまで読んで下さって、ありがとうございました!

いつも閲覧、評価、ブクマ登録、感想、本当に作者の支えになっております><。


大スランプから漸く顔を出せたような気がするので、気長にお付き合い頂ければと思います。


次のお話も楽しんで頂ければ、幸いです!!

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