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称号は神を土下座させた男。  作者: 春志乃
第一部 本編
53/160

第四十二話 守った男

 馬たちの荒い息遣いが、蹄が力強く大地を蹴る音が雨の音を掻き消す。

 ウィルフレッドは、半馬身前を走る兄の背を追いながら、酷い雨に曇る視界を憎々し気に睨み付けた。兄の前には兄専属の護衛騎士が二名、一団を先導するようにして走っている。レベリオはウィルフレッドのすぐ後ろを走っている。

 馬たちは、昨夜も一晩中、平原を走り、森を駆け抜け、魔獣を蹴散らす様にして走り続けてくれたのにも関わらず、砦での少しばかりの休息で回復し、絶好調ともいえる足取りでブランレトゥを目指していた。騎士の馬は、種類的にも丈夫でスタミナのある種類だが、そうはいっても異様な程元気だ。馬番たちが飲ませたのは、アンデットが避けた堀の水だというが、あの堀の水に何が有ったのだろうとウィルフレッド達は首を傾げることしか出来なかった。気のせいでなければ、行きよりも帰りの方が遥かに馬たちの足が早い。一応、マヒロが持たせてくれたワインのボトルが空になっていたので、それに汲んで持っては来た。彼らなら何か分かるかも知れない。

 この森を抜ければ、ブランレトゥはもうすぐそこだ。

 降りしきる雨の中を駆け抜け、森を飛び出して息を飲む。

 高い壁の向こうの町、青の3地区と思える辺りから黒煙がいくつも上がっている。


「クソッ……っ!」


 ウィルフレッドは、手綱を強く握りしめた。


「帰還直後の戦闘も考えられる、総員、戦闘態勢を維持したまま門を潜る!!」


 ウィルフレッドが叫べば、横を飛んでいた隼の獣人族の伝令が後退しながらウィルフレッドの指示を仲間たちに伝えていく。

 そして、そのまま緩やかな勾配を駆け下り、最速で町を目指す。


「ジークフリート様!! 前方より何かが!!」


「恐らく、伝令だと思われます!!」


 先頭を走る二人が叫んだ。壁を越えた誰かがこちらに飛んで来る。

 ジークフリートが馬上で弓を構える。ウィルフレッドも片手に魔力を溜めて、警戒態勢を取るがその影が段々と大きくなるにつれ、味方の騎士だと気づいた。

 鷲の獣人族でラウラスの配下の騎士であるアエトスだ。


「領主様、御無事で何よりです!」


 アエトスは領主とウィルフレッドの頭上を飛びながら叫ぶように言った。


「挨拶は後で良い! 報告を!!」


 ジークフリートが言った。


「はっ! 青の3地区、クルィーク倉庫跡地から午後一時半過ぎ、インサニアと思われる黒い霧が出現、その中からバーサーカー化した魔獣が次々と出現いたしました! マヒロ神父殿を指揮に据え、イチロ神父殿の弓部隊、ラウラス副大隊長、ジョシュア殿、レイ殿の率いる騎士団及び冒険者ギルド混合の精鋭部隊が討伐に向かいました! 今現在、こちらが把握しているだけキラーベアが十頭、ソフォスが十二羽、ゲイルウルフが三十以上、南を生息域に持つグリーディモンキーの群れが二つで約百、そして、ヴェルデウルフの番が二頭!」


 ウィルフレッドは血の気が引いて行くのを感じた。兄の横顔に緊張と焦りが滲んだのを見つける。

 どれもこれも厄介なことこの上ない魔獣だ。グリーディモンキーはアルゲンテウス領やその周辺には生息していないので文献でしか見たことは無いが、その危険性は嫌という程知って居る。南の方では数年に一度は大規模森林火災が起こって甚大な被害を出す厄介な猿だ。

 それになによりこの王国で最強レベルと言われるヴェルデウルフの番など悪夢もいいところだと思った。ヴェルデウルフが討伐禁止なのは、Sランクの冒険者ですら討伐が困難、或は、不可能だからだ。


「ですが、」


「ですが何だ?」


「キラーベア、五頭はイチロ神父殿とレイ殿率いる部隊が討伐に成功、ソフォスはヴェルデウルフの遠吠えに怯えて町の外へ逃げ出しました! グリーディモンキーも討伐に成功し、住民に怪我人はいますが死者はゼロです! ゲイルウルフは、七頭だけ討伐に成功しましたが残りは保護されています」


「保護、ですか?」


 レベリオが首を傾げる。


「仲間意識の強いヴェルデウルフの前でゲイルウルフを殺せば、町が一つ無くなってもおかしくないからな」


 兄が答えるが、いいえ、とアエトスは首を横に振った。


「ここに来る途中にイチロ神父殿に会ったのですが、なんでもイチロ神父殿の従魔・ロビンのご両親だったそうで、ヴェルデウルフは二頭ともイチロ神父殿の従魔になり、ゲイルウルフは保護されたんです。キラーベアは、マヒロ神父殿が使役して、一頭はマヒロ神父殿の馬として、四頭は騎士に協力してグリーディモンキーを討伐していました!」


「あーちょっと待って、リオ、胃薬」


「飲み切ったんでもうありません。我慢してください」


 冷たい返事が後ろから返って来る。

 ウィルフレッドは、シクシクと痛み出した胃を擦りながら「やりすぎだぁ」と呻くように言った。しかし、ウィルフレッドの想像の中であってもマヒロは全く悪びれる様子が無く堂々としている。


「……現在、その、魔お……神父は?」


 今、兄上が魔王って言いそうになったな、と思いながらウィルフレッドも顔を上げる。


「はい、インサニア殲滅に向かって居るか、その最中かと思われます!」


「では、我々もそこへ……」


「ジークフリート様! 町の上に何かが!!」


 護衛騎士の叫びに皆の視線が一斉にそちらに向けられた。


「なん、だ……あれは……っ!」


 ジークフリートの干からびたような声が落ちる。

 ウィルフレッドは、思わず片手で口元を覆った。

 町が真っ黒な霧によって覆われて行く。禍々しいそれは、あの日、リックを包み込んだものと同じように闇よりも濃い黒で距離感や遠近感が馬鹿になりそうな程、のっぺりと重く町にのしかかっているように見えた。










 吹き抜けた風がアンデットたちを浄化し、ただの死体へと戻していく。

 インサニアが発生している筈の倉庫跡地に近づけば近づくほど溢れるように魔物や魔獣のアンデットが真尋達を襲い来る。再び新たに現れた一団に向かって、浄化の力を纏わせた風をお見舞いすれば、それらはただの死体に戻って、ぱたぱたと憐れな程に呆気なく地に落ちて行く。

 その中を駆け抜け、角を曲がった先で突如現れた光景に皆が息を飲む音がやけに大きく聞こえた。

 真尋は、目の前に現れたクルィーク倉庫跡地を呑みこむ程大きなインサニアの姿に僅かに目を細める。まだ球体の半分は地に埋まった状態だがその大きさは異常と言えるほどだった。


「随分と、大きく育ったものだな」


 闇よりも濃い黒がそこに虚穴のように待ち構えている。

 それは今なお、じわりじわりと大きくなっていっているのに気付いた。真尋は、跨っていたキラーベアの体に手を当てて守護呪文を唱える。バーサーカー化してもらっては困る。


「マヒロ、どうするんだ、これ?」


「どうって浄化する他なかろう? リック、大丈夫か?」


 真尋はジョシュアの問いに答えながらリックを振り返る。リックは、青白い様な顔をしていたが、しっかりと頷いた。その目に怯えはあるが、以前のような弱さは無い。

 真尋はその様子を見届けて、顔を前に戻す。

 すると闇の中からいつの間にか二人、音も気配もなく現れた。一人はザラームだ。相変わらず居るのか居ないのか気配の無い男だ。

 そうしてもう一人、黒いローブに身を包み、目元に仮面をつけた男がその隣に立って居た。くすんだ銀の髪の長い髪がフードから零れ落ち、褐色の肌をしていることと、体格的に男であることしか分からない。

 それでも、誰か、というのは分かっている。


「……エイブ……いや、モルス(死神)と呼ぶべきか?」


 真尋は僅かに微笑んで首を傾げて見せた。

 するとその男も口元に冷ややかな笑みを浮かべる。


「好きに呼んで下さって構いませんよ。私は場によって名を使い分けるので……ところで貴方が噂の神父さんですか?」


「ならば、ゴミとでも呼んでやろうか? クズ野郎」


 真尋はキラーベアの上からひょいと飛び降りて、鼻で嗤いながら言った。

 エイブ改めモルスは、それに気分を害した様子も見せずうすら寒い笑みを浮かべている。逆に真尋の後ろのギャラリーの方がざわついている。穏便にとかいうリックの声が聞こえた気がしたが、気だけなので無視する。


「ふふっ、神父らしからぬお人だ。随分と口が悪い」


「生憎と俺はお育ちは宜しいが、お上品な性格ではないのでな」


 真尋は腰の刀の柄に触れて、ジルコンの刀から宝刀・月時雨へと入れ替える。


「俺はお前をな、成敗しに来たんだよ、クズ野郎」


「そんな棒切れのような剣一本で何が出来ますか? 貴方に浄化の力があったとしても、ここまで強力に育ったインサニアを浄化しきるのはまず無理でしょう。浄化の力は、確かに穢れを祓い、インサニアという邪気の塊を滅することも出来ましょうが……これは、ただのインサニアではない、何十、何百という命と魔力を吸い取り育ったもの、貴方の魔力が根こそぎ奪われて、死ぬだけですよ」


 モルスは、心底滑稽だと言わんばかりに笑う。その乾いた笑い声が雨の中に落ちて消えていく。ザラームは、ただその隣で死体のような白い顔をしてじっと真尋を見つめている。


「貴方が死んで、アルゲンテウスが地図の上から消える。愉快な話でしょう? 辺境伯は、少し力を持ちすぎてしまった。特に東の辺境伯、アルゲンテウス家は、碌な土台も無い柱を支えに家を建ててしまったものだから、あんな愚鈍な伯爵家の三男坊に付け入る隙を与えてしまった……領民の死も町の死も全て、領主自らが招いた甘さ故の悲劇ですよ」


「……やはり、貴様らの背後には、何某かの思惑があったと認めるのだな?」

 

 鋭く目を細めたラウラスが問う。


「リヨンズも所詮捨て駒というのなら、伯爵家よりも更に大きな力を持つ家の力が働いているということか。四大辺境伯家の力を恐れたが故に動き出したのだろう?」


「さあてね、どうでしょう。私はただ頼まれただけ、ですよ。アルゲンテウス辺境伯家の力を殺いで来い、と。領都が落ちれば、アルゲンテウス家にとってはそれこそ痛手でしょう?」


 モルスがくすくすと可笑しそうに笑った。


「ごちゃごちゃと良く喋る。いい加減、御託は並べ終わったか?」


 真尋は、ラウラスよりも先に口を開いて、二人の会話をぶった切る。


「俺は、たかが一介の神父。その辺を歩いている町民と同じ一般町民だ」


「いや、マヒロ、それはお前の顔面偏差値からしてもかなり無理があると……」


「だからな、ものすごく正直に言えば、アルゲンテウス辺境伯がどうなろうと、ブランレトゥがどうなろうと、どこの誰の思惑で、何がどう動いていようとも一切関係ないし、知ったことではない。だが……お前たちは、ミアとサヴィラから最愛の家族を奪い、ミアからは笑顔まで奪った。何の罪もない人々の命を私利私欲のためだけに奪い、多くの人々に耐えがたい悲しみを与えた。我が親愛なる神・ティーンクトゥスにとって、アーテル王国の民の命は全て愛しき我が子だ。お前らは、その神の子の命を奪ったんだ」


 真尋は腰のロザリオを辿るように長い指で撫でる。

 真尋の怒りに反応してにじみ出る魔力が、辺りに風を起こして神父服の裾や髪を揺らす。じわりじわりと滲む魔力が強くなるにつれて、モルスの顔から笑みが消えていく。


「その罪、その身と命をもって償え」


 真尋は、美しい笑みを浮かべて思いっきり、地を蹴った。刀の鯉口を切り、引き抜いた刀をそのままモルスに振り下ろした。モルスが咄嗟に抜いた剣で真尋の刀を受け止める。


「ザラーム!」


 モルスの声にザラームが何かの呪文を唱えるが、呪文の完成より早く光の矢がザラームの腕を射抜く。ザラームが苦悶の声を漏らして、後ずさる。


「真尋くん、ザラームは僕に任せて!」


 目だけを向ければ、屋根の上に白銀の巨大な狼に跨った一路が居た。その後ろにはレイが居て、もう一頭、真尋が浄化したロビンの母親と思われるヴェルデウルフが現れる。その背にはウォルフとロビンが乗っていた。


「僕の家族になったロビンの両親。ロボとブランカだよ! よろしくね!」


 ラウラスとジョシュアとリックとエドワードの口があんぐりと開いたまま塞がる気配が無い。


「後で餌代について話し合いたいから、さっさと片付けちゃってね!」


「ああ、俺も一刻も早く帰りたいからな!」


 一路は、だね、と頷いて再び光の矢を番える。


「ザラーム!! 僕の家族にした仕打ち、絶対に許さないから覚悟してくださいね!!」


 一路が放った矢をザラームが後ろに飛びのくことで避け、真尋達から離れて行く。


「余所見とは随分と余裕ですね、神父さん!」


 一路に返事をした真尋に剣が振り下ろされる。それを避けた先で氷のナイフが襲い掛かって来た。真尋は、炎の盾で氷のナイフを全て受け止め、モルスを蹴り飛ばした。モルスは、まさか蹴りが来ると思わなかったのか、もろに喰らって吹っ飛んでいく。


「余裕じゃない、これでもとても急いでいる」


 真尋はそう返して、立ち上がったモルスに炎を纏わせた刀を振り下ろす。モルスは、横に転がってそれを避けると氷のナイフを連射してくる。それを今度は、刀で切り捨てて真尋は、モルスとの距離を縮めていく。

 一路は一路で、レイに支えられるようにして光の矢を放ち、ザラームが加勢しようとするのを阻止する。一路の矢を受けたくないのか、ザラームはそれを避けることで精一杯のようだった。動きが鈍い所をみるに、真尋に付けられた傷が癒えないのだろう。神に与えられたナイフで切られたのだ。その対極にいるようなザラームでは、傷の治りも遅いのだろうと容易く想像が出来る。

 真尋は、淡々とモルスを追い詰めていく。それでもモルスは、冷静に真尋の剣戟を受け流し、時に攻撃を仕掛けて来る。


「あの、愚かな神を何故、そうまでして信じる?」


 モルスが言った。


「愚かであるが故だ」


「……意味が、分からないですねっ!!」


 ごうっと唸るような地鳴りが聞こえて、真尋は咄嗟に風の力を借りて飛び上がる。足元に地割れが起きて、大きな穴が空く。宙に飛んだ真尋を追いかけるようにして飛び掛かってきたモルスが巨大な土の塊を投げつけて来る。真尋はそれを真っ二つに切り捨てて応戦する。割れた二つの塊は、背後の倉庫を破壊する。凄まじい衝撃音が辺り一帯に響き渡った。崩れた倉庫から溢れるように砂埃が舞い上がる。


「しぶとい神父さんですね」


「お互い様だ、クズ野郎」


 鉄と鉄のぶつかり合う音が雨と埃の中に響き渡る。

 炎が大蛇のようにうねり、風の刃が空を切り裂き、氷や石の礫が飛び交う。モルスの剣の腕は、かなりのものだった。隙があるようでない。最初に真尋の蹴りを受けたのは偶然かもしれないと思えるほどの腕前だ。

 紙一重で避けた突きが真尋の髪を霞めて、はらはらと数本のそれが散って、頬にぴりりとした痛みを感じた。だが、負けじと真尋も突きを繰り出し、同時に炎の大蛇をモルスに向ける。モルスは真尋の突きを体を捻って躱し、大きな口を開けて襲い掛かる大蛇をモルスが氷で作り上げた狼をぶつけて来る。


「ふむ、なかなかやるな」


「神父さんも、恐ろしい魔力量ですね」


「お褒めに預かり、光栄だ!」


 真尋は攻撃の手を早める。激しさを増す剣戟にモルスの口元からだんだんと余裕の笑みが失われて行く。徐々に攻撃が当たるようになる。

そして、モルスが一瞬、本当に刹那的に態勢を崩したのを見逃さず、真尋は魔力を溜め続けていた左腕を切り落とした。中途半端に練られていた魔力が暴走して、モルスの左腕は凍り付いて地に落ち、呆気無く砕け散った。

 モルスが咄嗟に真尋と距離を取るようにして屋根の上へと逃げる。


「貴様ッ!」


 血が噴き出す様にして溢れる肩口を押さえてモルスが口元を瞋恚に歪める。

 真尋は、近くの屋根の上に降り立ち、甘く微笑む。


「リヨンズの腕を同じように飛ばしてやった。お揃いだな、クズ野郎」


「血なまぐさい神父だな、血で穢れることも厭わないとは……っ!」


 痛みと腕を飛ばされたショックにか、徐々に本性が現れて先ほどまでの丁寧な口調がどこかに行ってしまって居るモルスを見つめる。きっとこれまでの彼の長い人生の中で、ここまで彼を追い詰める存在はいなかったのだろう。


「穢れるものか、俺のこの刀はお前を殺すためにこの手にあるのではない、愛する人を守るために此処に有る。俺は俺の正義のもとにお前を断罪し、刀を振るう。これのどこに穢れがある」


 真尋は刀を正眼に構える。


「愛だと? 馬鹿馬鹿しい……そんなものが役に立つと本気で宣うか?」


 嘲笑交じりに吐き出された言葉に真尋は、ははっと真顔のまま声を上げて嗤った。


「役に立つさ。少なくとも俺は、愛する娘のために一刻も早い帰宅を望んでいるのだからな!!」


 真尋は一気に踏み込んだ。屋根が凹む様な音が足元で聞こえた。修理代は是非とも騎士団に請求して欲しい所存だ。

 モルスが血まみれの右手を前に翳した。


「《グラキエース・ランツェ》!!」


 氷柱のように鋭く尖った極太の氷の槍が何本も出現し、真尋に向かって飛んで来る。

 真尋は避けることも足を止めることも無く、月時雨に炎を纏わせその氷の槍ごとモルスを袈裟懸けに切り捨てる。粉々に砕け散った氷が辺りに飛び散り、その向こうでモルスが屋根から落ちて行く。仮面の向こうで見開かれた双眸にはありありと驚愕が浮かんでいて、自分の魔法が打破されたことも、斬られたことも分かっていない様だった。


「サウロン!!」


 ザラームの叫ぶ声が聞こえた。

 下を見れば、ザラームが落ちて行くモルスを風の魔法で受け止めてそこへと駆け寄る。彼の体からもだらだらと血が流れているのか、血まみれの足跡が通りに残っている。一路を見れば、真っ青な顔でレイに支えられてぐったりしていた。ジョシュアたちは加勢をするという無茶をしたのか、息切れをしている。ザラームに攻撃をして魔力を吸い取られたのだろう。

 真尋は、刀を血振りしてから納刀し、ふわりと飛んでジョシュアたちの下に降り立つ。ロボやブランカも屋根から飛び降り真尋の下に駆け寄って来る。


「一、大丈夫か?」


「ヴェルデウルフの成獣二頭を同時に従魔契約するのは、無茶だったみたい、それにしぶといザラームの所為でほぼすっからかん」


 親友は、青白い顔で力なく微笑んだ。ロビンが心配そうに母の背で鳴いている。


「魔力不足だ。ロボを浄化する時にかなり血も流したし、HPの数値も低い筈だ」


 レイが言った。そう言う彼も少々顔色が悪いし、一路を庇ってくれたのか所々怪我をしている。ウォルフに至っては、ブランカの背の上でぐったりしている。意識はあるようだがかなり無茶をしたようだ。

 真尋は、アイテムボックスからティーンクトゥスが持たせてくれた例の糞不味いが栄養価と効能だけはばっちり抜群の携帯食を取り出した。平素なら自分の魔力を分けてやるが、魔力の密度が同じ一路が相手だと魔力を温存したい今はそうもいかない。それに一路自身が断るだろう。


「食え、魔力の回復が見込める筈だ」


 真尋はそれを力技で割って細かくし、一路を始め仲間に配って行く。自身も最後に残ったそれを口へと放り込んだ。相変わらず口内の水分を全てかっさらっていく。


「凄いな、これ、MPとHPが完全回復した……まずいけど」


 ジョシュアが自分のステータスを開いて行った。ラウラスやリックたちも顔色が良くなっている。やっぱりティーンクトゥス製は違うようだと感心しながら、一路を見る。そうはいっても自分達と彼らの魔力は密度が違う。一路も回復はしたようだが彼らほど完全にとはいかなかったようだ。


「一路、まだ食べられるか?」


「あー、無理、吐く……真尋くん、僕のことよりザラームは……?」


 真尋は、後ろを振り返る。

 通りの向こう側でザラームは血まみれのモルスを抱えるようにして蹲っている。長い髪の流れる背が微かに震えているのが分かる。


「神父殿、モルスだかエイブだかは、殺したのか?」


「致命傷には至った筈だがな」


 真尋は彼らの背後で蠢くインサニアを警戒しながらラウラスの問いに答える。


「君が、あいつと戦って居る間中、ザラームはそっちへ行こうとしていたよ……君があいつを切り捨てるのと、僕の魔力が底を尽いたのはほぼ同時」


 一路の説明を聞きながら、真尋は腰の刀に手を掛けたまま彼らへと近づいて行く。キラーベアが心配そうについて来ようとするのを手で制し、三歩程、進んだ時のことだった。


「……さない」


 じわりとザラームの背から黒い霧が滲む。


「サウロンを傷付けた……絶対に赦さないっ!!」


 ザラームが顔を上げる。人形のように無表情だったそこに明らかな憎悪が浮かび真尋を捉える。


「お前がこの町の人々に今のお前と同じ思いをさせたんだ」


 真尋は冷静に答える。


「うるさい! うるさい! うるさぁぁあああい!!」


 憎悪と呼ぶには、幼稚な怒りをその顔に滲ませてザラームが顔を上げる。


「こんな町のやつらの命なんか僕にはどうだっていい!! サウロンと比べる価値だって無い!!」


「……お前らに家族を奪われた者たちも同じことを言うだろう。私の娘の命とサウロンの命など比べるまでもない、と」


 真尋の言葉にもザラームは知らないと首を横に振って耳を貸そうともしない。


「知らない、知らない、知らない!! もういい、皆、みんな、苦しみ足掻いで死ねばいいんだ!!!!」


 その叫びと同時に彼の背後で蠢いていたインサニアが一瞬、小さくなったかと思えば爆発するような勢いで爆発し天へと上り町を覆うように広がっていく。雨すらも遮り、町が闇に覆われて行く。近づこうにもザラームは魔力暴走を起こしているのか、ありとあらゆる魔法が彼らの周囲を飛び交い、真尋ですら背後の仲間たちを護るので精いっぱいだった。

 その中でザラームは、狂ったように嗤いながら闇の中に消えていく。最後、ほんの一瞬だけザラームの腕に抱えられたモルスが動いて、仮面越しに確かに真尋を睨んでいたように感じた。二人の姿は、溶けるように闇の中に消えていった。








「くそっ、逃げられた!」


「マヒロ、今はそんなことを気にしている場合じゃない!! 早くこのインサニアをどうにかしなけりゃ、町が!!」


 ジョシュアが叫んだ。

 真尋は、舌打ちを一つして仲間たちの下へと戻る。

 薄暗いなんて可愛いものじゃない。瞬く間に広がったインサニアの所為で辺りは闇一色だ。真尋と一路が光の玉をジョシュアとレイ、ラウラスが火の玉を出すが辺りを僅かに照らすだけで随分と心許ない。ジョシュアが、ランタンに火を入れてそれをリックに握らせた。リックは、青白い顔で大丈夫ですとやせ我慢を吐き出す。


「こんな巨大なインサニアは、歴史上、存在しないぞ」


 ラウラスが言った。

 事態が大きすぎて、彼らは逆に冷静になっている様だった。確かにこのままだと皆、仲良く死ぬことになるだろう。


「このインサニアは、ザラームが生み出したものだ。必ずどこかに核となる弱点がある筈だ。そこを浄化の力を纏わせた剣で切るか、光の矢で射るかすれば、どうにかなるかもしれん」


「だが、町を覆うほどの大きさだぞ? どうやって見つけるって言うんだ?」


「そうですよ、マヒロさんやイチロさんの魔力量が桁違いなのは十分承知していますが、それでも闇雲に力は使えないでしょう? 私たちの怪我を治すのとは訳が違うんですから」


「ならば、騎士を総動員し、このインサニアの弱点探しでもさせるか? 危険には違い無いだろうが、何か分かることがあるかもしれない」


「冒険者だって動く。この町は俺達の縄張りだ、あんな糞野郎如きには好きにはさせねえ」


 真尋の言葉にジョシュアが首を傾げ、リックが諌め、ラウラスが提案し、レイが加担の意思を提示する。

 だが、真尋は浄化の力を持たない騎士や冒険者では、このインサニアの核を見つけるのは、不可能だろうと空を見上げる。真尋が空を見上げれば、仲間たちもつられて顔を上げる。

 真っ黒だ。夜と違って、星も月も無い。ただただ圧し掛かるように思い闇よりも濃い黒が広がっている。何故だか見ているだけで酷く哀しい気持ちになって、不安になるような黒だった。

 こんなもののために一体、どれほどの命が奪われたのだろうか。


「……ティーンクトゥス様は力を貸してくれるみたいだよ、真尋くん」


 一路の穏やかな声に真尋は空を見上げるのを止めて、顔を彼に向けた。

 一路が指差す先を辿れば、腰のロザリオが強く金色に輝いている。一路が取り出した彼のロザリオも同じように輝いている。

 真尋は、ロザリオを腰から外す。

 水晶のような丸い石の中で毎日注いでいった真尋の銀にも蒼にも見える魔力がゆらゆらと揺れている。強く優しい金色の光がだんだんと強くなっていく。そして、その光がより一層強くなった時、ロザリオから一筋の光が真尋の背後へと真っ直ぐに伸びて一定の方角を差す。

 振り返り、視線で追えばその光は町の中心の上空へと伸びている。


「あそこが核だということか」


「多分ね」


「ならば、さっさと片付けて帰ろう」


 真尋は、ふっと笑っていった。ティーンクトゥスが、自分達のために何かをしてくれているだけで酷く安心するし、愛おしく思う。ロザリオにキスを落として、真尋はキラーベアの上に跨った。そして仲間たちを振り返る。


「それでは予定通り、一刻も早い俺の帰宅を目標にインサニアを殲滅する! ついて来い!」


「おぉぉぉ!!」


「アォォォン!!」


 雄叫びと親子の遠吠えに押し出されるように真尋達は、二筋の光が指し示す中央広場へと向かって駆け出したのだった。










「窓から離れろ!! 庭に居る者も早く屋敷へ!!」


 ナルキーサスの声が響き渡り、屋敷の中は更に喧しくなる。


「ティナ、早く部屋に!」


「は、はい!」


 ジョンの様子が見たいといったプリシラと共にティナは、アナを強く抱き抱えるようにして階段を駆け上がり、ローサ達がいるリビングへと駆け込んだ。アナのミルクを貰いに行ったら、その帰りには空が夜でもないのに濃い闇に覆われ始めていた。


「ティナ! 早くこっちに!」


 ローサに呼ばれて部屋の中央に固まる子供たちの下に駆け寄る。サンドロやソニアがカーテンを閉めて、ローサは子供たちを抱き締めるようにしてあやす。プリシラに気付いたリースが母に抱き着く。ジョンはミアを抱き締めて、声を掛け続けている。ティナもアナを片腕に抱えながら、抱き着いて来たコニーを受け止める。サヴィラやネネも不安そうに窓の向こうに視線をやるが、ソニアが最後のカーテンを閉めて部屋の中は真っ暗になる。


「く、くらいのやだぁ」


 コニーがぐずりだしてティナは、少女の小さな背中を擦る。

 戻って来たソニアたちも子供たちをその腕に受け止めて、大丈夫だと声を掛けるが一人ぐずりだすと皆で泣き出すのが子供というものだ。それに夜よりもずっと濃い闇の中は、大人であっても怖い。


「カカッ、これしきの暗闇を怖がるんじゃあない。ほれ、こっちを見てみろ」


 ジルコンがいつも通りに明るく笑って言った。

 彼の声がしたほうに顔を向ければ、美しい炎を宿した魔石がその手の中で淡い光を零していた。


「わしらドワーフ族は、同じくらいに暗い洞窟や坑道に入って、魔石や宝石を掘り出す。魔石は、点在はしない。どこか一か所、嘗てそこに大きな力が宿っていた場所に出来る結晶じゃ」


 ジルコンがアイテムボックスから次々と火の魔石を取り出して、子どもたちの手に渡していく。後で必ず返せよ、という言葉の真剣さに思わずティナとローサは笑ってしまう。


「暗闇の中、ドーム状の空間に魔石が散らばる光景はの、夜空に輝く星のようでそれはそれは綺麗なものなんじゃ」


 火の魔石の淡い光が子供たちの顔を照らす。コニーも受け取ったそれを不思議そうに見つめている。


「魔石は、火なら火の精霊の大きな力、水なら水の精霊の大きな力の結晶だとわしらドワーフ族は信じておる。永く生きるわしも精霊に会ったことは無いが……きっとこんなふうに優しい力を持つ者じゃ」


 暗闇の中、火の魔石が放つ淡くも温かな光はまるで蝋燭の灯のように優しい。


「そして、これが……マヒロの光の力を宿した魔石じゃ」


 そう言ってジルコンは、一際美しい金色の光を宿す魔石をその皺だらけの手の平の上に乗せた。

 優しくて、暖かくて、美しい金色の光が優しく闇の中を照らしている。


「おじいちゃん、これ、きれーだね!」


 彼の隣にはりついていたヒースが言った。ジルコンは、じゃろう?と笑ってヒースの小さな頭を撫でる。

 そして、その魔石をミアの手に渡した。ミアが、おそるおそる小さな手で魔石を受け取る。


「お嬢ちゃんの父親になろうとするあの男は、精霊の力と同じぐらいに強く優しい力を持っている。じゃから不安がることは、何もない。マヒロのことじゃ、あっと言う間にこんな暗闇を消し去って、お嬢ちゃんのところに帰って来る」


 ミアは、珊瑚色の瞳をぱちりと瞬かせたあとこくりと頷いて魔石を握りしめた。ジルコンは、手を伸ばしてミアの頭をぽんぽんと優しく撫でる。


「それにきっと、マヒロとイチロの愛する神様が、二人に力を貸してくれる。二人のこの優しい力は、誰かを倒す為でも、傷つける為でも、戦う為でもない。守護神、ティーンクトゥスの意思を受けた、護るための力じゃからな」


「……なら、神さまに力をかして下さいってお願いしたら、神父さまもっと強くなるかな?」


 サンドロに抱き着いていたルイスが尋ねる。

 するとジルコンよりも先に想わぬ人物がその問いに答える。


「きっと、力を貸してくれるよ」


 サヴィラが紫紺の瞳を優しく細めて言った。


「インサニアは、神様の力を持って滅するものだから……だから、きっと神父様に力を貸してくれる」


「なら、僕、お祈りしてお願いする! 神様に神父様に力を貸してあげてください!って!」


 ヒースの言葉に他の子どもたちも、私も、僕もと声を上げて、小さな手を組んで祈り始める。ミアとジョンもジルコンやソニアにサンドロ、ローサも同じように祈り始めて、ティナは、アナの小さな手を自分の両手で包み込むようにして手を組み、目を閉じる。

 イチロは、神様のことを優しい神様だと言っていた。ずっとずっと彼にとって愛しい我が子であるアーテル王国の民を見守り続けてくれている優しい神様だと。助けてはくれないし、願いも聞き届けてはくれないけれど、この国を守るために神様は心を砕いて下さっているとイチロは言っていた。

 ならば、どうかこの国を、町を、命を守ろうとする彼らにお力をお貸しください、とティナは祈る。

 マヒロもイチロも助けは望まないだろう。だって彼らは、自分の運命を自ら切り開いて進んでいく強い人だ。追い風が吹けば、それだけで彼らは軽やかに駆け抜けていくだろう。

それでいい、それだけでいいから。


「どうか……どうか……マヒロ神父さんとイチロさんに風が吹きますように」









「義姉上、何が起きたというんでしょうか」


 隣にやって来たアルトゥロが同じように窓の外を見上げて言った。

 即席の治療院になっている広間は、術者が浮かべた光の玉や火の玉で辛うじて光源を確保出来ているが、外は一寸先は闇という言葉通り、光が一つも見えないような暗闇に覆われている。

 おそらく町の上空に広がったのがインサニアで、インサニアに光を遮られた結果がこれなのだろうと推測できる。これらすべての闇がインサニアなら、自分達はとっくに苦しみももがいて死んでいる筈だ。


「……闇の中、どうすることも出来なくなると人は、何かに縋りたくなるものだな」


「ならば、神父様の言う神様とやらにお願いしてみましょうか」


 その言葉にナルキーサスは、ぱちりと目を瞬かせる。義弟は、にこにこと気の抜けた笑みを浮かべている。こういう笑い方は、夫によく似ていると思う。


「インサニアという脅威を祓うのは、神と教会と聖人の役目です。だとすれば、きっと神父様たちに神様は力を貸して下さるでしょう?」


ふふっとアルトゥロは笑うと祈るように手を組んだ。


「神様、どうかどうかマヒロ神父様とイチロ神父様にお力をお貸しください」


 ナルキーサスは、どうするべきかと白手袋を嵌めた自分の手に視線を落とす。


「……ここを出る時、マヒロ神父殿の声に神は応え、俺達に祝福の風を与えて下さった」


 すぐ近くに寝かされていた冒険者が言った。


「なら俺も祈るよ、神様ってやつは本当にいるらしいからな」


 その冒険者の言葉を皮切りに冒険者も騎士も治癒術師も皆が手を組んで祈りを捧げる。寝転がったままのものいれば、膝をつくもの、立ったままのもの、様々だが皆、真剣に祈りを捧げている。ナルキーサスは、窓の外にもう一度視線を戻す。

 深く濃い闇の所為で反射する窓ガラスに映る自分の顔は、余りにも濃い闇を畏れていた。

 きっとこれは奇跡を望む行為では無いのだ。奇跡なんかでこの町は救われない。インサニアは消えない。これは必然を手繰り寄せるための祈りなのだろう。

 ナルキーサスは細い指を絡めるようにして手を組み、祈り願う。


「神よ、どうか希望の光を彼らに与え、勇敢なる彼らの身に追い風を」










 松明や火の玉の光を頼りに町は入るが辺りは昼だというのに真っ暗だった。

 だが、二筋の金色の光が真っ直ぐに中央広場の上空へと伸びているのをウィルフレッドは見つけて、一団は西門からメインストリートを中央広場へと馬を走らせていた。光は凄い速さで動いていて、だんだんと光源が指し示す場所の下に向かって居るのが分かった。多分、あの光の下にマヒロたちが居るのだと思った。

 それからもうすぐそこに中央広場が迫るという頃だった。


「おい、あれは何だ?」


「……あ」


 兄がうんざりしたように指差すほうに顔を向ければ、美しい白銀の巨大な狼の番が屋根の上を走っている。その大きい方の狼の背には、見覚えのありすぎる美しい神父様の横顔が有った。もう一頭の少し小さな方には、可愛らしい少年のような神父が乗っている。

 二頭のヴェルデウルフは、風のようにあっというまに広場の方へと消えていく。


「あれが……魔王じゃなくて、例の神父です」


 ウィルフレッドの言葉にジークフリートは、考えたくないと言わんばかりの顰め面をしてみせた。


「ウィル!!」


 駆けられた声に顔を向けてウィルフレッドは思わず剣に手を伸ばす。ジョシュアがキラーベアに跨って現れたのだ。皆が皆、一瞬、武器を抜きそうになるがすぐに背中のジョシュアに気付いてどうするべきか悩み始める。


「ジョシュ、いつからそんなものに乗るほどに……」


 ジョシュアは、キラーベアに声を掛けて器用にウィルフレッドの横を走る。馬たちは不思議と怯えた様子もなく走り続けている。


「これはマヒロの戦友であって俺の馬じゃない。いや、そもそも馬じゃない、キラーベアだが。まさか人生の内でこんなものに乗る日が来るとは……」


「それよりも先ほど、屋根の上をヴェルデウルフが二頭も駆けて行ったのだが?」


 ジークフリートが言った。

 ジョシュアは、御無事でしたか、とほっとしたように表情を緩めた後、話し始める。


「あの光が差す先が、この町を覆うインサニアの核があると思われる場所です。詳しいことは後でお話しますが、マヒロ神父とイチロ神父が浄化に向かったんです。キラーベアよりヴェルデウルフの方が早いですからね、子どもの方はレイと一緒に居ますけど」


 この場合の子どもは、多分、ロビンのことだよなとウィルフレッドは思いながら顔を前に向ける。もうすぐそこに広場が迫っている。


「このインサニアを生み出したザラームが力を暴走させて、インサニアも暴走し、この有様です。不幸中の幸いは、インサニア自体が上空に留まり続けているということですが、いつこれが崩れるかも分かりません」


「それであの神父の魔王とかいう男がこれを浄化すると?」


「兄上、魔王じゃなくてマヒロです。気持ちは分かりますが」


 ジョシュアは、ジークフリート様も御冗談を言うんですね、と軽く笑って顔を前に向けた。


「あの二人にどうにか出来なきゃ、この町は終わり。それでおしまいです。だからせめて二人が愛する神様に祈る位はしようと思って」


「……神に?」


 ジークフリートが不可解だと言わんばかりに眉を寄せた。ジョシュアは、はい、と穏やかに笑って空を見上げた。そこに空があるかどうかも分からないほどの濃い闇に目が眩みそうになる。


「どうか、あの心優しく勇敢な神父様にお力をお貸しくださいと私は祈ります。それしかもう出来ませんから」


 兄は、暫しの間を置いて、そうか、と頷いた。

 あの聖水や光の矢に彼も思う所があるのだろう。

 そうこうしている内にウィルフレッド達は、中央広場へとたどり着く。

 普段は大勢の人で賑わい、旅の一座や大道芸人の姿が有る中央広場は、しんと静まり返り中央の噴水の水音だけが暗闇の中に響き渡っていた。

 馬たちは、どういう訳か乗り手の意思を無視して広場の入り口付近で足を止めてしまった。どれだけ声を掛けようともそれ以上先へは進もうとしない。ジョシュアを乗せたキラーベアもそれは同じだった。


「カーム、どうしたんだ?


 愛馬に声を掛けるが、走ってきたせいで荒くなっている呼吸以外はまるで変わった様子は無いのに、愛馬は手綱を引こうが腹を蹴ろうが動こうとしない。ただじっと黒い眼で前を見つめている。


「ラウラス殿やレイたちもどこかに居る筈なんですが……」


 ジョシュアが言った。

 ウィルフレッドも闇の中に目を凝らす。噴水の音が聞こえる辺りから二筋の光が真上へと伸びている。

 すると重い足音が聞こえて、突如、闇の中から二頭のヴェルデウルフが現れた。


「イチロの従魔のロボとブランカだ! 攻撃はするなよ!」


 ジョシュアの声に広がりそうになった混乱はすぐに鎮静化する。

 ヴェルデウルフは、こちらにやって来るとまるで広場を見守るように腰を下ろした。初めて実物を見るが、本当に美しい魔獣だと思った。流石のジークフリートも見惚れている。レベリオが感嘆の息を漏らした。

 ロボとブランカという名らしい番のヴェルデウルフも馬やキラーベアと同じように真っ直ぐに一点を見つめる。

 ウィルフレッドもその視線の先を追う。


「……あ」


 ふわりと花が開く様にゆっくりとその姿が闇の中に浮かび上がる。噴水の上にマヒロの姿があった。隣にはイチロもいる。彼らは風の魔法でも使っているのかそこに浮かんでいる。彼らは強く優しい金の光を帯びて輝いている。

 誰も言葉は発しなかった。

 ウィルフレッドは、自然とまるで、そうするのが最善だと分かっていたかのように両手を組んで祈る。ジョシュアもジークフリートもレベリオもその姿に促されるように祈りを捧げる。


「神よ、どうかこの暗闇を絶つ力を彼らにお貸しください」









 真尋は、心が凪いでいくのを感じていた。

 感覚だけが研ぎ澄まされて、見上げた先に異様に力の強い一点があることだけが分かる。ロザリオが指し示す光もそこに向かって伸びている。

 怖くないと言えば嘘になる。真尋でさえも足が竦みそうになる闇が目の前には広がっているのだ。闇を恐れない生物なんてこの世にはいない。それは本能的な怖さであり、理性に訴える恐怖でもある。

 それでも真尋がここに立って居られるのは、それに挑もうと思えるのはこの胸に愛が有るからだ。護りたいものが確かに在るからだ。それは恐怖さえも凌駕して、真尋を奮い立たせる。

 それに不思議なことにロザリオから強い力が溢れ出している。それはまるで湧き出る水のようにどんどんと力強く大きくなっていく。しかし、決してそれは恐ろしいものでは無い。優しくて温かな、まるでティーンクトゥスのような力だった。その力は更に真尋に勇気を与えてくれる。

 真尋はロザリオを腰に戻して、刀の柄に手を掛けた。


「ティーンクトゥス」


 真尋は彼の名を呼んだ。


「これだけ俺と一路が尽力してやったんだ。この闇を祓うために追い風を俺達に与えろ」


「相変わらず偉そうだなぁ、相手は一応神様だよ」


 一路がくすくすと笑いながら風花を取り出して、真上に向かって光の矢を番える。

 真尋は腰を落として、親指で鍔を持ち上げ鯉口を切り、刀を抜く。刀身が浄化の光を宿して眩い金色に輝く。


「俺は雪乃と約束したからな。彼女の大好きな俺の思うままに俺らしく生きると。……それに最初に言っただろ?」


 一路が弦を引き、光の矢が真っ直ぐに飛んでいく。

 真尋はそれを追いかけるように思いっきり地を蹴って飛び上がる。


「あいつは俺が躾けたんだから、俺の下僕だ!!」


 同時に下から吹き上げる風に体がぐっと上に持ち上がる。その勢いを利用して、上へ上へと上昇する。

 インサニアに入ったのだと分かった瞬間、肌を刺す様な冷たさを感じた。まるで氷のように冷たいものが頬を撫でて行く。そして、小さく囁くようにそれが聞こえ始めて、だんだんとそれは大きくはっきりとしたものになる。

『いやぁぁあああああ!』

『助けて、助けてぇえ!!』

『苦しいよぉ! 助けてぇえ!!』

『きゃぁぁぁあああ!!!!』

『誰か、誰か、助けてぇえええ!!』

 リックが聞いたものは、きっとこれだったのだと真尋は肩を握る手に力を籠める。

 真尋の前を進んでいく一路の光の矢が無ければ、真尋とて正気を失ってしまったかもしれないと思えるほど、インサニアに命を奪われた人々の最期の声が幾重にも重なって耳の奥に押し入るように響き渡る。

 核に近付くにつれて冷たさは増し、声が大きくなる。頭が割れそうなほどのそれに唇を噛んだ痛みで意識をはっきりとさせながら、真尋はロザリオの光がくるくると渦を巻くそこに辿り着いたのに気付いた。

 凄まじい瘴気が溢れ出している。真尋の体がティーンクトゥスの作ったもので、過分にその加護を受けていなければ、呆気無く死ぬであろう程の濃い瘴気がそこから溢れてインサニアを強く大きなものにしている。しかし、それは何かに阻まれている。真尋が近づくとそれが立ち上がった。

 その渦巻く核の傍に誰かが立って居る。黒い影のようなそれは人の形をしていて核を指差していた。

 ああ、そうかきっと彼は、と真尋は納得して刀を構える。


「助けられなくてすまない。だが、必ず伝えると約束する。その勇敢な最期を」


 そして真尋はロザリオと黒い影が指し示す光の先に向けて刀を振り下ろした。刀から放たれた光の刃は一路の放った矢と共に紛い物のインサニアの核を捕らえた。まるで氷を切ったかのような感触が手に伝わって来る。核が壊れると同時に真尋の体は落ちて行く。

 核が完全に飛び散る寸前、黒い影が騎士の礼を取った。真尋も胸に手を当て礼を返す。

 パキン、とガラスの割れる様な音がして闇がひび割れて行く。真尋は落ちながらインサニアの最期を見つめる。だんだんと光が溢れ出して、それは全体へとあっという間に広がっていく。

 断末魔はいつのまにか聞こえなくなっていて、あの人影ももうどこにもない。

 真尋は、すとん、と地に着地する。一路がこちらにやって来て、同じように崩壊寸前のインサニアを見上げ、ロザリオを取り出して祈るように構える。


「インサニアに囚われし罪なき魂よ。神の御胸に帰り安息の地にて安らかに眠ると良い」


 パリンッパリンッと甲高い音がして、遂にインサニアは崩壊する。

 黒い霧がまるで砂のように零れ落ちて来るがそれらは、突然、吹き抜けた風に散らされ、金色に輝く光の粉となって散っていく。

 ブランレトゥの上空に立ち込めていた雨雲まで散らしたらしい清らかな神の風は、どこからともなく吹き続けて、闇を光へと変えていく。光の粉がきらきらと雨の代わりと言わんばかりに降って来る。

 見上げた先には鮮やかな夕焼けが広がっている。鮮やかな茜色の夕景に光の粉が美しい色取りを添え、清らかで優しい風が全ての哀しみを連れ去るように吹き抜ける。風に揺れる髪を押さえながら、その美しい光景に真尋は目を細める。そこら中で歓声が上がって、町中に活気が戻って来るのを感じる。


「ふふっ、ティーンさん、頑張ってるみたいだね」


 一路が擦り寄って来たロボとブランカを撫でながら言った。


「散らすくらいなら出来ると言っていたからな、当然だ」


 真尋の言葉に一路がくすくすと柔らかに笑う。

 しかし、不意にそれが途絶えて友へと視線を向ける。一路は、何とも言えぬ表情で夕焼けに染まり、金の粉が降る空を見上げている。


「僕らは……この町を護れたのかな。護れているのかな……ティーンクトゥス様を」


 手を伸ばして、くしゃりとその淡い茶色の髪を撫でる。相変わらずふわふわとした触り心地だ。


「まだ教会も開いていないが、それでもきっと……ティーンクトゥスの力は少しずつ戻っている筈だ」


 あの時、ロザリオから溢れ出した力は、もしかしたら誰かが神を信じて祈ってくれた力かも知れないと思うのは都合が良すぎるだろうか。それでもあの時、真尋も一路もティークトゥスのような優しくて温かな力が溢れるのを感じた。それは、ような、であって、決してティーンクトゥスと同じでない誰かの力だった。

 ロザリオを腰へと戻して、真尋は月時雨をアイテムボックスにしまった。一路も風花をアイテムボックスにしまう。ふらりと揺れた彼の腕を慌てて掴む。


「おい、大丈夫か?」


 一路は力なく笑って、困ったように眉を下げた。


「……あとで治療してね、ロボと戦った時に肋骨何本かイッちゃったんだよねぇ。血も吐いたしさぁ、人生で初めてだよ、吐血。もう踏んだり蹴ったりだよ、ねえ、ロボ、ブランカ」


「労災だな。労災、後でアンナとウィルフレッドに集れ。ナルキーサスが嬉々として診断書を書いてくれるはずだ」


 真尋は一路の腹に手を当てて治癒の呪文を唱える。流石の真尋も今は魔力がそんなに残っていないので応急処置程度しか出来ないが。一路をブランカの背に乗せた。









「マヒロ、イチロ!」


「マヒロさん!」


「イチロ!」


 ジョシュアにリック、エドワードを始めとした仲間たちが駆け寄って来る。ロビンが嬉しそうに一路に飛びついて、危うく一路が落ちそうになりロボに怒られた。カロリーナやキアランも小隊を率いてこちらにやって来る。ウィルフレッドもいつの間にか戻ったようでレベリオとあと一人、見知らぬ男と共にこちらに駆け寄って来る。


「イチロ、大丈夫か?」


 エドワードが心配そうに尋ねる。ウォルフは既に泣きそうで、彼の尻尾は分かりやすく項垂れている。


「無理、眠い。ティナちゃん抱き締めて寝たい」


 一路がおざなりにウォルフの頭を撫でながら言った。


「イチロ、欲望が駄々洩れてるぞ。後で羞恥に転げ回っても知らないからな」


 エドワードが呆れ気味に、けれど、どこかほっとしたように言った。


「マヒロさん、本当に大丈夫ですか?」


 リックが心配そうに尋ねて来る。どちらかというと彼の顔色の方が悪い。

 真尋は、カロリーナたちの隊とエドワードに近くに来るように告げる。カロリーナが声をかけ第二小隊の者が真尋の傍にやって来る。真尋は、彼らの顔を一通り見回した後、リックの顔をじっと見据える。


「インサニアの中は酷く冷たくて、幾つもの断末魔が響き渡っていた。正気を失いそうになるほどの世界の中心にインサニアの核があった。邪悪なものが溢れ出すそれを……抑え込む騎士の影がそこにあった」


 息を飲む音がいくつも聞こえた。リックの深緑の瞳が大きく見開かれる。震える唇が、まさか、と音無き言葉を紡いだ。


「ただの黒い影だ。それが本当にそうかどうかは俺には分からないが、インサニアが町に降りてこなかったのは彼のお蔭だろう。……第二小隊の勇敢な騎士は、最期の最期までこの町を護っていた」


 深緑の瞳からぼたぼたと涙が零れだして、真尋はそっと自分とそう背の変わらない青年を抱き締めた。嗚咽が耳元で零れて、彼の涙が真尋の神父服を濡らす。彼だけではない、第二小隊の騎士たちが声を上げて泣き出した。カロリーナでさえも顔を俯けて涙を零している。エドワードはしゃがみ込んでロビンを抱き締めて肩を震わせている。傍に居たジョシュアがその背をあやす様に撫でていた。


「彼の死は、無駄死になんかではない。勇敢で誇り高い最期だったと俺が保証する」


「……は、いっ!」


 しゃくりあげながら頷いたリックの髪をぐしゃぐしゃと撫でて、真尋は小さく笑った。


「もうマイクの魂は、インサニアの闇の中には無い。この美しい夕陽を辿り、神の御胸に帰ったのだ。安心するといい」


 こくこくとリックは頷いた。

 それは友であり、仲間を失った哀しみの涙かもしれないし、安堵の涙かもしれないし、それら総てかも知れない。

 真尋は、リック達の涙の雨が小降りになったのを見計らって口を開く。


「さて、リック。俺は猛烈に腹が減った。一足先に戻ってサンドロに美味い飯を用意するように言っておいてくれ」


「……はい!」


 真尋がふっと笑いながら彼の頭を撫でれば、顔を上げたリックは嬉しそうに頷いて馬の下に戻って駆け出していく。

 鼻を啜り、涙を拭いながらカロリーナがその背を見つめ、此方を振り返る。


「神父殿、本当にありがとう」


「礼を言われるほどのことではないさ」


 真尋の言葉にカロリーナは、ぱちりと目を瞬かせた後、それでもだ、と小さく笑った。そんな彼女の肩をぽんと叩いてウィルフレッドが前に出て来る。


「マヒロ神父殿、本当によくやってくれた」


「閣下、お戻りになられたのですね、御無事で何よりです」


 真尋は元気そうなウィルフレッドの姿に安堵する。ウィルフレッドの隣にあの見知らぬ男性が現れる。


「兄上、此方が此度の事件で町の為に尽力して下さったマヒロ神父殿とイチロ見習い神父殿です」


 ウィルフレッドと髪の色は同じ蜂蜜色だがあまり似ていない顰め面の男が前に出て来て、手を差し出してくる。それを握り返して握手を交わし、真尋は最上級の礼を返して自己紹介する。


「初めまして、ティーンクトゥス教会神父のマヒロと申します。御無事で何よりです」


「このアルゲンテウス領領主、ジークフリート・カルロ・フォン・アルゲンテウスだ。此度はブランレトゥの為に、そして、アルゲンテウス領の為に尽力してくれたこと、心より礼を言う」


 ジークフリートはそう言って深々と頭を下げた。ウィルフレッドも兄に倣って頭を下げた。そうすれば後ろの騎士たちも一斉に頭を下げた。

 壮観だな、と感心する真尋の後ろで、辛うじて体を起こした一路が慌てている。後で怒られるのも嫌だな、と思って真尋はジークフリートに声を掛ける。


「領主様、どうぞ、お顔を上げて下さい。私のような平民に辺境伯である貴方がやすやすと頭を下げてはなりません」


 それでも領主様は顔を上げなかったが、もう一度、真尋が促せば漸く体を起こしてくれた。ジークフリートが顔を上げれば、ウィルフレッドも顔を上げ、他の騎士たちも漸く体を起こす。


「貴方はこの町のみならず、多くの領民の命と私の家族の命も救ってくれた。下げられる頭があるのは、貴方のお蔭だ」


 真っ直ぐに真尋を捉える紅い瞳は、ウィルフレッドの紺色の瞳と同じくらいに力強いもので確かに兄弟なのだな、と感心する。


「よければ、この後、詳しい話を聞きたいのだが……」


「あ、それは無理です。家で娘が待っているので一刻も早い帰宅をしたいのです」


 真尋はきっぱりと断った。真尋は、ノーと言える日本人だ。一路が「君ってやつは……」と呆れてブランカに突っ伏した。いや、力尽きたのかもしれない。


「だ、だが、マヒロ、森に帰すゲイルウルフにキラーベアだってどうにかしないとならないだろう?」


 ジョシュアが頬を引き攣らせながら言った。


「それはここに、森の王が居るんだから問題無いだろう。ロボ、あいつらを頼むぞ」


 ロボがこくりと頷いた。ロビンとキラーベアに声を掛けると二頭を連れてのっしのっしとどこかへ歩き去っていく。討伐されないか、と心配したが一瞬で杞憂だと悟って、ジョシュアに向き直る。


「エディ、お前もロボたちのフォローをしろ。主に周囲への説明の面でな」


「……はい」


 リックは伝令なのに、と嘆きながらエドワードは愛馬に跨りロボたちの背を追いかけて行った。


「これで一番の問題は片付きましたね。それでは俺は帰ります、詳しいことはそこに居るラウラス殿やカロリーナ小隊長辺りに聞いて下さい。ですが死の痣やインサニア関連の負傷者や遺留品があれば、遠慮なく屋敷に来てください。無論、それ以外の怪我人も。騎士たちにも冒険者たちにもそう伝えてありますので。ですが今は俺の可愛い愛娘が俺の帰宅を今か今かと待っているので誰が何と言おうと帰ります」


 真尋は唖然として固まっている領主に笑顔を返して、一路の後ろへと飛び乗る。


「ジョシュア、レイ、お前ら二人も一度は帰宅だ。妻子と母親を安心させてやってから、好きにしろ。それでは領主様、近い内にお会いすることになるでしょう。ごきげんよう」


 頬を引き攣らせたままのジョシュアとレイが大人しく頷いたのを見届けて、真尋は領主にもう一度、軽く頭を下げてからブランカに声を掛ける。ブランカは、こくりと頷くと屋敷へと駆け出していく。









 屋敷が見えて来る。

 庭へと入れば、歓声によって迎えられる。冒険者や騎士たち、治癒術師が庭に出たり、窓から顔を出して手を振っている。

 しかし、真尋はそれには目もくれず玄関へと急ぐ。 

 玄関にジョンに寄り添うようにして立つ小さな娘の姿があったからだ。


「ミア!!」


 叫ぶように名を呼べば、ミアが駆け出してくる。真尋は、ブランカから飛び降りて駆け出す。

 そして精一杯伸ばされた細く短い腕を受け止めて、ミアを抱き上げて、力強く抱き締める。


「ふっ、うえっ、ふぇぇえええ!」


 泣き出したミアを強く抱き締めて、その頬や髪、可愛い兎の耳にキスをする。

 ミアはもう二度と離すまいと言わんばかりに小さな手に力を込められるだけ込めて真尋の草臥れた神父服を握りしめている。足ですら真尋にぎゅうとしがみついている。

 ああ、無事に帰れたんだという安堵に真尋はその場に座り込んだ。自分で思っていたよりもずっと、緊張していたらしいと苦笑が漏れる。

 それもそうだ。流石の真尋だって隊を率いて魔獣退治も悪の親玉との決闘も町を覆うほどの大きな災いの浄化もしたことなど無いのだ。平穏で平和な世界についこの間まで生きていたのだから。

 抱き締めたミアの温もりに涙が出そうになるのを誤魔化す様にミアの髪に顔を埋める。

 視界の端でブランカから落ちるように降りた一路は、ティナを抱き締めている。ティナがミアと同じようにわんわんと泣きながら一路に抱き着いていた。少し遅れて帰って来たジョシュアとレイにプリシラ達が駆け出していく。

 そこかしこで歓喜に震える涙が落ちる。

 サヴィラやネネ達も庭に出て来て、ルーカスやクレアにカマル達もこちらにやって来て、ますます賑やかになる。

 ミアのしゃくりあげる声が小さくなって、漸く、ミアが顔を上げる。珊瑚色の瞳が、真っ直ぐに真尋を捉える。


「ただいま、ミア」


 ミアの瞼にキスを落として心からの愛を込めて告げる。

 ミアは、ぱちりと瞬きをした。ぽろんと長い睫毛に溜まっていた涙が落ちて行く。それを親指で拭ってやれば、そこに可愛い笑顔の花が咲く。


「あのね、……あのね、おかえり……パパ!」


 満面の笑みで飛びついて来たミアを真尋は再びぎゅうと抱き締める。

 愛しさが溢れて頭がおかしくなりそうだ。娘がこんなに可愛いなんて聞いていない。想像していた百倍は可愛い。雪乃にもこの想いを伝えたいのに、伝えられないのが歯がゆい。弟たちが居たらミアを猫可愛がりしたに違いない。あのちょっと頭の痛い執事も大事にしてくれただろう。


「だがこれだけは言っておく!! 雪乃!! 俺はミアを嫁にはやらんと今決めたからな!! ミア、君は婿を取れ、いいな?」


 ミアがきょとんとしたまま頷く。


「君は馬鹿なの……?」


 ティナを抱き締めたまま妙に冷静な一路のツッコミが入って、周りが笑い出す。


「マヒロは親馬鹿一直線間違いないわねぇ!」


 レイに抱き着いたままソニアが言った。同じくレイに抱き着くサンドロがレイの肩に顔を埋めて大笑いしている。レイは口元を手で覆ってそっぽを向いているがその肩が震えている。その傍でローサが腹を抱えて笑って蹲っていた。泣いていた筈のティナもいつの間にかくすくすと笑って、彼女と一路の肩の上で薄紅色のブレットがピオンと一緒に体を揺らしている。


「マヒロさん、娘のための魔道具とか作りそうですよね。それはそれで面白そうですが」


 クロードが珍しく笑いながら言った。


「それは言えるな。しかし、神父殿を超えて掻っ攫っていくか、大人しく婿に入るかとはミアの婿殿は大変だなぁ」


 ナルキーサスがケラケラと笑う。アルトゥロまでうんうんと横で頷いていた。


「分かる、分かるぞ! 娘はな手元に置いておきたいもんじゃ! この魔石と同様にな!!」


「分かりますよ! 私だってね! 神父殿! どこの馬骨とも分からない男に娘はくれてやりませんよ!!」


 ジルコンとカマルだけが熱烈に賛成してくれた。ジルコンの娘ってどんなのだろうと少し思ってしまった。ちなみにカマルは後ろから一路に抱き着いていた。一路がちょっと迷惑そうだ。


「ははっ、ミアの婿は大変だなぁ!」


 ジョシュアが笑いながら言った。彼の腕の中で、プリシラ達まで笑って居て、ただジョンだけちょっとしょっぱいような顔をしていた。真尋は大人げなく気付かないふりをした。ただジョンの見る目だけは確かだと親馬鹿にもほどがあることを思う。

 するとそれまで我慢していたらしい子供たちが次から次に真尋に飛びついて来る。一人一人をミアと一緒に抱き締めて、額にキスをしてやれば子どもたちは嬉しそうに笑う。最後のネネが離れて、サヴィラがそこに立ち尽くしている。


「サヴィ、おいで」


「お、俺は別に……わっ!」


 えーいとネネを筆頭に子供たちがサヴィラを突き飛ばし、サヴィラは真尋の腕の中に倒れ込んでくる。素直ではない少年をミアと一緒に抱き締めてその額にキスをしてやり、くしゃくしゃと髪を撫でた。

 紫紺の瞳がぷいっと逸らされる。小さな鱗の浮く白い頬は夕陽の所為か真っ赤だ。


「…………おかえり、神父様」


「ああ、ただいま」


 ふっと笑えば本当に少しだけサヴィラが笑った。その顔をわざわざ子供たちが覗き込む。


「サヴィ、うれしそー」


「おかお、まっか! まっかっか!」


「てれてる、サヴィ、てれてる! てれてれサヴィだー!」


「う、うるさい! 照れてないし、これは夕陽の所為だ! 待て、このクソガキ共!」


 サヴィラが子供たちを追いかけるようにして、真尋の腕から逃げていく。

 庭に子供たちの軽やかな笑い声が夕陽と共に落ちる。周りを見回せば、そこに居る皆の表情に不安や悲しみは無い。安堵と幸福だけがそこに広がっている。

 くいくいと服を引っ張られて、下に顔を向ければミアと目が合った。


「……あのね、帰って来てくれて、ありがとう」


 ちょっと泣き出しそうな顔で笑ったミアを真尋は抱き締める。


「ただいま、ミア。何度だって言う。ただいま、ただいま、俺の可愛い娘」


「えへへっ、おかえり、パパ!」


 ぐすっと鼻を啜るミアに溢れる愛おしさが全て伝わる様にと娘になったばかりの小さな少女を壊さない様に愛を込めて強く、強く抱き締めた。







――――――――――――

ここまで読んで下さってありがとうございました!

いつも閲覧、感想、評価、ブクマ登録に励まされております。


漸く、漸く、本当に漸っっっっっく!!

ここまで来られました!!

全てが丸く収まったわけでは無いですが、とりあえずは真尋さんとミアちゃんが幸せなのです!!

皆がブランカに驚いていないのは、リックがちゃんと報告したからですね、偉いぞ、リック!!

さてさて次回は、後片付け編です。(予定)


次のお話も楽しんで頂ければ幸いです。

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― 新着の感想 ―
[良い点] たくさんの魔獣が現れたのが討伐&味方になってくれた、との朗報?にすら胃が痛むウィルさん… アエトスさんはこの報告を普通にできてる神経が強めの方のようでなによりです! 真尋達への信頼がティ…
[良い点] 力を失い忘れられ歪められてきた神に、皆が奇跡を願うでもなく優しい神父の背中を押すことを祈るのがもう…… 堪らない気持ちになってだぱだぱ泣いてしまいました。
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