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称号は神を土下座させた男。  作者: 春志乃
第一部 本編
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第三十二話 射る男

「雨が強くなったな」


 広く長い廊下を歩きながらジョシュアは呟いた。

 冒険者たちが集まっている一階や子供たちの居る二階は賑やかだが、三階は静まり返っていて雨の音が廊下に暗く降っていた。

 ジョシュアを呼びに来てくれたティナは今、下で冒険者たちの受付をしている。レイはどうやら緊急クエストとして冒険者たちを招集し、貧民街に赴こうと考えている様だった。遣いに出された冒険者がギルドマスターを呼びに行ったから、そう待たずしてくるだろう。

 階段を上がってすぐの客間のドアは重く閉ざされていたが、その隣の客間は薄くドアが開いていて、歌が零れ聞こえてきた。

 低く穏やかで良く通る声があやすようなメロディに聞いたことの無い言語の歌詞を乗せている。歌の意味は分からないが、その緩やかなテンポと静かで穏やかな歌は、多分、子どもをあやすための歌だ。

 ドアの隙間から部屋を覗けば、やはりマヒロが歌を口ずさんで、ミアを寝かしつけているようだった。

 薄桃色の寝間着に着替えたらしいミアを大事そうに抱えるマヒロが窓際に立って、子守唄を歌って居る。真ん中のベッドに寝かされたサヴィラの傍にはジルコンが居て、マヒロの歌のリズムに合わせてサヴィラの腹をぽん、ぽんと撫でていた。

 ジョシュアは音を立てない様にそっと中に入る。マヒロがちらりと此方を見たが歌は止まない。ジョシュアは、ベッドに近付いていきサヴィラの足元に腰を下ろした。サヴィラの額には濡らした布が乗せられて腋には氷水の入った皮袋があった。布団から出ていた足を触るとまだ熱い。ジルコンが布を氷の浮かぶ桶に浸してぎゅっと絞ってまた乗せる。

 サヴィラはここに運んで来た時に比べるとずっと穏やかな寝顔を浮かべていた。これならあとでネネをここに呼んでも大丈夫だろう。

 不意に歌が止んで、マヒロがこちらに戻って来て隣のベッドに腰掛けた。ミアを寝かしつけようとしたが、ミアの小さな手はマヒロのシャツを掴んで離さなかったのだ。


「……ミアはどうだ?」


 ジョシュアはささやくような声音で問いかける。

 マヒロはミアの髪を撫でながら顔を上げる。


「とても不安がって、俺から離れないんだ……下に行きたいんだが、無理に剥がすのも可哀想でな」


 なんとなく覗き見れば、ミアの頬には涙の伝った跡があって、その寝顔は不安が滲んでいるように思えた。それもそうだろう。たった一人の弟が苦しんでいるのだから、ミアの心は休まらないに違いない。こうしてマヒロに縋りつくことでどうにかその不安を落ち着けようとしているのだろう。


「……まだ出かける準備は整ってないから大丈夫だ。傍に居てやれ、その子にとってはきっと、マヒロだけが頼りなんだから」


 マヒロは、ミアに視線を落として彼女の髪に頬を寄せるとミアを抱え直した。


「そういえば、イチロは?」


「隣でナルキーサス殿に言われて助手をしている」


「イチロも治癒の腕前は見事だからなぁ……」


「騎士の兄ちゃんはどうしたんじゃ?」


 ジルコンが首を傾げる。


「ああ、リックなら、二階のリビングに居るよ。一人だと考えが暗くなるかな、と思って……今頃、チビ達に翻弄されてるんじゃないか? ソニアとプリシラとクレアとネネとティナとローサが六人がかりで風呂に入れて、おやつを食べさせて、今はリビングを飛び回ってる。さっき、ちらっと覗いたらリックは女の子にせがまれてお姫様ごっこの騎士をしてたが、エディは男の子たちの馬になってた」


 ジョシュアはくすくすと小さく笑った。ジルコンも声を潜めて笑い、マヒロの表情も微かに緩む。

 リックは騎士服だったが、エドワードは謹慎中で私服だったので、馬になってしまったのだろう。


「……さて、これからどうするかな」


 マヒロがぽつりと零して窓の方へと顔を向けた。


「やっぱり、貧民街にインサニアが発生したのか?」


「それが分からん」


 マヒロは力なく首を横に振った。彼にてしては何となく覇気が無い。


「……マヒロ、あんまり顔色が良くないが大丈夫か?」


雨のせいで部屋が薄暗くて気付かなかったが良く見れば、マヒロは顔色があまり良くない。


「……サヴィラの死の痣はそこまでじゃなかったんだが、ノアの方の浄化は大分、負担がかかってな……あの黒く染まった水は、酷く冷たい。まるで氷のようだった。吸った命の分だけ、きっとあれは冷たいんだろうな」


 淡々と告げられた言葉とは裏腹に銀に蒼の混じる瞳はどこか悲し気に見えた。

 サヴィラの腕から出て来たそれは、ジョシュアが今まで見た何よりも濃い黒だった。夜に潜む闇だってあんなに濃くは無い。見ていると不安になるような濃くて深い闇のような黒だった。


「なら、マヒロも横になったほうが良いんじゃないか?」


「大丈夫、こうしてミアを抱き締めていると温かいから安心するんだ。人のぬくもりに勝るものはない」


 そう言ってマヒロは穏やかに微笑んだ。ジョシュアにも分かるほどの微笑みを浮かべるのは珍しい。出会った当初からそうだったがマヒロは驚くほど表情に変化が無い。だからこそ先ほど、咄嗟にミアの手を振り払おうとしたレイを脅したときのあの満面の笑顔は異様に怖かった。その直後、ミアに向けられたものは今と同じで優しく温かいものだった。マヒロの表情が分かりやすく動くのは、こうして子供と接している時が多い。ジョンやリースと接している時はジョシュアでも分かるほど表情の変化が顕著だ。


「……貧民街にインサニアは発生していると思うか?」


 マヒロが顔を上げる。


「分からない。ジルコンが確認もしてくれたし、ノアやサヴィラにあったのは間違いなく死の痣だ。俺と一路の力が有効なのも証拠の一つと言える。サヴィラが教えてくれたグリースマウスはバーサーカー化した時の症状と一致する。貧民街では謎の不審死や通り魔が頻発しているし、その陰に必ずあの黒い霧が居る……だが、歴史上、このアーテル王国に発生したインサニアと何かが違うんだ」


「何が?」


「まるでインサニアが意思を持って居るように俺には思える」


「意思? お前も変なことを言うのう」


 ジルコンが妖精につままれたような顔をする。


「なら、言葉を変えよう。インサニアを操る誰かが後ろにいるようだ、と」


「……例えば、ザラームとかか?」


 その名を知らないジルコンが首を傾げる。


「世界というものは変わり続ける、不変は一つだって無い。故に未知なる脅威が、或は、未知なる力が誕生してもなんら不思議は無いだろう?」


 僅かに口端を吊り上げてマヒロが小首を傾げた。さらりとその艶のある黒髪が揺れる。

 背筋をぞくりと不安が撫で上げていく。


「……でものう、わしからしてみれば、お前も充分、未知なる力を有しておるように思うぞ。お前の魔法も魔力も頭脳も存在も……まるでこの国の常識には当てはまらん」


 何を言い出すんだ、とジルコンを振り返れば、三百年も生きているからこその余裕なのか知らないがジルコンはつまらなそうに欠伸を零した。


「俺のステータスには、隠蔽が掛けてある」


 徐にマヒロが言った。

 こっちはこっちで何を言い出す気だ、とジョシュアは身構える。


「ギルドで見せたステータスは、この国の常識的なレベルに合わせて調整したものだ。HPとMPの数値もスキルや属性の数もそのレベルも……まあ属性については諸々バレているようだがな」


「……あれだって、かなり優秀な人間のステータスだったじゃないか」


 ジョシュアは呻くように言った。

 マヒロのそれもイチロのそれも年齢とレベルを鑑みればかなり優秀なものだった。

 マヒロは、ちらりとこちらに視線を寄越した後、呪文を唱えてステータスを開いた。


「見るか? 閲覧許可をしているから、本物が見られるぞ?」


「わしはいい。平穏無事に暮らしたいからの」


 ジルコンはすぐに首を横に振った。マヒロは、そうかとつまらなそうに言ってこちらを振り返る。


「……一つ、聞かせてくれ」


「何だ?」


「それはどれくらいのレベルだ? 俺の心臓は持つか?」


 マヒロは、ふむ、と顎を撫でながら考えるような仕草を見せた。


「一路には、Sランクの冒険者にも宮廷魔導士長にも騎士団団長にもなれると言われたな。あいつのステータスだって、Aランクの冒険者程度はあるがな」


「よし、俺は見ない。すぐにしまってくれ。俺は自分の胃が可愛い」


 ジョシュアは、両手を前に出して、拒否の姿勢を強調した。


「何だ、つまらん。折角、人が秘密を教えてやろうと思ったのに」


「嫌だよ。それに前、ウィルが暴こうとした時、覚悟しろってマヒロは言ってたじゃないか。俺は自分の胃が破裂するような覚悟はしたくない。俺には可愛い嫁と可愛い息子たちがいるんだ」


「お前は俺を何だと思ってるんだ」


 マヒロが呆れたような半目になったが、ジルコンはジョシュアの言葉に同意してくれた。マヒロがステータスを消したのを見て、ほっと胸を撫で下ろす。マヒロの場合、藪をつついたらゴブリンどころかキラーベア、いいや、ドラゴンが出てきかねない。


「まあいい、今はとにかく、これからの話だ」


「そうだな。で、マヒロはどうしようと考えてるんだ?」


「貧民街を徹底的に調査したい。だが、問題は黒い霧に対抗できるのが、俺と一路のみということだ」


「確かに……」


「ん? あの光の魔力を付加すればいいんじゃろ? だったら、ジョシュアとレイの剣は魔石が取り付けられるようになっておるから、マヒロの魔力を込めた魔石を入れておけば、なんとかなるじゃろ」


「……そんな機能、初めて聞いたぞ、おやっさん」


 ジルコンは、小さな目をぱちりと瞬かせて髭を撫でた。


「お前に言ったところで、わししか設置も交換もできんからの。どれ、剣を出せ」


 ジルコンはマイペースに手を出した。ジョシュアは、言いたいことは色々あったが飲み込んで、素直にアイテムボクスから愛剣を取り出した。この剣とも十年以上の付き合いだというのに、そんなことは全く知らなかった。


「これでいいか?」


 マヒロが彼の魔力に光の属性を付加して込めた魔石をジルコンに差し出す。柔らかで温かな金の光が魔石の中で揺れている。


「ほっほっ、綺麗じゃのぅ。わしも毎日、大事に大事にしておるんじゃよ、あんな上等な魔石がただで貰えるとは長生きしてみるもんじゃ」


「……やった覚えはないが、まあいい」


 マヒロがやれやれと肩を竦めてミアを抱えなおす。ジルコンという爺さんは、非常にちゃっかりしている。

 ジルコンはマヒロから受け取ったそれをどこに入れるのかと見ていれば、ジルコンがちょいちょいと弄ると柄頭の獅子の顔を模した装飾がぱかりと口を開けた。そして、ジルコンが魔石をその口の中に入れると、ジョシュアの剣が一瞬、淡い金の光を帯びて輝いた。


「ふむ、成功じゃ。相性が悪いと魔石を吐き出すんじゃが、気にいったんじゃろうな。流石はわしの剣じゃ!」


 ジルコンはふんふんと鼻を鳴らして胸を張った。

 ほれ、と渡されたそれを握りしめる。不思議なことに温かな何かが手から体内へと流れ込んでくる。


「使ってみんことには分からんが、マヒロの光の属性をその剣は帯びておるから役には立つじゃろうて」


「流石だな、ジルコン」


「わしは素晴らしい名工じゃからな。どれ、レイのやつにもやって来るか。マヒロ、魔石」


 よっこいしょとベッドを降りたジルコンがマヒロに向かって手を出す。マヒロは、どこからともなく魔石を取り出して魔力を込めるとジルコンの手のひらに乗せた。


「わしの剣に入れる訳じゃから、いずれこの魔石もわしのもんになるかと思うと嬉しいのぅ」


「……ドワーフ族を強襲する竜人族の気持ちが分かったかもしれん」


 渡された魔石に頬ずりするジルコンの禿げた頭をみながらマヒロが真顔で言った。ジョシュアは何とも言えない気持ちになって、曖昧に笑って返した。


「ジルコンが優秀であるとは言え、何があるかは分からん。俺も出来れば同行したいのだが……ミアを置いて行くのはな」


 マヒロがミアの髪を撫でながら言った。


「貧民街へは僕が行くよ。真尋くんはここに居て」


 振り返れば、イチロがこちらにやって来た。


「ノアは?」


「僕が手助けできる部分は終わった。後はナルキーサス様とアルトゥロ様に頼るしかないよ」


 そう言ってイチロは何とも言い難い表情を浮かべた。

 マヒロは、そうかと頷いて目を伏せた。長い睫毛がその頬に影を差す。


「マヒロさん、下にマスターたちと騎士団の人達が来たよ」


 ローサがひょっこりと顔を出した。


「一路、無茶はするなよ」


「君じゃないんだから、しないよ。行きましょう、ジョシュアさん、ジルコンさん」


「ああ。俺達とイチロに任せて、ミアたちを頼んだぞ、マヒロ」


「分かった。くれぐれも無茶はするなよ」


 分かってる、と返してジョシュアはイチロとジルコンと共に部屋を後にしたのだった。









「俺もそんなことは知らなかった」


 ジルコンが魔石をはめ込んで淡い金の光を帯びたクレイモアを見ながらレイが言った。ジルコンはやっぱり悪びれもせず「お前たちには必要のない機能じゃからのう」と言って、仕事を終えると腹が減ったと厨房に行ってしまった。心の底から本当に自由だなぁといっそ感心したほどだ。

 広間は冒険者たちで溢れ返っていて、少々むさくるしい空間になっていた。広間の入り口には、急きょ、受付が設けられてティナと応援に駆け付けたクイリーンが冒険者たちのリストを作り上げている。


「インサニア、ねぇ。信じがたいけど、ナルキーサス殿まで太鼓判を押したって言うなら、調査は必須よねぇ」


 どぎついピンクのフリルたっぷりのドレスを纏ったアンナ・本名イオアネスが頭の横でクロワッサンのようにカールさせたくすんだブロンドを指に絡ませて遊びながら言った。隣に立つ彼の嫁、キャサリン・本名アイリーンが銀ブチ眼鏡の縁を押し上げて頷いた。


「そうね……でも神父さんも見習いさんもお忙しいそうで、私達の呼び出しにも応じないし、そもそもクエストを一度も受けていないどころか、従魔登録以降、一度も顔を出してないのだけど?」


 キャサリンの言葉は刺々しい。


「おかしいな……俺は呼び出しには応じるように言ってあるぞ?」


 ジョシュアは首を傾げる。

 することは破天荒だがマヒロもイチロもどちらかと言えば真面目な性質だ。特にイチロは呼び出しには素直に応じそうなものだ。


「サンドロに直接伝言を頼んだのよ?」


「……あー、それは届いて無い可能性が高いな」


 ジョシュアは、なるほど、と納得する。キャサリンが、どういう意味?と首を傾げた。


「サンドロは厨房にこもりっきりで、マヒロともイチロとも殆ど会う機会が無いし……そもそもあいつが緊急でも無い限りそんなことを一々覚えている訳が無いから、返事だけして伝言のことは覚えてないと思うぞ」


「あいつ、脳みそ筋肉で出来てるからな」


 レイがぼそりと呟いた。

 キャサリンがすっと真顔になって「厨房に行って来る」と去っていくのをジョシュアはレイと共に見送った。少しして何か爆発音のような音が聞こえて、すっきりした顔のキャサリンが戻って来た。


「厳重注意をしてきたわ」


「あたしのキャシーは今日も素敵だわぁ」


「私のアンは今日も可愛いわよ」


「やだぁ。キャシーったらぁ」


 アンナが照れて体をくねくねさせる。レイが隣で頬を引き攣らせているし、周りの冒険者は目をそらしている。ここにマヒロが居なくて良かった。割と思ったことをそのまま口に出すマヒロの事だから「何だあの化け物は。可哀想に何か呪いでもかかってるのか?」と真顔で言いそうだ。初対面で化け物とはっきり言っていたし。


「ティナちゃん、クイリーンさん、もう集まりました?」


 振り返れば、受付のところにイチロが居た。ここへ来る途中でイチロは用があるからと温室に行ったのだ。


「はい。大体揃いました。時間的にもう締め切られるのでもう来ないと思います」


「そっか。急にごめんね、それで何人くらい?」


「マスター、キャサリンさん、ジョシュアさん、レイさんを除けば全部で六十五名です。パーティーでの参加はその半数で、三から五名で構成されたパーティーです。五名パーティーが三、四名が二、三名が三です」


「ふむふむ、ランクは?」


 イチロがメモを取りながら更に尋ねる。それに答えたのはクイリーンだ。


「クエストの内容からマスターが判断して参加資格がC以上なので、C以上の冒険者が揃っています。したがってパーティーランクもBです。個人ですとBが五名、残りは全てCです」


「っていうことは、Aが二名、Bが五名、Cが六十か。……よし、なら七つに分けよう。そのパーティーはBランクの冒険者さんは居る?」


「五名の方には、一人ずつ。あとは、個人です」


「なら、能力を鑑みて、臨時のパーティーを組んでもらえる? ジョシュアさんとレイさんと残りのBランクの人をリーダーにして、五名パーティーにも三名ずつ追加して、八名のパーティーを三つと九名のパーティーを四つ」


「分かりました。十分下さい」


「十分で良いの? 助かるよ、ありがとー」


 イチロは人懐こい無邪気な笑みを浮かべるとこちらにやって来た。ティナとクイリーンが早速、振り分け作業に取り掛かる。

 イチロはこちらに来ると一瞬、アンナを見て笑顔を強張らせたが、なんとかこちらにやって来た。アンナは素人にはきついものがある。これでも実力だけは王国でも折り紙付きなのだが如何せん個性が強烈すぎる。


「初めまして、神父見習いの一路です。真尋神父は所用で手が離せませんので、今回の件は僕が担当させて頂きます」


 イチロが丁寧に挨拶をして頭を下げた。


「初めまして、あたしはギルドマスターのアンナよ。こっちは私の愛する奥さんで秘書のキャサリンよ。サブマスターでもあるの、よろしくね」


「初めましてイチロさん」


 イチロは二人と握手を交わす。


「ええと今回のクエストなんですけど……騎士団の第三中隊第二小隊の方々も三つに分かれて参加します」


「第二小隊ってエドワードたちの隊だよな」


「はい。もう来ると思いますが……」


 そう言ってイチロが振り返るとリック以外は私服姿の騎士たちがやって来た。小隊長であるカロリーナを先頭にしてこちらにやって来た。


「騎士服を着ていると色々と厄介でな……それに干されたばかりで、我々の動向など誰も気にしないよ」


 カロリーナがははっと笑った。


「但し、エディとリックは伝令役として参加はしない。貧民街近くの詰所に待機させる。それにエディは謹慎中だしな」


「ウィルはこのことは知っているのか?」


「勿論。緊急クエストという名義で伝わっている筈だ。仔細は、貧民街の調査が済んでからの報告になる。……流石に団長に来られるとリヨンズが五月蠅いからな」


 そう言ってカロリーナは苦笑を零した。

 今朝、エドワードが第二小隊がクルィークの事件に関する権利を奪われたと言っていたので心配していたのだが、彼らには彼らなりに諦めた訳では無いようだ。


「アンナ殿、久しぶりだな。今日はよろしく頼む」


「こちらこそ、カロリーナちゃんの小隊は優秀な人が揃ってるもの、頼りにしてるわ」


 アンナがウィンクをした。笑顔のカロリーナの頬が引きつったが横でエドワードはそっぽを向いてリックに殴られていた。


「よし、それじゃあそろそろ説明に入りましょうか。説明している間に振り分けも終わるでしょうし」


 そう言って一路は中心へと歩いて行った。


「……あんなに小さいと気づいて貰えないんじゃないか?」


 レイがぽそりと呟いた。ジョシュアは、確かにと心配になる。マヒロと違って小柄なイチロはあっという間に埋もれて見えなくなった。


「俺、肩車でもした方がいいでしょうか?」


 エドワードが真顔でカロリーナに尋ねる。カロリーナはジト目になってため息を零した。リックが片手で顔を覆って項垂れていて、ジョシュアはぽんぽんとその肩を叩いた。


「だが、イチロは大丈夫か? 何だったらレイか俺が……」


 その時、広間の窓際から一気にざわめきが広がった。

 一気に皆の視線がそちらに向けられて、ジョシュアもあんぐりと口を開けて、それを見上げる。


「はい、これで皆さん、僕が見えますねー? 僕の声が聞こえない人はもっと近づいてきてくださいねー?」


 冒険者たちの頭上に水で出来た円柱型の台の上に立つイチロが居た。パキパキパキンという音が聞こえて、その台は強度を持った氷へと変わり、それと同時に床から這いあがる蔦が氷の柱に巻き付いて行く。


「そんなにざわざわしなくても僕の言うことをきちんと守って下されば、命の危険は多分ないですからねぇ」


「違う、イチロ、皆が驚いてるのはそこじゃない」


 ジョシュアは両手で顔を覆って首を横に振るがイチロの耳には届く訳もない。

 周りの冒険者たちが驚いているのは、イチロが属性魔法を二つ同時に、それも扱いが非常に難しい副属性を同時に操っているということだ。


「……そういえばあの神父もさっき、俺を乾かした時、温風を当てて来やがったからなぁ」


 レイが言った。レイの向こうでアンナとキャサリンも口をぽっかりと開けてそれを見ていた。

 そう言えばそうだったなとジョシュアは遠い目になる。マヒロもマヒロで舌打ちした片手間にレイを乾かしていたが、あれは火属性と風属性を同時に発動させていたということになる。魔道具を使えば属性魔法を同時に使用するのは可能だが、マヒロは舌打ちしかしてなかったし、そういえば呪文すら唱えていなかったなぁと今になってジョシュアはあれこれを思い出す。もしかしたら自分の胃が可愛い余りにそういった些細なことは無意識のうちに意識から除外していたのかもしれない。それか慣れだ。多分、慣れだな。


「イチロ神父殿も十分にあれだな」


「マヒロさんの幼馴染ですから、普通ではないのが普通かと」


 遠い目をするカロリーナをフォローするリックのそれは変なアーテル語だったが意味はすごくよく分かった。


「……イチロ神父のギルドに登録されたステータスには、属性は水と光しか無かった筈だけど?」


「後で本人に確認してください」


 キャサリンの問いにジョシュアはきっぱりと返した。


「まずは、急な招集にも関わらず、多くの皆様が集まって下さったこと、真尋神父ともども心より御礼申し上げます」


 イチロが深々と頭を下げて、冒険者たちがだんだんと静かになる。


「真尋神父は別件でこの場にはおりませんので、見習いではありますが、ティーンクトゥス教会見習い神父の一路がお話をさせていただきます。今回の緊急クエストで皆様にしていただきたいことは一つ、貧民街の徹底的な調査です」


「見習いさん、いいかしら?」


 誰か女性が手を挙げたのが分かった。イチロが、どうぞ、と手で彼女に発言を許可する。


「貧民街では今月に入って、十二件の不審死事件が起きているけど、それに関係が有ることなの? 騎士団も治療院も原因不明だって言ってたわ。これが疫病の類なら、大ごとよ」


 そうだそうだ、と声があちこちで上がった。イチロは然して動じた様子もなく答える。


「不審死は、病気ではありません。あの不審死事件は、恐らくインサニアに準ずるものが原因となって起こった事件だと考えています」


 ざわめきがさざ波のように広がった。静かな囁きだがだんだんと興奮を孕んだ大きなものへと変わっていく。


「インサニア? そんなものここ二百年聞いたことは無いぞ!」


「多くの冒険者や騎士が死んだって聞いたのに、そんなものがここで発生したなんて……どうして騎士団は黙ってるんだ!?」


「本日!!」


 イチロの大きな声が喧騒をぶった切る。

 一気に静まり返った冒険者たちの顔をじっくりと見回しながらイチロが先を続ける。


「貧民街にて、孤児を一名、市場通りにおいて二名、保護しました。内、二名、二歳の小さな男の子と十三歳の少年に死の痣を確認しました。どちらも数日前にバーサーカー化したと思われるグリースマウスに噛まれて、死の痣をその脚と腕に負って居ました。真尋神父が浄化に成功し、死の痣の脅威は免れ、少年の方は快方に向かっていますが、男の子は死の淵を彷徨っています。死の痣によって体力と魔力を奪われ、怪我が悪化していたためです」


 イチロは、一度、そこで言葉を切った。


「思い違いであるのなら僕らの勘違いなら、それでも構いません。寧ろ、この町の安寧を思えばそのほうが良い。けれど、死の痣が現れてしまった以上、捜査をしない訳にはいきません。騎士団よりも魔獣との戦いに長けた貴方方だからこそ僕達は力を貸して欲しい」

 

 広間は、しんと静まり返った。


「脅威はすぐそこに迫っています。危険は承知の上でお力を貸していただけますか? ブランレトゥの勇敢なる冒険者ならば」


静かな微笑みを湛えてイチロが問いかける。

 深い蒼の神父服と相まって、その姿は清廉な空気を纏い、彼の醸し出す厳かな空気が冒険者たちを取り込んでいく。冒険者たちの表情がだんだんと引き締まって行く。


「……納得が、いかねぇ」


 その沈黙を破ったのは、Bランクの冒険者、この中でジョシュアたちを除けば最も強いといえるだろう狼系の獣人族、ウォルフだった。入り口付近の壁に寄り掛かって成り行きを見守っていたウォルフが鮮やかな瑠璃色の瞳でイチロを睨み付けている。

 イチロが微かに首を傾げた。淡い茶色の癖のある髪がふわりと揺れた。


「神父がどうとか教会はどうとか、んなことはこの際、どうだっていい。だが……おまえは、この中で最弱のEランクだ。何でレイさんやジョシュアさんを差し置いて、お前が指揮を執る?」


「ちょっとウォルフ」


 隣にいた彼の恋人で同じパーティーの同じく狼系獣人族の女冒険者・カマラが眉をしかめてウォルフを制するがウォルフはイチロを睨むのを止めなかった。ウォルフのパーティーは五名で、全員、狼系の獣人族で構成されている。


「獣人族も肉食系は特に強さを重視するし、群れるタイプは特にな」


 獅子系の獣人族であるカロリーナがぼそりと呟いた。

 ジョシュアは、アンナを振り返る。アンナは、ばさばさの睫毛の下で碧い瞳を爛々と輝かせていた。こんな格好だが、一応、冒険者としての本能は残っていたんだなとジョシュアが失礼なことを考えているとぎろりと睨まれて慌てて顔を前に戻した。


「どうして指揮を執るかって……僕が強いからに決まってるじゃないですか。インサニアに対して、正しく対応出来るのは僕だけだからですよ」


 イチロは、さも当たり前のことを言わんばかりに首を傾げた。

 ウォルフが煩わしそうに目を眇めた。


「納得がいきませんか?」


 イチロは相変わらず穏やかに微笑んだままウォルフに尋ねる。

 ウォルフは、イチロの真意を探ろうとするように彼を見ながら頷いた。


「なら、タイマンで勝負を付けましょう。うだうだ言ってる暇はないんですよ、力で片が付くならそれが一番早いですから」


 にこっとイチロが笑って、台からひょいと飛び降りた。冒険者たちが自然と道を開けて、イチロが悠然とこちらに歩いて来る。


「……あれはもしや怒ってるんじゃ?」


 エドワードがぼそりと呟く。


「……マヒロさんが「一路は基本的に穏やかで争いは好まないが面倒になると一番手っ取り早い方法を取るから気を付けろ」と仰られていましたけど」


 困惑気味にリックが言った。


「そうだよな、イチロって唯一、マヒロを怒鳴って怒って叱りつける男だもんな」


 ジョシュアは遠い目をして言った。


「……いいのか?」


 レイがアンナを振り返る。


「いいわよ。イチロ神父が勝てば静かになるし、ウォルちゃんが勝ったらあんたが指揮を取ればいいんだもの。それに……一度はしっかり見てみたいじゃない。あの神父さんの実力を」


 アンナはにんまりと目を細めて言った。

 だが、彼、いや、彼女は分かっていない。イチロやマヒロが、自分達の常識に等欠片も当てはまらない存在であるということが想像しきれていない。


「……先に呪文を教えておくと「だってイチロだからな」だ。これさえあれば世の中は丸く収まるからな」


 ジョシュアは割と真剣に言ったのだが、アンナとキャサリンは首を傾げた。でも、リックやカロリーナ、エドワードはうんうんと頷いてくれた。

 顔を戻せば、イチロとウォルフが広間の真ん中で相対していた。


「ルールは簡単、参ったって言わせた方が勝ちです」


「泣いても知らねえからな」


 ウォルフが二メートルは軽くあるだろうメイスを構えた。メイスは木製、或は、鉄製の長い柄の先端に放射状に並べられた鉄板や或は鉄球が付けられた、打撃武器だ。ウォルフのそれは全てが鋼で出来た特注品だ。ジルコンのものでは無いが、重さゆえの扱いにくさは天下一品である。


「神父イチロ、冒険者ウォルフ、いざ、勝負!」


 声が上がった瞬間、ウォルフがイチロに突っ込んでいった。メイスがイチロに向かって振り下ろされる。イチロは、にこにこと笑ったままそれを避ける気配が無い。


「あの馬鹿の負けだな」


 レイがぽつりと言った。

 勝負は本当に一瞬だった。

イチロは、振り下ろされるメイスを体を捻って躱すとウォルフの側頭部に思いっきり蹴りを入れた。吹っ飛んだウォルフが観衆に突っ込んで、悲鳴やら雄たけびやらで一気に騒々しくなる。

 脳震盪を起しているのだろうウォルフは、立ち上がろうにも立ち上がれず、蚊の鳴くような声で「参った」と告げた。

 イチロが駆け寄り彼の額に手を当てた。


「《ヒール・リラックス》」


 淡い金の光がその手から溢れるとウォルフは、ぱちりと目を瞬かせて体を起こす。


「大丈夫ですか? ちょっと本気で蹴り飛ばしちゃいました」


 イチロが心配そうに言った。ウォルフは面食らったような顔をした後、緩やかに首を横に振る。


「平気だ……ありがとう」


「なら、良かったです


 イチロは安心したように笑って立ち上がる。


「はい、これで問題ないですね。ティナちゃん、リスト貰える?」


 イチロに見惚れていたティナが慌てて彼に駆け寄ってリストを渡す。もうイチロに逆らうものは居なかった。皆が素直に名前を呼ばれるままに前に出てパーティーに割り振られて行く。


「レイさん、ジョシュアさんもいいですか」


「ああ、今行く。ほら、行くぞ、レイ」


「分かったっつーの」


 ジョシュアは手を挙げて返事をし、レイの腕を掴んで喧騒止まぬ方へと進んでいくのだった。











「もっと降るかと思ったが、止んだな」


 ジョシュアが空を見ながら言った。

 一路は彼の隣を歩きながら、そうですね、と頷いて追いかけるように空を見上げた。どんよりとした曇り空が広がっているが、準備が整い屋敷を出るころには小雨になって、貧民街に着いた時には雨は止んでいた。

 貧民街は、緊張感に空気がびりびりしていた。

 一路の指示の下、冒険者たちが貧民街に一斉に現れたためだ。だが、シグネやトニーといった真尋と交流のあった人々は、いつの間にか真尋があの小鳥を飛ばしてくれていたらしく、事態を知って案内を買って出てくれた。最初は断ったのだが、自分達の町だからと各パーティーに二人ずつついて、貧民街を案内してくれることになった。


「ここがミアとノアの家なのか?」


 ドアの前に立ってジョシュアが言った。

 一路たちはノアがグリースマウスに噛まれたと言われる場所に来ていた。他のメンバーたちが物陰を覗き込んだり、周辺住民に聞き込みをしている。


「はい。真尋くんに案内されて訪れたのは、ここでした」


「……こんなところでな」


 ジョシュアが何とも言えない顔で呟いてドアを撫でた。

 掘っ立て小屋のような家々が立ち並ぶそこにミアとノアの家はある。窓はガラスがなく布がカーテン代わりに掛けられていて、そこから中を覗くが窓の無い家は暗くてよく見えなかった。


「わん! わん!」


 不意にロビンの吼える声が聞こえて振り返る。

 ロビンは少し離れた場所の家と家の間にある僅かな隙間に向かって激しく吼えていた。傍にいた冒険者が中を覗き込んで慌ててこちらを振り返る。


「神父さん、ジョシュアさん、グリースマウスの死骸です!」


「本当ですか!?」


 一路は直ちにその場に駆け寄る。冒険者が膝をついて、手を伸ばしそれを引きずり出した。

 体長二十センチほどの鼠の死骸だったが、酷く傷だらけだった。噛みついたような傷や掻き毟ったかのような傷痕が小さな体に遺されている。黒い霧や禍々しい気配はない。


「野良のシャミネにやられたってんじゃなさそうだな……死後、二日か三日くらいだろうな、この腐り具合からして……もう少し発見が遅れていたらアンデットになるところだった」


 シャミネとは猫の魔物である。

 ジョシュアが目を険しく細めて言った。


「……でも、グリースマウスなんて山ほども居ますよね? それこそ毎日、どこかで死ぬはずです……だとすれば大量にアンデットが出るのでは?」


「いいや。グリースマウスは基本的にラスリという鼠の魔獣と共に群れをつくる。あいつらだって小さい脳みそながら死ねばアンデットになることを本能的に知っているし、雑食だから仲間が死ぬと食べて片付けるんだ。アンデットになれば、自分達が襲われるって本能的に分かってるから、これも一種の自己防衛だな」


「……なるほど」


 やはりそこは魔物や魔獣と呼ばれるだけあって、一路がこれまで地球で接していた動物とは大いに異なる様だった。


「それ以外にも肉食系の魔獣や魔物は、死骸の肉を好んでこの臭いを嗅ぎつけて食って片付ける。だから、そうそうアンデットにはならないさ。町でも掃除屋が見回るし、住人も死骸をみつけたらとりあえず焼くように心がけてる」


「では何故、このマウスだけは食べられなかったんでしょう……開いてみましょうか」


「イチロ、開けるのか?」


「……ジョシュアさん、お願いします」


 手を伸ばしたがやっぱり無理だとジョシュアに頭を下げる。ジョシュアは、苦笑交じりに一路の頭をぽんと撫でてアイテムボックスから小ぶりのナイフを取り出して革手袋を嵌めた手でグリースマウスを押さえると手際よくその腹を開いた。一路は、ひっと声を漏らすもぐっと我慢して、じっとジョシュアの手元を見つめる。


「イチロは神父だもんな。こういう血で汚れるようなことが出来なくても仕方がない」


「そ、そうですね、すみません」


 一路は、あの森の中で表情一つ変えずに大型の魔獣たちを次々に解体し、内臓を片手に仕組みについてあれこれ吟味までしていた神父の存在は黙って置こうと決めた。


「……核が、壊れてる」


 覗き込んでいた冒険者がぽつりと呟いた。

 ジョシュアが取り出した彼の指の爪程にも無い小さな魔核は、ひび割れていて色を失っていた。魔の森の湖で真尋がゲイルウルフを解体して取り出した魔核は水晶石のように透き通り、淡い青とも紫とも言える不思議な色を宿していた。


「普通は、壊れても核は色を残すんだがな……」


「この死体と核は、屋敷に持ち帰りましょう。真尋神父やナルキーサス様なら何か分かるかも知れません」


 一路は試験管を取り出して、ジョシュアに口を向けた。ジョシュアが慎重に魔核を試験管の中に落とし、一路は蓋を閉めてアイテムボックスに戻す。マウスの死骸は、そのまま入れるのは嫌だったので氷の球の中に閉じ込めてからアイテムボックスにしまった。


「ロビン、他には何かいる?」


 隣に大人しく座っていたロビンは、くんくんと鼻を引くつかせて辺りを見回した後、首を横に振った。賢い愛犬だ、と一路はその頭を撫でて立ち上がる。


「では、次に行きましょう」


「そうだな。住人にも異変は無いな?」


 冒険者たちが、はい、と頷いた。

 では行こうと、ジョシュアが声を掛けて一路たちはぞろぞろと一本、表の通りへと出た。


「いた! 神父さん、ジョシュアさん!! 大変だ!!」


 通りに出た途端、血相変えて飛んで来たのはトニーだった。その後ろからシグネもこちらにやって来る。


「どうしたんです?」


「あ、あっちにアンデットが出たんだ! しかも人だ、人!」


「今、ウォルフさんが一人で相手を!」


「案内してください!」


「こっちだ!」


 頷いたトニーが元来た道を駆けだし、シグネはレイを探して反対側へと走り去っていく。


「何事だ!」


 カロリーナが騒ぎを聞きつけて路地裏から飛び出してきた。騎士たちも三つに分かれて貧民街の捜索に当たっているのだ。


「アンデットだ、それも人のアンデットが出たらしい!」


 カロリーナが息を飲んだ。


「トニーさん! どういうことですか?」


「俺達が行ったのは、壁に一番近い方で、あんまり人も住んでねえ所だんだが、そこで様子の可笑しいグリースマウスを見つけたと思ったら、廃屋の中からアンデットが出て来たんだ!」


「アンデットってどうやって倒すんですか!?」


「基本、焼き払って核を壊せばいいが、痛覚が失われているから腕を飛ばそうが、何をしようが突っ込んでくる上にかなりすばしっこい。それにあいつらの吐き出す毒に中ると高熱出してぶっ倒れる上、引っ掻かれても高熱出してぶっ倒れる羽目になるし、こっちの肉を食いにかかって来るから気を付けろ!」


 ジョシュアの叫びに、一路は「分かりました」と頷く。隣を走るロビンの頭の上に手を置いて、呪文を唱えた。護りのまじないに包まれたロビンの体が淡く光った。

 家々がだんだんと崩れたものが多くなり、薄闇が濃くなり始め、聳え立つ壁が迫りくると喧騒が耳に飛び込んで来た。一路は、アイテムボックスからコンポジット・ボウを取り出す。


「いた! あそこだ!」


 誰かが声を上げた。

 同時にカロリーナが炎の球をぶっぱなし、ウォルフと切り結んでいたアンデットが素早くその場を飛びのいた。ウォルフが驚き顔でこちらを振り返るがすぐにアンデットが飛び掛かって来て、メイスをアンデットに向けて振り下ろす。アンデットは素早い動きでそれを避けて、すぐさまウォルフに襲い掛かる。

 アンデットは、まさしくゾンビだった。肌が紫色に変色し、目を赤黒く光らせ、呻くような唸り声を上げていた。

 一路は走りながら弓を構えて、光の矢を番えてアンデットに狙いを定める。


「ウォルフ!! 伏せ!!!」


 一路の叫びが響き渡った瞬間、反射的にウォルフが伏せた。

 彼の頭上を光の矢が真っ直ぐな軌道を描いてアンデットの胸を射抜く。アンデットは、数歩、たたらを踏んだ後、眩い金の光に包まれるとその場にどさりと崩れ落ちた。


「大丈夫ですか!? ウォルフさん!!」


「おい! 大丈夫か!?」


 一路は座り込んだままのウォルフの傍に膝をつく。ジョシュアや他の冒険者たちは、アンデットに向けて武器を構えた。

 ウォルフは、首を抑えながら、ああ、と青白い顔で頷いた。

 

「アンデットにやられたんですか?」


「……違うそんなヘマしねぇさ。グリースマウスだ、突然、飛び出て来てっ……俺は良いから、早くあいつらの所へ。カマラが危ない……っ!」


「いいえ、今すぐに見せて下さい。死の痣は、直後に浄化すれば、すぐに治ります」


 一路の言葉にウォルフは目を見開いた後、素直に首を抑えていた手を外した。傷口は、何の変哲もない薄く引っ掻かれたような細いものだった。


「……すげぇ痛いんだ。まるで引き裂かれるみてえに」


 ウォルフが唸る様に言った。

 傷口に黒い霧は見えない。だが、そこに嫌な気配が確かに有った。傷口に手を当てて目を閉じ、意識を集中させる。


「《モーヴェ・エウェイユ》」


 ひやり、とぞっとするほど冷たいものが手のひらに触れて、不快感がぞわぞわと這い上がって来る。

 いる、と確信する。


「《ニエブラ・ラディ―レン》!」


 一瞬の間をおいて、手のひらに触れていた冷たいものが消え去った。

 手を退かせば、そこには鼠に引っ掻かれたような薄く赤い傷が残るのみだった。もうそこに嫌な気配は感じられない。一路は、ほっと胸を撫で下ろし、再び手を当てて治癒呪文を唱えた。手を退ければ、傷痕は跡形も無く消え去っている。


「これでよし、と……誰かウォルフさんをここで見ていてください。ジョシュアさん、アンデットはどうなりました?」


 一路は、傍に居た騎士にウォルフを任せて立ち上がり、振り返る。


「イチロ」


 振り返ったジョシュアの緊迫した面持ちとその声に一路は表情を引き締める。


「……――十三人目だ」


 一路はすぐさまジョシュアたちの元へ駆け寄り、彼らの視線の先を追い、咄嗟に片手で口元を抑えた。そうでもしなければ、吐いてしまいそうだった。

 そこには、薄汚れた人の死体が有った。

酷い腐臭が鼻を突くが、腐乱したその死体は確かにその胸に掻き毟ったような傷痕がありありと残っていた。


「レイナー、カール。今すぐに詰所に行って馬と担架を」


「はっ!」


 カロリーナの指示に二人の騎士が頷いて慌ただしく去っていく。


「カマラさん達は、どこに?」


 一路は周囲を見渡す。高く聳え立つ壁の際には廃材が山のように積まれていた。殆どの家々は朽ち果てて潰れているが、ところどころに石の壁が残っている。


「神父様!!!」


 悲鳴染みた声が上がった。

 石壁の向こうからカマラたちが顔を覗かせた。こめかみを切ったのか、彼女の顔を赤いそれが汚している。


「その廃材の中にまだ居るんだ!!」


 カマラが指差した先に一斉に視線が向けられた。


「何がいるって……なっ!?」


 ぞわりと背筋を走った悪寒に一路は息を詰めた。

 じわじわと滲み出るようにそれが姿を現す。胸を押し潰そうとするような不安が去来し、一路は拳を握りしめて踏ん張った。


「なん、だ……あれ」


 誰かの漏らす声が聞こえた。

 それは、どんな闇よりも深く濃い黒を纏った霧だった。廃材の中から現れ球体を保とうとするかのように蠢く。


「もしや、あれが……インサニアか?」


 カロリーナが言った。

 

「分かりません、でも、下がって下さい」


 一路はすっと腕を上げて、仲間たちを制す。ロビンが低くうなり、全身の毛を逆立てて牙をむき出しにしている。

 黒い霧は、徐々に大きくなり、異変は突然に訪れた。廃材の中から黒い霧を吐き出し、赤い目を光らせるグリースマウスが数十匹、姿を現したのだ。


「神父さん、あいつが俺達に襲い掛かって来たマウスだ!」


 ウォルフが叫んだ。


「バーサーカー化したグリースマウスです。皆さん、絶対に近付かないでくださいね!」


 一路が叫ぶと同時にグリースマウスが一斉に襲い掛かって来る。

 この瞬間、あの黒い霧がインサニアであると一路たちは確信を得た。


「だがこの数だぞ! お前一人でどうにかなるものじゃ……」


「どうにかしますよ、ティーンクトゥス様の名に懸けて!!」


 一路は両手を前に突き出す。


「《ピュリフィケイション・ブフェーラ》!!」


 ぶわりと巻き起こった風は金の光を孕んで吹き抜ける。グリースマウスたちから黒い霧が抜き取られて消えていき、マウスたちがぱたぱたと倒れて行く。


「逃がしませんよ!!」


 一路は叫んで駆け出した。

 インサニアが一路の起こした浄化の風を避けて上へ上へと逃げ出したのだ。どうやら壁の向こうへと逃げる気のようだ。


「《ウィンド・ジャンプ》!」


 一路は風の力で一気に壁の上へと飛び跳ねた。その途中、手の中に宝弓・風花を取り出す。

 壁の上から周囲を監視する騎士たちが見回る回廊の屋根の上に降り立つ。何事か、と警備の騎士たちが顔を覗かせて来る。

 壁の向こうには鮮やかな夕景が広がっていた。広大な大地が広がっている。初夏のむせ返るほど濃い緑が大地を覆っている。空に浮かぶ雲は痣やな紅色に染まって、遠く東に僅かな藍色が滲んで夜の訪れを告げようとしている。

その美しい景色にそぐわない真っ黒なそれは、森の方へと揺蕩う様に逃げていく。

一路は、ゆっくりと息を吸って、吐き出し、足を開いて風花を構えた。浄化の力を込めた光の矢を風花に番える。


「絶対に、逃がさない」


 インサニアに狙いを定めて弦を引く。しなる弓全体に一路の魔力が巡って行くのを感じる。

 ピィィィンと澄んだ弦音が辺りに響き渡り、空気を切り裂くようにして一直線に一路の放った光の矢は、インサニアを射た。

光の矢がそれを貫抜いた瞬間、インサニアは儚い霧の如く飛び散り消えていく。一路は手を振って光の風を起こし、インサニアを完全に消し去る。

 

「……ふぅ」


 一路は手を降ろして、小さく息を吐きだした。


「いやぁ……俺はどこまで驚けばいいんだろうなぁ」


 びくりと肩を揺らして振り返れば、ジョシュアが下から顔を出していた。


「ジョ、ジョシュアさん、びっくりさせないで下さいよ、どうやって登って来たんですか?」


「レイが駆けつけて、俺をウィンド・リフトで思いっきり上に押し上げたんだよ。レイは俺より風魔法の扱いが上手いからな、ちなみに本人はそこに居る」


 ジョシュアの言葉にその横からレイが顔を出した。

 警備の騎士たちが、何事かと慌てた様子で集まってきている。


「……お前、その弓」


「随分と見事な細工の弓だなあ」


 レイとジョシュアが一路の手に有った風花に気付いて目を丸くする。一路はそれを慌ててアイテムボックスにしまった。


「こ、これはあの、故郷を出る際に司祭様に賜った神の力を宿す特別な弓なんです。く、くれぐれも他言無用でお願いします!」


 一路は小声で二人に告げた。

 ジョシュアとレイは顔を見合わせ、レイは肩を竦め、ジョシュアは人の良い笑顔で頷いてくれた。そのことに一路はほっと胸を撫で下ろす。


「それで、お前が吹き飛ばしたのがインサニアだってんなら、事態は収束したのか?」


「分かりません。もしかしたらまだバーサーカー化したグリースマウスが潜んでいるかもしれませんし、さっきの方のように運悪くアンデット化している可能性もありますから」


「じゃあ、やっぱり徹底的に調査だな。夜の方が魔獣は活発に動き出すし、とはいえ、一度、下に戻ろう。カマラたちがグリースマウスにやられた。すぐに手当てを頼む」


「それは大変です! 分かりました!」


「イ、イチロ!?」


 ひょいと屋根から飛び降りた一路にジョシュアが素っ頓狂な声を上げた。


「大丈夫ですから、ジョシュアさんもレイさんも早めに戻って下さいね!」


 そう声を掛けて、真尋の真似をして風で足場を作り、一路は階段を降りるようにして下へ降りる。

 だから上でジョシュアが「だってイチロだから、だってイチロだから」と呪文を唱えているのもレイが遠くを見つめているのにも気づかなかったのだった。




―――――――――――――――


ここまで読んで下さって、ありがとうございました!

皆様のお寄せ下さる感想、お気に入り登録、いつも元気と癒しを頂いております。本当に当方の小説を読んで下さって、有難く思います。


漸く貧民街を襲って居た脅威がインサニアだと断定されました。

次のお話は、屋敷に居る真尋たちのお話を予定しています。


また次のお話も楽しんで頂ければ幸いです。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 真尋さん、もうこの時点でジョシュアさんとジルコンさんならフルステータス見せていい、と思うくらい信用してるんだ、と思うと暖かい気持ちになりました。 ジョシュさんは頑張ってチラ見しておいた方が…
[良い点] そもそも属性隠す気あったのかな?ってくらい堂々とガンガン魔法使っていきますよね。 明らかに規格外の力に訝しがられたとはいえ真尋くんがステータスをさらす気になったのが意外でした。 二人の頑張…
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