表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
称号は神を土下座させた男。  作者: 春志乃
第一部 本編
36/158

第二十八話 眠れない男


 心臓が早鐘を打って、不安に胸を掻き毟りたくなるのをぐっとこらえる。

 墓石の影でサヴィラは、自身の右腕を抱き締めるようにして体を小さく丸める。右の肘から下の感覚が無い。ただ鈍痛が絶え間なく続いて、微かに熱を帯びている。

 サヴィラは服を捲る。肘から下は見たことも無い程、黒く染まってあのグリースマウスに噛まれた傷口から黒い霧のようなものがじわりじわりと滲むように溢れている。

 ノアの脚の傷にあるそれと全く同じだった。洗っても傷薬を塗っても何をしても治らない。ただだんだんと黒い痣のようなものがサヴィラの腕を侵食していく。


「……んだよ、これ……っ」


 不安に弱り切った声が漏れる。

 あの様子の可笑しいグリースマウスに襲われて三日が経った。初日は全く何ともなかったのに、気が付いた時には黒い痣は大きく広がり始めていたのだ。まだ指先には到達していないが、手が黒く染まればネネやチビ達に気付かれてしまう。

 ネネは顔を合わせる度に神父の話をどうする気かと問うてくる。だが、サヴィラはそれに答える余裕もなく家を出て来た。ノアの状態は変わらない。ミアもあのグリースマウスに噛まれたらしいが、ミアの傷はもう塞がってかさぶたが残るのみだった。

 一体、何がこの身に起こっているというのだろうか。サヴィラは得体の知れない不安に怯えながらも墓地での仕事を続ける外ない。

 ブランレトゥの南のやや東寄りの広い丘の上に墓地はある。幾つもの白く丸い墓石が不規則に並んでいて、新しい墓には多くの花が供えられている。サヴィラの仕事は墓守だ。夏になればダンジョンに潜る冒険者たちに氷を売ったりもするが、一年の殆どをこの墓場で過ごす。古びた墓の手入れをし、腐った供え物や枯れた花を捨てる。貰える給与は微々たるものだったが、ゴミを漁るよりはずっと稼げた。

 死の臭いが濃く、アンデットが寄って来るこの場所は危険で誰もやりたがらないからサヴィラのような孤児でも雇って貰えるのだ。この町には、本来、墓場を管理する教会が無く、葬儀屋が代わりに管理をしている。


「……くそっ」


 服の袖を乱暴に戻して立ち上がる。仕事をしなければ、チビ達を飢えさせてしまう。あの神父が毎日、パンを届けてくれているようだがそれだっていつまで続くかは分からない。ノアのこともある。稼げるだけ稼がなければ、薬も買えないのが現実だ。

 サヴィラは、傍にあった水の入った桶を手に墓地を歩く。汚れた墓石を見つけては、雑巾で拭いて綺麗にする。だが利き腕である右手が動かないのは至極不便だった。いつもより拭ける墓石の数が圧倒的に少ないのだ。

 日が暮れる前には帰らなければならない。町の外にあるこの場所は、夜になれば魔獣が出る。限られた時間の中で多くの仕事をしなければならないのに、痣に冒された右腕のせいでそれが出来ないのだ。


「サヴィ!」


「サヴィ! どこ!?」


 耳に馴染んだチビ達の声が聞こえてサヴィラは慌てて立ち上がる。


「ルイス! レニー!」


 サヴィラが大きな声で呼べば、泣きべそを掻いた二人が駆け寄って来て、弾丸の如くサヴィラに抱き着いてくる。


「馬鹿野郎! 町の外には出るなってあれほど……」


「サヴィ! ミアが! ミアが居なくなっちゃった!」


「あ?」


「ミアがいなくなって、ノアが……ノアがっ!」


 ルイスが涙ながらに紡ぐ言葉に頭が真っ白になって、サヴィラはレニーを負ぶってルイスの手を引き、町へと駆け出した。











「マヒロ? 今帰ったのか?」


 宿屋の中に入った途端、声を掛けられて顔を上げる。丁度、ジョシュアが階段を上ろうとしていたところだった。


「ああ。黄地区の方に行っていたからな」


 真尋が答え、後ろでリックが頭を下げた。

 ジョシュアは階段に掛けた足を降ろしてこちらにやって来る。午前一時を過ぎたばかりの食堂には濃い酒の臭いが残っていて、酔い潰れた冒険者が二人、むにゃむにゃと何かを言いながらテーブルに突っ伏していた。肩に掛けられた毛布は、ソニアの優しさだろう。


「夕食の時にイチロが心配していたぞ。リックだってまだ本調子じゃないみたいだしな」


「いえ、私は体の方は大丈夫ですし、マヒロさんと一緒に居た方が精神的には楽なので無理を言って同行させてもらっているんです」


 リックが慌てて言った。ジョシュアは、呆れたように肩を竦めて苦笑を零した。


「飯は食ったのか?」


「まだだ」


「じゃあ、そのカウンターの方に座って待ってろ」


 そう言ってジョシュアが厨房の方へと歩いて行く。真尋は、おい、と声を掛けたがジョシュアは、手を挙げただけで振り返ってはくれなかった。ジョシュアは、カウンターの蝋燭に火を点けるとそのまま中へと入って行ってしまった。

 真尋とリックは仕方がない、とカウンターの方へと足を向けた。

 コの字型のカウンター席は、正面には八つほど椅子が並んでいて左右に四つずつ椅子が並んでいる。磨き上げられたカウンターの向こうには酒瓶がずらりと並んだ棚がある。酒瓶の棚を占めるのは、キープされたボトルで瓶の首には名前の書かれた札が掛けられていた。

 真尋は角の席に腰掛けた。リックは少し悩んで、一つ開けて腰掛けた。

 むにゃむにゃという寝言が背後から聞こえてくる。真尋は足を組んで座り、カウンターに肘を付いた。リックは、一つ向こうの席で背筋を正して座っている。

 ゆらゆらと蝋燭の炎が揺れる。

 真尋は何となくボトルのラベルに書かれた名を目で追う。男の名が多いが女の名も多々ある。冒険者パーティーの名もあった。日付は昨日のものから十年以上前のものまである。けれど、一つも埃を被ってなどいない。誰かが毎日磨いているのだ。


「……あたしが言えた義理じゃないかもしれないけどさ」


 カウンターの上に皿が置かれた。薄く切られたバケットの上には、生ハムとチーズが乗せられている。皿の先を辿ればソニアが居た。エプロンを外した彼女は、赤い髪も首の後ろで緩く結えている。


「無理し過ぎじゃないのかい?」


 気遣わし気に問いかけられたそれに真尋は、肩を竦めて返した。


「……ソニアが作ってくれたのか?」


「残念ながら、あたしは料理が出来ないんだよ。サンドロが作ってくれたんだ。今、もう少し腹に溜まるものを作ってくれているからこれでも食べて酒でも飲みながら待ってなよ」


 ことり、と目の前にグラスが置かれた。大き目の氷が数個入っていて、ソニアは棚から新品のボトルを手に取るとコルクを抜いてグラスに注いだ。はいよ、と目の前にそれが差し出される。琥珀色の鮮やかな酒が氷をじわりじわりと溶かす。


「リックは?」


「いえ、私は……」


「飲めないのか?」


「そんなことは無いです……寧ろ、好きですが、その、今、持ち合わせが」


「そんなことは気にするな。ソニア、同じものを」


「一杯目は、あたしが奢るよ」


 そう言ってソニアは同じものをリックにも作る。真尋が皿を進めれば、リックはぺこりと頭を下げてバケットを手に取り頬張った。真尋もそれを手に取り、口へと運ぶ。チーズと生ハムのコクと塩気がニンニクと黒コショウの効いたバケットがよく合う。

 真尋はグラスに口をつけた。

 果実のような香りが弱く鼻を抜け穏やかな口当たりの酒だった。度数も余り高くない。

 

「……美味いが安い酒だな」


「可愛くないねぇ、この子は」


 ソニアが顔を顰めた後、くすくすと笑って肩を竦める。棚の奥の方から別の酒瓶を取り出した。明らかに高そうなボトルだったが、真尋は空になったグラスをソニアに差し出した。


「……高いよ? 流石にこれは奢れないよ?」


「構わん」


「毎度あり」


 ソニアは嬉しそうに顔を綻ばせて酒をグラスに注いだ。

 ゆっくりと舐めるように口に含む。豊潤な果実の様な香りと豊かな口当たりが口の中に広がり、強い酒精が喉を少しだけ熱くする。


「美味いな。リックは?」


「わ、私はその安い酒で……っ!」


「ソニア、リックにも注いでくれ」


 慌てるリックを他所にソニアは、嬉々としてリックのグラスにも酒を注いだ。

 リックが、ちびちびとグラスに口をつけるのを横目に真尋は、バケットに手を伸ばす。


「ソニアは飲まんのか?」


「いいのかい?」


「世話になっているからな」


「マヒロ様々だねぇ」


 ソニアはご機嫌に尻尾をぴんと立てると自分の分のグラスを取り出した。真尋はボトルを手に取って彼女のグラスに酒を注ぐ。琥珀色の鮮やかな液体が蝋燭の光を反射して淡く光る。

 ソニアはカウンターの向こうにあった椅子に腰かけて美味しそうに酒を飲み、勝手にバケットを摘まんでいく。


「高い酒は美味いねぇ」


「それは良かった」


 真尋は、そう返してカウンターに肘を付き手の甲に頬を寄せる。右手に持ったグラスをくるくると揺らせば、中の氷が解けて琥珀色が少しずつ色あせて行く。

 ミアとノアが姿を消して早二日が経った。

 真尋と一路、リック、それと貧民街の住人たちと共にあちこち探し回っているのだが、ミアもノアもその姿がどこにも見当たらない。

 リックは、ミアが行方不明になった翌日から仕事に復帰して騎士団の人間として真尋の助力に回っている。いつの間にか上から許可を取ったらしい。真尋は無理をするなと言ったのだが、元々真面目で責任感の強いリックは、自分だけが何もしないで真尋に頼ってばかりいるのが耐えられないらしく、大丈夫だと言って聞かない。それに動いていた方が気が紛れると言われては、流石の真尋も何とも言えなかった。

 昨日も一昨日も町が真っ暗になるまで探したのだがミアもノアも見つからず、その痕跡すら見当たらなかった。シグネたちも手伝ってくれたのだが、ミアは本当にどこへ行ってしまったのか、見つからずじまいだった。

 サヴィラには、あの日以来、会えていない。ネネには毎朝、パンを渡すために会って居るのだが、サヴィラになにか言われているのか殆ど口も利いてもらえずじまいだった。サヴィラは、どこかで仕事をしているらしいのだが、どこでどんな仕事をしているのか分からない。


「……孤児を探しているんだって?」


 カラン、と氷が音を立てる。

 真尋は目だけをソニアに向けた。気遣う様な目が真尋を見つめている。


「……ああ」


「どんな子だい?」


 真尋は、鞄から一枚の似顔絵を取り出した。そこにはミアとノアが描かれている。ソニアがそれを手に取り、視線を映す。


「砂色の髪に珊瑚色の瞳の小さな女の子だ。……弟を一人で育てている」


 ソニアは、そうかい、と小さく呟いて目を伏せた。細い指が辿るように絵を撫ぜる。

 その横顔は、何だか寂し気に見えた。


「……笑い顔が眩しいほど愛らしい子なんだ」


 ソニアが顔を上げて、反対に真尋は手の中のグラスに視線を映した。


「二人には父親は無く、娼婦だった母親は、ある日突然、姿を消してしまったらしい。それでもミアはずっとあのドアも開かない家で弟を守りながら、待っていたんだそうだ。萎れた花を売って、ゴミを漁って……本来なら、ふっくらとして傷一つない筈の幼い手は、痩せ細って細かな傷だらけだった。でも、ミアは花が咲いたような笑みをその顔に浮かべることの出来る子なんだ。誰かの痛みを思いやってやれる本当に優しい子なんだ」


 再びグラスに口をつける。少しだけ薄くなった酒は、冷たさを増していた。

 リックが自分の頬を記憶をたどるように撫でていた。


「……護るというのはとても難しいことだ。それなのにミアは……サヴィラもあんなにも幼いのに、まだ大人の腕の中で不安を知らずに夢を見ていることを許される年齢なのに……護るために自分を犠牲にしている」


 くくっと乾いた笑いを零して、真尋は顔を上げた。


「……――俺は、そうしたところで一つも護れなかったからな」


 ぽつりと呟いた言葉が薄暗い食堂の中に虚しく響く。握りしめた左手の薬指の硬い感触が酷く虚しい。

 一路の命もたくさんの約束も雪乃の笑顔も何一つ、護れなかった。


「こんなものは俺の自己満足かも知れん。でも……護りたかったものを喪ったあとの……こんな気持ちなんて、まだ知って欲しくはない」


 右の親指の腹で指輪を撫でた。

 目を閉じれば、色褪せることの無い笑顔が暗闇に浮かぶ。鈴を転がしたような軽やかな声が耳の奥で名前を呼んでくれる。だというのに触れることは出来ない。幾ら求めても、もうここには無い。

 その度に真尋の心に穴が空く。虚しく空いた穴を寂しさや悲しみを纏った風が吹き抜けていく。そんな時、夜は重くのしかかってくる。暗闇が孤独の匂いを嗅ぎつけて、取り込もうとするのだ。


「私は、ブランレトゥから遥か東、山の麓にあったとても小さな農村の出身です」


 淡々とした声が唐突に脈絡もなく言った。顔を向ければ、真っ直ぐに背筋を伸ばし、深緑の瞳は真っ直ぐに前を見つめている。

 グラスを手に取り酒を飲む。


「十五年前に……地図の上からは消えた村です」


 コトリ、とグラスを置く音がやけに大きく響いた。


「山の恵みに育てられた小さくも豊かな村でしたが、十五年前の酷い嵐の晩、山賊が村を襲い、火を放ったんです」


 リックの深緑の瞳は酒瓶の並ぶ棚の向こうを見つめているような気がした。遥か遠く、遠い思い出を懐かしむ様に僅かにその双眸が細められた。リックは暫くそうしていたが、再び口を開いた。


「私が生き残ることが出来たのは、父と母が守ってくれたからです。山賊は暴虐の限りを尽くし、村人を殺し、魔法で火を放ちました。村の鐘が危機を告げるように誰かの手によって鳴らされると父と母は、私と兄をそれぞれ別の場所へと隠したのです。三つ上だった兄はクローゼットの中に私は台所の床下収納に隠されました。烈しい雨と風の音、轟く雷、響き渡る悲鳴、山賊の高笑い、そういうものが真っ暗な闇の中に幾重にも重なって響くんです」


 本当に酷い夜でした、とリックは囁くように告げた。


「暫くして、辺りが嵐の音だけになってから、私は外へと出ました。母は暖炉の前で、父は玄関で……兄はクローゼットの前で死んでいました。家は燃え始めていて、私は慌てて外に飛び出しました。酷いものでした……とてもとても酷いものでした」


 悲しみを深く滲ませた声が言葉を重くする。


「まるで大地が、空が、山が、自然そのものが怒り狂っているかのようでした。雨の中だと言うのに家々は燃え盛り、村人たちがそこら中で血まみれになって死んでいました。四つの私には強烈すぎる光景です。山賊たちだけが笑いながら女の死体を犯したり、弄んだりしていました。私の前に現れた山賊は、笑いながら私に剣を振り下ろしました。でも、その剣は私に振り下ろされることはなく、燃え盛る紅い炎とは真逆の蒼が目の前に広がりました」


 そこで言葉を切って、リックは乾いた口を潤す様に酒を飲んだ。カラン、と氷が涼し気な音を立てる。


「私の記憶はそこで途切れているんです。後になって偶然、視察に来ていた騎士団が助けに来てくれたのだと知りました。翌日には、私の村にも来る予定だったとも……次に目が覚めた時、見知らぬテントの中でした。村の中に作られた騎士団の駐屯地のテントの中です。私はショックで熱を出して寝込んで三日も眠り続けていたんだそうです。騎士の皆さんの手厚い看病のお蔭で私はこうして今も生きています。その後は、父の妹でこの町でパン屋をしていた叔母夫婦が私を引き取ってくれました。生き残ったのは私とほんの数人です」


「それは、大変だったね」


 ソニアがリックのグラスに酒を注ぎながら言った。リックは、いえ、と首を横に振る。


「叔母夫婦は私を実の息子のように育ててくれた心優しい人々です。従弟も私を兄と慕ってくれていましたし、不自由はありませんでした。それに実の両親のことや村のことは幼過ぎてあまり良く覚えていないのです。私の記憶は、あの晩、闇と炎に喰われてしまったのです。けれど、私を助けてくれた蒼いマントのことだけは鮮やかに覚えているんです。だから私は騎士になろうと思ったんです。私を護ってくれた蒼に憧れて」


 リックは自分の紺色のマントを振り返る。


「制服は同じですが師団によってマントの色は異なるので私の所属する第一師団のマントは紺ですが、山と国境を護っている第五師団は、蒼だったんです。初めて袖を通した日は、蒼でも紺でも嬉しかったですけどね」


「お前を助けてくれたって言うその騎士には、会えたのか?」


「いいえ、まだです。なんとなく若い男だったことは覚えているのですが、それ以外は覚えていないんです……あの時、第五師団にいた騎士やその当時の視察隊の記録はあるのですが、第五師団はここから遠いですし、別の師団に移動していたりして手がかりが少ないのです。中には辞めてしまった方や……殉職した方も居ますし」


 リックはまた一口、酒を飲んだ。


「ブランレトゥで暮らす日々の中で、私は多くの騎士と接する機会がありました。今の私もそうですが、騎士は常に町を見回っていますし、騎士の捕り物を見る機会も多々ありました。この町の男の子にとって騎士と冒険者は憧れですから」


 そう言って青年は、唇に小さな笑みを浮かべた。

 彼の向こうに置かれた蝋燭が彼の横顔の陰影を濃くする。


「この町を護るその背に私はますます憧れを抱きました。紺のマントを翻し、颯爽と歩く姿に私は、ますます憧れたのです。叔父も叔母も私の夢を応援してくれました。そのお蔭で今の私はここにいます。我らクラージュ騎士団は、領主に剣を捧げません。我らは、このアルゲンテウスの大地とそこに暮らす全ての民に剣を捧げるのです」


 リックの手が立てかけられた剣に触れた。


「護ること、それが私達、クラージュ騎士団の騎士の本分なのです。戦うことでも勝つことでもありません。平穏を護ること、その命や未来を護ることが……私達騎士の本分なのですっ」


 吹き込んだ風に蝋燭の火が揺れるのと同時にリックの言葉尻がぐしゃりと歪む。


「だというのに……私はっ、――逃げようとしましたっ」


 絞り出すように吐き出された言葉に真尋はゆっくりと隣を振り返る。

 リックが背中を丸めて顔を俯け、膝の上で拳を握りしめていた。ソニアが心配そうな表情でリックを見つめる。


「あの……あの、黒い霧の中で……声を聞いたのです、苦しみにもがく声を、私に助けを求める声を……それらが無数に聞こえて、その中で確かに「リック」と私を呼んで助けを求めるマイクの声が……聞こえたんです……っ」


 ソニアが気遣う様にリックの肩に触れた。逞しい肩が震えている。

 何時の間に降り出したのか、言葉が途切れて産まれた沈黙を埋めるように雨の音が入り込んでくる。


「だというのに、私は……私に助けを求めるその声が、マイクの声が……とても恐ろしくなって、まるで十五年前のあの夜の深い深い光の届かない闇の中で蹲っていた子どものように無力な私は……あろうことかこの耳を塞いだのです……っ」


 真尋は椅子を降りて、リックの隣の椅子に座り直した。

 雨がだんだんと強くなっていく。


「私は、騎士の誇りを自ら穢してしまったのです……っ。助けを求める声に耳を塞ぐなど騎士として最低な行為です。その上……もう恐れることは無いと思っていた闇を畏れてこの様です。本当なら私は……このマントも剣も返すべき人間なのです」


「……リック」


 真尋は、彼の背にそっと手を添える。震える背は、広く逞しい筈なのに今はまるで幼い子供のように頼りなかった。


「闇を畏れぬ者はいないし、死んだ人間を助けられる者も居ない。人が人に出来ることなど取るに足らない様な僅かなことだけだ。騎士であろうが、冒険者であろうが、治癒術師であろうが……全てを護ることのできる人間などいない」


「……ですが、耳を塞ぐなどしてはならない行為です。助けられずとも、救いを求めるその声を聞くべきでした……っ」


「救えなかったものの断末魔を聞いたところで、それは何の救いにもならん」


 真尋はリックの言葉に首を横に振った。リックが顔を上げる。


「ならっ、マヒロさんは死んだ者の声などどうでもいいということですか!?」


 握りしめられた拳がダンッとカウンターを殴りつけた。ソニアがびくりと肩を揺らす。

 深緑の瞳が責めるように真尋を睨み付ける。その目は傷ついているようにも見えた。


「死者の声を蔑ろにしろという意味では無い。俺達が聞くべきなのは死者の断末魔なんかではない。死者の遺した声だ」


「だからそれがっ」


「違う」


 真尋はリックの声を遮って口を開く。


「治癒術師が死因を探り、それに至った経緯を騎士団が明らかにする。俺達は、何故、その人が死ななければならなかったのか、何故、死んでしまったのかを明らかにしていくことが重要なんだ。命に優劣など存在しない。貧民街の住民の命だろうが、俺の命だろうが、領主の命だろうが、全て同じ命だ。そこに価値の差はあってはならない。たった一つの命が不条理に奪われたその事実を忘れてはならない。生きるということは、神が全ての我が子らに平等に与えた権利だ。その権利は神で有れど奪うことは赦されない。お前たち騎士がするべきなのは、その権利を奪った愚か者共の罪を白日の下に晒すことだ」


「でも……でも、私には……あんなにも苦しんで死んでいった人々の声を無視することなどできませんっ、無かったことには、どうやっても……出来ないんです……っ」


 リックは顔を俯けて肩を震わせた。カウンターの上に放り出されていた手は拳を握りしめている。


「無かったことにする必要など無い。だが、囚われるな。彼らが上げたその声に囚われてはいけない。お前は彼らの遺したモノに耳を傾けて、目を向けろ。彼らは必ずそこに自分の無念を、悔しさを、願いを遺している筈だ。護れなかったことや自分の弱さを嘆く暇があるなら、その魂が安らかに眠れるように尽力するべきだ」


 リックは答えない。唇を固く結んで押し黙っている。

 彼の心の中が見える訳では無いけれど、寄せられた眉や握りしめられた拳に彼の葛藤を垣間見ることが出来る。きっと、リックは頭では真尋の言葉を理解しているだろうし、自分でもそれが正しいと分かっているだろう。だが、心がそれを拒否している。真面目で直向きな青年は、誰より騎士ということに誇りを持つ彼は闇を恐れて逃げ出した自分をどうしても許せないのだ。


「……闇を恐れない人はいないよ」


 ソニアの声が優しく落ちる。細い手が慈しむようにリックの髪を撫でた。


「でも、闇を良く知るあんたなら、きっと誰より知っている筈さ。深い深い闇の底でこそ光が何より強く輝くんだって……雨の夜に見たホタルみたいに闇が有るからこそ光が輝くんだって知っているだろう?」


 リックは押し黙ったまま答えない。

 雨の音に混じって鼾が聞こえてくる。二人分のそれは喧しい。


「…………気分が、優れないので……先に失礼します」


 掠れた声でぼそぼそと告げてリックは立ち上がり、紺色のマントを揺らしながら逃げるように階段を上がって行ってしまった。ソニアが声を掛けたがリックは振り返ることもなかった。


「……大丈夫かねぇ」


 ソニアが心配そうに階段の向こうに遠ざかる音を追う様に顔を動かす。


「リックは俺と違って随分と真面目だからな。真っ直ぐすぎてどうしても赦せないんだろうな」


「仲間の声が聞こえたんなら余計に割り切れないもんがあるんだろうさ」


 ジョシュアの声が聞こえて顔を上げれば、目の前に湯気の立つボヴァンのシチューが目の前に置かれた。続いてやって来たサンドロが温め直してくれたらしいパンを籠に入れて持ってきてくれた。


「美味そうだな」


「今夜のメインだったんだ。余りだからあんまり肉は入ってねぇが……」


「構わん。リックの分も俺が食うから安心してくれ」


 申し訳なさそうにサンドロが頬を指で掻き、真尋はそれに首を横に振って答えた。正直、今日もリックの実家で買ったパンだけの夕食を覚悟していたので温かな食事は有難い。

 真尋は酒を飲みながらパンとシチューを腹に納める。


「……そういえば、ソニアは毎日、レイの所に行っているらしいな」


「とは言っても進展は無いけどね。口を利いてくれたのは初日だけで、今の所、あたしが行くとすぐに奥に引っ込んじまうのさ」


 ソニアは肩を竦めて酒の入ったグラスを傾ける。ジョシュアがちゃっかりリックが残して行った酒を飲んでいる。


「多少、痩せた様にも思うけど……元気そうで良かったよ。もっと早くに会いに行けば良かったって思った」


 そう言ってソニアが、くすくすと柔らかに笑った。真尋は、そうか、と頷いてスプーンで掬ったシチューを口へと運ぶ。


「顔を見たら嬉しくなっちゃった。あたしの我が儘を母親面って言ってくれたのが……馬鹿みたいだけど、嬉しかったんだ。だってただのお節介でも何でもなくそういう風に思ってくれたってことは、少なくともあの子の中であたしは「母親面」をする立場の人間ってことだろ?」


 ゆったりと笑いながらソニアが言った。

 

「それにあいつ何だかんだ口では言うくせに、サンドロの飯は絶対に断らないんだぞ」


 ジョシュアが可笑しそうに笑いながら言った。空になったグラスに酒を進めれば遠慮なくグラスが付きだされて、真尋が酒を注ぐ。そうすれば、今度は空になっていた真尋のグラスにジョシュアが酒を注いでくれる。


「美味いものは世界を平和にするからな。よく俺の弟たちが喧嘩をした時、雪乃がプリンを作ってくれてな。それがいつも仲直りのきっかけになっていたんだ」


「優しい思い出だなぁ。じゃあマヒロが喧嘩した時は?」


「俺? 誰と?」


「奥さんでも一路でも」


 ジョシュアが言った。


「どちらとも喧嘩という喧嘩をしたことはないな……二人から怒られることは多々あったが」

 

 真尋の言葉に何故か三人は「ああ、うん」と心の底から分かるとでも言いたげに大きく頷いた。

 それに首を傾げながらも、そう言えば自分は喧嘩と呼べるような大層なものをしたことがあっただろうか、と記憶を探る。弟達とは年が離れているし、両親は喧嘩をするほど家に居なかった。


「そうなると、あの木偶の坊に売られたのが人生初の喧嘩かも知れんな」


「ギルドでレイに突っかかられたやつか?」


 勝手にバケットを食べながらジョシュアが首を傾げる。


「ああ。故郷ではそもそも俺に喧嘩を売って来るような強者が居なかった」


「だろうな。俺だったら絶対にやだ」


「俺もだ」


 ジョシュアとサンドロが大げさに頷いて、ソニアがケラケラと笑った。

 それからジョシュアとプリシラの喧嘩は最終的に惚気だから嫌だとサンドロが愚痴るのを聞いたり、ソニアとサンドロの喧嘩はサンドロの土下座が最終兵器だと冗談交じりにジョシュアが言うのを聞いたりしている内に皿が空っぽになって、真尋は夫婦に礼を言ってジョシュアと共に階段を昇って行く。


「なあ、マヒロ」


 四階にたどり着き、ここで別れるジョシュアと就寝の挨拶をして真尋は更に上へと向かおうとした時、背後から声を掛けられて振り返る。

 セピア色の瞳が彼の手に持った燭台に照らされてゆらゆらと弱く光っている。


「あんまり無理をするなよ。皆、心配してる」


「……ああ」


 ひらりと手を振って真尋はそれ以上、ジョシュアが何か言おうとするのを拒んで彼に背を向けて階段を上がる。ジョシュアはそれ以上、何かを言うことは無かった。

 暗い廊下を歩き、部屋へと入る。ランプの灯りが部屋の中をぼんやりと照らしている。三つ並んだベッドの内、二つは膨らんでいて、一路の健やかな寝息が聞こえてくる。リックは寝ているふりをしているのだろうが、顔を上げないと言うことは声を掛けないで欲しいということだと判断する。

 真ん中に置かれた真尋のベッドの上には相変わらず大量の本が置かれていて、それを崩さない様に縁に腰掛けた。一路のあどけない寝顔が隣のベッドの上には有った。真尋に気付いたロビンが起き上がって、一路を起さぬようにこちらにやって来る。


「随分とでかくなったな」


 腿の上に乗せられたロビンの大きな頭を撫でる。食べているものが良いからなのか、そういう性質なのか、ロビンはぐんぐん大きくなっている。薄暗い牢の片隅で怯えていた痩せ細った憐れな姿はもう思い出せない。


「なあ、ロビン」


 澄んだ蒼の瞳が真尋を見上げる。

 指の背でその目元を辿るように撫ぜた。ロビンはされるがまま大人しくしている。

 名を呼んだのは良いが、これといって言葉になって出てくるようなものが真尋の中には無くて、誤魔化す様にロビンの頭をくしゃくしゃと撫でた。


「シャワーを浴びて来る」


 そう告げて真尋は立ち上がり、ロビンを一撫でしてから部屋を後にしたのだった。









 バタン、とドアの閉まる音がして、また部屋の中は静まり返った。

 リックはゆっくりと体を起こしてベッドに腰掛けた。ロビンがぱっと顔を上げてふさふさの尻尾を揺らしながらこちらへとやって来た。ひょいとベッドに飛び乗ってロビンは隣に座る。リックは、その首に腕を回してロビンを抱き寄せた。艶々の毛は顔を埋めると気持ちが良い。その毛の奥の温かさが無性に安心を与えてくれる。


「……マヒロさんが言っていることが正しいと分かっているんです」


 ぼそりと呟いた言葉に返事は無い。当たり前だ。唯一、返事をくれるだろう人は本だらけのベッドの向こうで深く眠っているのだから、彼以外から返事が有ったら一大事だ。

 ロビンの白銀の毛並みは暗い部屋の中でランプの灯りを淡く孕んで光る。顔を埋めれば、それだけで闇が遠のいたような気がする。

 嵐の晩、閉じ込められた暗闇は光の一つも存在しない真っ暗闇でリックは、自分の瞼が開いているのか、閉じているのかも分からなかった。ただ外から聞こえてくる喧騒や酷い風の音、雷の轟音が暗闇の中でリックにますます恐怖を与えたことは確かだった。これだけ図体が大きくなった今でも夜は何かしらの灯りが一つ無ければ眠れないのだ。

 貧民街の廃墟の中でリックを飲み込んだ得体の知れない黒い霧は、あの晩の闇と同じ位に、いや、それ以上に深く濃い闇を携えていた。氷にでも包まれたかのような冷たさを全身に感じると同時に口から何かが押し入ろうとした。そして、その闇の中に苦悶に歪む断末魔が幾重にも響き渡ったのだ。その中に「リック」と自分を呼ぶマイクの声が確かに聞こえた。


「ロビンは、闇を怖いと思いますか?」


 顔を少しだけ上げてロビンに尋ねる。人の言葉を解する素振りを見せる白銀の狼は、澄んだ蒼い目でリックを振り返り、こくりと頷いて冷たい鼻先をリックの頬にくっつけた。


「本当に?」


「わん」


 ロビンは主を起さない様に控えめな小さな声で返事をくれた。

 リックは、寄り添うようにロビンに回した腕に力を籠める。ロビンの心臓の音が聞こえてくる。人間と同じくらいの速度で脈打つ心臓の音は、生というものを何より強く感じさせてくれる。

 どれくらい、そうしていたのかは分からないが、ガチャリとドアが開く音が聞こえて顔を上げる。チュニック姿のマヒロが濡れた髪を拭きながら部屋に戻って来た。


「……眠れないのか?」


「いえ……まあ、その、はい」


 誤魔化しを赦してくれそうにはない銀に蒼の混じる瞳に見据えられて、否定を諦めてリックは素直に頷いた。真尋はこちらにやって来ると向かい合う様にしてベッドの僅かに残る隙間に腰掛けた。リックがここへ来てからマヒロはいつもイチロのベッドに勝手にお邪魔して眠っている。イチロが言うには、ジョンかリースが居なければ本を片付けないので諦める外ないらしい。


「先ほどは俺も少し言い過ぎた。お前が聞いたもののことを考えれば、そう簡単に忘れられる訳が無いし、区切りを付けられる訳もないというのにな。すまなかったな」


 予想外の言葉にリックは弾かれたように顔を上げた。マヒロは相変わらずの無表情だったが気遣わし気にリックを見つめる眼差しがそこに在るような気がして、リックは慌てて首を横に振った。


「違います! あれは本当に……マヒロさんのおっしゃることが正しいんです……死んでしまった人間の声に囚われた所でどうにもならないのは確かなんですから」


 マヒロはリックの弁明に、そうか、と小さく答えてくれた。リックは真尋の声の小ささに自分がやけに大きな声を出していたことに気が付いて慌ててマヒロの向こうを覗くがイチロはすやすやと気持ちよさそうに眠っている。


「安心しろ。一路は一度眠れば朝まで起きん」


 リックの心配に気が付いたマヒロがそう言って肩を竦めた。


「眠れないなら、本でも読むか? この辺なんか面白いぞ、魔術学の属性魔法の術式紋についての本だ」


「マヒロさんは、寝ないんですか?」


 差し出された分厚い本をそっと固辞しながらリックは話を逸らそうと試みた。リックとて一般人より教養も知識もあるが、それは騎士としての水準であってマヒロのような一流の魔導師水準の頭脳を求められても困る。

 マヒロは、遠慮しなくていいんだぞ?と変な方向にリックの気持ちを誤解しながら分厚い本を引っ込めてくれた。


「お前に何だかんだ言ったが……俺も眠ることはあまり得意じゃないんだ」


 予想外の言葉にリックはロビンと共に首を傾げた。

 マヒロは、その様子がおかしかったのかくすりと笑うと長い足を組んだ。それだけでも見惚れるほど絵になる。


「昔、夜中に痴女に襲われてな。それ以来、眠りが浅くなって、こういう人の気配が多い所では眠れないんだ」


「痴女に?」


「うちで働いていた若いメイドだ。勝手に鍵を持ち出して夜中に俺の部屋に忍び込んで来たんだ。人の体に勝手に触って跨って、俺の服を脱がせようとしていたところで気が付いた。あれは怖いぞ? 知らん女が全裸で自分の上に乗っているのは」


 マヒロは、くくっと可笑しそうに笑って肩を竦めた。


「わ、笑い事じゃないですよっ、騎士団には突き出したんですか?」


 リックは小声で訴える。

 マヒロは、ぱちりと目を瞬かせた後、大丈夫だと言う様に肩を微かに揺らした。


「ああ。寧ろ、その後、母が怒り狂って大変だった」


 マヒロは手に持って居た本をベッドの上に置いてリックに向き直った。


「そんな訳で俺は情けないが最近は一路と眠るか、ジョンやリースと眠っている。そうすればこの体に必要最低限の睡眠は確保できるからな。だから、眠れないことをそんなに恐れたり、恥じたりする必要はない」


 銀に蒼の混じる双眸が余りにも優しくてリックは逃げるように顔を俯けた。その優しさに手を伸ばしたら、何かが崩れてしまいそうでロビンを抱き寄せる腕に力を籠める。


「リック、一つだけ聞いても良いか?」


 俯いたままリックは頷いた。


「……マイクは、どんな人だった?」


 ロビンが気遣う様にリックの顔を覗き込んでくる。リックは、大丈夫だよ、と答えるようにロビンを撫でた。


「……マイクは、四つ上ですが同期なんです。私とエディのように十五歳ですぐに入団試験を受ける者は、案外少なくて、同期の殆どは年上ですし、下手をすると後輩も年上が多いんです。私の一期下の後輩は、私より三つ年上ですし……」


「そうなのか?」


「騎士は危険な仕事には違いないですから、試験も厳しいんです。それに一度で受かる人間の方が少ないんですよ。マイクも一度は試験に落ちてしまったそうです。私とエディとマイクは、入団後の見習い期間中の時の班が一緒で特に仲が良くて……マイクは一見、チャラチャラして見えるのですが、根は正義感に溢れた人で、曲がったことが大嫌いでした。普段の仕事はサボリがちでしたが、いざという時はとても頼りになる人でした。騎士という職業に彼は誰にも負けないくらいに強い誇りを持って居たように思います」


「うん、それで?」


 マヒロの声が優しく先を促す。


「マイクは私とエディを弟のように可愛がってくれて、まあ多少、理不尽な所もありました、常に飄々としていて掴み所が無くて、女好きで時々、頬に赤い手形をつけて帰ってきたりなんかして、そんな日は皆で大笑いして、失恋祝いだってそれを理由に酒を飲んだりもしました。おしゃれが好きで服のセンスが良くて、私も見立ててもらうことがよくありました。時折、エディと馬鹿をやってカロリーナ小隊長に怒られたり……ジェンヌという女性騎士を口説いて殴り飛ばされてみたり、話題には事欠かない人だったんです」


「……そうか。なら……いなくなってしまって、寂しかっただろう」


 膝の上で握りしめた手を見つめながらマヒロの言葉の意味を咀嚼する。


「……マイクが居なくなったのは突然だったんです。倉庫の張り込みをしていることは皆、知っていましたが、あの日、突然、本当にいきなりマイクは姿を消したんです。あらゆる場所を探しましたが、その痕跡はなく……真っ黒になったカードだけが残りました」


 事務局が慌てたように持って来たカードは、見る影もなく真っ黒になっていて、そこに書かれた文字だけが白く浮かび上がっていた。真っ黒の中、指で引っ掻いたかのように細く白い文字が「マイク」と名を綴っていることが酷く不思議に思えた。


「……大事な友人が死んで、とても悲しかっただろう?」


 心の柔い所に落とされた言葉が波紋を描く様にして広がっていく。


「……死、んだ?」


 戦慄く唇から零れ出たのは、何とも弱々しく間抜けな音だった。

 マヒロが、ああ、と深く頷いた。


「お前は一度も俺にマイクが「死んだ」と明言することは無かった。消息を絶った、行方が知れない、そんな言葉ばかりだった。……遺体も確認できず、たかが一枚のカードが黒く染まっただけでは……お前は、心の奥底ではマイクの死を認められなかったんだ。……だから、お前は……助けて、と縋ったマイクの声を受け入れてしまったんだろう。死を受け止めていなかったお前は、マイクを助けられると一縷の希望を抱いてしまった。だがそれは所詮……闇が見せた幻想だったんだよ、リック。マイクは死んだんだ」


 瞬間、せり上がるような悲しみが一気にリックを支配した。

 片手で口元を抑え込んで、嗚咽をかみ殺す。ボタボタと両目から溢れる涙がズボンを濡らした。マヒロが立ち上がり、隣にやって来た。力強い腕に肩を抱かれる。ロビンが押し付けるように身を寄せて来る。

 溢れ出る涙が頬を濡らして、零れそうになる嗚咽がリックに言葉を紡がせてはくれなかった。


「……涙を我慢する必要はない。泣きたいだけ泣け。どうせ眠れないんだ。ロビンと一緒に幾らでもこうして付き合ってやるから、ゆっくりと向き合って行けばいい。焦る必要はどこにもない」


「…………は、ぃっ」


 辛うじて返せた声も涙に滲んで酷く頼りなかった。マヒロが寄り掛かって来る。その重さに安心する。両側のぬくもりが哀しみにまみれた心を優しく包んでくれた。何だか世界がとても優しくて、窓の向こうから入り込んでくる雨の音すら優しく聞こえたような気がした。

 






――――――――――


ここまで読んで下さってありがとうございました!

皆さまがお寄せ下さるお気に入り登録、評価、本当に嬉しいです><。


本編は次話からクライマックスに向けて大きな騒ぎが起こる予定です。

更新はゆっくりですがお付き合い頂けると嬉しいです!


また次のお話も楽しんで頂ければ、幸いです♪

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[気になる点] 一話前で騎士団の原型がうまれたのは千年前、とありました。 その上でクラージュ騎士団は領主に剣を捧げない、つまり以前、団長さんやリックが言っていた「誰であれ」の誰には領主もはいるのでしょ…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ