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後日談 ある少年を見守る騎士

 初めてその少年を貧民街で見かけた時、その紫紺の瞳はまるで手負いの魔獣のように鋭くぎらぎらとした光を宿していた。

 通りの向こうから、こちらを睨むその眼差しには縄張りを護ろうとする緊張感や土足で踏み入ろうとする大人への嫌悪がありありと浮かび上がっていた。

 少年は、きっと騎士である私よりもずっと、辛い現実を目の当たりにしてきただろう。自分よりも小さな子供が何人も死ぬ姿を貧しさゆえに死んでいく住人たちを彼は、そこで五年もの間、見て来ただろう。そして、それと同時にその辛い現実はどうやっても変わらないこと、どうにもならないことを自分の無力さを思い知ったのだろう。 


「父様を……初めてちゃんと見たのは、爺さんの葬式の時だったんだ。リックと一緒のときは、俺の方からは背中しか見えなかったし」


 夏の風に気持ちよさそうにシーツがそよぐ世界で少年は、私にどうして父様の護衛騎士になったのかと聞いてきた。私の情けない話を聞いた後、少年がぽつりぽつりと話し始めたのだ。

 彼の少し長めの淡い金の髪が夏の風に揺れてキラキラと光を孕む。


「葬送行列の爺さんの棺の前を父様は歩いてて……目が合ったんだ」


 伏せられた長い睫毛が少年の鱗の浮かぶ白い頬に影を落とす。


「その時、俺はよく分からない感情に襲われて、逃げ出したんだ。あの月夜色の綺麗な瞳を見てたら駄目だと思って、駄目になっちゃうと思って…………俺、あの時、名前すら知らないのに、神父様のところに走って行って、彼に抱き着いて泣いてしまいたいって思ったんだ」


 振り返った少年の紫紺の瞳は「分かるでしょう?」と同意を求めるように私を見上げた。


「神父様なら赦してくれるって、俺はどうしてかそう思ったんだ」


 夏の日差しが風にそよぐ何枚ものシーツに反射して眩しくて目を細めて逃げるように空を見上げた。どこまでも青く晴れ渡った空が広がっている。


「赦すことが、彼の……神父様の仕事でもあるからサヴィラはそう思ったのかもね。私も……私の弱さゆえの愚かな罪を赦してほしくて、マヒロさんの傍にいることを自分でも無意識の内に選んだのかもしれない」


「……そっか」


 少年は、そう呟いて私の視線の先を追うように空を見上げる。

 

「ねえ、リック」


「はい」


「……俺、変なんだ」


 思わぬ言葉に少年を振り返れば、少年は形のよい眉を下げて困り顔だった。

 そして、少年が不安そうに、困ったように告げた相談に私はこう答えた。


「……それは、君の父様に聞いてごらん」











 平日だろうが休日だろうが市場通りは、賑やかだ。

 リックの隣を歩くマヒロは、二人の前、手を繋いで歩くサヴィラとミアを見つめて、その美しい顔に穏やかな微笑みを浮かべている。おかげですれ違う人々が二度見して見惚れている。

 サヴィラがマヒロの息子になって早三週間が経った。まだまだ夏の暑さは厳しいが夜になると風に秋の気配を感じ始める季節だ。

 休みの今日、リックはマヒロ親子の買い物に付き合っていた。恋人もいない独身騎士の休日なんて鍛錬か部屋の掃除で終わってしまうが、マヒロの子どもたちはリックを兄のようにも慕ってくれて、買い物に出かける時にこうして誘ってくれるのだ。ただマヒロは「外に出ればお前にも出会いがあるかもしれない」と何故かリックの結婚について心配している。ちなみに相棒のエディは主であるイチロとその恋人のティナのデートに三回に一回はついて行っている。邪魔以外の何物でもないが「寂しいと死んじまう!!」と馬鹿みたいなことを至極真面目に叫んだ友を憐れんだイチロとティナの純然たる善意である。


「サヴィ、この子には何色のリボンが似合うかなぁ?」


「お店に行って考えればいいよ」


「一緒に考えてね」


「しょうがないな」


 サヴィラがふわりと優しく笑えば、ミアは嬉しそうな笑みをますます深めてサヴィラの手を握りしめる。

 ミアが腕に抱えているのはミアが今着ている柔らかなピンクのワンピースと白のエプロンと同じものを着ている白いウサギのぬいぐるみだ。このぬいぐるみはマヒロからのプレゼントだ。マヒロはことあるごとに息子と娘にプレゼントを贈ってばかりいるが、ミアは昨日、マヒロから貰ったウサギのぬいぐるみに大喜びして、休みの今日はそのぬいぐるみの首元を飾るリボンを選びに来たのだ。ちなみにサヴィラには、彼が大好きな小説の最新刊が贈られて、どうやらサヴィラは昨夜、夜更かしをしたようで今朝は少し眠そうだった。

 ミアもサヴィラもマヒロから与えられるたっぷりの愛情の中で幸せそうに笑っている。特にサヴィラは、随分と性格が丸くなって穏やかに笑うことが多くなり、表情が随分と柔らかくなった。きっと、これが本来の彼の姿なのだろう。


「なあ、リック」


「はい」


 声を掛けられて横を見れば、マヒロは真顔でリックを振り返る。


「うちの息子と娘、可愛すぎやしないか? 大丈夫か?」


「え……ああ、そ、そうですね、ははっ」


 貴方の頭が大丈夫じゃないです、という言葉をどうにか飲み込んでリックは、愛想笑いを浮かべた。

 リックの主になったこの美麗な神父様は、我が子たちを兎にも角にも溺愛しているのだ。基本的に我が子が最優先事項なので、休みといったら休みだし、休みの日は我が子に費やすと決めているため領主様が会食を申し込んで来ても「その日は息子たちとピクニックに行く約束なので」と断りを入れるほどである。きっとアーテル王国の国王にだって同じ返事をするだろう。

 それに先日、どうにかこうにかこの優秀過ぎる神父様を確実に領地に繋ぎとめておきたい領主様は少々判断を誤って、自分の息子であり次期アルゲンテウス辺境伯である息子のレオンハルト(五歳)とマヒロの愛娘・ミアの婚姻についてさりげなく仄めかしたら笑顔すら通り超えた絶対零度の真顔で「……あ?」と返された。あの時、執務室は極寒の真冬のように一気に気温が下がった。一緒に来ていた団長のウィルフレッドは胃を押さえながら逃げ出し、彼の事務官であるレベリオは飄々と笑いながら「ウィルを治療院に連れて行かないと」と告げて逃げた。

 心理的に極寒の猛吹雪に晒された領主様が「……なんでもない」と辛うじて告げたので大事には至らずに済んだのが幸いだった。何せマヒロの幼馴染で唯一彼を叱り飛ばすイチロが「あの段階になっちゃうと僕じゃ止められないからねぇ。領主様は空気の読める人で良かったよ。あのまま話を続けてたら、間違いなく近い内に真尋くんが辺境伯になってたんじゃない?」と笑いながら言っていたからだ。リックとエドワードはイチロの言葉を笑い飛ばせなかった。だってマヒロの目は獲物を前にしたヴェルデウルフと同じ目をして領主様を睨み付けていたからだ。領主様が空気の読める賢い人で本当に良かった。


「ミア、サヴィ、その店だ」


 マヒロが声を掛ければ、可愛らしいお店の前で二人が足を止めた。大きなショーウィンドウには、可愛らしい雑貨が並び、大きな熊のぬいぐるみも赤いチェックのチョッキを着て、こちらに手を振っている。朝、ティナに教えてもらったお店だ。


「パパ、テディ!」


「ん? ああ、そうだな」


「テディはもっと格好いいよ」


 そんな会話を交わしながら親子は仲良く店に入って行き、リックもその背に続く。一人だったら仕事以外では絶対に入れないが、子どもと一緒なら難なく入れるから不思議である。

 店内は女性客ばかりだ。棚にはリボンやレースの他に女性向けの可愛らしい雑貨や小物が中心だった。花柄の布にレースをあしらって作られた小物入れや綺麗な装飾の手鏡やコンパクト、ウサギやネコを模した可愛いピアスやイヤリングにキラキラと光る小粒の宝石が輝くネックレスなどリックには何の縁もない品々だ。

 ミアはサヴィラの手を引き、リボンとレースが並ぶ棚へと向かう。そこにはロール状のレースとリボンが何十種類も並んでいて、好きな長さで切ってもらえるようになっているらしい。


「ふぁぁ、いっぱい!」


 ミアがキラキラと興奮に目を輝かせて視線を彷徨わせる。幅も色も様々なリボンは色ごとに分けられて、まるで虹のようで綺麗だった。

 サヴィラが「何色系がいいの?」と尋ねるとミアは、うんうんと唸りながら悩み始める。ウサギのぬいぐるみを見たり、サヴィラを見たり、パパを振り返ったりと忙しない。

 ミアのウサギのぬいぐるみは、マヒロの手作りである。マヒロは家事は出来ないが裁縫は出来る。それも本職並みの腕前で休憩時間にふらりとどこかに出かけたかと思えば、材料を買って来て仕事をしながらウサギのぬいぐるみを作り上げ、休憩の合間にミアのワンピースと白いフリルのエプロンを仕上げ、ついでにウサギにも同じものを作った。仕事の合間にというか仕事をしながら裁縫なんて良いのだろうかとオロオロしていたリックたちにイチロは「ああやって何かやらせておく方が平和だし、仕事は滞って無いから良いんじゃない?」と言った。納得の言葉だったので、リックとエドワードは「そうですね!」と良い笑顔で頷いた。ちなみに今は、仕事をしながらサヴィラの服を作っている。団長は「マヒロが仕事をしてくれるならなんだっていい」、領主様は「町が平和ならそれでいい」とのことである。


「サヴィ、サヴィ、しゃがんで、パパ、あのリボンとってほしいの」


 ミアにせがまれてサヴィがしゃがみ、マヒロがミアに頼まれたリボンを棚から手に取る。ミアはそのリボンをサヴィラのほっぺにくっつけた。兄と父はきょとんと首を傾げる。だが、どうやら何かが違ったようで、ミアは別のリボンをとってほしいとマヒロに頼む、それから何度か同じことを繰り返し、漸くお眼鏡に敵ったのか、ミアが満足げに頷いた。


「パパ、ミア、これにする。サヴィの目の色と同じリボンなの、それにね、このリボンはここに銀色も入ってるからパパの色もあるの」


 ミアが選んだリボンは、その言葉通りサヴィラの目の色と同じ紫紺色で銀の刺繍糸で縁取りがなされた上品なリボンだった。


「ラビちゃんはミアの大事な宝物だからね、大好きなパパとサヴィの色なのよ」


「……そっか、ありがと、ミア」


 照れくさそうに笑ったサヴィラがミアの頭をよしよしと優しく撫でた。その手の下でミアは「えへへ」と愛らしい笑みを零す。そして、耐えきれなかったマヒロががばりと二人を抱き締める。


「うちの子が、今日も可愛い……っ」


 噛み締めるように言ったマヒロにミアは嬉しそうに笑って、サヴィラは表面上は困ったような顔をしているがその緩む口元は喜びを隠しきれていない。

 リックも思わずキュンとしてしまったので、緩む頬を隠すように咳払いをして誤魔化した。ミアはマヒロが溺愛するのも頷けるほど、確かに可愛い。

 ミアは、二重のぱっちりと大きな珊瑚色の瞳と小さいながらもすっと通った鼻と可憐な桜色の唇が可愛らしい美少女だ。まだまだ小さく細いとはいえ、最近は漸く子供らしく肉付きも良くなり、髪も艶々になって愛らしさに日々、磨きがかかっている。

 そして、サヴィラもまた、非常に整った顔立ちをしている。女の子みたいに綺麗な顔で、出会った頃に比べると最近は良く笑い、雰囲気がとても柔らかくなったのでより一層、その綺麗な顔が際立っているのだ。

 ミアもサヴィラも美少女と美少年だからか美青年のマヒロと一緒にいると一枚の絵画のようだった。周りのお客さんや店員さんが微笑ましく見守っているその中心で親子はどこまでも幸せそうである。

 麗しの神父様が子煩悩というのは、ブランレトゥの人々は皆、知っている。そもそもマヒロは、あのインサニアを滅した神父として有名だ。騎士団としては隠しておきたかったのだが、人の口を塞ぐことはどうやったって不可能だ。それに貧民街での活動や孤児院の創設、そしてクルィークの従業員たちの葬儀、それらは怪しく得体の知れない神父を慈愛に満ち溢れた神父へと噂の中身を塗り替えた。

 有名人となったマヒロは、子どもたちへの愛情が溢れるとああしてところかまわず抱き締めているし、子どもたちへのプレゼントを買いに行けば、必ず親馬鹿丸出しのうちの子可愛い自慢をしていくのだから町にその話が広がるのはあっという間だった。


「すまないが、このリボンを包んでくれ」


 恥ずかしいよとサヴィラに言われたマヒロが渋々二人を離して立ち上がり、店員を呼ぶ。


「はい、長さはどう致しましょうか?」


「切らなくていい、そのままもらっていく」


「パパ、ラビちゃんはそんなにいらないのよ?」


 しっかりしたミアがすかさず窘める。

 この間は店ごと買おうとしたマヒロを止めてくれたのもミアだった。


「ミアとサヴィの服に使うんだ。サヴィのはアクセントに、ミアのは裾のレースにこのリボンを編み込んだら可愛いと思ってな」


「パパ、またお洋服作ってくれるの?」


 ミアがきょとんとして首を傾げる。


「今、サヴィのを作ってるからそれが仕上がったら、今度はミアとサヴィとお揃いの服を作るつもりだ」


「……いつ作ってるの? 夜?」


 サヴィラが心配そうにマヒロを見上げる。


「仕事しながら作ってるから何の問題も無いぞ。夜にやったら一路に没収されるからな」


「ならいいけど……ん? いいのかな?」


 サヴィラが自分の言葉に首を傾げた。リックは、ぽんとその肩を叩く。


「いいんですよ、サヴィ。その方が世界が平和ですから」


「……リックも大変だな」


 サヴィラが憐れむようにこちらを振り返って、リックは曖昧な笑みを返した。主の手前、そんなに力強くは頷けない。心の底から尊敬しているし、素晴らしい人だとは思っているが、それとこれとはまた別の話だとリックは思うのだ。

 それからリボンやレースを幾つかマヒロが買ってから、一行は店の外へと出る。


「パパ、みて、ラビちゃんもよろこんでるの!」


 ミアはサヴィラの瞳と同じ色のリボンを首に巻いたぬいぐるみをぎゅうと抱き締めて愛らしい笑みを浮かべました。マヒロが「可愛いっ」とかみしめるように言ってミアを抱き上げて抱き締め、そのままミアを片腕に抱え、呆れていたサヴィラの隙をついてサヴィラの手を取り、歩き出す。


「と、父様!」


 サヴィラが顔を赤くして抗議すれば、マヒロはやれやれと言った様子で振り返る。そして、やけに素直に手を離したかと思えば、しゃがみこんでサヴィラを抱き上げようと腕を回す。


「抱っこが良かったのか? 仕方がない」


「ちがう! そんなこと言ってない! こ、こっちでいい!」


 慌ててサヴィラが今度は自分からマヒロの手をとり握りしめた。こうすれば抱っこされない、という彼なりの作戦だったのだろうが彼の父は、したり顔で「そうか」と頷き息子の手を握り返していた。サヴィラがマヒロに勝てる日はまだまだ遠そうだとリックは思わずくすくすと笑ってしまった。

 親子は、仲睦まじく市場通りをのんびりと歩いて行く。リックはその少し後ろを歩きながら、その姿を見守る。

 ミアとサヴィラは同年代の子どもに比べるとまだまだ小さく細いので、実年齢より下に見られがちだ。ミアは、もともと小柄な兎系の獣人族だから余計に小さい。ただミアはまだ幼く女の子だからそんなに気にしてはいないが、サヴィラはやはり十三歳の多感な年頃だからか自分の小ささが気になるらしい。先日もリックがエドワードと共に裏で馬たちの世話をしていたら、こそこそとやって来たサヴィラにどうやったら背が伸びるか、と聞かれてエドワードと共に悩んだのは記憶に新しい。父に聞くのはどうやら気恥ずかしかったようで可愛らしいものである。


「リック、お前も食べるか?」


 あの時のサヴィラは微笑ましかったなぁ、と空を見上げていると不意に声を掛けられて慌てて意識を戻す

 いつの間にか自分達は串焼き屋さんの前に居て、肉の焼ける良い匂いが鼻先を撫でて行くのに、思わずリックが反射的に頷くとマヒロがリックの分も串焼きを注文してくれた。


「ほら」


 と渡されたのは塩とハーブで味付けされたシンプルなプーレの串焼きだ。リックも幼いころから慣れ親しんだ味だ。よくお使いの帰りに一本買って弟と半分こしたものだ。


「ありがとうございます、今、お金を……」


「おごりだ。有難く食え」


 リックが慌てて財布を取り出そうとすれな、マヒロはふっと笑ってそれをリックの手に押し付けて来る。その仕草があまりにも洗練されていて、リックは素直に礼を言って受け取るしかない。


「サヴィ、串が刺さらないように気を付けてな」


「うん、ありがとう、父様」


 肉食系統の蜥蜴系有隣族であるサヴィラは、大好きな肉を前に嬉しそうに顔を綻ばせる。そうすると自然とマヒロの無表情も和らいで穏やかなものになる。串焼き屋さんの奥さんがうっとりと見惚れる程には神々しいとお伝えしておきます。

 マヒロは、肉より野菜派のミアに少し先にあった八百屋さんで小さなニンジンを一つ買った。店の人に頼んで洗って貰ったそれをミアは嬉しそうに齧っていて、白い兎の耳がご機嫌にピョコピョコしている。


「サヴィ、ボヴィーニも美味いぞ、食べてみるか?」


 マヒロがそう言って自分のそれをサヴィラに勧めるとサヴィラは、気恥ずかしそうにしながらマヒロの持つ肉を齧る。

 ボヴィーニはプーレよりもガツンとした味付けで美味しい。サヴィラももぐもぐとよく噛んでいる内に顔を輝かせる。


「……美味しいね」


「ああ、ここの串焼きは美味いぞ。来るたびに必ず買うんだ」


「パパ、ミアも、ミアも!」


 くいっくいっと服を引っ張られてマヒロがミアの口元にも串焼きを運ぶ。ミアは、小さくぱくりと食べて「おいしいねぇ」とニコニコと笑う。大好きなパパに食べさせてもらうのだから、とびきり美味しいのだろう。


「パパ、ミアのニンジンさんも美味しいのよ、あーんしてあげる!」


「……ん、美味いな」


「でしょー?」


 マヒロさんが小さくニンジンを齧れば、ミアはますます嬉しそうに顔を綻ばせる。実に平和でほのぼのする光景で、八百屋のご夫婦の表情が緩みっぱなしだが、多分、自分も同じ顔をしていると思う。

 市場通りに店を構える人々の中で、ミアとサヴィラの騒動を知らない人はいない。あれだけの騒ぎで、しかも例の薬屋は現在、移転の話が立ち消え、世間からの風も冷たい上、冒険者ギルドに薬草採取が頼めないため仕入れに困り、閉店間際まで追い詰められている。自分自身で招いたことだと誰も手を差し伸べるものはいないようだった。

 ミアを庇うサヴィラの姿も、弟の為に薬をと懇願するミアの姿もあの店の女店主の身勝手な振る舞いも、孤児の為に怒った神父の姿もその言葉も人々の記憶に強烈に残っているのだろう。リックはエドワードやガストンたちからの話からしか想像できないが、それでも必死に探していたミアやサヴィラを虐げられたマヒロの怒りは相当なものだっただろうと容易く想像が出来るし、話だけでも女店主の言動には怒りを覚えた。


「……あ、あの、父様、ミア」


「ん?」


 何だかもじもじしているサヴィラがマヒロさんとミアを呼ぶ。

 そして、そっぽを向きながら手に持っていたリックのものと同じプーレの串焼きを二人に差し出した。


「お、俺のも、美味しい、よ?」


 淡い金色の髪から覗くサヴィラの耳が真っ赤になっていて、串焼きを持つ手が微かに震えていることにリックは気付いた。

 マヒロがサヴィラの差し出した串焼きを食べる。サヴィラは緊張した面持ちでじっと父を見上げていたが、マヒロがふっと小さく笑って「美味しいな」と答えれば、安心したように表情を緩めた。ミアも嬉しそうにサヴィラの差し出す串焼きを食べる。


「はい、サヴィもミアのニンジンさん、あげる!」


 ミアが差し出した小さなニンジンをサヴィラもちょびっとだけ齧る。好き嫌いを表に出さないサヴィラだが本当はニンジンとピーマンは苦手なのだとマヒロに教えられて知っているリックは「うん、美味しいね」と心の底からそう告げて笑うサヴィラに何だか泣きたいような気持ちになる。

 好きだとか嫌いだとか苦手な味だとか、そういうことじゃないのだ。そのニンジンが美味しいのは、その串焼きが美味しいのは、素材が良いからとか味付けが好みだとかきっとそんなことじゃない。


「なんだか特別に美味しいな」


「…………う、ん」


 途切れたように頷いてサヴィラは唇を震わせた。

 けれど、その舌が言葉を紡ぐことはなくて、その喉が音に震えることは無くて、噛み締められた唇が我慢するものは何だろうか。

 微笑う父と妹を見上げるサヴィラの顔に浮かぶ今にも泣き出してしまいそうなのをぐっとこらえる微笑みにリックは自分の鼻の奥がつんとなるのを感じて、慌てて串焼きを頬張った。


『ねえ、リック。俺、変なんだ』


 シーツが風と共に夏を泳ぐ庭先で、サヴィラがリックに問うた言葉を思い出す。


『父様とミアと一緒に居るとすごく胸がふわふわってなって、ぎゅうってなって……それで、悲しくもないのにどこも痛くないのに、何だかとても……泣きたくなるんだ』


 おかしいでしょ、と不安そうに問いかけたサヴィラを思い出す。

 その時リックは、父様に聞いてごらん、と余裕ぶった大人のふりをして答えることしか出来なかった。その感情の名を、その感情が持つ意味を上手く説明できないような気がしたのだ。


「サヴィ、どっか痛いの?」


 マヒロの腕から降りたミアがサヴィラを見上げて心配そうに尋ねる。サヴィラは目だけで、どうして、と問いかける。


「だって、なんだかサヴィ泣きそうなんだもん」


 背伸びをしたミアの小さな手がサヴィラの頬を撫でる。

 サヴィラの紫紺の瞳が驚いたように揺れる。


「ミア、とっておきのおまじないを知ってるの。お母さんが教えてくれたのよ」


 そう言ってミアは、あの日、リックにもしてくれたようにサヴィラの頬を優しく撫でて歌うように優しい呪文を唱える。


「いたいのいたいの、とんでいけ!」


 小さな手が痛みを払い、無邪気で愛らしい笑顔がサヴィラを見上げる。


「ね、もう痛くない?」


「このまじないは効くんだぞ」


 マヒロの手がくしゃくしゃとサヴィラの髪を撫でる。その手の下でリックは確かにサヴィラの中で感情が溢れたのを見つける。


「……うん、もう、いたく、な……っ」


 笑おうとしたのに失敗して、鱗の浮かぶ白い頬にぽたりと透明な涙がこぼれて落ちる。

 驚いたミアが、あわあわとサヴィラと父親を見上げて、ポケットから取り出したハンカチでサヴィラの涙を拭う。


「サヴィ、サヴィ、どうしたの? 大丈夫よ、ラビちゃん抱っこする?」


「ちがっ、ちがくて……おれ、おれっ」


 悲しいわけじゃなくて、震える声が必死に言葉を紡いで、サヴィラは溢れるそれを止めようとする。マヒロがサヴィラの食べかけの串焼きを自分のアイテムボックスにしまって、淡い金の髪をいとおしむように撫でる。そうすればますますサヴィラの涙は溢れて止まらなくなる。


「涙が出るのは何も哀しい時や、辛い時ばかりじゃない」


 おいで、とマヒロがサヴィラを抱き寄せて、あやすようにその背を擦り、体を屈めて旋毛にキスを落とす。


「幸せ過ぎてどうしようもない時だって、涙は溢れるものなんだ。涙は感情の結晶みたいなものだからな」


 サヴィラの手が自分の胸元を握りしめて、マヒロの言葉に唇を噛み締める。

 彼の疑問は正しい答えによって導かれたのだろう。

 例えば、それは当たり前のように抱き締めてくれる人がいること。

 例えば、それは自分の名前を呼んでくれる人がいるということ。

 例えば、それは泣かないでとハンカチで涙を拭ってくれる人がいること。

 例えば、それは分け合う串焼きやニンジンが信じられないくらいに美味しいということ。

 例えば、それは「美味しいね」と言ったら「美味しいな」という言葉が返ってくるということ。

 きっとそれを人は「幸せ」と呼ぶのだろうけれど、それがとても尊いものだなんて気付かないまま当たり前のように享受している人の方がきっと多い。

 でもサヴィラにとって、それらがどれほどかけがえのないものだろうか。

 彼が本の中でしか知らなかった親という存在から惜しみなく与えられる温もりや愛情を、そこから生まれる幸福や安心をサヴィラは、十三年の人生の中で漸く得ることが出来たのだ。


「パパ、サヴィ、大丈夫?」


 半べそをかいてマヒロのズボンに抱き着くミアが父を見上げる。

 マヒロは、大丈夫だ。と笑って頷きミアの小さな頭をぽんぽんと撫でた。ミアは、ぬいぐるみをぎゅうと抱き寄せ、マヒロの足に更に体をくっつけてサヴィラの顔を覗き込む。

 するとサヴィラは顔を上げて、泣きながらも本当に幸せそうに嬉しそうに笑ってミアの額に自分の額をくっつける。


「ありがとう、ミア」


「ラビちゃん、抱っこする?」


 それでもミアは心配そうにサヴィラにぬいぐるみを差し出す。するとサヴィラは、ううん、と首を横に振って服の袖で涙を拭ってミアの頭を撫でて額にキスをする。


「ミアのおかげでもうどこも痛くない」


「ほんと?」


「うん。オルガの魔法は特別だね」


 サヴィラの言葉にミアが花咲くように笑ってサヴィラに抱き着く。たたらを踏んだサヴィラの背をマヒロの大きな手がそっと支える。


「そうよ、お母さんの魔法は特別なの!」


「なら、ミア、その特別な魔法をリックにもかけてやれ」


 苦笑交じりに振り返ったマヒロにつられるようにこちらを振り返った子供たちが驚いたように目を見開く。

 そこで初めて、リックは自分が泣いていることに気が付いて、慌てて顔を拭うが食べ終わっていない串焼きが邪魔をして片手では上手く顔が隠せない。


「リックくんも、どっか痛いの?」


「いえっ、そうではなくて……あのっ、多分、感動いたしましてっ」


 感動と安堵と羨望と色々なものが混じって溢れた複雑な涙は、何だかおかしくなって零れてしまった笑顔と一緒に頬を濡らす。


「ふふっ、サヴィとミアちゃんとマヒロさんが幸せで良かったな、と、そう思ったら泣けてしまって」


 だって小さな少女が喪ったものを知っているから。幼い少年が耐えていたものを知っているから。美しい神父様がその愛を持て余していたのを知っているから。欠けた部分を上手に補うように寄り添い合って、笑い合う親子が眩しいくらいに愛おしいと思ったから。


「それにこの串焼き美味しくて、本当、涙が出るくらいに美味しいですね」


「泣いたり笑ったり、忙しい奴だな」


 ふっと肩を竦めてマヒロが言った。

 リックは漸く止まった涙をハンカチで拭って顔を上げる。


「なんだか私も家族に会いたくなったので、次の休みは久々に実家に顔を出そうと思います」


「なんだったら今から行くか、すぐそこだ」


「賛成、ミア、リックくんのお家のパン大好き!」


「ちょっ、止めて下さい、何だか恥ずかしいじゃないですか!」


「よし、行くぞ、ミア」


 こんな時ばかり生き生きし始めたマヒロがミアを抱き上げて、行くぞ、と歩き出す。慌てて追いかけようとしたリックの下にサヴィラがやって来た。


「サヴィ?」


「耳貸して」


 泣いた痕の赤い目じりを緩めてサヴィラが言った。

 リックは、マヒロを止めねば、と焦る気持ちを抑えながらサヴィラの為に背をかがめて耳を貸す。


「……まだちゃんと言えてなかったから」


 そう前置きしてサヴィラは言葉を紡ぐ。


「あの日、俺のこと守ってくれてありがとう。……あの日から、リックは俺にとって…………兄様みたいな人だよ。俺の憧れなんだ」


 ぶわわわっと折角止まった涙が溢れ出す。

 サヴィラは、恥ずかしそうに頬を赤くしながらもマヒロにそっくりなしてやったり顔で笑うと「父様、待ってよ」と駆け出して、マヒロが差し出した手を躊躇いなく握り返す。


「あっ、ちょっ、ほんとっ、そういうの、ずるっ……待ってくださいよぉっ、涙で前がっ」


 串焼きも食べなきゃいけないし、と混乱する頭でリックは慌ててこちらを振り返って可笑しそうに笑う親子を追いかける。

 市場通りの人たちも可笑しそうに笑っているし、話が全部聞こえていた八百屋の夫婦は感動に泣いているし、最悪なことに前から警邏中の仲間の騎士が笑いながら歩いて来るというのに、リックの涙は止まらない。


「リック、早く!」


 振り返ったサヴィラが輝く笑顔で呼んでいる。ミアまで「リックくん、はやく」と手を振っている。


「サヴィ、君のせいだろ!」


 でも、きっと幸せで涙が止まらないなんて馬鹿な悩みがあるなんて、それこそ幸せなことなんだろう。


「俺、知らない!」


「ミアもしーらないっ!」


 きゃらきゃらと二人が笑い、無表情が常のマヒロも、ははっと可笑しそうに笑っている。

 袖で乱暴に涙を拭って、後で絶対にサヴィラとミアをこちょこちょの刑に処してやると心に決めながらリックは駆け出した。







――――――――――――

ここまで読んで下さって、ありがとうございました!!

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幸せって複雑なようでいて単純で、遠いもののように思えて近くにあるものですよね。


また次のお話も楽しんで頂ければ幸いです♪

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私も爆泣きですよ涙ありがとうございます。
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