第二十七話 探す男
「……どこへ行っても、こういう場所は無くならないんだろうね」
一路が零した言葉は、正しくここへ来た時に真尋が思ったことと同じだった。
真尋は、そうだな、とだけ返して半歩後ろを歩くリックを振り返った。貧民街まで連れて来るのはどうかと思ったのだが、彼自身が真尋から離れることを拒んだので連れて来た。だが、それでなくとも青白い顔が、ますます悪くなっているような気がする。
今日は、ミアとノアに会うと約束した日で、真尋は一路とリックと共に朝一番で貧民街に来ていた。
「あ、神父様!」
貧民街に入ってすぐ、真尋を待っていてくれたのかトニーが駆け寄って来た。
トニーは真尋の隣を歩く一路に気付いて駆け寄る足を止めた。彼と一緒に寄って来ていた数名も足を止めて、訝しむ様な視線を一路に向けた。
今日は真尋も一路も神父服を着ていた。形から入るのは案外大事なことで、その方が一路のことも警戒されずに済むと思ったからだ。
「トニー、ダン達も紹介しよう。彼は、神父見習いで俺の親友の一路神父見習いだ」
「初めまして。お話は真尋神父から聞いています。まだまだ未熟者ですが、よろしくお願いしますね」
にこにこっと無邪気で人懐こい笑みを浮かべて頭下げた一路にトニーたちは顔を見合わせた後、止まってしまっていた足を再び動かしてこちらにやって来た。一路にトニーが手を差し出す。
「初めまして、俺は、トニー。こっちこそよろしく」
一路は嬉しそうにその手を握り返し、他の人々とも握手を交わした。
昔から一路は人の懐に潜り込むのが上手い。無邪気で人懐こい笑顔は、真尋と違って裏も表も無いので人は気を許しやすいのだ。
「それで、何か変わったことはあったか?」
「神父様に言われて、皆で調べたけど……とりあえずこっちの地区は黒い痣?っていうのも様子の可笑しいグリースマウスも誰も知らねえって。今日、もう少し人数を集めて向こうの地区を調べるつもりだ」
「そうか、どんな些細なことでもいい。情報が有ったら教えてくれ。これは今日の分の昼飯だ。皆で食べると良い」
真尋は、鞄に手を入れてアイテムボックスからパンが沢山詰め込まれた紙袋を取り出した。ここへ来る途中、先日と同じようにリックの実家のパン屋によって、たくさんのパンを買い込んで来たのだ。
トニーは、ありがとうございます、と恐縮しながらもそれを受け取った。後ろに居た仲間たちもぺこぺこと頭を下げた。
「種類は様々だから取り合って喧嘩するなよ?」
「ガキじゃねぇんだから、しませんよ」
「昨日はジャムパンを取り合って、あんたとダンで大喧嘩したじゃないか」
真尋が冗談交じりに言った言葉にトニーが渋い顔で言い返すが、ひょいと現れたシグネが秘密を暴露する。
「シグネ! 余計なこと言うなよ!」
「ったく、図体だけは立派なんだから。ほら、さっさと行って来な。今日は喧嘩せずに分けるんだよ」
「次はジャムパンを多めに用意しておく」
「神父様まで! ったく、おめぇの所為だからな、ダン!」
「あ? お前は結局俺から意地で奪っただろうがよ!」
ギャアギャアと騒ぎながらトニーたちは去っていく。
シグネが呆れたようにその背を見送って、真尋たちに向き直る。真尋は、シグネにも一路を紹介した。シグネは「可愛い神父さんだね」と感心したように一路と握手を交わした。
「リックさん、顔色が優れないけど、大丈夫かい?」
シグネは真尋の後ろに居たリックに顔を向けて心配そうに言った。
「ありがとうございます。でも、マヒロさんと一緒に居れば大丈夫ですので」
「そうだねぇ、神父様と一緒なら安心だね」
リックの答えにシグネは、笑って頷いた。
それからシグネは、古物屋に行って来ると告げて去って行った。ここ数日、ゴミ捨て場で拾い集めておいた古釘や蝋燭の残りなどを換金しに行くのだろう。
この貧民街で暮らす人々の多くが町のゴミを漁って、リサイクル出来そうなものを、日本で言えばリサイクルショップのような役割を持つ古物屋に持ち込んで金に換えているのだという。物乞い、娼婦、ゴミ拾いが基本で、力のある男などは、ダンジョンで荷物持ちとして冒険者に雇って貰ったり、商業ギルドで日雇いの仕事を紹介して貰ったりもすると言うが、貧民街という場所に棲む彼らに払われる給金は、相場の半分以下だそうだ。だが、それは雇い主だけに問題がある訳では無い。これまで仕事を疎かにしてサボったり、或は、職場で盗みを働いたりと問題が多く、圧倒的に信頼というものが足りないのだ。ここから本気で抜け出そうとしている人間の方が圧倒的に少ないのだろう。
真尋は、辺りへ視線を配りながらミアの家へと向かう。曇り空だからかそれなくとも薄暗い貧民街は、いつもより暗く湿っているような気がした。
ダビドが殺された場所は、ミアの家へがある裏通りへと入る小路の入り口でもある。血の跡は、この間の雨で流れたようだったが、まだ花がぽつぽつと手向けられていた。真尋は、そっと手を合わせる。一路も同じように手を合わせた。リックが不思議そうに首を傾げる。
「マヒロさん?」
「こうして手を合わせることで、死者のあの世での幸福や平穏を祈るんだ」
真尋がそう教えてやれば、リックもそこに向けて手を合わせた。暫らく、三人でそうやって手を合わせてから、顔を上げて路地裏の通りへと向かう。今日も通りは静まり返っていた。ミアの家もそれは同じだった。
真尋は、まだ一度も開けられたことの無い玄関のドアを叩いて声を掛ける。
「ミア? 真尋だ。約束の日だから会いに来たんだ。ミア、ノア?」
トントン、と叩いて何度となく声を掛けるが一向に返事が無い。真尋は、悪いと思いつつガラスの代わりに布の掛けられた窓から中を覗き込むが、物の少ない室内には、ミアの姿もノアの姿も見当たらない。
「いないの?」
一路が首を傾げる。
「そうみたいだな。楽しみに待っていてくれると思ったんだが……何かあったんだろうか?」
真尋は、辺りを見回すがそこにミアとノアは無い。グリースマウスが一匹、そそくさと逃げるように井戸の影から路地裏へと走り去っていく。
「どこかへ出かけているのかも知れん。少し時間を潰してからまた来るか……ああ、そうだ。リック、その間にダビドの家に行きたいんだが……」
「はい。ご案内します。ここから歩いて十分くらいの所ですよ」
リックがそう言って歩き出した。
真尋は今度は、リックの背に続いて歩き出す。
「ミアちゃんって幾つくらいの子なの?」
「痩せて小さいからよく分からんが、五つか六つくらいだろう。弟の方は、もっと小さくて、一歳は過ぎていると思うが二歳かそこらだろ」
「そっかぁ……それでもここで頑張ってるんだねぇ」
一路が辺りを見回して言った。
真尋は、ああ、と頷いて返した。
「それでもミアは、笑うんだ。にこりと無邪気に明るい笑顔は、とても眩しい」
あの笑顔を真尋は、とても尊いものだと思う。
こんな太陽の光も届かない様な薄暗い場所で輝く笑顔は、とても尊いものだと真尋は思うのだ。
この間は、事件が起きてしまってゆっくりと話しをすることも出来なかった。だから、今日は色々なことを聞いたり、話したり出来れば良い。子どもが見ている世界は、時として大人が想像だにしていないことが起きていたりするからだ。
それからしばらく歩いて、ダビドの家に着く。
小さな家だった。ベッドが一つあるだけの小さな家は、人が住んで居たと言われなければ分からないほど生活感というものが見当たらなかった。
「この布団の下から、手紙が出て来たのみで……ここに有ったはずの小さな木箱は、戻って来た時には無かったそうだ」
真尋は、ベッドの枕元を手で撫でながら言った。
ここの探索に来た時、十二人目の遺体が発見されて駆け付けた現場でリックは黒い霧に襲われた。詳しく聞いたところによると、黒い霧は、エドワードが抱えていた子供を襲おうとしていたらしい。恐らく、子ども以外の三人が真尋が与えた魔石を持っていたために、無防備な子供を狙ったのだと推測出来る。今朝、エドワードから宿の方に送られて来た手紙には、その子供はショックで喋ることが出来なくなってしまい、詳しいことは聞けずにいるそうだ。
「手紙は、事件には関係なかったの? 手紙を所持していたってことは読み書きが出来たってことだよね? 自分が狙われていたとすれば、その原因や理由を誰かに伝えるために手紙を出そうとしたんじゃないの?」
一路が首を傾げる。
「いいや、その手紙は随分と昔のもので、ダビドが恋人と思われる女性から貰ったものらしい。それにダビドは、嘗ては貴族だったようだ。尤も、家はとうの昔に没落してしまっているようだがな」
「じゃあ、ダビドさんは……家を失ってここへ?」
「さあな、本人が居ない今、真相を知る者はいない」
「マヒロさん、お話中、すみません」
リックに声を掛けられて、二人は振り返る。リックは、ベッドの脚の傍に膝をつくようにしてしゃがみ込んで居た。具合でも悪くなったのかと焦ったが、彼の横顔は真剣で、彼の指が床を辿るようにして撫でていた。真尋もそれに気づいて、おや、と首を傾げた。リックの隣にしゃがみ込む。
「ベッドを動かした跡があるな……脚が元の位置に戻されていないから、ベッドの脚の痕から少しずれている」
木製の床に着いた丸いベッドの脚の痕は、本来であればその脚によって隠されている筈なのに少しだけずれているのだ。真尋の肩に手を着いて、後ろから覗き込んで来た一路が口を開く。
「有りがちなのは、床の下に何かが隠されてるっていう話だけど……」
「もしかしたら、そうかも知れんな」
真尋は、一路の言葉に頷いて手を振った。風の力でふわりとベッドが浮かび上がった。リックが、その脚の痕がある板が少し緩んでいることに気が付いて取り外す。
この家は、普通の家屋のように土台を作ってから建てられたわけでは無い。板で壁を作り、床は平べったい木材を敷いただけだ。だが、その板を外した箇所には穴が有った。恐らく、人為的に掘られた穴は、直径、三十センチ四方で深さは大人の腕が肘まで入る程度だった。
薄暗い家の中では、穴の中は良く見えない。真尋は、光の玉を取り出して穴の中に放り込んだ。暗いそこを光の玉が淡く照らす。隅の方に布に包まれた何かが落ちているのに気付いて、手を伸ばす。
拾ったそれを手の上に乗せる。古びた汚らしい布に包まれていたそれをそっと開いて行く。
「……ブローチ?」
中から出て来たのは、美しいブローチだった。
はっきり言って、貧民街で暮らす憐れな老人には似合わない代物だった。真尋の手のひらほどの大きさで、金の土台のカメオのブローチだった。これが貝か石かは真尋には判別がつかないが、美しい女性の白と背景の鮮やかなブルーが美しい。女性は、柔らかそうなくせ毛に沢山の花を飾り、恥じらう様に顔を伏せて微笑んでいる。
「綺麗なブローチだね」
「ですが、どうしてこんなものが、ここに?」
リックが訝しむ様に首を傾げた。盗品の可能性も視野に入れているのかもしれない。真尋は、ブローチをひっくり返す。裏には襟やスカーフに留めるための針があった。
「ねえ、ここ、何か書いてある」
ぐいっと一路がのしかかって来て重たい。しかし、一路が指差した先に文字を見つけて注意するのを忘れる。
そこには、丁寧な細工で文字が彫られている。
「……愛しの君、花の妖精、エレアノーレ?」
「……誰?」
「俺が知る訳ないだろう」
そう返して、他に何かないかとみるがブローチには、それ以上の情報は見当たらなかった。
「リック、誰か知ってるか? この国で有名なエレアノーレとか花の妖精とか……」
「特に思い当たる人物は居ませんね。アーテル王国では、女性を褒める時に花の妖精と形容することが間々ありますし、こういった宝飾品、或は、手紙に花の妖精なんとかと書いて贈ることもよくあることです」
リックの言葉にアーテル王国人は気障だな、と真尋は肩を落とす。童話や民話に伝わる花の妖精は有名人が居れば何か分かるかと思ったのだ。
「……レオノーラにエレアノーレ、二人の女の影がダビドには有った訳だな」
「此処に有るってことは、ダビドさんは多分、贈り損ねちゃったんだね」
「かもな……とりあえず、これは俺が預かっておこう。今度、エディに会った時に渡しておけばいいだろう」
一応、リックを振り返れば彼は、それでいいと言う様に首肯した。真尋はそれを鞄に入れるふりをしてアイテムボックスにしまった。失くしてしまっては、ダビドに申し訳ない。
他には何かないか、と探したが後は干からびたパンと空っぽの瓶が転がっていただけだった。床板を元に戻して、ベッドを降ろす。他の場所もと壁板や天井なども探ったが、虫の死骸を見つけただけで終わった。
それから戻って来たシグネや周辺の住民にも聞き込みをしたが、人当たりの良い優しい爺さんということ以外、ダビドの情報は得られなかった。皆が皆、口を揃えて優しい人だったと言うからには、本当に良い人だったらしいが、皆、ダビドの過去を尋ねれば、知らないと首を横に振った。曰く、ここでは過去に触れてはいけない暗黙の了解が有るらしい。本人が自ら喋るなら構わないが、自分から人に聞くのは駄目なのだという。ここへ来た人々は、皆、何かしらの事情があって、それを知られたくないからこそここに来た人もいる。だからこそ、住民たちはお互いの過去を詮索しないのだという。
「まあ、爺さんは読み書きも出来たし、言葉遣いも品が有ってね。ただの爺さんでは無いことは確かだったよ」
シグネの言葉に周りに集まっていた住民たちも頷いた。
「でも、サヴィラが貴族の落胤だというのは、知っていただろう?」
ダビドが襲われた日、真尋はダビドの向かいの家に住んで居る女性からその話を聞いたのだ。この話を否定するものは誰もおらず、皆が肯定していた。だが、あのサヴィラが自分から話すとも思えないし、ダビド自身がそう言ったは話を誰かにベラベラ喋るとも思わなかった。
「それはねぇ……爺さんがあの子を拾って来て一年くらい経った頃、大げんかをしてた声が外まで聞こえていてね。何が理由かなんて知らないけど、その時に俺の親父みたいに腐った貴族がってことを言っていたんだよ、それこそ通り中に聞こえる様な大声で。ねえ、ルシー」
シグネが隣に居た女性に同意を求める。女性は、真尋にサヴィラの事を教えてくれたダビドの家の向かいに住んで居る住人だ。
ルシーは、ああ、と頷いてシグネの言葉を肯定した。
「その喧嘩がもとでサヴィラは爺さん所を出てっちまったのさ。仲直りはしたみたいだけど、爺さんの所に戻ろうと言う気は無かったようで、今はああして孤児の面倒を見てるって訳さ。それでも週に一度は、爺さんの様子を見に来ていたし、爺さんもしょっちゅうあの子の所へ顔を出してはいたみたいだけどね」
「所で、ここに騎士が捜査に来た時、ダビドのベッドの枕元に木製の小さな箱が置かれていたらしいんだが、騒ぎの後、戻って来た時には無くなっていたらしい。何か知っている者はいるか?」
ああ、それならと手を挙げたのは、ルシーの隣に住む片腕の男だった。
「多分、サヴィラだよ。騎士さん達が去った後、入れ違いに来て、出て行く時、小さな木箱をみたいなのを抱えていたから」
「それなら俺も見たよ」
教えられた情報に真尋は腕を組んで顎を撫でる。
「ふむ……やはり一度、捕まえて話をするほか無いか」
「程々にね。相手は子供なんでしょ?」
一路がやれやれと言った様子で肩を竦めた。
真尋は、当たり前だ、と返す。とはいえ、真尋はサヴィラをダビドの葬儀の時にちらりと見かけただけだった。ダビドの死からまだ一週間も経ってない。だからこそ、真尋はサヴィラを探してはいたが、避けられていると言うのもあってそこまで積極的には探していなかった。葬送行列の中から見た少年は、自分が哀しんでいることにすら気付いていないような様子で、ダビドの死を受け入れるには、まだまだ時間がかかりそうだった。だからそんな少年の心にずかずかと入り込んでいくのは躊躇われた。だが、事は一刻も争うかもしれない。ダビドを襲った連中が、サヴィラに託されたかもしれない可能性に気付けば、今度は、サヴィラが狙われることになるのだ。
ふと腕時計に視線を落とせば、大分時間が経って居ることに気が付いた。そろそろミアも帰って来たかも知れない、と真尋はシグネたちに礼と別れを告げて再び、ミアの家へと足を向けた。
「……帰っていないようだ」
何度声を掛けても返事が無い。
真尋は、ドアの前に立って、約束を忘れ去られてしまったのだろうかと首を捻る。
「明日と勘違いしてるんじゃない?」
後ろで一路が言った。その言葉をリックが肯定する。
「そうですね、ミアはまだ幼いですし……もしかしたら、日にちを間違えているのかも知れません」
「……だが、仕事に行って居るとすれば、ノアはどこに居るんだ? 町で会った時、ミアは一人だった」
「どこかに預けているとか? あるいは、隠れているとか」
一路が隣にやって来て、窓から家の中を覗き込んだ。
時刻は、昼を過ぎたくらいだ。もう少し待ってみようか、と真尋が提案しようとした時、隣の家のドアが開いて、老婆が桶を片手に出て来た。真尋たちに気付くと驚いたように目を瞬かせて、警戒したように後ずさる。だが、そこは一路が先手を打った。
「おばあちゃん、初めまして。僕はこの町にやって来た神父見習いの一路です。こっちは、神父の真尋さん、向こうは騎士のリックさんです。聞きたいことが有るんですけど、お時間宜しいですか?」
にこにこと無邪気な笑みと共に一路が自己紹介をして一気に要件まで告げた。老婆は、訝しむ様な目をしながらも頷いてくれた。
「……もしかして、ミアにパンをくれた神父様かい?」
「ああ。今日、会う約束をしていたんだが姿が見えなくて困っているんだ。何か知らないか?」
「さあねぇ……ここ数日、ノアの具合が悪くてね」
「ノアが? 具合が悪いってどういうことだ?」
老婆は、分からないよ、と首を横に振った。
「ミアが付きっ切りで看病をしていたから、仕事に出られなくてね。とはいえ、神父さんがくれたパンが多めにあったから、隠していたへそくりでミルクを買って来て与えていたようだけど……あの子も、周りの大人に頼らない所があってね、特にノアのことになると余計、頑なになって。あの子にとってもノアにとってもお互いが、たった一人の家族だからしょうがないと言えばしょうがないんだけど」
「そういえば、あの子たちの母親か父親は?」
本当は、ゆっくりと時間のとれた今日、本人に聞くつもりだった。
老婆は、その問いに表情を曇らせた。
「ミアとノアの母親は、娼婦だったから二人の父親は誰も知らないけど……母親は去年の秋ごろ、二人を置いて出て行ったよ」
「出て行った?」
「そうさ。ある日突然、二人を置いて姿を消しちまったのさ。神父様、そんな話は、#貧民街__ここ__#じゃよくあることさ」
老婆は、仕方が無いんだよとまるで真尋に言い聞かせるように告げる。
「ここには、親に捨てられた子供がたくさんいる。赤ん坊が捨てられて、グリースマウスに齧られているなんてこともよくある話さ。孤児たちが大人になれる可能性なんて、ほんの僅かだ。飢えや病気で毎日、たくさんの子供が死ぬんだよ。もしかしたら、ミアは……ノアが死んでどこかに行っちまったのかもしれないねぇ」
反論しようとして開いた口は、老婆の濁った目を前にして何の言葉も出て来なかった。
老婆が言っていることは、確かにここで、この貧民街で日常に起きていることなのだ。当たり前に存在している出来事で、老婆はそれを幾度となくその目で見て来たに違いない。どうして助けなかったと詰ったところで、老婆とて自分一人が生きていくだけで必死なのだ。ここの住人たちの殆どが、自分の面倒を見るだけで精一杯で時には、我が子すら手放さなければならないのかも知れない。
リックが言っていたでは無いか。娼婦が捨てた子供もここにはたくさんいると。ミアだってその中の一人で、決して珍しい存在ではない。
「……神父様、あんたは少し優しすぎるのかもしれないねぇ。これじゃあまるでわたしが、悪者じゃないか。そんな綺麗な顔で、そんな悲しい顔をしないでおくれな」
老婆が手に持っていた桶を足元に置いて、空いた手で真尋の顔をそっと撫でた。カサカサの手は、皺だらけで指先が荒れ放題だった。でも、暖かい手だった。
「ミアは、母親が帰って来ると信じているんだよ。だから、まだここに帰って来る可能性はある。あの子には、母親を待つと言う生きる理由がここにあるからね」
「……ミアの母親は、ミア達を愛していなかったのか?」
「愛していたさ。オルガは、二人を何より愛していたように見えたけど……外側だけじゃ分からないこともいっぱいあるもんだよ」
老婆は、そう言って悲しそうに笑った。真尋の頬を撫でていた手が離れて、また桶を持つ。
「どこか……どこか、ミアの行きそうな場所を知らないか?」
どこかへと行こうとする老婆の背に問いかける。老婆は足を止めて、少し悩む様な仕草を見せた。
「そうさねぇ……そう言えば、オルガが居なくなってから、サヴィラがよく様子を見に来ていたよ」
「サヴィラが?」
思わず問い返す。
「あの子は、大人には厳しいけれど、子どもには優しい子だからね。ミアを気に掛けていたよ。そうそう、ミアに花売りの仕事を教えたのは、サヴィラだよ。ミアが嬉しそうに教えてくれたから間違いない筈だ」
「そうか、ありがとう。これからサヴィラの元を尋ねてみる」
「そうかい、好きにすると良い。ただ、あんまり期待はしないことだね」
そう告げて老婆は、桶を片手にどこかへと去っていく。
「真尋くん、ミアちゃん、探そうよ」
ぽんと肩を叩かれて振り返れば、いつもと変わらず笑っている一路が居る。
「僕らが今のミアちゃんに出来ることは、彼女を探すことだよ。見つけなきゃ、助けてあげることも、話を聞くことも出来ない。だから、探そう」
「わ、私も手伝います」
リックが前に出て来て真尋の顔を覗き込む。
「私もあの子には、とっておきの魔法を教えてもらいましたから」
リックは武骨な手で自分の頬に触れた。そこは、あの日、ミアがとっておきの魔法だと言っておまじないを掛けてくれた場所だった。
真尋は、ありがとう、と小さな声で返して目を閉じる。そして、顔を上げる。
「悪いが、今から探そう。リックは、すまないが市場通りの菓子屋の隣に在る酒場の前を見て来てくれないか。ミアはいつもそこで花を売っていたらしいんだ」
「菓子屋の横の酒場……ああ、分かりました。クッキーとマフィンの店ですね」
「だが、大丈夫か? 俺と離れることになるが……」
リックの顔色は正直優れない。
「……不安は、あります。でも、あんなに小さな女の子がたった一人で泣いているかも知れないんです。騎士として、いいえ、一人の人間として放って置くことは出来ません」
深緑の瞳は、どこまでも力強く真っ直ぐに真尋を捉えた。真尋は、そうか、と頷いてアイテムボックスから、あの日と同じように魔石を取り出して、光の魔力を閉じ込めてリックに渡す。
「お前の分はまだ閣下に返してもらっていないからな。この間より、多めに魔力も注ぎ込んであるから安心すると良い」
「ありがとうございます」
リックはそれを大事そうに握りしめて頷いた。
「一路は、シグネたちの所に行って、悪いが一緒に探してもらえないか頼んでみてくれ。駄目だと言われたら……そうだな、一人で探せ」
「僕への指示が雑だなぁ……でも、僕はミアちゃんがどんな子か知らないんだけど」
一路が乾いた笑いを零しながら言った。
真尋は、そう言えばそうだな、と納得して鞄から本と紙を二枚とペンを取り出し、本を下敷きにしてそこにミアの似顔絵を描く。真正面と横から見た顔、そして、ノアの顔も描く。それをもう一枚、同じように描いて、二人に渡した。
「マヒロさん、絵もお上手なんですね」
「すごいね、写真見たい」
「模写が得意なんだ。それより、髪は砂色で目は珊瑚色だ。弟の方は、目は翡翠色、二人とも耳は白だ」
「分かった。時間はどうする?」
「とりあえず、二時間後にシグネの家の前に集合だ。リックは、教会の方へミアを探して、教会で待っていてくれ。ミアには、教会の場所を教えてあるから、もしかしたらもしかするかも知れん」
「分かりました。では、行ってまいります」
リックは、しかと頷くと真尋に頭を下げてから駆け出して行った。
「具合が悪くなったら休めよ!」
その背に声を掛ければ、はい、と返事だけが返された。
「じゃあ、僕も行くね」
「一路、お前はこれも持っていけ」
真尋は、アイテムボックスから小鳥の魔導具を取り出して一路に渡す。
「僕、魔術言語分からないよ?」
「安心しろ、これは俺直通だ。使い方は分かるな? 魔力で起動、伝言はあまり長いのは無理だから簡潔にな。まだリックに使えるかは魔力量の問題で分からんからな」
「僕は実験台って訳ね。でもこれがもっと使い勝手がよくあれば、かなり便利になるよね。よし、何かあったらすぐに飛ばすから!」
一路はそれをアイテムボックスにしまうとシグネたちの家の方へと去っていく。真尋は、その背を見送って、通りへと足を向けた。
「まずは……サヴィラの所だな」
そう呟いて、駆け出した。
二階建ての木造の廃墟は、静かだった。
トントン、と木製のドアを叩いた。返事は無いが、確かに人の気配を中に感じて、もう一度、ドアを叩く。すると少しして足音が聞こえて、ギギッと錆びた蝶番が嫌な音を立てた。
「……あ」
ひょっこりと顔を出した黒髪に黒い猫耳の少女は、真尋に気付くと驚いたように顔を引っ込めた。奥に行ってなさい、と少女が誰かに言う声が聞こえて、小さな子供の足音が幾つか聞こえて遠のいていく。足音が聞こえなくなるとドアがゆっくりと空いて、少女が顔を出した。
「何の用?」
警戒も露わに少女が問いかけて来る。
「先日は、ミアの家を教えてくれてありがとう」
真尋は、極力、穏やかに、優しく、と自分自身に言い聞かせながら口を開く。
少女は、眉間に皺を寄せたまま目を伏せる。
「……神父さんがくれたパン、助かったわ。小さな子供が多いから……」
「そうか。それは良かった。……今日も聞きたいことが有って来たんだがいいか? 実は、今日、ミアと会う約束をしていたんだが、ミアが家に居ないんだ。それで隣のおばあ様がノアの具合がここ数日悪かったと聞いて、二人を探しているんだ」
少女は、顔を上げると猫特有の縦長の瞳孔を持つ独特の薄紫の瞳でじっと真尋を見上げる。彼女は、赤ん坊をその背に背負っていた。漸く首が据わったかというような小さな赤ん坊だ。赤ん坊は、少女の黒い髪を掴んで遊んでいる。
少女が何か言おうと口を開いた時、それを遮るように背中に石を投げられた。カツン、と乾いた音を立てて小石が足元に転がる。
「……おい。人の家に何の用だ」
少年独特の高い声が不機嫌な色を纏って後ろから投げられる。
振り返れば、そこに色素の薄い金の髪と青い瞳の少年が手に袋を下げて立って居た。薄汚れてはいるが、やはりその顔は整っていて、綺麗であるが故に彼の不機嫌な感情を鮮やかに映し出していた。
「ネネ、家に引っ込んでろ」
「サヴィ」
「引っ込んでろ」
少年――サヴィラの高圧的な言葉にネネというらしい黒猫の少女は、何か言いたげにしていたが、サヴィラが譲らないと知ると分かったと頷いた。サヴィラがネネに手に持っていた袋を渡す。ネネは真尋の方を一度だけ見ると言われたとおりに引っ込んでしまった。バタン、とドアが閉められる。同時にぱたぱたと小さな足音が再び聞こえて来た。サヴィラがドアを背にして真尋の前に立つ。まるで家を護っているようだ。
「何の用だ?」
「……こうして面と向かって会うのは、初めてだったな。新しく町にやって来た神父の真尋だ」
サヴィラは余計な口を利く気は無い様で、真尋の挨拶にも微かに目を細めるだけだった。
擦り切れた綿のシャツとズボン、古びたチョッキは少しサイズが合って居なくて、細い体には大きい様に見えた。十三歳くらいだと聞いたが、それよりは幾分、幼く見えた。
「ミアの隣の家のおばあ様から、母親が居なくなって以降、サヴィラがミアとノアを気に掛けていたと聞いた。今日、会う約束をしていたのだが、ミアは家に居ないし、ノアの姿も無い。どこに行ったか知らないか?」
サヴィラは青い瞳を真尋から逸らすでもなく、かといって、その口を開いて何かを答えてくれる気配も無かった。
その青い瞳は、十三歳という年齢に見合わないナイフのような鋭さがあった。取り繕った大人の建前なんて、この眼差しの前では、何の意味もなさないだろう。大人の汚さを今よりももっと幼い内に知ってしまった少年は、そのナイフのような鋭い眼差しで大人の建前や嘘を切り裂く術を知っている。
「……ミアの居場所を教えて欲しい」
「俺は知らない。それに例え俺がミア達の居場所を知っていたとしても……俺がお前みたいな偽善者に教える義理は無い」
淡々と抑揚のない声が告げて、サヴィラはくるりと背を向け、ドアノブの取っ手に手を掛けた。サヴィラの手は、あかぎれた指先には、血が滲んでいる。爪が割れてしまっている指もあって酷く痛々しい。けれど、この手がここに暮らす子供たちを護っているのだとありありと伝わって来た。
「……ダビドは」
細い肩が僅かに強張った。
「お前に、何を……託した?」
数拍の間を置いて、淡い金の髪がさらりと揺れた。
振り返った青の瞳は、まるで氷のように冷たく尖り、憎しみにも似た炎がその瞳の奥で揺れている。
「お前如きに話す義理は無い。二度と来るな」
吐き捨てるように言って、サヴィラは家の中に入ってしまった。バタンッと大きな音を立てて閉められたドアに彼の拒絶の強さを見る。真尋は、はぁ、と息を吐き出して髪を掻き上げた。見上げた廃墟は、屋根が半分、落ちてしまっている。
真尋は、息を大きく吸って、そして、叫んだ。
「ミア!! ノア!! 居たら返事をしろ!!」
静まり返る町に真尋の大声が響き渡る。
周囲の家々から、何事か、と住人が顔を出す。
「神父の真尋だ!! 約束通り、会いに来た!!」
ガタン、バタンと騒がしい音が聞こえて、勢いよくドアが開く。
顔を出したのはサヴィラだった。
「クソ神父! 何を騒いでやがる!」
「よぉ、さっきぶりだなクソガキ。話がまだ途中だったからな。人の話は最後まで聞くものだぞ、神父様からの有難い忠告だ」
真尋は腕を組んで、サヴィラを見下ろし微かに笑ってみせた。サヴィラは、噛みつかんとする犬のように鼻に皺を寄せてこちらを睨んでくる。
物分かりの良い大人のふりはもうやめだ。そんなものは、この少年の前では何の役にも立たない。
「お前が、お前を捨てた親やそのほか周りの有象無象にどんな目に遭ったのかなど、全く露ほどもさっぱりと知らんし、お前が大人を嫌いでも憎んでいても俺は一向に構わんが……護りたいものがあるならば、その“大人”ですら利用してみせろ」
真尋は、鞄に手を入れて、今日もここに届ける予定だったパンの詰まった紙袋を取り出した。それを呆然としているサヴィラの胸に押し付ける。サヴィラが反射的にそれを受け取った。
「誰かを、何かを、護るということは並大抵のことじゃない。綺麗ごとだけでは何も残らん。貫くべき矜持を履き違えるな。自分を犠牲にするだけでは、護れるものは高が知れているんだ。全部を護りたいなら全てを利用しろ。俺のことなど神父などと思わずとも都合よくパンを運んで来るお兄さんとても思っておけばいい」
呆然としているサヴィラの手を取り、真尋は抵抗される前に治癒魔法を掛ける。
がさがさで骨と皮ばかりの傷らだけの手は、間違いなく護る手だった。その手が真尋には、無性に美しく見えた。ミアの笑顔と同じだけ美しく尊いものに真尋には思えたのだ。
「サヴィラは、こんなに美しい手をしているんだ。お前なら俺を上手く利用して、そのドアの向こうに居る子供たちを護れる」
上体を屈めてその顔を覗き込んで、真尋は柔らかに笑った。
青い瞳が一瞬だけ、揺らいだように見えた。だが、それは余りにも刹那的な感情の揺らぎで、その感情が何に根差したものだったのかも分からないほどだった。
骨ばった少年の手が勢いよく逃げていく。そして、案の定サヴィラは家の中へと逃げ込んだ。ガチャリと鍵の掛けられる音がして、このドアには鍵がついているのか、と真尋は変な所に感心した。
「二度と来るな!! クソ神父!!」
「明日も来るし、今日の帰りも寄るから覚えておけ、クソガキ」
ははっと真尋は笑って返事をした。悪口は、まだ随分と子供らしいものだった。
幼い子どもたちが「パンだ!」「おいしいやつだ!」と賑やかに騒ぐ声が聞こえて来た。サヴィラが何か答える声が聞こえて、賑やかさ遠ざかっていく。案外、奥行きのある家なのかも知れない。
ミアがここに居る可能性は捨てきれないが、今はサヴィラの言葉を信じて、周辺を捜索する方がいいだろう。
教えてくれ、と鎌を掛けた真尋にサヴィラは、冷静に「知らない」と返して真尋の言葉を真っ向から否定してきた。本当に一筋縄ではいかない少年だ。
「……それにしても、ミアとノアはどこへ行ったんだ?」
真尋は小さく呟いて、踵を返した。
チビ達が、嬉しそうにあのクソ神父が勝手に押し付けて行ったパンの袋を手に居間のほうへと走って行く。
サヴィラは、その背を見送って自分の手に視線を落とした。もうずっとどうにもならないくらいに傷だらけで、所々に血の滲んでいた手が、まるで真っ新な子供の手のように綺麗になっていた。握られたのは、左手だけだったのにどういう理屈なのか、右手の傷も綺麗に癒えていた。
ダビドの特別な魔法だって、こんな風に綺麗には治せなかったと言うのに、古い傷痕以外は綺麗さっぱり治っていた。
「……大きかったな」
クソ神父の手は、ダビドの皺の寄った枯れ枝のような手とは違って、長い指がすらりとしていて男らしい綺麗な手だった。サヴィラの手をすっぽりと覆ってしまう程、大きくて、手のひらは少し硬かった。そして、ダビドと同じだけ温かった。
近くで見たクソ神父の瞳は、見たことも無い色をしていた。月の銀と夜空の蒼、二色に彩られた瞳はまるで夜空をそこに閉じ込めたかのようにとても綺麗で、それでいて恐ろしかった。
見つめていた手を握りしめて額にくっつけた。
あの神父を前にすると、何もかもを見透かされたような気持ちになって落ち着かない。
無意識の内に止めていた息をゆっくりと吐きだして、サヴィラは顔を上げて二階へと上がる。
自分の部屋へと入れば、ノアの横で丸くなるミアの姿があった。ネネがベッドに腰掛けて、そんなミアの髪を撫でている。ミアは、疲れが極限に達したのだろう。深い眠りの中に居るようだった。
「ノアは?」
「おじいちゃんのお薬で、血は止まったみたいだけど……」
サヴィラは、ミア越しにノアの額に触れた。じわりと焼け付くような熱を感じて、額に乗せられていた手ぬぐいを桶に入れる。桶の中の水を凍らせて、冷たくしたそれをノアの小さな額に乗せた。足元に回って毛布を捲り上げる。
真っ黒な左脚は、相変わらず得体の知れない黒い霧のようなそれを零している。黒い箇所が昨日より広がったような気がした。サヴィラは、脇や脚に乗せられていた皮袋の中にも氷を入れて冷たくする。
「……ねえ、やっぱり神父様に……助けてもらった方が良かったんじゃない?」
ネネが躊躇いがちに言った。薄紫の瞳がサヴィラの顔色を窺うようにこちらを見ている。サヴィラは、毛布を掛け直してミアの傍に腰を下ろした。泣いた痕の残る頬、赤く腫れた目じりが可哀想だった。
「…………ミアには、ノアしかいないんだ」
ぽつりと呟いて、ミアの頬を濡らした手で拭う。
「あの神父様は……優しい人だと思うわ。なんとなく、これは勘だけど……あの人は、とても不思議な人。ミアに花をくれて、クッキーもくれた人よ」
「……同情だよ」
ネネは首を横に振った。
「同情だっていいじゃない。それでご飯が食べられるなら、同情に縋って、ミアやノアが……チビ達が生きられるなら、明日を……迎えられるならそれでいいじゃない」
ネネの瞳は射抜く様にサヴィラを捉える。
ついさっき、神父に言われた言葉が蘇る。
『誰かを、何かを、護るということは並大抵のことじゃない。綺麗ごとだけでは何も残らん。貫くべき矜持を履き違えるな。自分を犠牲にするだけでは、護れるものは高が知れているんだ。全部を護りたいなら全てを利用しろ』
ネネは、大人を頼りたくないなんていう下らない意地や自分たちを捨てた大人を頼らないで生きるという矜持を捨てる覚悟をもう決めている様だった。
「神父様がくれたクリームの入ったパン……あんな美味しいもの食べたのは初めてだって、ヒースもコニーも大喜びだったわ。私もサヴィも皆でお腹いっぱいに食べたのなんて、初めてのことだった。あんな風にお礼だって言ってパンをくれた人も初めてだった」
「そのパンを毎日、毎日、貰えるとは限らないんだ。あの神父だっていつ俺達に飽きて、ミアに飽きて、俺達を捨てるかなんて……」
「分かってるわよっ! でも……っ」
薄紫の瞳に涙の膜が張る。ネネは、それを隠す様に顔を俯けた。
「……このままじゃ、ノアは死んじゃうわ……っ」
それを口にすることすら恐れるように震える声が囁いた。ぽたり、とベッドの上に彼女の頬を伝った涙が落ちた。ネネは、それが許せなかったのか服の袖で無理矢理に涙を拭って、唇を噛み締めた。
サヴィラは、喉まで出かかった言葉を飲み込んで拳を握りしめた。
ノアが見たことも無い病に侵されているのは、サヴィラだって分かっている。このままここに居れば、死を待っているだけに過ぎないことも。
「……一晩だけ、考えさせてくれ。クソ神父は、明日も来ると言っていたから」
サヴィラの言葉にネネは、こくりと頷くと顔を上げないまま部屋を出て行った。
サヴィラは、ベッドの下を覗き込むようにしてそれを取り出す。
紅い革の表紙は擦り切れている。この古い日記帳は、ダビドが死ぬ数日前にサヴィラに預けたものだった。ダビドは、これを騎士か、或は、サヴィラが信頼できる人間に渡すようにと言った。
鍵の掛けられた日記帳は、どういう仕組みになっているのかサヴィラには開けられなかった。でも、ダビドは自分に何かが起こることを知っていたようにも思えた。もしかしたらこの日記帳の中身は、ダビドの死と関係が有るのかも知れない。
ダビドは、大人を忌み嫌い、他者を寄せ付けないサヴィラに、サヴィラが信頼できる人、と言った。つまりこれは、それだけ重要なことが書き記されたものなのだろう。
あの神父は、これを渡すに足る人物なのだろうか、それがサヴィラには分からなかった。
ミアの方に顔を向ける。ミアの小さな手は、ノアの手を離すまいと強く握りしめている。サヴィラの手にもすっぽりと収まってしまう姉弟の小さな手は、お互いだけが頼りなのだ。
サヴィラの手をすっぽりと覆ってしまうあの大きな手なら、この小さな二つの手を護ってくれるのだろうか。
「……分かんないよ……爺さんっ」
囁くように吐き出して、古びた日記帳を抱き締めてサヴィラは背を丸めた。
ノアの苦し気な呼吸の音だけが部屋の中に延々と落とされ続けていた。
どんよりと重い雲が立ち込める空の所為で、ブランレトゥの町は昼間だというのに薄暗い。
水の月はいつも中頃からこんな風に曇り空が多くなって、雨ばかり降るようになる。次に雲が晴れて眩しい程の青空が覗けば、本格的な夏がやって来て、その暑さに人々は顔を顰めるだろう。
この町に、そして、この店に来て早四年が経った。エイブという名もいつしか、周囲にも店にも町にも、そして自分自身にも馴染んで、しがないただの愛玩魔物専門店だったクルィークは、今では連日満員御礼で王都からも客が訪れる人気店にまで成長を遂げた。
エイブは、吊り上がった細い目を更に細くして笑う。
目の前の檻の中には、大岩のように巨大なキラーベアが横たわっている。分厚い胸が上下しているから、死んでいる訳では無い。それに震えあがるような殺意に満ちた隻眼がエイブを油断なく睨め付けている。
「畜生風情が、随分と生意気な目だ」
エイブは、口元に笑みを浮かべて、それを見下ろす。
獣臭い酷い臭いが鼻を突く。広い倉庫の中、そこかしこに置かれた檻の中で獣の呻き声や息遣いが聞こえる。辺りに満ちる殺気は酷く心地良かった。
少し離れた所に男が一人、立って居る。
何をするでも、何を言うでもなく、エイブが檻を眺めている姿をずっと見ている男は、気配も存在感も無い。ただそこに佇んでいるだけだった。
血管が透けるような青白い肌に整った冷たい美貌が青年の存在を余計に曖昧で不確かなものにしていた。瞬きをしなければ、人形だと言われても納得できてしまうほど、彼には「生きている」という何かが無いのだ。
彼を拾ったのは、エイブだ。二十年以上も前の雨の日に五つにも満たない様な幼い子供だったそれを拾った。ほんの気まぐれだった。冷たい雨の降る中、通りの片隅に座り込んで、空を見上げていた子供をエイブは、拾った。自分の思い通りになる人形を育てたら、面白いと思ったのも確かだった。
ザラームという名を与えたのは、エイブだ。拾った子供は、名を持たず、碌に言葉も喋れなかった。まるで無垢な赤ん坊のようだったのに、その身に宿す魔力は、強く大きく、そして、異質だった。
エイブが、初めてザラームの魔法というものを目にしたのは、ザラームを拾って三年が経った日のことだった。
当時、エイブと手を組んでいた男が、報酬を独り占めしようとしてエイブを殺そうとしたのだ。その男を当時、まだ幼かったザラームがエイブの目の前で消し去った。
男は、黒い霧となり跡形も無く消え去った。男がこの世に遺したのは、身の毛がよだつほどの苦しみに苛まれた断末魔だけだった。
それは間違いなくエイブに富と栄光を齎す神の力だと心の底から思った。
犯罪というものは、証拠を残すから罪になる。断末魔という記憶にしか残らない儚いものでは、何の証拠にもならない。殺した相手は何一つ残さないのだ。これほど素晴らしいことはない。ザラームも力は、エイブにとって非常に素晴らしい力だった。
たった一人でやっていた仕事をザラームに手伝わせるとすぐに裏社会でエイブはより一層有名人になった。依頼がひっきりなしに入って、有り余る金がエイブの懐に転がり込んできた。最後には、強大な力と権力を持つ支援者を得ることも出来た。ザラームは、物欲が無いから金を欲しがることも無かった。その代わり、その身に宿す魔力を放出する場所や相手を望んだ。エイブにとって、ザラームは豊かな利益を齎し、それを害することの無いこの世界で唯一信頼に足る、素晴らしい人形だ。
この町に来たのは、エイブたちを全面的に支援してくれている支援者からの依頼だった。その方にとっては、アルゲンテウス辺境伯は非常に厄介な存在だというのだ。自分の無能さを棚に上げて、エイブにそう捲くし立てた依頼者は、アルゲンテウス領を領都から壊すように言った。これほどの規模の依頼は、流石に初めてだった。
エイブは、慎重に物事を進めたい種類の人間だ。事前に領都であるブランレトゥのことを調べ上げた。どうやって、どうすれば、容易くこの町を壊すことが出来るか考えた。そして、見つけ出した答えは、この町を数百年と守り続けて来た『壁』を利用することだった。そうやって導き出した答えを確かなものにするためにエイブは、四年という歳月を費やした。
「ザラーム」
青年が緩慢な動作でこちらを振り返り、首を傾げた。艶やかな癖一つない漆黒の髪がさらりと揺れた。
「……十分な数は、揃ったと思う」
平坦な声が問う前に答えた。
エイブは、ザラームの元まで歩み寄る。革靴が床の上を歩く音が獣たちの呼吸の合間を縫うようにして響き渡った。
「……でも、この間、この子は食べ損ねちゃったから」
ザラームが手のひらを上にして腕を上げた。じわり、とその手のひらの上に黒いシミが浮かび上がったかと思えば、それは段々と大きくなり黒い霧とも靄ともつかない得体の知れないものになる。球体を保とうとその黒い霧は中心へ中心へと蠢いている。両側の檻の中で、魔獣が怯えてそれから離れようと檻に体をぶつける音が五月蠅い。
エイブは、それに触れたことは無い。触れると死ぬとザラームは言った。人間は、それに触ると想像だにしない苦しみに苛まれて死ぬのだと。確かにこれが最初に命を奪った死骸を見た時は、エイブも顔を顰めたものだった。自ら胸を掻き毟り。肉すら抉って苦しみに悶えて死んだ姿は、吐き気がするほど醜かった。
「たかが騎士風情に何が出来る?」
「分からない。でも……この子は、力の殆どを奪われていた。辛うじて核は壊されずに帰って来たから僕の力で充分に蘇ったけど……」
「けど?」
ザラームはまるで愛らしい猫でも撫でるかのように悍ましいそれを撫でる。黒い霧は、ザラームの白く細長い指に擦り寄るようにして絡みつく。
「この間、僕のツェルを斬ったのも得体に知れない力を持っていた」
彼のもう肩の方の手が足元に向けられて、まるで何かを摘まみ上げるように動いた。すると黒いローブを纏った男の人型がザラームの影から現れる。
「見て、この傷が治らない」
ザラームは、此方に背を向けたローブ男の背中を指で辿った。そこに広がる傷口からは、彼の手のひらに存在する黒い霧と同じようなものが絶えずじわりじわりと溢れている。
「僕の中で休ませているから、少し治ったけど……全然、傷が塞がらない。どれくらい時間がかかるかも分からない」
アラームは、感情の宿らない漆黒の瞳でローブ男を見下ろす。
これはザラームの生み出したものだ。エイブにはその仕組みはよく分からないが、ザラームにとっては分身のようなもので、ツェルと呼んでザラームがよく使っている。
「……神父が、この町に来たと聞いた」
漆黒の瞳がくるりとこちらを振り返る。
「どうせインチキだろうと捨て置いたが……どうもそうではないらしい。ロークをあのゴミに襲わせたとき、その場に居合わせたようだ」
「だから、あれは死ななかったの? 自害しないから不思議だったんだ」
戻っていな、と声を掛けられたツェルが再びザラームの足元に消える。
「有り得ないほど強力な治癒魔法を使うと治療院で騒ぎになったほど、強い力を持っているらしい。とはいえ、王都のクズ共のように幻影か何かを操っている可能性も否めない」
「でも、そうじゃないかもしれない」
「ああ、そうだ。お前の言う、ツェルの傷の治りだとか、それの異変の原因が神父なら……王都のクズ共とは違うのかも知れないな」
ザラームは、ふーんと興味が有るのか無いのかよく分からない返事をして、手のひらの上で揺れる黒い霧を撫でる。
「……とはいえ、そろそろこの計画も最終段階だ。それに神父は、たった一人。もう一人はまだ見習いだ。恐れるほどの存在ではないだろう。数が違うからな」
エイブは、倉庫の中を見回して口端を吊り上げた。
「そろそろ、あの狩人たちも殺しちゃおうか。この間、キラーベアを盗み出す話をしていたよ。金に目が眩んじゃったんだね」
ザラームがつまらなそうに言った。手のひらで蠢いていた霧が再び彼の中へと戻って行く。
「どのみち、俺とお前がこの町を出る時には、殺す予定だ。所詮、捨て駒だからな。あの狩人共も、鬱陶しいご主人様も」
「エイブ! エイブ!」
噂をすれば何とやらだ、とエイブは顔を顰めるも振り返った時には、その狐顔に従順な笑みを浮かべる。来い、とザラームに告げて、倉庫を出る。階段を上がって地上階へ出れば、小さな倉庫の中で騒ぎ立てる肥え太ったご主人様が騒いでいた。
ご主人様――マノリスはエイブが地下から出て来るのを見つけて、寄って来た。
「エイブ、何故、まだカマルを生かしておくんだ? 私は殺せと言った筈だ!」
「ご主人様、カマルの元には今、ブランレトゥで一、二を争う実力を持つ冒険者が二人も常駐している上に、先日の通り魔騒ぎで騎士団も警護を厳しくしています。うちの狩人たちは、優秀ですが……Aランクの冒険者には敵いません。ご主人様の身が危うくなるだけで御座いますよ」
エイブは、まるで癇癪を起した幼い子供に言い聞かせるようにマノリスに言った。
「愚かな騎士団は、今、クルィークが取引禁止魔物の密猟や販売をしている証拠を掴もうと躍起になっております。ですが、ご主人様の地位や権威を確かなものにする魔獣を目玉商品とする裏オークションは、最高の商品も入荷しましたし、もう少しで開催の目途が立つでしょう。カマル如きを殺すよりも、ずっとその身に転がり込む栄光や富を優先させるべき時です」
マノリスは、何かをまだ言い募ろうとしたが、後ろのザラームが怖いのか渋々口を噤んだ。
入り込む店は、魔物屋と決めていた。だが、ロークのカマルはあの恍けた顔に似合わず、隙の無い男だった。その点、愚かなマノリスは、一歩的に敵視していたカマルを超えさせてやると言ったら、簡単に話に乗った。非常に扱いやすく、愚かな男だ。
「裏オークションは、リヨンズ伯爵閣下も楽しみにしておられるからな……伯爵閣下には、随分と優遇してもらったのだ。オークションを開催しない訳にはいかん」
「ええ、そうでございましょうとも。リヨンズ伯爵様の為にも今は、我慢なさってくださいまし」
マノリスは、小さい脳みそで何かを考えた後、納得できたのか分かったと頷いた。エイブは、流石はご主人様、と褒めて、店に戻るように勧める。エイブに褒められたことに気を良くした愚かなご主人様は、意気揚々と表に待たせている馬車へと足を向けた。
「……この計画は破綻させるわけにはいかない。邪魔をするなら、あの騎士や、愚かな老人のようにあれもさっさと殺せ。人の口のドアが閉まらないと言うのなら、元から壊してしまえば万事解決だ」
エイブが囁くように告げた言葉にザラームは、酷く嬉しそうにその目を細めて、うんと無邪気な子どものように頷いたのだった。
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ここまで読んで下さって、ありがとうございました!
いつも感想、お気に入り登録、本当に嬉しいです。その応援とお言葉の数々を胸に暑さと戦いたいと思います。
獣医に愛猫(♂茶虎)を連れて行ったら暴れ狂った彼に右手の人差し指とその付け根を思いっきり噛まれて負傷し、消毒の痛みのあまりに貧血起して倒れるという珍事に見舞われたため……更新がこんなに遅くなってしまいすみません……っ。
獣医さんがすぐに消毒して下さったのと医者(人間の方)にも速攻で行ったので幸い腫れるだけで済みましたが……正直、まだ腫れてます。うちの息子の牙マジ鋭い。皆さんも愛猫にマジ噛みされたら病院(外科)に行って下さいね。可愛いですけど、冗談じゃ済まなくなるので!マジで!
今回、漸く、真尋とサヴィラ少年が言葉を交わしてくれました。そして、エイブとザラーム側のお話も書くことが出来ました。
次のお話も楽しんで頂ければ幸いです。




